花園教会 in 京都

災害支援・地域支援・バックヤード系水族館を運営するキリスト教会

「すでに救われていると信じて、苦難に耐え忍びたい」



突然ですが、皆さんはこの世の中をどう生きておられるでしょうか。

 

ある本にこうありました。

 

「あなたが立てるアンテナによって、あなたに来る情報が決まります。

「大変だ!」というアンテナを立てれば、「大変だ!」がやってきます。

感謝というアンテナを立てれば、感謝が来ます。


どんな嵐のただ中でも、「大丈夫!」というアンテナを高く立てれば、「大丈夫!」という情報が、あなたをめがけてやってきます。


心のアンテナを立てましょう。」

 

と。

 

皆さんは、この本の言葉を借りるならば、日頃どんなアンテナを立てているでしょうか。

 

人生において、人が大変だと感じる事・大変だと経験する事は、幾度となく訪れると思います。

 

私も28年と言うまだ短い人生の経験ですが、私が大変だと感じた・経験した事は幾度かありました。

 

いくとか挙げるとすれば小学校のとき、大好きだった犬・元気だったペットがある日突然、死を迎えその死に直面したとき。

 

骨折した時。交通事故に合ったとき、

 

中学のときは、喧嘩で耳を切り8針縫う怪我したときでした。

 

また高校のときは、いじめられ、不登校になり、自殺を考えた時。

 

大学生のときには、原因不明の病気で死の淵をさまよった事。

 

大好きで住んでいた学生寮が、バブルのあおりを受けて廃寮が決定し、社会の冷たさを知り、人間不振に陥り、路頭に迷いそうになった事。

 

ここ数年の出来事であれば、伝道師として立てられ信仰をもってイエス・キリストの福音を宣べ伝えようと張り切って臨んだ最初の教会での信仰的な挫折でしょうか。

信徒の方々に希望を宣べ伝えようとしたら、失望を与えてしまったショックで

牧師をやめようと思ったときなど。

 

この私のようなまだ「ひよっこ」とも思われるものであっても、振り返ってみれば幾度と大変と感じる・経験する事があるのです。

 

皆さんにも、大変だと感じる・経験する事が多々あると思います。

 

私達は生きていく中で大変だと感じる・経験する事は、年齢・性別まったく関係なく、どんな人にも誰にでも訪れる事なんだと思います。

 

しかしただ、先ほど紹介した

 

「あなたが立てるアンテナによって、あなたに来る情報が決まります。

 

どんな嵐のただ中でも、「大丈夫!」というアンテナを高く立てれば、「大丈夫!」という情報が、あなたをめがけてやってきます。」

 

というのは、アンテナの話から考えるとき、

 

私達自身が大変なときに、私達自身がとても苦しく大変だと感じるときに、あなたはその大変なときをどう捉え、

 

そしてどうしていくのかと言うことがとても重要なんだと、このアンテナの話では私達に教えているのだと思います。

 

そう、信仰的に言うなれば今日の説教題にあるように、

 

「すでに救われていると信じて、苦難に耐え忍びたい」

と言うことなんです。

 

その事を知るために今日神は私達に、今日必要な御言葉を1サムエル記から与えて下さいました。

 

そのサムエル記に登場するダビデを通して今日の必要な御言葉に触れたいと思います。

 

今日出てくるダビデは、少年でありながらも、油注がれた者、つまり神の栄光を表す存在として神が召しだされた者でした。

 

今日、読んだダビデに行き着くまでのエピソードを簡単に説明しますと、ダビデはエッサイの8番目の息子かつ末っ子としてベツレヘムという小さな田舎町に生まれました。

 

ダビデは羊飼いをしていましたが、預言者サムエルに見出されて油を注がれるものとなりました。

 

そして、そんな少年ダビデは、ふとしたことからお兄さんがいる戦場へと足を運ぶことになります。

 

ダビデが生きていた時代とは、まだ戦争が絶えない戦国時代です。

 

ダビデが住んでいた地域はイスラエルに属し、そのイスラエルは海の民と呼ばれるペリシテ人と戦争をくり返していていました。

 

