花園教会 in 京都

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本当の命に生きる私たち (父の日礼拝メッセージより)

父の日の礼拝メッセージより

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皆さん、おはようございます。

今日は、世間でもテレビでも盛んに大きく宣伝されていますが、今日は父の日です。

この父の日は、教会においても重要な日となります。

現代の日本においてはこの父の日は、なにやらネクタイや壮年グッズを売るための商業的なものとなっていますが、元々は教会から始まった事柄です。

それは1910年のアメリカ・ワシントン州にある教会で行われたとても小さい出来事でした。

その教会の教会員だったジョン・ブルース.ドット夫人という方が、彼女を男手1つで自分をそだててくれた父の事を、父の誕生月の6月に父親に感謝し覚える礼拝を持ってほしいとその教会の牧師先生に依頼したことから始まった。

このように母の日を始めとして父の日もイエス・キリストから習う感謝の気持ちから来ているという事は、同じキリスト者でもある私たちにとっても大変嬉しい事ですし、私たちにとっても大変励まされます。

キリスト者というのはイエスがマタイ5章13節でいわれているように私たちは地の塩であり世の光なのです。

つまり私たちはこの世界においての塩、つまりどんな料理にも必要な味気を出すための塩のように、言葉・行動においても他者や社会において必要な存在であり、そして、この世界の人々の前においても、この世界を輝かす光であると主はこう言われます。

けれども私たちは主イエスからこう言われると、いつもなにか大きな事・人に大きく役に立つこと、そしてたくさんの人を集めて何かこの社会に対してしなければならないと感じてしまう。

そして、自分でそうで「なければならない」膨らませたイメージによって、押し潰されそうになり、「そんな事は自分はできない」と勝手に諦めてしまう。

けれども、それは違う。

私たちはときに、自分勝手に想像した、またイメージした事柄をそれがあたかも真実であるかのように、自分が作り出した幻想によって悩み苦しむのです。

自分で勝手に想像したのに、その想像によって勝手に苦しむ。

けれどもそんなときにこそ、あなたの周りにいる、もしくはこれまでの信仰の先輩、そして弟子やパウロから始まり、先達の信仰者たちの姿を見たり、伝記などを読んでみてください。

なぜなら、そのように想像して苦しんでいるのは実はあなた一人ではないから。

実はみんなそうなのです。

けれども、そんなときに主イエスに出会ったときには人は変わって行くのです。

そう態度や行動に自然と変化が伴ってくる。

それはなぜか。

それはその信仰者が神の真実に触れたから。

そう、それはつまり、それまでは自分の考えた・幻想の中で生きてきたけれども、
主イエスに出会ったことによって、信仰によってのみ生き、神によって自分は動かされていると知る事ができたから。

まさにその意味で今日の父の日というのも同じではないでしょうか。

ジョン・ブルース.ドット夫人は今のように世界で父の日が祝われるなんて事は考えもしなかったでしょう。

彼女にあったのはただ一つ。父に感謝したいという気持ちだけ。

そしてそのような気持ちになった背景には「主への感謝がある」
ここに神の真実を知る要素があるのではないでしょうか。

そしてその神への感謝は、父へ感謝を与え、そして父への感謝の礼拝を教会で始めた事が、100年後の今では世界各国で祝われている。

この事柄は私たちキリスト者に勇気を与えてくれます。

それは私たちが地の塩になる事も、世の光になる事もまず、「主イエスを信じる」という事から始まるんだという事を。

私たちはまず何か大きな事を始めるのではありません。

そうではなくて、まず「主イエスを信じる」事から初めて行く事によって、

そこに神の真実が現れて生き、どんどんどんどんそれは広がっていくのです。

この父への感謝の広がりは、まさにそう言えるのであり、地の塩として世の光として広がっていった一つの大きな例であると思います。


ここで私は皆さんに質問したい。

それは私たちの信仰とは一体なんであるのかというと言うこと。


私たちの信仰というのは、神の、そして聖書のみ言葉によって支えられています。

そして信仰の価値とは、神が、価値を見出すところに存在するということです。

それは逆にいえば、信仰とは、人間が求めるもの、人間が欲する価値・富やお金・権力などから言えば、全くの価値のないもの。

先ほどの父の日の例えでいえば、信仰によって感謝が生まれた。

けれどもこの感謝の価値はと言うと、これは人間の欲する価値・例えば・富やお金・権力、性的な欲求から言えば何の価値もないものです。

もしこの感謝する事が、人間的な価値において評価・そして価値が高いのであれば100年前までとは言わず、もっと前から世界各地で、そして多くの人々の間で父の日というのは実現されていたはずです。

けれども実際には、この父に対する感謝は、それはひとつの教会、ひとりの女性から始まった。

この聖書の御言葉において「感謝」と言う言葉は新改訳聖書では153 新共同訳では187箇所でてくるのですが、

その中でも1テサロニケ5章16節の

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

という御言葉は私たちキリスト者になぜ感謝するのかという答えを教えてくれるし、感謝するという行動へと駆り立ててくれます。

「父へ感謝をしたい」と思ったトッド夫人もまさにまず神の・聖書の御言葉から「感謝」する事への本当の価値を知ったのです。


聖書の御言葉というのは、人間的価値から見れば、全くの無価値のものです。

これが命の糧、自分の人生にましてや命に関ることなのかと、御言葉に出会っていない方はそういわれるかもしれない。

そして私たちの信仰を否定するかもしれない。

「信仰を持ったって実際あなたは苦労しているだけじゃないか」
と。

もし私たちの信仰が、この世にあって人間的に価値のあるもの、

例えば、この信仰をもっていれば人はどうであれ自分は安泰だ・安心だ、
権力も地位も与えられる、

自分は完全・完璧だというものが信仰だと信じるのならば、

「信仰を持ったって実際あなたは苦労しているだけじゃないか」

という言葉に、反論する事はできません。なぜなら苦労しているということは権力も地位もなく、完全・完璧ではないということを示しているから。


けれども、私たちは、私たちの信仰において、私たちが信じる神がどのような方をこの世に送られたのかを知っています。

私たちの知っているイエスはどういう人物だったか?

