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「青年の輪【国際交流・京大聖書研究会etc..】」記事一覧

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第56回京都大学YMCA地塩寮聖書研究会 -友達の不道徳をあなたはどう感じるか?-

今日は第56回目の京都大学YMCA地塩寮聖書研究会でした。

小・中・高はもう学校が始まっていますが、大学は夏休みの折り返し点なんですよね。

今日のお題を『夏休みの思い出は?』としようと思ったのですが、そうだ!折り返しなんだと思わされ、急遽、『この8月にやった事』をお題にしてもらいました。

この夏は夏のスクーリングという事で、塾の講師をする人が多いようです。

●ある学生は子どもの学習支援を中心に、

・実家の友達と一緒にであったり、

・NPO法人NCMジャパンのプログラム(花園教会が京都事務所になっている)で東北の子ども達に勉強を教えたりする学生がいたり、


●大学のテストが大変すぎてその反動で、ぼーっとする学生



●ツーリングで九州に行った学生


●部活に明け暮れた学生



●大学院の試験に臨んでいた学生


と学生達もそれぞれこの一カ月を過ごしていたそうです。

学生はあと休みが一か月。

悔いがないように過ごしてほしいと思います。

でもぼーっとするのもひとつの方法で、

時間を無駄にしたという経験は社会人になって、

時間の大切さを知る機会にもなったりするので、どんな過ごし方でも無駄はないと私は思います。


さて、本日の聖書箇所:第一コリント5章1〜13節

【他者のモラルの低下、ここでは不道徳を知るのは『友達になってから』の場合が多いのでその時に、自分はどうするか?】

というお題のもと、様々な話がでてきました。


・人の嫌な面を見たとしても、だから付き合わないというよりは、その友達の不道徳を改善させるよう努力する


・友達が人の物をパクってしまった場合、その人を改善させたとしても、
その友達のイメージはその事によって出来上がってしまうため、
そのイメージを払しょくできず、以前のような関係は持てないと思う。

だから、そのような人とは信頼関係を持つことはできない。


・自分の家庭で色んな事があった。そのようなものを見ると、成り行きもあり自分から働きかけるのはやめてしまう事もあると思う。


・ヤンキーとは距離をとっていた。
人の事を本気で傷つけるような人とは付き合わない。


・部活で一緒になって遊ぶことはあっても、所謂遊ぶ友達というのはいなかった。
自分は臆病で、人を避けてしまい、何気ないひと言で傷ついてしまう。
だから、自分と合わない人はさける。


・自分から話しかけるという事はせず、自分に話しかけてくれた人と話すことを信条にしている。だからこの議論があんまりピンと来ない。



と様々な意見が出て、

そこから派生的に、「人をカテゴライズすること」人を表面で判断することやその判断が恐ろしい目に遭う可能性(結婚詐欺やデート商法)の話がでて盛り上がりました。


----------------
牧師の解説

今回の聖書に出てくるコリントというところは、モラルが低下しているが故にそのモラルが低下しているという事に対してもあんまりピンと来ない世界が広がっていました。

そんな世界に実は教会も浸っており、そしてそんな人がお高くとまって、他者を裁くという大きな問題が存在し、パウロはそれを断罪しているのです。


この当時の性に関する社会背景を現代的にいえば、性犯罪かもしれません。


なぜ?性犯罪が起こるのか?

そこには極端なロリコンも蔓延っているのではないか?



この事を踏まえて、その時々の事を考えてみると、私が十代のときにスピードという歌のグループが出てきて、当時は小学生がアイドルになる事に衝撃が走ったが、

しかし今は当たり前になっている。

今では小学生低学年も注目されるようになってきた。




私たちは時代の流れを享受しすぎて、

ベースとなる判断基準というものがなく、結果、何が善くて悪いのか?という判断ができなくなっている社会があるのではないか?