そんな戦いが行われていた40日目になったとき、ダビデは戦争に参加していた3人の兄の消息を確かめるよう、父に命じられ、差し入れを持って戦場へと向かったのでした。

 

少年ダビデは兄たちのいるエラの谷に着きました。

 

そこでは谷の間(あいだ)をはさんで、一方はイスラエル軍、もう一方はペリシテ軍が陣を張り、にらみ合っていたのです。

 

そして少年ダビデはイスラエル軍の方に歩き、イスラエル兵士である兄達に会いました。

 

ちょうどその時でした。

 

ペリシテ軍に信じられないような重さの鎧兜を身につけて戦うゴリアテという大男が現れ、いつものように一騎討ちを申し込んできたのです。

 

ゴリアテはただ巨漢であるだけでなく、つわものでした。

 

そんなゴリアテを見て、イスラエルの兵士達は恐れおののいていました。

 

その状況を見たダビデは何を思ったのか、そのゴリアテとの一騎討ちを買って出ようとします。

 

兄達は、皮肉っぽくダビデを叱り、ダビデのことを聞いたサウル王も戦いの経験のないダビデを当然、あてしようとしませんでした。

 

しかし、ダビデは王をなんとか説得し、戦いの許しを得ます。

 

サウロ王はダビデに自分の鎧兜を貸そうとしたのですが、重くて、まともに歩くこともできず、結局、川原にある手頃な石5つだけ選び、

 

少年ダビデは、ゴリアテに挑みました。

一方ゴリアテは、まだ幼いダビデを見て、あなどり、自分の神々によってダビデを呪い余裕を持って名乗りをあげました。

 

またダビデも神の名によって戦いを宣言し、決闘が始まります。

 

そしてこの決闘は一瞬のうちに終わりをつげました。

 

ダビデはさきほど川原で選んだ石をパチンコのように飛ばし、ゴリアテの額に命中させました。

 

そして、倒れたゴリアテを見、すかさず走ってきてゴリアテの剣を取り、最後のとどめを差したのです。

 

その光景を見たペリシテ軍の兵士たちは恐れおののきそこから逃げ去ってい

きました。

 

この物語は、クリスチャンの方なら一度は聞いた事のあるとても有名な物語であります。

 

一人の羊飼いであった少年のダビデはこの活躍後、一瞬にして時の人となり、イスラエルを統一するダビデ王となっていきます。


このようにダビデは神により、召しだされたのでありました。

 

しかし、このとき、少年であったダビデは自分が将来、王となり、イスラエルを統一するとは思ってもみなかったことでしょう。

 

神のなさることは私達が考えている計画をはるかにしのぎ、私達のわからないところで働いておられたのです。

 

それまでペリシテ軍のゴリアテをみて、恐れおののいていたイスラエル軍がダビデの起こしたこの出来事で、一瞬のうちに活気付き、立っておたけびをあげ、逃げるペリシテ軍を追撃したのでした。

 

ダビデは、気が弱っている兵士たちをこの一瞬の出来事により勇気付けたのです

 

ダビデが、神に栄光を帰することによって、その神を賛美する栄光の光が、弱っている兵士達を助けたのでした。

 

 

さあ私達が、今日の御言葉で知る事は一体なんでしょうか。

それは、神の思いと人の思いは違うという事。

 

サウル王やダビデの兄たちは、ダビデが幼く現実的に考えてダビデには到底、戦いなんかできっこないと思っていた人の思いを神の思いがはるかに超えておられたという事です。

 

またもうひとつ。

 

これが重要なのですが、信仰の戦いを通して私達は強められそしてそれを乗り越えたときに本当の意味での神の希望を知り、そしてその神の希望を弱っている人たちに教えることができ、またその人を勇気づける事ができるんです。

 

私達は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けてそれで終わりなんではないんです。

 

そこからがイエス・キリストと共にいたペトロが言うように、また伝道者パウロが言うように、本当に信仰が本物になるようにと精錬される試練が始まっていくんです。

 

誰だって戦いは望みません。安定がほしい。平安がほしい。そう願う事は当たり前です。

 

しかし、試練は苦難は一方的に向こうからやってくるんです。

 

