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京都・花園キリスト教会

こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会

「あなたへのメッセージ集」記事一覧

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日曜日はインターネット礼拝・配信を行います。

本日から、インターネットライブ礼拝配信を行いました。

これから、毎週日曜日午前10時30~ 礼拝を行います。

URLは

https://www.youtube.com/user/kyotohana/live

最初の20分は賛美タイムなのですが、マイクの性能が良くないので音が割れてしまいます。

これから研究していきますのでどうぞ、ご了承ください。


このインターネット礼拝配信は月曜日の午前には削除いたしますので、ご覧になりたい方はその日の当日にご視聴ください。


早く新型コロナウィルスの収束を祈るばかりです。



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薬物は身近にある。薬物依存とその背景を考えましょう!

ここ数日話題にあがっている麻薬や覚せい剤

昨日、防犯・更生保護関係者を対象とした「薬物依存は病気です」という講演会があり、

地域担当として参加し自分なりにメモしたのでご参考になればと。。。

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<現状>
今の日本では 高校生:36.2パーセントで簡単に手に入る と回答している。
大麻が入口。初犯で防ぐことが大切。

<医学的観点より>
依存症は脳のシナプス受容体が減少する病気である。

ドーパミンは 

社会生活の中では努力⇒成功 ドーパミンが分泌
           失敗 ストレス

【説明】
野生動物で言えば、狩りを行い、獲物を仕留めた瞬間、ドーパミンが分泌される。
まさに至福の時。

人間は、社会生活をしていく中で目の前の課題に対して努力していく。そしてその努力が報われた時にドーパミンが分泌され「至福の時」と感じる。

しかし、その努力が報われないとストレスと感じる。

これが続く負の連鎖が起こっているときに「依存/依存物質」に手を出してしまう。

これが大きな問題。

つまり、依存物質は何なのか?というと

【快感物質(ドーパミン)を安易にだす物質である】という事。
※実は薬物依存と行為依存(ギャンブル・ネットゲーム、買い物依存)構造的に一緒。
ただし、覚醒剤を使うと脳に急激な変化が起こり、抑うつ状態になってしまう。

その抑うつ状態はとても辛いので、通常の体に戻そうと、また覚醒剤を使用してしまう。

これを繰り返してより事態は悪化する(これが依存)

まさに一度、覚醒剤を使ってしまうと体や精神が極限に辛い状況が続くため、辞めたくても辞めれなくなるである。(使用者に対して薬物はダメ!!という言葉での説得は難しい)
どんどん使用すると幻覚・妄想状態が続く。

<治療>
依存症は治療ができる。そして極めて大きな成果が生まれる疾患である。

<対策>
・覚醒剤はすっと入ってくる。それだけに自然になりつつある。

・依存症治療過程にある人を受け入れる環境づくりが必要である。

<背景>
なぜ薬物に依存してしまうのか?
・ダルク(薬物依存自助団体)にいる人の半分は虐待された経験がある。
特に女性の場合、性的被害を受けていた(家庭や地域)

⇒心の傷やトラウマを忘れようとアルコールや薬物に手を出す。
 しかし、辞めるとしんどくなってしまう、害を説いても難しい。

・また3割、軽度の知的障害や発達障害を持った方。
中学・高校で勉強が遅れ、家庭環境で勉強できる環境がないという不利なところから出発してしまうのにそれを助ける場所がない。

そのような中の背景にあり、
夜の仕事(風俗あなど)などで、
<人からチヤホヤしてもらった>ので夜の仕事がよかったという女性が多い。覚醒剤が身近にある環境に身を置いてしまう。

・家庭環境の状況
愚痴をこぼせない。愚痴をこぼすと親から殴られるから我慢する。それが薬物を行うことになってしまうきっかけになる。


・地域からの排除も多い。
・2次的・3次的に被害を受けている人が利用してしまう

<課題>
辞めることをゴールにするのではなく、辞めた後のサポートをどうするか?というのが大きな課題。


<本当の治療とは?>
ープロセスー
覚醒剤治療の回復⇒繋がりを持つ事、他人を信頼できるようになる事、そして自分を信じられるようになる事。
再発の場合、親・更生保護施設に拒絶され、地域からも拒絶され、刑務所内の仲間を頼りに行かなくてはならないという悪循環に陥ってしまう。