これはハラスメント・特にセクシャルハラスメントにも通じるものがあるかもしれない。




私たちの罪の中にはキリスト教では、個人的な罪や原罪、そしてその原罪からくる社会的罪があると説明しました。

そして何が正しくて何がわからない社会に私たちはどっぷり浸っている。


そうするとそこで大切なのは、

『他者のモラルを指摘する前に、己の事を考える必要があるのではないか?』というところに帰結します。


しかも、神の愛を知る者・キリストの愛・福音を知る者は特に、それが必要ではないかと思うのです。


世の中の犯罪は、確かにその犯罪が悪い事であるのは当たり前だが、

しかしその背景・社会的背景、そしてそれは自分自身にも関わってくるのではないか。



たとえば、『人は人、自分は自分』全ての人が思った時に、そこには無関心が広がり


『金がすべて』と全ての人が思ったら『隣人愛』なんてものはなくなります。


だとしたらまず、

私たちは人の事、社会の事を言う前に、自分がどうなのかを知る必要があると思うのです。



人は誰かに指摘されなければわからないもので、

このコリントの教会の人たちも、教会にいながらも何が悪い事なのかがわからずにいた。


だからこそパウロはそこを指摘したわけです。


私たちも外部からの刺激、キリスト教的には聖書のみ言葉を聞いて知る事によって、変えられる。


是非とも自分から変わっていこう!という話で時間が来たこともあり、今日は終わりました。

聖研後は、今の子ども達の実情を色々と話、帰宅は23時40分。


しかし、私にとっても本当に素晴らしい時が与えられています。

この出会いにいつも、感謝感謝です!!
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第55回京都大学YMCA地塩寮聖書研究会 -あなたは誰のために命をかける?-

今日は、第55回目の聖書研究会でした。

今日は、一回生が発題をしてくれました。

初めての試験やレポートがあるに拘わらず、引き受けてくれてとても感謝な事でした。

そして今回は、例のごとくみんなにお題が課せられました。

今回のお題は「お国自慢!」

寮には様々なお国(都道府県・外国)から集まっています。

そこで!自分の地元の方言やいい事を紹介するというのがお題です。

これまでそれぞれの出身地を聞くことはあってもお国自慢はなかったのでとても新鮮で興味深いものでした。

では早速紹介していきましょう。

まずは
●高知県

・机をかく ⇒ 机を運ぶ というそうです。

また海産物がとっても安く、カツオのたたきが有名とのこと。
焼肉屋に来たのに、結構、本格的な海産物が出てきて美味しいとのことでした

次は
●北九州!

「〜と」と語尾につける。とてもかわいいという意見。

やくざが怖いというニュースが広がっている

●次、明石

明石は東播磨に入り、小学校での体育の掛け声は「オー」ではなく「ヤー」だったそうです。なんか掛け声が英語っぽいですね(笑

●東京
ひとの方言を真似しすぎてしまい、自分の言葉がわかんなくなる← 確かに!
東京は無機質に感じるが、実際に実家に戻った時には商店街の方々に声をかけてもらえた。
江戸っ子3代なので頑固者?

●千葉県
ネットで方言チャートというのがあり、学校の休み時間を「行間休み」といえる人は千葉県民だそうです。←たしかに言わないよね
自分の地域は町の経験を大切にするという事で外で洗濯物が干せなかったとの事。

●韓国ー釜山
刺身が美味しい。ソウルが東京なら、釜山は大阪みたいな感じらしい。

●鹿児島
将来の職業は?と聞くと、決まって「公務員」というらしい。

私の時代はあまり言わなかったような、、、ともあれシラス台地。
けれども鹿児島=全部シラス台地といわれるのは不愉快

今回のお題もとても楽しいものでした。大いに笑わせてもらいました!


さてさて本題に入って聖書箇所は「ヨハネ福音書15章11〜17節」

テーマは「命をかける人がいるか?」

これに対して
<学生たちの意見>
・家族を考えたが無理だった。
・2人いる。高校の友人など
・そんな人は存在しない
・おじいちゃんやおばあちゃんになったらそう思えるかも?
・いない。そもそも生きる事には自由がある。
・いない。自分が大切
・進んで死にたいとは思わない。人を助けられたという自負があればやるかもしれない。
・母のために、、、しかし母はそれを望まないから命をかける選択肢自体ないのでは?

