今年もあと2回となった京都大学YMCA地塩寮で行われる聖書研究会!
今回は嬉しい事に、学生がケーキを作ってくれました。
まずはアイスブレーキング:お題-印象深いクリスマス
・高校生で留学生していた時に、外国でクリスマスを過ごしたが年越しは派手だが地味で家族で過ごしていた。
・あんまりない。クリスマスになると鳥の丸焼きを食べて、そのあと鶏ガラ炊き込みご飯を食べた記憶が、、、
・プレゼントがいつの間にか現金に変わってしまった事が淋しかった。
・以前、サンタになった事。
・11月末に高校時代に体験学習にいったら、鳥を屠る事を体験した。自分がさばいた鳥をクリスマスのときに食べたがあんまりおいしくなかった。
・小学生の友達がホームパーティーをしてくれた。
誕生日プレゼントをあげた時に、プレゼントの御返しをしてもらった。
高1のときに富士急にヒートテック・ポンチョでいったら、ジェットコースターがポンチョNGだったのでヒートテック一枚でめっちゃ寒かった!
・去年のクリスマスにケーキを買って楽しもうというものをすっぽかした。
・地塩寮のクリスマスが印象的。1回生のときのクリスマスが印象。
とても楽しいなあという印象。
・特に意識せず終わっている。小学生のポケモンを買ってもらって嬉しかった
・25日に毎年プレゼントが置いてあった。それは今も続いている。小さい時は兄弟で3人で交代制で見張りをした。サンタはその事を察してプレゼントを違う部屋においたりと思考が凄かった。
※<感じた事>
とりあえず、サンタさんには現金のプレゼントはしないで!とお願いする必要を感じました!!
本題:ルカによる福音書11章37~54節
・派閥へのイエスの批判が書いてあるが、人を直接に批判するイエスの姿に驚いた。
なぜなら隣人愛を解いていたので。
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●イエスはファリサイ派を猛烈に批判しているが擁護する観点からも見てみたい。
イエスの批判に対してどう反論できるか?
-ファリサイ派の人の教えは儀礼的であっても、全体を批判する事は違うんじゃないかなと思う。
なぜ儀礼を重んじているだけで、正義の実行と神への愛まで及ぶのか?おかしいだろ?
という反論が生まれてくるのではないか?
ただ、これに対しては「儀礼は人を作る。それにはまりすぎているという事も言えるのではないか。」という事も言えると思う。
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●記事の中で墓を批判する事が出るがなぜ?
牧師回答:像を作る事には一生懸命だが真理を追究しない事だと思われる。
●前後の記事を読んでいくとファリサイ派は、イエスを招いているが、イエスの揚げ足を取ろうと計画し喜んで迎えているわけではないのに気づく。
そして逆にイエスにがつんと言われたので逆ギレを起こしている。
⇒そう考えるとファリサイ派は見かけを重視している事が言えると思う。言葉尻をとるという事からもファリサイ派は中身を持っていないというのはわかる。そう考えるとイエスの指摘は至極当然の事だと思う。
●ただ、ファリサイ派の全体をを批判する事はおかしいのではないだろうか?
⇒日本に置き換えると昔のことまで責任を取れと言われているのと同じではないか?
⇒これは直接的な批判ではなく、神というものを信じているか?という風にいっているのではないか。
この記事から感じられることは、
自分たちが救われているという事をすでに知って信じてるがゆえに、救われる課程を無自覚でいる事は危ないという事。
知った気になってしまう危険性がある
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牧師の見解
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ラインホルト・ニーバーという社会学者がいたが、彼は罪理解が必要と語っている。
個人的な罪・社会的な罪には違いがある。
私達人間は自分を差し置いて国や社会を批判する。いやしやすい。けれども自分を追求されると弱い一面がある。
大切なのは自分は「正義」・「正しい」という観点から出発するのではなく、正しい者は一人もいないというところから出発するとき、今まで見えなかったものが見えてくると思う。
キリスト教は過去に多くの負の遺産を残してきた。まさにイエスの批判の対象だ。
だからこそその負の遺産を知る責任が私たちにはあると思う。
是非とも疑問を持ったら、自分の足で歩き、目や耳、鼻で感じてほしい。
今回も白熱した議論となりました。今回はいつもよりも学生の出席が多かった事もある(12名)と思います。感謝です!
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http://kyotohana.blog.shinobi.jp/Entry/1241/第71回京都大学YMCA地塩寮聖書研究会 -イエスの批判は真っ当なのか?