<どんな支援が必要か?>
内科のニーズが多い。栄養状態が悪い。健康とは程遠い人が多い。

幼少期からカップラーメンやコンビニなどの食事ばかり提供された子という家庭環境が悪い人がほとんどで、

そういう健康について考えてあげていない状況が続いているのでまず、【健康とはどういうものか?】という事を教える。

【健康を保つ生活という事を知らないし、誰も教えてくれなかった】

だからこそ住宅街に一軒家をかりて健康を保つ生活の意義を教えるのだ。
自分はダメな人間だと思っている。地域で阻害されても1人だけでも支えがあったら変われる。

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<以上の事を聞いての個人的見解>
対処療法ではなく、背景を読み取り、包括的な支援の必要性とネットワークの重要性・理解の啓蒙が必要であると感じました。



【完全な者になりなさいとは?】礼拝メッセージ

聖書箇所:【マタイ福音書5章46~48節】 

説教題:【完全な者になりなさいとは?】

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皆さんおはようございます。
「完全な人になりなさい」という事はどういうことなのでしょうか。
イエスは、彼の伝道期間、ずっと愛について語ってきました。
その中で有名な箇所は「よきサマリア人」ですよね。
(参考:ルカによる福音書10章25節~37節)
イエスは
36節で「さて、、、隣人になったのは誰でしょう。」と語ります。
ここではイエスは、誰がえらいか・立派か!などとはいっていません。

これはとても不思議な事です。
イエスは、誰が「このとき」「この場所で」「この人」の隣人になったのか?と尋ねているだけなのです。
決して、ここでは立派なふるまいをしなさいとここで解いているわけではないのです。

イエスは、聖書の中で完全な倫理を私たちに伝えています。
ただ、だからこそそれは私たちは実行不可能なものなのです。

イエスはそのような中で、完全なものになりなさいと、私たちに完全を要求されています。
しかし、イエスは、このサマリア人のたとえからもわかるように、行動の基準・規則というものを教えてはいないのです。

つまり、「あのサマリア人のようになりなさい」・「あのサマリア人のように立派になりなさい」という行動の基準や規則は私たちに伝えてはいないのです。

イエスは、誰が「このとき」「この場所で」「この人の」隣人になったのか?と尋ねているだけでした。

ここで重要なのは、イエスが、あなたの人生において、またその隣人の人生を感じなさいといわれている事です。

私たちはこの箇所を読むときにサマリア人だけの事しか頭に残りません。


そんな中でではレビ人、祭祀、盗賊は、悪者扱いです。

でも彼らにも人生はある。

それを感じる時に、見えないものも見えてくるのです。

そうすればどのような状況に置かれ、どのような状況にあったとしてもその隣人の人生を感じようとすればそこから一歩が新しい事が生まれていく。
そしてそれは主に出会う機会も与えてくださるのです。
そして私たちがそのイエスの愛の倫理に気づくとき、わたしたちがどのような状況にあったとしてもつぶされず、一歩でも新しい目標に歩み続ける事なのです。
これをドイツの神学者カールバルトは「不可能の可能性」と呼びました。
私たちキリスト者の悪いところは、聖書をよんだり、またインスピレーションを与えられるとすぐにその人を変えよう、是正しようと考えます。
また求道者や教会に来ている人であっても、神を受け入れる事は全部自分の身辺整理をしてから、あのサマリア人みたいな人になったらクリスチャンの資格が与えられると勘違いしてしまう事です。
しかしイエスはそうではない。イエスは出会いの招きをしているのです。

完全なものになりなさいというのは、自分が不完全であるものであるという事をしり、完全なイエスを知り、信じていくものの事。
私たちは現代社会の中に生きていますが、この社会は、善と悪にしっかりと分ける事はできません。
ラインホルトニーバーは、現代社会とは善と悪がぐっちゃぐっちゃになっているからこそ生きたい社会であるといいました。
そう私たちは、このぐっちゃぐちゃになっている社会の中で、どんな立ち位置に立っていたとしても、
自分の人生を感じ、他者の人生を感じる時、そして神の存在を知る時に
わたしたちがどのような状況にあったとしてもつぶされず、一歩でも新しい目標に歩み続ける事ができるのです。
詩編10篇14節にこうありました。
「不運な人はあなたにすべてをおまかせします」
やっぱり人間、一週間のうち少しは静まって聖書を読むことは必要だなあと思わされたんですが、
これはすごい言葉だなと思いました。
普通、不運だったら誰にも任せられないだろうと思うんですが、違うんですね。聖書は
「そういうときこそ主にすべてをまかせる。」

なんだか勇気づけられました。癒されます。
そして自分の思い足りなさがわかります。
まさに自分の不完全を知る事が出来るからこそ、完全な主にお任せする事ができるのです。
だから私たちはどんな状況にあっても前に進めるんですね。
あのマルティンルターの言葉もそうですよね。