➡この事を考えると、イエス・キリストが人の為に十字架にかかった事実はすごいと思う。

------------------------------
<牧師の見解>
イエスが簡単に十字架にかかったように思っている人も多いようだが、実際はそうではなくホントに苦しんだ中での決断だった事実を知る必要があると思う。

命をかけるという言葉は簡単だが、決断は本当に厳しいものでまたそれは人に強要できるものでもない。

イエスは命をかける話の前に、人を愛する事を掟としている。

まずはそこを私たちはフォーカスしなければこの議論は進んでいかないと思う。


人を愛するためには自分を愛せる事が大切だと思うが、みんなはどうですか?
             ↓↓
「自分を愛せているか?」

<学生たちの意見>
・自分はどうでもいいという想いもある。好きな部分もあるが自分の理想像のために努力していない自分が嫌い

・最近はすきになってきた。以前は自分のいやな部分が見える事が嫌いだったが最近は受け入れられるようになってきた。

・人と話をするとき、食事をしている自分が好き。

・楽しい時がすき。全面的に自分の事を聞いてくれる人がいて自分の好きな部分が見えてきた。

・自分が大好き。親には感謝しているが、好きではない。

・自分が好き。自分ができないことがあるのは確率的にあるし、受け入れる事実。

・自分は中学・高校時代、家庭の状況で貧乏だった。けれども奨学金で入れたが、そこにはお金持ちが多く、その差を肌で知った。それが大変だった。
大学に入ってその想いから解放されたと思う。


学生たちから様々な意見がきけました。

今回嬉しかったことは、基本的に自分が好きなところがあるという事実でした。

ある学生は今から4年前までは自分は必要のない人間だ!といっていた子が、自分が好きだ!と発言したことがホント嬉しかったですね。

人は変われるんだ!という事を改めて実感しました。

学生たちには、ぜひともその想いを、貧しい人々に向けてほしいとお願いしました。

紛争は貧困が原因で引き起こされます。


ホントのどんぞこにある特に子ども達は、


・何が愛なのか? 

・愛されるという事はどんな事なのか?

という事を知りません。知るチャンスがないのです。

これを教えてあげられるのは、好きという想いと感謝の想いをもっている子たちだけである事実を伝えました。

聖書の中に、「知識だけでは弱い者は滅ぶ」というみ言葉がある事を紹介し、知識と共にぜひともその愛を届けてほしいという事を伝え、時間になったので聖研はそこで終了となりました。

今回も色々と考えさせられる&学生たちの成長の姿を見る事ができ本当に感謝な時となりました。

また特に、手作りのお菓子が初めて聖研で出されました。

5年目にして初めてです!(笑

思わず、写真に撮ってしまいました。めっちゃ美味しかったです。

そして感動でした!!

また食べたいです。

心もおなかも満足、そんな聖書研究会でした!!感謝!!






第54回京都大学YMCA地塩寮聖書研究会 -善きサマリアびとから-善意とは?

今日も左京区、京都大学YMCA地塩寮にて聖書研究会が行われました。


今日の発題者は新一年生という事で、発題も大変だったと思いますが頑張ってくれました。

今日の箇所は、ルカによる福音書10章25〜37節 『善きサマリア人』

でした。

ここはキリスト教界では有名な箇所ですが、知っている人は知っている知らない人は知らないと思います(笑

さてさて本題に入る前に、お決まりの自己紹介が行われ今月のテーマは

「夏をどう過ごすか?」

でした。


・バイト代を貯めて、自転車を買い旅に出る
・院試のために勉強しまくる
・バイクでツーリング(九州)
・自分のやりたい分野の勉強をやりたい
・祇園祭に行く。浴衣を着たい!
・留学するのでその準備
・就活を引き続き頑張る!
・バイクのツーリングに一緒に同行する!
・北海道を合流地点として別々のルートで旅に出る。

いやーいっぱいでました!でました!

ツーリングは懐かしい!!