私達が望もうが望まなかろうが向こうから一方的にやってくるんです。それも必ず。

 

けれども、この事は決して忘れないで欲しい。

 

救いも希望も外からやってくるという事を。

 

私達が、苦難を避けよう避けようとして、心を閉ざし・すべてに関わらないようにしていたら、外から救いも希望も受け取ることができない。

 

私達の自分の中から救いを希望を作り出す事はできないのです。

 

私達が試練や苦難にあったとき、心を閉ざし、避けようとし続けたとき、自分の中から作り出すものはただひとつ。

 

失望、絶望を伴う死だけです。

私は大学時代、勿論そのときもクリスチャンでしたが、私が大学生だったときほど、クリスチャンを憎たらしく思う事はありませんでした。

 

それは、冒頭で少し触れたように、私が住んでいた学生寮が廃寮になったときの事です。

 

私の住んでいた寮は苦学生が集う寮でしたが、志を高く持ちそして希望を持った学生達が集まっていました。

 

そこに住まう学生達はほとんどがクリスチャンではなかったものの、経営母体がキリスト教団体であったので、月に一度の聖書研究会が開かれ、よき伝道の場となっていました。

 

そんな中で、バブルのあおりを受けた団体が、寮の廃寮を決定したのでした。

 

青少年育成を旗印に活動していたキリスト教の団体がまず切ったのは私達の寮でした。

 

また、私がそのとき許せなかったのは、その切った相手が私がとても尊敬し、寮の運営の相談をしていた牧師の息子でクリスチャンの方だったということです。

 

寮の廃寮が決まる前まではとても真摯になって寮をどうよくしていくかという相談をしていたにもかかわらず、裏ではすでに廃寮を決定する指示を自ら行っていたからです。

 

あのときほど、クリスチャンって何?と考えた事はないと思います。

 

私達学生が存続に向け活動した際も、大人たちのほとんどは、バブルのおおりなんだからしょうがないじゃんと私達に協力はしてくれませんでした。

 

青少年育成を旗印にしているんだったら今こそ、収益事業の拡大ではなく原点に戻って苦しんでいる人を助ける・支える事業を継続させた方がいいと私達が主張すると、

 

「負債58億円もかかえているのだから理想をいうんじゃなくて現実を見ろよ」

 

と冷たくあしらわれました。

 

今負債58億円と聞いて、「まあそんなにあるならしょうがない」と思われた方も多いんじゃないでしょうか。

 

勿論、現実の社会から見たらしょうがないと思われるかもしれません。

 

近年、「理想ではなく現実を見よ」という言葉をよく耳にします。

「理想」の意味が、なにかあり得ない・空想の事をならべて実現できないもので現実的でないと言うことから「現実」と対比させ、

「理想ではなく現実を見よ」というような言葉が出てきたと思われるのですが、

 

しかし本来「理想」とは、哲学用語で「行為・性質・状態などに関して、考える得る最高の状態の事」を言います。

 

また「いまだ現実には存在していないが、実現可能なものとして行為の目的であり、その意味で行為の起動力である」というのが本来の意味です。

 

ですから「理想」とは何か空想話を意味しているものではないのです。

 

最近、言葉の本来の意味を知らずに使う人が多いのでとても迷惑な話ではあるのですが、

 

しかしまたこのように、同じクリスチャン同士であっても戦わなければならないときがあるんです。

 

これまさに大学生時代の私にとって信仰の戦いでした。

 

でも、今振り返ってみるとあのときの戦いがなければ私はこうして牧師になりそしてイエス・キリストを主として信仰する事を強く感じる事はなかったことでしょう。

 

神が与える試練とは、私達を殺すものではなく生かすものなのです。

 

イザヤ書の55章9節にはこうあります。

 

皆さんどうぞ開けて下さい。

 

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・

 

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

 

神の思いと人の思いは違い、私達には神の思いが分からず試練に耐えられないくらいに疲労し、そして路頭に迷いそうになりそして倒れそうになる事があります。

 

けれども、皆さんこの10節・11節をよーく見てみて下さい。

 

 

 

10節「 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

 

 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

 

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

 

ここが私達クリスチャンが最も知らなければ箇所の一つだと私は思います。

 

私達は神の思いが分からなさ過ぎて信仰が弱り枯れていくように思い、神を信じれなくなるくらいになりますが、しかし神は私達にパンを与え、成功させると言われるのです。

 

もし、この御堂に集まる方の中に信仰の戦いをされている方がいるのでしたら、この御言葉をどうぞ覚えて下さい。

 

そう、私達の今の戦いは私達に希望を与えそして成功させるものであるのです。

 

いいですか?