【明日終末が来ようが今日りんごの木を植える。】

自分の考えでは到底できないですよ。でも完全な主にお任せするという信仰を持っていくときに自分のすべき必要な事が与えられ、そして普通なこのような状況で人は動けないけれども、一歩進むことができるんですね。
これがキリスト者の醍醐味、存在の深みですよね。

主イエス・そして神は、あなたを「よきものとし、喜ばれるものとし、完全なもの」、新しい者とされるんです。

まさにそこには喜びなんですよ。

3月には受難節を迎えます。私たちはその前に主イエスが私たちになしてくださったことをもう一度信じて歩んでいきたい、そう願う者であります。
主の祝福と平安があなたにありますように!
祈ります。


「不安」からの脱却!

皆さんあけましておめでとうございます。
2017年が始まりました。
2016年は私たちにとってどのような年だったでしょうか。
それぞれ様々な想いが錯綜する年であったと思いますが、花園教会にとってはチャレンジと多くの方々の支えが与えられた年となりました。


昨年10月30日に花園教会水族館がリニューアルオープンし、また花園教会は新たな一歩を踏み出しました。


私たちがこのような一歩を踏み出したのは、花園教会・そして主の福音を多くの人々に知っていただくためであり、また今来ている子ども達、特に苦しみを持っている子ども達と寄り添う事の形を示す事でもありました。


そしてすでにその事柄のひとつとして毎週水曜日に不登校者向けの学習会をこの12月から行っています。


また水族館のリニューアルオープンに合わせて聖パウロ館(集会所)の使い方も変わり、まだまだ発展途上ではありますが、「コケ玉教室」を開いたりまた今年からはオープンカフェも月1回程度行う予定です。


さて私たちはこのようにこの現代社会の中でチャレンジが与えられているわけですが、

アメリカの神学者であるラインホルトニーバーは、人間には「存在の深み」があるといいます。


それは、理性など私たちが行動する事によって神が私たちを作ってくださったことの存在を知る事も一助になる一方で、

その存在の深み、つまり神の啓示については信仰によって与えられており、それを理性で実証する事は難しい。
例えば、友情とか愛というのは目では見る事が出来ず、実証する事は出来ないけれども、私たちはそれを信頼する事によってカバーします。


これが「存在の深み」です。
つまり私たちで言えばこれまで聖パウロ館を建設し、水族館をリニューアルして自分たちでできる事を行ってきたけれども、


そこに主の恵みが与えられていくという事柄は信仰であり、

それはまさに「存在の深み」といわれるものなのです。
しかし私たちは、主の恵みが与えられている事を信じ、

働く中で、信仰によって信じつつも、それを目に見える形で求める事によって、あるものが生まれるとニーバーはいいます。
それは何かというと「不安」です。
私たちは目で見える形を求める時、自分が不完全であるに拘わらず、
完全な行為、完全な正義、完全に善い人、完全な知識を求めます。
けれども、それが不完全に終わってしまう。


私たちは精神的に考える存在ですから、そのような不完全に対して、人生の意味を求め、理由をしろうとします。


勿論、そこで見つかる答えもあると思います。しかし、それは見出したとしてもその答えはいつ消えるかわからない。
まさにそのような不安が私たちにはあるのです。
2017年は2016年の取り組みをより具体的にしていく年でありますが、そのような中であるからこそ私たちは「不安」を持ってしまいます。
社会的にもそうですね。現在の社会情勢なども大きな不安がいっぱいあります。
しかし、そんな不安をもっている者だからだからこそ私たちは聖書に立ち返りたい。
今日の箇所は、パウロが教会の在り方を示した聖書の箇所です。
またパウロ自身は、迫害・投獄などを経験する中で大変な中、人間としては不安を持っている中でも信仰によっては力づけられていく根拠が記されています。
まさに不安に対しての光を示しているみ言葉が第二テモテ1章7節

「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」です。


私たちはこのみ言葉をこの2017年最初のみ言葉にしたいと思います。


2017年がどのような年になるか私たちには全くわかりません。
しかし、私たちは理性によって行動しながらも、存在の深みを信仰によってしり、み言葉によって立ちたい!そう思うのです。


私たちが不完全である以上、不安がなくなる事はありません。


けれどもその不安に勇気をもって打ち勝つことはできるのです。
皆さんで読みましょう

「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」
神は、主イエス・キリストを通して私たちに力と愛と思慮分別の霊を皆さんひとりひとりに与えられています。
だからこそ、今年も2017年もこのみ言葉を通して、主を信じて進んでまいりましょう!
主の祝福が大いにありますように!
祈ります。