私も東京から北海道・九州にでかけたときの事を思い出しました。

夏はいいもんだなあとしみじみ思わされましたね。

けれどもその前に、学生の皆さんにはレポートとテストが待っています。

これをクリアしなければ、描いている夏も見えてこないですから頑張ってほしいものです。

さてさて、本題に戻ります。

今回のテーマとなった善きサマリア人なのですが、

ここを発題した理由として、アメリカ・ヨーロッパで【善きサマリア人の法】というものがあるという事を授業で知ったとのことでした。

お恥ずかしいですが、私もそんな法律があるなんて知りませんでした(汗

学生から教えられることも多いですね。

法律についてはWikipedia⇒ 善きサマリア人の法

をご参照ください。

さてさて、
「ここの箇所を読んで同じように人が倒れている現場に出会ったことがあるか?」
という問いがありましたが、


実際に人が倒れている現場を目撃した子がその状況を話してくれました。

また自分もそのような状況で助けられた学生の話も共有。


そんな話をしている中で、何年か前に中国で、人を助けたらその人が医療費を請求されるという事がある事から、ひかれた子どもを見殺しにした事件の話も出てきました。

これですね↓。知らなかった学生もいたので、絶句でした。




そんな様々な意見が出る中で、浮かび上がってきたものは、

「ボランティアにしても何にしても人の為に何かをするとき私たちは見返りを求めているのではないか?」

「本当の善意は存在するのか??」

という事でした。



そこで出た意見は

・動機がどうであれ助ける事によってその人は助かるのだから、助けないよりはいい

・NGO・NPOもイデオロギーが強くなる。自分の主張だけが正しいとするところも確かにある。だからこそモチベーション(動機)はなんだったのかという事はとても大切だと思う。

・お金を得る事が第一になって、ほんとにその人のためになっているのかが検証されていない現実もある。

・根本原因が解決されないままにいくと、時間と共に取り返しのつかない暴走を招くことがある。

・宗教の教えの中で、天の国に積むという考え方があるが、これもある意味、見返りではないのか?

・ボランティアという問題もあがっているが、ボランティアはWin-Winの関係が必要である。
その見返りがお金になると汚いように見えるが、そうでない事柄もある。

・キリスト教でも慈善活動と引き換えに宣教しようとする団体もある。ただそれは許されない事であり、そんな活動はすぐに現地の人々に見透かされる。


・見返りを求めてやったとしても、人とのつながりを通して自分の浅はかさを知る機会も与えられたりする。

だから見返りを求めているかを頭ばかりで考えるのではなく、まず人との出会いをするために実際に行動することが大切だ。

-----------

今回は、とても慈善活動をする中で本当に考えさせられる問題提議だったと思います。

私にとっても、様々な慈善の活動をしていると見返りを求めたいという衝動に駆り立てられることは確かにあることを伝えました。

しかし、今日の箇所はそれを全否定する箇所です。

ですから私たちは迷ったらここの箇所に戻る事が大切ではないかと伝えました。

マルティン・ルターは、「義人にして未だ罪びと」といいましたが、

まさにその自覚をもって歩んでいく時に、

そしてそれを悩みながら慈善活動をしていくなかで、

人との出会いが与えられるとき、答えが与えられていくのではないか?


というお話をしました。

こう出るべきだ!という中で活動するより、
悩みながら活動していった方が人との出会いの中で答えが与えられ、より私たちの視野が広がると思うのです。



ともあれ、今回もよき時が与えられました。


また聖研のあとは、就活をしている学生さんと積もる話をして深夜零時近くに帰宅しました(汗


彼らの成長が今後も楽しみです。

まずはテストかな(笑





第53回京都大学YMCA聖書研究会 -働くためのモチベーションとは?

今日の夜も京都大学YMCA地塩寮にて聖書研究会が行われました。

今日は私も入れて10名の参加でした。

毎回、聖書研究会では最初に学生同士のコミュニケーションの一環として

毎月お題を出します。今回のお題は「最近知った事」というお題。

色んな発見があったようです。

・「3回生になって実験が始まり、その実験が長いという事もあり、普段あまりしゃべらなかった学生と話す機会ができた」


・「讃美歌を歌っているが、日本語になると歌詞の内容が変えられてしまっているという事」←私の意見として、日本では政教分離からなのか、、神という言葉を省くために抽象的な歌詞になってしまい感情移入が逆にできない、、という問題点がある事を伝えました。

・「塾講師を初めて給料をもらうが住民票を移していなくてその手続きが大変だった」

・「いつもあだ名で呼んでいた友人の本当の名前を最近知った」

・「自炊をするようになって、みりんの重要性に気づいた」 

・「黒人の方と初めて会い、戸惑いがあった」

・「京大の食堂の丼のお得さを知った」

・「この聖研で、新入生の考えを知る機会が与えられた」

まさに大学生の旬な話題ばかりで、とても聞いている側としてはとても楽しい時でした。

さてそんなお題も終わり、本題の聖書研究へ、、、

しかし、発題者が、大学の実験が長引き、急遽参加することができないというハプニング。

すでに発題箇所も教えてもらっていたので、発題者なしで聖研をするという、初めての時となりましたが、それでもとても良い時が与えられました。

聖書箇所は第一コリント9章より

『働くとき、利益を出すという事を最優先として働くか』などがテーマとなりました。

--------------------------
・「アルバイトは時給・楽さ・距離・仕事場の空気」で決めているという意見が多かったので、

ではなぜ? そういう意見になるのか?

