先週の金曜日、毎月行われている京都大学YMCA地塩寮聖書研究会に行ってまいりました。
なんと!今月でこの聖研も50回を迎えました〜! パチパチパチ
年月でいうと4年と2か月です。
毎月休みなく行われた聖研。
いやー振り返ってみれば大学生活が終わっちゃうほどにやってきたんですね。
あまりそんな感じはしませんでしたが。
なぜなら、牧師自身が学生たちから学ばされることが多かったという事に尽きるでしょう。
「今の青年は??」
とよく言われますが、私はそうは感じません。
彼らは彼らの生きている中で、彼ら世代の中で考えている事も色々とあるのです。
「今の青年は?」
といった時点で、大人たちは青年たちを見下しています。
その『上から目線』姿勢自体が改められるべきであり、もしそう思うならちゃんと情報を彼らに提供し、世界に目を向けさせるために自分の身を削るくらいにサポート、投資すべきなのです。
そんなサポート・体制づくりをしないで大人たちが「今の青年たちは?」という青年を形成させてしまっているならば、その責任は先の大人たちにあると言わざるを得ません。
と、まあ少々熱くなってしまいましたが本題に戻ります。
今回は50回記念という事もあり、これまでの50回までの聖研の感想を青年たちに率直に語ってもらいました。
といっても1回目に参加した青年はいないんですけどね(笑 ひとり除いて(ただ彼は博士過程なのでちょっと違いますが、、、)
<以下、学生たちの感想です>
○Mさん
ひとりひとりそれぞれ世界観を持っていて問題意識も違う事に気付いた。
問題意識は違っていても世界観を持っているという事自体は同じ。
その意味で人間性の可能性をとても感じた。
○Αさん
初めて発題した時にプレッシャーがあり怖かった。
自分の考えを文書にすることの難しさを知った。
ここでの経験が知識で終わらないようにするのが大変。
バイトとかぶっていて出席できない事もあったが聖研が楽しい。
聖書のみ言葉を読む前にいつもやる「自己紹介」と「今月のお題」をみんなで話すのが楽しい。
○Bさん
キリスト教にこれまで人生の中で関わったことがなかった。
なので聖書に書いてあることは人生訓のような善いことを書いていると思っていたが人間臭さを赤裸々に記していて、聖書の懐の深さを知った。
また断定で記述されず、自分で考える余地を与えるところに大変驚嘆した。
○Cさん
3年間、この聖研に出ている。
聖研以外に寮生と真面目な話をする機会がないので貴重。
日頃あまり話さない寮夫さんも参加しておられ寮夫さんの話をきけて嬉しい。
○Dさん
聖研にでて感じたことは、何をしゃべっても否定されない。ほんとに心地よさを感じる。しゃべることが苦手なので否定されない事で自分の意見をしゃべることができている。
○Eさん
真面目な事を言える場がある。
自分のペースで話すことができるので貴重。
ここでしか聞けない事もあり感銘を受けた。
寮生のそれぞれのストレスの解消法について聞けたことはとても嬉しい。
などなど。
これらの感想を聞けてほんとによかったです。
学生さんたちがどう感じているのかなかなか聞く機会がなかったのでわたしにとってもよき時となりました。
地塩寮の学生さんひとりひとりに心から感謝したいと思います。
そして記念すべき50回目の聖書のテーマは第2テサロニケ3章6〜15節
「怠惰な生活と、敵としてみない事とは?」
でした。
ーー以下、聖研―
自分が真面目な生活をしている中で、怠惰な生活をしているものをみるときに本当に許せなくなる。
その際は敵として相手を見ているのではないか?
しかし聖書には敵としてではなく、友として仲間として注意しなさいとある。これは本当に難しいことだ。
・これを共同体としてみる時に、共同体をまとめること自体、難しくなるのでは。
・突き放すことはできるが受け入れる方が難しい。
⇒突き放していくとその人は居場所をなくし、ゲーム・ネットに依存してしまう。
居場所づくりが必要ではないか。
・この難しいという議論は、自分から出発しているからそう思うのではないか。他者の思いなどを出発点にするときに見方もかわってくるのではないか。
・模範を示して恥をあたえるという意味がここでは込められているように思う。
他者のすべてを見ているようで実はその人に一部分しか見えていない。
・怠惰な生活は自分が忙しいときに見えてくるものだ。例えば掃除など。
しかしそんな中で実は自分も怠惰な生活をしていたことを知るときもある。
例えば、人の皿洗いをしてあげていたときに、自分の洗い残していたコップが出てきたときなど。
★まとめ
他者の為の行為、例えば笑顔もそうだが、好きな人には笑顔ができるが、笑顔を返してくれない人がいたとしたらそれは苦痛でしかない。
実は、笑顔というのは「戦い」だ。
ではなぜそれができるのか?
それは神から愛を受け取っているという事、つまり自分にも愛を受け取っていると感じる時に喜びが湧き、笑顔が与えられ、なかなか他者が笑顔で返してくれなくても笑顔をし続けることができるのだ。
マザーテレサは「神の愛を知っているものが、愛の行為をするときその愛の行為とは自分の身を削ることである」と語った。
また宗教改革者ルターの信仰は「明日、終末が来ようが今日リンゴの樹を植える」というものだった。
これは明日、自分にどんなことが起こったとしても今日、神から与えられた業(愛の業)をなしていくという姿勢。
私たちが他者を敵だと諦めてしまったらそこで終わり。
でも諦めず自分に与えられた他者への働きかけするとき希望が与えられると思う。
この聖研もそうだったように。
1回目を企画した学生は今はいない。
でも彼らの働きがあるからこそ、こうして私たちはそれを享受できている。まさに諦めなかった姿勢がここにはある。
だから私たちも次の世代にこの喜びを伝える責任があたえられていると感じる。
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学生一人一人の働きに感謝!
http://kyotohana.blog.shinobi.jp/Entry/874/祝50回!!京都大学YMCA地塩寮聖書研究会〜怠惰な生活と敵だ!と断定する方が簡単な巻