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霊に燃える 2011年3月13日

おはようございます!

まずはじめに宮城県沖で起こった大地震と津波によって被災された・犠牲になられた方のために哀悼の意を表し、すこし皆さんで黙祷いたしましょう!

<黙想の時を持つ>

今回の地震で仙台富沢にナザレン教会があり、そこの阿部先生、、私の後輩でもあるんですが、なかなか連絡がつきませんでした。

けれども昨日の午後になってなんとか第三者経由で連絡がつきました。

教会も先生も無事との事ですが、まだまだ不安な状態・苦しい避難生活が続いて言います。

東方地方を中心に東京の方もだいぶ大きな地震で被害があるようですが、今回の地震に本当に大きな衝撃と共に悲しみを覚えます。


さて先週の灰の水曜日から受難節が始まりましたが、このイースターまでの期間は節制、祈り、施しなどの慈善を心がけることが通常に増して求められる期間となります。

私達はこの受難節にあって、そして今日本が災害に見舞われているからこそ、神との関係を強めそして、私達の信仰者同士の助け合いも強めてまいりましょう。



昨日は地震の速報を聞き、電話は全く繋がりませんでしたから私の友人たちの安否・ナザレン教会の安否などをインターネットを使った情報収集に心がけていました。

阿部先生の情報や教会の情報もインターネットを介して知る事ができました。

そして他のナザレンの先生や外国との連絡も取る事が出来ました。

これからは電話回線だけでなく、インターネット回線を使う緊急ホットライン網も構築する必要があると知らされました。

また私も人間で昨日は地震の事柄に、意気消沈した部分は大いにありますが、しかしそんなときに、妻から「自分のすべきことをするべきでは?」と言われ、ハッと思わされました。

まさにルターの言葉

「明日、終末が来ようが今日リンゴの木を植える」



地震の報道を見て、私たちがすべきことは、「意気消沈して、食べない事ではなく、彼らの為に祈るため、そして私たちにできる事を考えるために元気をつけるために食する事であり、

経済が活発になるように買い物する事であり、動く事なんだと思いました。

私一人ではやはりパニックを起こしていないようで起していた。

だからこそそこに信頼のおける妻からのひと言があり、その事を再確認しました。

そして私達人間全体がパニックに陥るときにこそ、キリスト者は主の御言葉を聞き・与えられているんだと思います。

昨年、チリ落盤事故がありました。

彼らがなぜあの長期間、閉鎖されたそして過酷な中何カ月も生き長られたのかというと、御言葉に聴き、祈りがあったからだそうです。

私達もこんな時だからこそ、私達人間全体がパニックに陥るときにこそ、キリスト者は主の御言葉を聞き・与えられている事を知りましょう!

今日の御言葉の箇所はまさにそう。

ローマ12章11~12節。

<ローマ12章11~12節を読む>

これは私が高校時代に受け取った御言葉でもあり、私はこの言葉に救われて今の自分があると信じています。


皆さんにもそれぞれ与えられた御言葉があるんだろうと思います。
ですからあなたがいろんな状況に遭遇し、パニックになりそうな、意気消沈しそうなときにこそ御言葉をつかんでいって欲しいと思います。



先週はナザレン64回目の大年会が行われましたが、財政的も教勢的にも大変厳しいデータが発表されました。

これまでにない年会の雰囲気だったと私は思います。

けれども、だからと言って私たちは

「ああそうですか!それは大変ですね?」

とそれをただただ傍観するだけでいいんでしょうか?


いいえ、そうじゃない!

私達、人間の愛によって私たちはいくら助け合い・慰め合ってもそれは長続きはしない。

人間の愛は、熱く・冷めやすいと先日メッセージでお話ししました。

では私たちはどうすればいいのか?


それは私たちの内に、キリストを住まわせる事であり、神の愛を住まわせる事が必要なんです。

私達にとってこのイエス・キリストの福音を伝える、イエスキリストの十字架と復活の喜びを告げるこの聖書の御言葉と言うのは、私にそしてあなたにはない、、発想できないものです。

いいですか?