という事を掘り下げてみました。

するとアルバイト自体、会社も使い捨てで使っている面があるという意見もあり、学生もよく考えているなあと思わされました。

・その一方で、楽しさを優先したという学生も。

・また家庭教師・塾講師などの子どもに教えるという事が、充実感があるという意見も。
これは共感という言葉に当てはまるかもしれません。

・一方で、自分のやりたいことを仕事にしたときの難しさもあるという意見。
 仕事にするとやりたいことがあっても切ったり、ギャップに感じる事もあり、現実との違いが大きい時もある。

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聖書の言葉から、学生たちに伝えたことは、「知識の優位性がどんどん先鋭化していくと、弱者は滅びてしまう」という危険性を聖書は訴えている事

「権利があるから自由が与えられると信じ込み、それを武器として人に見せつけていくのが本当の自由でも権利でもない」という事。

そこに知識を得たとしても権利があるとしてもそこに愛がなければ全てが意味がないし、これはキリストが滅びる者のために十字架に掛かった神の愛から考えると、キリスト教の教えとは相反するという事。

是非、京大という最高学府に入っているので、知識を得ていく時には弱きものを思い出してほしい、愛をもっていってほしいと伝えました。


今日は発題者と会えないと思っていましたが、実験から帰って疲れた表情でしたが最後には会う事ができて感謝でした。





2015年度最初&第52回京都大学YMCA地塩寮聖書研究会 1回生と初顔合わせ!?

この四月も京都大学YMCA地塩寮の聖書研究会が行われました。

新緑がとても気持ちいい、この春の日。

京都大学にも新入生が入学し、地塩寮にも新たに新寮生が入寮しました。


そして今月の聖書研究会にほぼ全員が参加してくれました。



とても感謝な事でした。


新年度最初の聖書研究会という事もあり、私とも初顔合わせですから、自己紹介から始まりました。

そして今回のお題として「血液型について&エピソード」を各学生たちに紹介してもらいました。

あまり私は血液型を気にしないので知らなかったのですが、B型の血液型占いの当たりがいつも強いというB型の学生からの嘆きが聞きました。

確かにそういわれればそうかもな〜。。

学生によっては血液型で性格は判断できないという事を論証したく、論文を探したら、いくつかあったそうで、そこでも判断できないという結論に至っているというエピソードを聞いたり、、、

今回もとても楽しいときとなりました。

さて聖書箇所は、寮の名称にもなっている、「地の塩、世の光」から

マルコ9章49節、マタイ5章13節、ルカ14章34節〜でした。

・塩に塩気がなくなるとはどういうことか?

・塩と信仰の関係性とは?


・塩に味をつけるというのは自分自身に味をつける(身につける)という事でありそれが大切なのではないか?


・おにぎりに例えると、塩のあるおにぎりと塩のないおにぎりになり、見た目はわからないが塩があるとないとでは全然違う。


・塩と地獄の関係性はなんのか?


という意見から、「死」についてそして死生観について話がいたりました。




聖研後は、今の紛争の現状やアフリカの事を語り合う事ができました。

初めて出席してくれた学生たちも楽しい時だったと感想を述べてくれて嬉しかったですね。(社交辞令?笑)