 

私達は信仰の戦いをしているときこそ聖書の御言葉によって立ち生きなくてはならないのです。

 

今日のダビデもこれは、信仰の戦いです。

 

自分の兄弟たちに信じてもらえず、逆に現実的な兄たちから「やめろ」と反対され信頼されなかったダビデは、それでも神の言葉に立ちそして戦いに挑んでいく。

 

ダビデはまさに聖書の御言葉によって立ち生きていくのです。

 

私達もまず、聖書の御言葉に立たなければなりません。

 

自己啓発的な本を読むのもいい。

 

人生の書をみるのもいい、

 

人格診断のような本を見て男女の違いを見るのもいい。

 

血液型の本をみて性格判断を楽しむのもいいです。

 

けれども、私達クリスチャンはまず聖書の御言葉にたってほしい。たってください。

私達クリスチャンが聖書の御言葉に立たないでどうしてこの厳しく・残酷で闇で覆われているこの世と生き抜く事ができるでしょうか。

 

私達クリスチャンが聖書の御言葉に立たないでどうして冷たいこの世と戦いそして勝利し希望を得る事ができるでしょうか。

 

どうぞ、御言葉にたって下さい。

 

神は私達に「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と御言葉を通して教えてくださっているのです。

 

聖書の御言葉をただの理想だろ?という人がいます。

 

また、「聖書の御言葉は理想です」教えた牧師もいます。

 

違います。

 

御言葉は実現可能なものではなくすでに実現した神の言葉なのです。

 

それはイエス・キリストにおいて実現されました。

 

勿論わたしたちの中には原罪、罪が存在するが故に、私達は完璧ではありません。

 

聖書の御言葉を読んだ際、今の自分には難しい思うこともあり、

 

そこから聖書の御言葉は理想であると思いたい事もあるでしょう。

 

しかし、難しいからこそ私達は本当に神に祈りつつ、神に懇願し、イエス・キリストの十字架と復活を思いつつ、考え・行動するべきではないではないでしょうか。

 

聖書の御言葉を理想・理想と言っている人たちにとって聖書の御言葉は、その人にとってすでに生きた言葉ではなく死んだ言葉になっているのではないでしょうか。

 

もし、この中で聖書の御言葉を理想と考えていた人がいるならば、是非イエス・キリストの十字架と復活において聖書の御言葉はすでに実現されたと信じて下さい。

 

そして聖書の御言葉をあなたの中において生きた言葉として受け取って下さい。


しかし、勿論私たちは第二のキリストにはなりえません。

 

私たちがどんなに神に祈り、どんなに最善であるかのような行動をしたとしても、過ちを、罪を犯してしまうことがある、ということを忘れてはなりません。

 

事実、油注がれたダビデすらこの後の、幾度とない聖戦と呼んだ戦争の中ででも罪を犯してしまうのです。

 

しかし、そんな罪深い私達を神はイエス・キリストの十字架の犠牲において罪を赦してくださっています。

 

私達クリスチャンは、そのイエス・キリストが私達の罪のために死なれ、3日後に復活されたことを知っています。

 

これは、私達にとって、どれほどに大きい強みでしょうか。

 

私たちはこのイエス・キリストの十字架と復活によって救われているということを知っており、そしてその栄光を手にしているのです。

 

この栄光を私達が本当に知るとき、他者に分け与えることができます。

 

そう!ダビデが、神の光を知り、栄光を神に帰することによって、強められたあの栄光の光。

 

そして、ダビデが手にしたこの栄光の光が、弱った兵士たちにも与えられたように。

 

伝道者パウロはこう語っています。新共同訳ですが

 

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 

被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、

 

服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

 

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属(れいぞく)から解放されて、

 

神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」ローマ8章

 

私達クリスチャンは、苦難し、その苦難に対して忍耐することがすべての始まりであり、忍耐し続けることができたならば、栄光が受けられると誤解することがあります。

 

でも違います!