聖書の御言葉というのは、私にもそしてあなたのうちにもない事柄を伝えているんです。
まさに今日の御言葉はそうですよね。

私達が何か大きな障害にぶつかった、、、そして厳しい現実を突き付けられた、、そんなときに直面して私たちはなんて声を掛けていいのかわかりません。

けれども、聖書は違う。御言葉は違う。

主は私たちに、御言葉を伝える権威を与えてくださっている。

私達はその権威に対してあぐらをかいていてはいけません。

私達は自分ではない、あなたではない、私がそしてあなたが思いもしない、自分では行わない、知らないものをこの厳しい時だからこそ御言葉を主張すべではないでしょうか?

こんなときだからこそ、御言葉に耳を傾け、祈り、賛美をささげる事が重要なんではないでしょうか?

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りなさい」

これは、私にもあなたの心の中にもないものです。けれども、こうして神が主が私たちにその権威を与えてくださっている。

だったら私たちはこの御言葉をこのときだからこそ、主張しようではありませんか?

意気消沈している、現状に苦しんでいる、悲惨な現状を目の当たりにされているからこそ主張しようではありませんか?

私達の希望は何であったのか?

望みは何であったのか?

それはローマ8章25節~26節にはなんと書いてあったか?

<ローマ8章25節~26節を読む>

そう、私たちは目に見えない希望を見つめ、そしてそれを信じ、与えられているのですから、目に見えてしまう厳しい現状があるこの時にこそ、目に見えない希望により頼み、み言葉を行動に出す必要があるんです。

この「霊に燃える」という御言葉、、、、これは私たち自身から出るのではなく、イエス・キリストの十字架と復活の福音から出て私達もそれによって燃える事ができるのです。

主の霊に燃えるとき、私たちは良心や確信というものを基礎づけすることができる。

この霊というのは、ギリシャ語でペネウマと言います。

霊というのはよく例えられるのが、風や息吹とかにも例えられる。

聖霊の息吹など、、、

あるキリスト者の中でこんなエピソードを聞いたことがあります。

ある人が車の助手席に乗ろうとした。

するとあるクリスチャンの人が

「あなたの心に平安、そして神の御心かどうか、、、それを確かめて乗って」

と言われて、助手席には乗らなかったという話。

また極端な話になると、

今日のご飯はマクドナルドだけど、「ビッグマックにしようか、他のハンバーガーにしようか、、どちらが神の御心であるのか」

というエピソードまである。

私達が主の御心を知り、霊に燃えるというときは、もちろんこんな時ではありません。

私達は生きていますが、だからと言ってすべて主の霊に、、つまり主の息吹が私たちの信仰に吹き続けているのではない。

皆さん、自分の体で考えてみてください。

もし、あなたの体に風が吹き続けたらどうでしょう。

最初はよくてもあなたの体温を奪い去り、風が吹き放題のところはあるときには暴風になるかもしれません。

風というのはそんなものではない。

伝道の書。新共同訳でのコヘレトの言葉になんと記されているでしょうか。

<3章1節~11節を読む>

その大事な時にこそ、あなたにとって神が重要だと思うときに風は吹くんですよ。

風は私たちにとって重要です。

そして風は、植物に実りを与えてくれるのに必要ですし、天気の移り変わりにも重要なように私たちにとって必要なものです。

それが神の霊の息吹、、、であればなおそうです。

ここで言われる霊、、、ギリシャ語でペネウマと言われる霊とは、神であり、イエス・キリストであり、聖霊の三位一体の聖霊です。


では、私たちにとってその霊に燃えるときというのはいつなのか?

それは、、あなたがこの時代に生きているという事。
言い換えれば、この時代に生きているあなたの存在は必然であるという事。

つまり、この時代に私がそしてあなたが生きている事を本当の意味で知るとき、私たちは霊に燃えるのです。


つまり、イエス・キリストの十字架と復活によって私たちが信仰に生きている事実、そしてその「あなたの罪や赦された」という福音によって生き、希望を見出すとき私たちは、この時代に仕えるんです!

この時代から逃げるのではなく、主イエス・キリストの十字架と復活の希望をもってこの時代に真剣に生き、主の霊に支えられ、主の風に吹かれて、勢いをましてそして仕えるんです!