今回も帰宅が0時近くでした(汗

でもいい交わりの時ができとても感謝でした♪


一番嬉しかったのは、新一回生の中に鹿児島出身者がいたことです。

いやー同郷に会えるのは嬉しいですね。

次回も楽しみです。







春の訪れ:冬眠、お花、春休み、年度末の京大Y聖書研究会

今日も一日が過ぎていきました。


段々と春らしい季節となり、花粉症と黄砂の影響で体調はあまりイイとは言えませんが、


少しずつ体が動いてきました。


教会の鯉の住んでいる池もそろそろ綺麗にしようと取り掛かりました。


実はこの冬は冬眠させていたのです。

魚も冬眠するんですね。 ただ冬眠は命がけでもあります。

悲しいことに3匹の鯉が冬眠に失敗し★になりました。

今年に入ってからはシートを被せて保温性を保たせてきましたが、さあそのシートを取り外し、掃除です。



2匹が無事に冬眠から脱し、元気に泳ぎ回りました。

掃除も終わり、噴水も綺麗になりました。



早速、近くに住んでいるおじいさんが見に来られ、


この冬の間、とても鯉の事を案じておられたようで鯉の姿をみれて嬉しかったそうです。

いつの間にかこの池も癒しの空間になっていたんですね。

さてさてそんなこんなで今度は春休みに入った小学生たちが遊びに来ました。

最近、子ども達の間で口コミで『教会が楽しい!!』というのが広がっているようで今日も10名以上遊びに来ました。

児童館でも遊べるそうですが、なんと現在70名近くの子ども達がおり、パンク状態。

児童館にはあんまり行きたくないとのことでした。


確かに待機児童はゼロになりましたが、それはただの数字遊びですね。


全然、インフラ整備が追い付いていない現状があるようです。


とこあれ、ゲームばかりしてもという事で、せっかくなので花園教会の花壇の整備を手伝ってもらいました。



生き物も植物も大切に大切に育てたら、綺麗な花を咲かせるんだよと伝え、子ども達も彼らなりに丁寧に頑張ってくれました。

だいぶきれいになりましたよ!

さてさて、そんなこんなで子ども達も大いに遊んで帰った後は、

第51回目、今年度最後の京都大学YMCA地塩寮の聖書研究会でした。

今日は新入生が2名が参加してくれました。

またこの春から就職する青年も参加してくれて嬉しい時でした。

聖書箇所は
『エフェソの信徒への手紙4章25節ー32節』

テーマは、
・怒るときはどういうときか?
・怒りから罪へと続くときの境界線は?
・怒った時の対処法
・新しい心持ちをするならどうするか?

様々な今の学生たちの想いを語ってくれました。
・中途半端な自分ではなく、マイペースでありながらも続けていく
・好き勝手にやってみたい(頑張ってきた分)
・他人と比べるのに疲れてそれをやめよう
・ハードルを高く設定しないで自分として生きていく
・好き勝手にやってきたので今後はしっかりしたい
・支えられた分、これからは人の為に働きたい
・想いもしない出来事があり、試される一年
・イエスを中心に置くとはどういうことか、日々の生活でイエスを中心にしていきたい




今年度もこれで終わり、四月からは新年度になりまた新しい寮生も加わっていくという事でまた新しい雰囲気になっていく事でしょう。

別れ・出会いがあるこの季節なんだなあとしみじみ。

今日もタイトな一日でしたが、とても充実したまた感謝な一日でした。


祝50回!!京都大学YMCA地塩寮聖書研究会〜怠惰な生活と敵だ!と断定する方が簡単な巻

先週の金曜日、毎月行われている京都大学YMCA地塩寮聖書研究会に行ってまいりました。

なんと!今月でこの聖研も50回を迎えました〜! パチパチパチ

年月でいうと4年と2か月です。

毎月休みなく行われた聖研。

いやー振り返ってみれば大学生活が終わっちゃうほどにやってきたんですね。

あまりそんな感じはしませんでしたが。

なぜなら、牧師自身が学生たちから学ばされることが多かったという事に尽きるでしょう。

「今の青年は??」

とよく言われますが、私はそうは感じません。

彼らは彼らの生きている中で、彼ら世代の中で考えている事も色々とあるのです。

「今の青年は?」

といった時点で、大人たちは青年たちを見下しています

その『上から目線』姿勢自体が改められるべきであり、もしそう思うならちゃんと情報を彼らに提供し、世界に目を向けさせるために自分の身を削るくらいにサポート、投資すべきなのです。

そんなサポート・体制づくりをしないで大人たちが「今の青年たちは?」という青年を形成させてしまっているならば、その責任は先の大人たちにあると言わざるを得ません。


と、まあ少々熱くなってしまいましたが本題に戻ります。


今回は50回記念という事もあり、これまでの50回までの聖研の感想を青年たちに率直に語ってもらいました。

といっても1回目に参加した青年はいないんですけどね(笑 ひとり除いて(ただ彼は博士過程なのでちょっと違いますが、、、)

<以下、学生たちの感想です>

○Mさん
 ひとりひとりそれぞれ世界観を持っていて問題意識も違う事に気付いた。
 問題意識は違っていても世界観を持っているという事自体は同じ。
 その意味で人間性の可能性をとても感じた。