 

そうではなく、その全くその逆であって、

 

私たちはイエス・キリストによって救われているということを知っているからこそ、苦難に耐え忍ぶことができるのです。

 

もし、ただ、苦しみを積み重ねるだけであるならば、今苦しみが多いから後から得することが多いと思うようになり、どこかの新興宗教のようにご利益的な損や得で判断してしまいます。

 

パウロは続けてこうも語っています。

 

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

 

見えるものに対する希望は希望ではありません。

 

現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

 

わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」と。(ローマ8章24-25節)

 

ダビデは、少年でありながらも、誰も望まない戦いに進み出たのは、神がすでに栄光を表してくださっていると信じたからです。

 

そしてそのダビデの証しこそが、他の人々を勇気付け、

 

そして今日・この花園教会においても何千年前のその証しが、私達のところにそしてあなたのところまで受け継がれているのです。

 

しかし、わたしはここで皆さんに注意を促がしたい。

 

それはこの物語の中で、ダビデは「この戦いは主のものだ。」といい、聖なる戦い・聖戦と呼び、戦いました。

 

けれども、私達はこの聖書の箇所を使い、すぐに神の名を借りて、聖なる戦いだ、聖戦だといって自分の争いの根拠としてはなりません。

 

この人類の歴史上、「聖なる戦いだ」と語ったり、

 

または「これは正義の鉄槌である」いい、幾度となく争い・戦争が行われてきました。

 

しかし、それによってどれだけ多くの人々が犠牲になり、世界が混乱したでしょうか。

 


私達、キリスト教徒も歴史上、神の名を語り、多くの負の遺産を残したことは確かです。

 

私達は、その負の遺産を知りうる者としての証し人、でもあります。

 

ですから、そんな負の遺産も知りえる私達だからこそ、キリスト教社会が犯してきた過ちを認め

 

また自分自身の行いを反省し悔い改め、まず聖書の御言葉を生きた言葉として受け入れ、神の栄光を知り生活すれば必ず、そこには和解が生まれ、そして他者にその栄光を分け与えることができるのです。

 

そして、どんな苦難にあっても、自暴自棄にならず、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共になくことができるはず。

 

神は、私達を『神の民』という運動体の中に引き入れ、年齢、人種、性別関係なく神の栄光を表すために、証しするようこの世界に召しだしておられるのです。

 

あなたの信仰の証しは、個人的な信仰で終わり、あなたで終わりなのではなく、ダビデの証しと同じように、未来へとそして希望へと動いていく。

 

そう、私達の信仰の証しが未来へと神の希望へと繋がる原動力になるのです。

 

そう、あなたが聖書の御言葉を生きた言葉としたときすでにあなたは救われているのです。父と子と聖霊によって祝福されているのです。

 

それをあなたは信じますか?という事。

 

私の学生寮の物語には続きがあります。

 

廃寮が決まってから4年後、同じクリスチャンの方々の尽力によって寮は存続し、現在は改修工事も行われ綺麗な寮として生まれ変わりそして苦学生を助ける寮としての働きを担っています。

そしてキリスト教精神が培われた学生達が社会へと巣立っていっています。

今年もすべての学生が国家公務員・大企業に就職し、また法科大学に合格し羽ばたいていきました。

 

これからも私達にはそしてあなたには苦難が訪れることでしょう。

 

しかし、そんなときこそ「すでにイエス・キリストの十字架と復活によって救われていると信じて、苦難に耐え忍びたい。

 

そのような信仰が与えられるよう神に祈りそして御言葉を心の支えにしていきたい。

 

あなたの心の支えになる御言葉なんでしょうか。それを是非今・思い返して、そしてそれを生きた言葉として心に受け入れて下さい。

 

私たちはこの事を、心に刻みつつ今週も歩んでいきましょう。

 

お祈りします。

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