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【完全な者になりなさいとは?】礼拝メッセージ

聖書箇所:【マタイ福音書5章46~48節】 

説教題:【完全な者になりなさいとは?】

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皆さんおはようございます。
「完全な人になりなさい」という事はどういうことなのでしょうか。
イエスは、彼の伝道期間、ずっと愛について語ってきました。
その中で有名な箇所は「よきサマリア人」ですよね。
(参考:ルカによる福音書10章25節~37節)
イエスは
36節で「さて、、、隣人になったのは誰でしょう。」と語ります。
ここではイエスは、誰がえらいか・立派か!などとはいっていません。

これはとても不思議な事です。
イエスは、誰が「このとき」「この場所で」「この人」の隣人になったのか?と尋ねているだけなのです。
決して、ここでは立派なふるまいをしなさいとここで解いているわけではないのです。

イエスは、聖書の中で完全な倫理を私たちに伝えています。
ただ、だからこそそれは私たちは実行不可能なものなのです。

イエスはそのような中で、完全なものになりなさいと、私たちに完全を要求されています。
しかし、イエスは、このサマリア人のたとえからもわかるように、行動の基準・規則というものを教えてはいないのです。

つまり、「あのサマリア人のようになりなさい」・「あのサマリア人のように立派になりなさい」という行動の基準や規則は私たちに伝えてはいないのです。

イエスは、誰が「このとき」「この場所で」「この人の」隣人になったのか?と尋ねているだけでした。

ここで重要なのは、イエスが、あなたの人生において、またその隣人の人生を感じなさいといわれている事です。

私たちはこの箇所を読むときにサマリア人だけの事しか頭に残りません。


そんな中でではレビ人、祭祀、盗賊は、悪者扱いです。

でも彼らにも人生はある。

それを感じる時に、見えないものも見えてくるのです。

そうすればどのような状況に置かれ、どのような状況にあったとしてもその隣人の人生を感じようとすればそこから一歩が新しい事が生まれていく。
そしてそれは主に出会う機会も与えてくださるのです。
そして私たちがそのイエスの愛の倫理に気づくとき、わたしたちがどのような状況にあったとしてもつぶされず、一歩でも新しい目標に歩み続ける事なのです。
これをドイツの神学者カールバルトは「不可能の可能性」と呼びました。
私たちキリスト者の悪いところは、聖書をよんだり、またインスピレーションを与えられるとすぐにその人を変えよう、是正しようと考えます。
また求道者や教会に来ている人であっても、神を受け入れる事は全部自分の身辺整理をしてから、あのサマリア人みたいな人になったらクリスチャンの資格が与えられると勘違いしてしまう事です。
しかしイエスはそうではない。イエスは出会いの招きをしているのです。

完全なものになりなさいというのは、自分が不完全であるものであるという事をしり、完全なイエスを知り、信じていくものの事。
私たちは現代社会の中に生きていますが、この社会は、善と悪にしっかりと分ける事はできません。
ラインホルトニーバーは、現代社会とは善と悪がぐっちゃぐっちゃになっているからこそ生きたい社会であるといいました。
そう私たちは、このぐっちゃぐちゃになっている社会の中で、どんな立ち位置に立っていたとしても、
自分の人生を感じ、他者の人生を感じる時、そして神の存在を知る時に
わたしたちがどのような状況にあったとしてもつぶされず、一歩でも新しい目標に歩み続ける事ができるのです。
詩編10篇14節にこうありました。
「不運な人はあなたにすべてをおまかせします」
やっぱり人間、一週間のうち少しは静まって聖書を読むことは必要だなあと思わされたんですが、
これはすごい言葉だなと思いました。
普通、不運だったら誰にも任せられないだろうと思うんですが、違うんですね。聖書は
「そういうときこそ主にすべてをまかせる。」

なんだか勇気づけられました。癒されます。
そして自分の思い足りなさがわかります。
まさに自分の不完全を知る事が出来るからこそ、完全な主にお任せする事ができるのです。
だから私たちはどんな状況にあっても前に進めるんですね。
あのマルティンルターの言葉もそうですよね。

【明日終末が来ようが今日りんごの木を植える。】

自分の考えでは到底できないですよ。でも完全な主にお任せするという信仰を持っていくときに自分のすべき必要な事が与えられ、そして普通なこのような状況で人は動けないけれども、一歩進むことができるんですね。
これがキリスト者の醍醐味、存在の深みですよね。

主イエス・そして神は、あなたを「よきものとし、喜ばれるものとし、完全なもの」、新しい者とされるんです。

まさにそこには喜びなんですよ。

3月には受難節を迎えます。私たちはその前に主イエスが私たちになしてくださったことをもう一度信じて歩んでいきたい、そう願う者であります。
主の祝福と平安があなたにありますように!
祈ります。


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