そうつまり、霊に燃えるんです!

あなたがこの時代に主の十字架と復活の福音をぐっとつかもうとするとき、そのときに主の霊はあなたに吹くんです。

それは年齢・性別関係ない。

御言葉にあるように神がそなえてくださった時に、そしてあなたにあった・その時に何度も何度も吹くんですよ!!

この時代に生きるとき、、そしてこの瞬間を生きるとき危機が私たちの方向に迫ってくる。

けれどもだからこそ、私たちはその主の聖霊の支えられて、燃えて飛び込めるんです!

私達キリスト者は、現状があるからこそ、そして危機だからこそ飛び込むんです。

そう、飛び込みなさい!! 主が私、あなたと共におられるんだから!



この世においては批判が飛ぶでしょう。。私達の今ある現実が、希望を持とうとする私たちに「そんな見えない希望を信じてどうするんだ!」という批判が飛ぶでしょう。

けれども私たちは尚、その批判的な中に迫るんです!!


私達がその主イエス・キリストの十字架と復活の恵みにそして福音に触れるとき、まさに本当に意味で他者に仕える事が出来き、時代に仕える事が出来るのです。

そしてその事柄が、実は、、、時代にふさわしくなっていくんですよ。

私は今回の年会は大変厳しい状況があると冒頭で言いました。

そして先週の地震において、それはもっとこのナザレン教会においても厳しいときとなっていると思います。

そんなとき、私は今回の年会で、ナザレンの委員会の3つの委員会の委員になる事になりました。

ひとつは厚生部、、、ナザレンの資産の7割がこの厚生部の資金です。

しかし、ナザレンの財政は右肩下がり、、、けれども年金者は増えていく。

大変なジレンマです。この4年間でどう改革をしていけばよいのか?

本当の意味で大変ときとなりました。私はその厚生の書記を務めさせていただきます。

そして2つめはJNCM(ナザレン国際援助委員会)のメンバーです。

今、世界では、そして日本においても非常に災害が多くなってきている。その中でどうナザレンが対応していけばいいのかが今問われています。

日本ナザレンはこれまで世界とほとんど関わりをもってきませんでした。今そのツケが回ってきています。


そして3つめは社会委員会。

皆さんは社会委員会がどのような働きをしているのかご存知でしょうか?



これが現状です。今回の地震などでもわかるように、、情報をいち早くもらうには、国内でも確固たる支援や啓蒙などネットワークの構築が、、つまり信頼関係が必要です。

そしてまず皆さんの信徒1人1人への理解が必要であるし、社会の動向に一番機敏な学生たちと連携する必要性が本当にあるんです。



これからのナザレンにとっては非常に厳しい時代。

なんで私にこの厳しい時代に役が回ってきたのかな~と思うけれど、、、

けれどもしかし、だからといって私は失望してはいません。

なぜなら、私の信仰のうちには主イエス・キリストが住んでくださり、見えない希望をもっているから!

皆さんもそうであるはずです!



今日の御言葉にあるローマ12章12節にある「望みを抱いて喜び」、、、この喜びというのは、

そこに望みがないのに、喜びを持つのではない!

神を私たちは認識し、そして見えない希望を信仰によって見るからこそ喜び、満足するんです。

そう、まさに希望をいだいた喜びというのは神への希望なんですよ。
それは全く滅びをもたらす事のない希望。

絶対に滅びをもたらす事のない希望そのものなんです。

だからこそ、、、滅びをもたらす事のない希望を私たちは持つからこそ私たちは患難にたえれるんです。



希望を見出さないのに患難は耐えられない。

私はこの時代にいき、存在する事に誇りをもって主にまず仕え、家族に仕え、そしてこの時代に仕えたい。

まず私やあなたの中にはない、想像できない、発想しない、この聖書の御言葉に耳を傾けていこうではありませんか!

その私たちの一歩が、主イエス・キリストを信じ、神を信じ、聖霊を信じ、私たちの霊が燃える事柄につながるのです。

私達キリスト者はこの時代に生きる事を勇気をもって歩んでいきましょう。

主が、わたしのそしてあなたの、あなたの心に住んでくださっているのですから。

祈りましょう!!


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