論文を執筆しました。

私も卒業した日本ナザレン神学校・神学研究会では神学の学術誌として「神学思潮」を出版しています。



今回、若手の論文シリーズの形だと思いますが、その中で僭越ながら私も執筆させていただきました。

タイトルは
「我々の生活の座を知るために -カール・バルト 和解論より」
英訳:「To know "Sitz im Leben" in our life」

 
です。

一冊1000円です。

もしご入用の方がおられましたら、私か直接、ナザレン神学校にお問い合わせください。


この4月から京都大学大学院で、アフリカの紛争問題を研究する予定なのでフィリピンの紛争問題に関わってきた者としてはどのような共通点があり、またどのような解決の道があるのかを研究していきたいと思っています。



京都YMCA『京都青年』12月号執筆しました!

日ごろから京都YMCAにはお世話になっていますが、


今回京都YMCAが発行する『京都青年』の紙面に執筆させていただきました。

感謝です。多くの方々に読んでいただければ幸いです。



紙面の内容は以下の通り。

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「苦難の中にこそメリークリスマス!」
メリークリスマス!

クリスマスは、イエス・キリストの誕生日。サンタクロースもキリストを信じる一人でした。私達がイメージするクリスマスは、クリスマスツリーやクリスマス装飾品を飾り、家族や知人と一緒にケーキを食べる華やかなクリスマスではないでしょうか。

しかし世界で最初のクリスマスは、そんなイメージとは程遠く、キリストの誕生前後は大変過酷な状況だったのです。少しその物語をお話ししましょう。

イエスの誕生前、許嫁マリアが結婚前にイエスを身ごもっている事を知った夫となるヨセフは苦悩し、表ざたになる事を恐れ離縁しようと決心します。

しかし天使は夢の中でヨセフにキリストの誕生をこう預言しました。

「恐れるな!見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。
【インマヌエルとは、「神はあなたと共におられる」という意味】
天使のお告げを信じ、ヨセフはマリアと結婚。

そのような中、社会状況は目まぐるしく変わり、ローマ帝国より全住民に住民登録をするようにとおふれがでます。

マリアは身重でしたが、登録の為に夫婦共々、100キロ以上離れたベツレヘムの町に向かうのでした。

そして時が満ちてイエスを産もうとするのですが、産む場所がありません。

宿屋を探し回りようやく、臨時授産場となる場所を見つけたのがなんと馬小屋でした。

そして無事に出産。生まれたばかりのイエス・キリストは飼い葉おけ(牛馬の飼料を入れる容器)に置かれました。ここまで読んでも不運の連続です。

でもまあキリストが誕生したと思えば「めでたしめでたし」、
と言いたいところですが実はまだ続きがあります。



イエス誕生後、ヘロデ大王が自身の地位が脅かされるとして、イエスを殺そうと幼児虐殺を兵士に指示したのです。

このためヨセフとマリアはイエスを守るためにエジプトに難民として逃れたのでした。これが最初のクリスマスなのです。あまりにも過酷すぎます。

けれどもこれはこうも言えるのです。

そんな苦しみ・悲しみ・恐れをキリストは知っておられるからこそ、あなたの苦しみ・悲しみ・恐れをキリストは理解しあなたに寄り添われるのです。

そして苦しみの中に光りを、悲しみの中に喜びを、恐れの中に希望を与えてくださるのです。
あなたはもう一人ではありません。キリストはあなたと共にいてくださいます。

苦難の中こそ真のメリークリスマス!
日本ナザレン教団花園キリスト教会牧師 篠澤 俊一郎

神さまと共に生きる 創立55周年記念特別集会

今週の日曜日は、本町教会の梅實淳一先生を講師に花園教会創立55周年記念礼拝・特別集会が行われました。

テーマは「神さまと共に生きる」

1コリントからメッセージいただきました。


   

 


今回は梅實先生ファミリーも来会いただき、楽しい時が与えられました。

 

午後からは、コリントの教会の聖書の学びのときが与えられました。

    
教会員の方の、「癌の闘病生活の中でキリストを受け入れる信仰の証」などもありました。


新来会者の方々も与えられ、恵まれたときとなりました。


聖パウロ館にて立食パーティー形式での懇親会です。


感謝です。




花園教会ってどんなとこ?

主日礼拝:毎週日曜日
10:30~12:00




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礼拝メッセージ集はこちら

絶望のあるところには希望を

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