○Αさん
 初めて発題した時にプレッシャーがあり怖かった。
 自分の考えを文書にすることの難しさを知った。
 ここでの経験が知識で終わらないようにするのが大変。
 バイトとかぶっていて出席できない事もあったが聖研が楽しい。
 聖書のみ言葉を読む前にいつもやる「自己紹介」と「今月のお題」をみんなで話すのが楽しい。

○Bさん
 キリスト教にこれまで人生の中で関わったことがなかった。
 なので聖書に書いてあることは人生訓のような善いことを書いていると思っていたが人間臭さを赤裸々に記していて、聖書の懐の深さを知った。
また断定で記述されず、自分で考える余地を与えるところに大変驚嘆した。

○Cさん
 3年間、この聖研に出ている。
 聖研以外に寮生と真面目な話をする機会がないので貴重。
 日頃あまり話さない寮夫さんも参加しておられ寮夫さんの話をきけて嬉しい。

○Dさん
 聖研にでて感じたことは、何をしゃべっても否定されない。ほんとに心地よさを感じる。しゃべることが苦手なので否定されない事で自分の意見をしゃべることができている。

○Eさん
 真面目な事を言える場がある。
 自分のペースで話すことができるので貴重。
 ここでしか聞けない事もあり感銘を受けた。
 寮生のそれぞれのストレスの解消法について聞けたことはとても嬉しい。
 
などなど。

これらの感想を聞けてほんとによかったです。

学生さんたちがどう感じているのかなかなか聞く機会がなかったのでわたしにとってもよき時となりました。

地塩寮の学生さんひとりひとりに心から感謝したいと思います。


そして記念すべき50回目の聖書のテーマは第2テサロニケ3章6〜15節


「怠惰な生活と、敵としてみない事とは?」

でした。

ーー以下、聖研―

自分が真面目な生活をしている中で、怠惰な生活をしているものをみるときに本当に許せなくなる。

その際は敵として相手を見ているのではないか?

しかし聖書には敵としてではなく、友として仲間として注意しなさいとある。これは本当に難しいことだ。

・これを共同体としてみる時に、共同体をまとめること自体、難しくなるのでは。

・突き放すことはできるが受け入れる方が難しい。
 ⇒突き放していくとその人は居場所をなくし、ゲーム・ネットに依存してしまう。
  居場所づくりが必要ではないか。

・この難しいという議論は、自分から出発しているからそう思うのではないか。他者の思いなどを出発点にするときに見方もかわってくるのではないか。

・模範を示して恥をあたえるという意味がここでは込められているように思う。
 他者のすべてを見ているようで実はその人に一部分しか見えていない。

・怠惰な生活は自分が忙しいときに見えてくるものだ。例えば掃除など。
 しかしそんな中で実は自分も怠惰な生活をしていたことを知るときもある。
 例えば、人の皿洗いをしてあげていたときに、自分の洗い残していたコップが出てきたときなど。


★まとめ

他者の為の行為、例えば笑顔もそうだが、好きな人には笑顔ができるが、笑顔を返してくれない人がいたとしたらそれは苦痛でしかない。

実は、笑顔というのは「戦い」だ。

ではなぜそれができるのか?

それは神から愛を受け取っているという事、つまり自分にも愛を受け取っていると感じる時に喜びが湧き、笑顔が与えられ、なかなか他者が笑顔で返してくれなくても笑顔をし続けることができるのだ。

マザーテレサは「神の愛を知っているものが、愛の行為をするときその愛の行為とは自分の身を削ることである」と語った。

また宗教改革者ルターの信仰は「明日、終末が来ようが今日リンゴの樹を植える」というものだった。

これは明日、自分にどんなことが起こったとしても今日、神から与えられた業(愛の業)をなしていくという姿勢。

私たちが他者を敵だと諦めてしまったらそこで終わり

でも諦めず自分に与えられた他者への働きかけするとき希望が与えられると思う。

この聖研もそうだったように。

1回目を企画した学生は今はいない。

でも彼らの働きがあるからこそ、こうして私たちはそれを享受できている。まさに諦めなかった姿勢がここにはある。


だから私たちも次の世代にこの喜びを伝える責任があたえられていると感じる。
ーーーーー




学生一人一人の働きに感謝!



花園教会ってどんなとこ?

主日礼拝:毎週日曜日
10:30~12:00




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