それは、あの十字架の出来事において、人々は、「他人を救ったのだからもし神の子メシアで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ!」と罵倒した、

けれどもイエスはその人々のために「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

と人々のために、

そして世界のために、罪深い私たちのために執り成しの祈りをし、死なれたお方。

そしてその3日後には、イエスが復活されたことによって、私たちは究極的なもの、限界に達するもの、恐怖するものと考えていた「死」、

その「死」、「死ぬこと」ですら、神の勝利の前には全く力を持たず、逆に神を讃える勝利の出来事でしかなかった。

そう私たちはそのイエスをキリストとし主・神として信仰している。

つまり、私たちは本当の価値を知る事ができている。

そう私たちは、十字架と復活の出来事を通して本当の価値を知る事ができる。

これはパウロが語った22・23節の御言葉。

「すべての人は、罪を犯したので、神から栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」


私たちは、私たちの信仰を否定してくる人に対してはこう言ってあげれば良いのです。

「私もイエス・キリストに出会うまではあなたと同じだった。

けれども主に出会い、御言葉に出会い、私の為に祈っておられる主イエス・キリストに出会った。

人間の価値では、到底わからない、神によっての価値を私は与えられ、神によって正しいものとされました。

ですからあなたにも主の恵みが降り注いでいる事に気づけるようお祈りしていきたい」
と。


あなたは自分の信仰をどうとらえておられるでしょうか?


以前ある方が私にこう質問されました。

それは
「イエス・キリストを心に据えて信仰するとはどういうことかですか?」と

この質問に対しての答えはとても簡単な事です。

それは「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」と言うことを信じるということ。
これだけ。

このたったひと言。

ある方が、キリスト教のイエスの教えは複雑で・わかりづらいし、意味がわからないと言われた方がおられました。

でもそうでしょうか?

「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」

これは複雑ですか?

シンプルじゃないでしょうか

分かりづらいですか

完結しているように思いますが。

めちゃくちゃでシンプルで簡単なことではないでしょうか。

いやいや。。それが実はこの「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」という言葉はなかなか理解できないのが私たちなのです。


そう、実はこのイエス・キリストの教えや福音・神の恵みの理解を難しくしているのはイエスでもなく、聖書でもなく、御言葉でもない。

実は、私たち自身が難しくしているんです。

それは私たちの中に、疑い・恨み・憎しみ・嫉妬・嫌悪・否定・差別など様々な思いのすべてが、このとてもシンプルな神からの福音を難しくしてしまっている。

私たちは自分の育ちや環境、学歴、職業、生活、年収、容姿、老いというこの社会的な取り巻きの中にいるからこそ、純粋な目や耳や肌で御言葉を感じることが非常に難しくなってしまっているのです。

つまり、私たちは育ちや環境、学歴、職業、生活、年収、容姿、老いというのをシャッターに例えるならば、

私たちは自分の心に自然とシャッターを何十も作って、神の福音・恵みという光をシャットアウトしてしまっているのです。

そんな状態で、イエスの教えがわからない・複雑で意味が分からないという。

それは当たり前のことなのかもしれない。

だって自分からシャッターを閉じているのに、どうやったらわかるのでしょう。


ですから私たちはまずは、「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」

という事の本当の意味・価値を知るためには、自分の何十も重なったシャッターを開いていく必要があるのです。

それにはどうすればよいのか。

だからこそ、私たちには聖書の御言葉があり、そして礼拝のメッセージがあるんです。

私たちは御言葉・メッセージによって、そして徐々に徐々に自分の作ったシャッターを開けていくことができます。

この御堂におられる方で、特に洗礼を受けられた方は、自分に合った聖書の御言葉・聖句を持っているのではないでしょうか。

私ならローマ書12章11節「勤勉で怠らず霊にも主に仕えなさい」という御言葉。

私はいつもこの御言葉を胸にしまっています。

もし、この御堂に集まっておられる中で、自分にはこの御言葉だという御言葉がないのであれば、是非自分の御言葉をこの聖書の中から見つけ出してほしいと思います。

もし自分で見つからないのであれば、有名な御言葉集を読んでそこから手にしてもいいですし、人にどんな御言葉あるか聞いたっていい。

重要なのはあなたの心のシャッターを空けることなのですから、そのためにまず御言葉を受け取ってほしいのです。

決まった御言葉なんかはありません。

その受け取った御言葉があなたの心のシャッターを開ける原動力となるのです。

そうつまりそのあなたの受けとった御言葉こそが、あなたを喜びとしての悔い改めへと導き、

あなたの罪が赦されているということ、

神があなたを価値ある者としていること

また、正しいものとされていることを知る事ができるのです。


わたしが今そういったことに対して、「御言葉が原動力という事になるなら、なぜ十字架と復活が重要なのか・必要なのか。」
と思われた方もいるかもしれない。

「先生は、御言葉を受け取れとか、十字架と復活を信仰の中心に刻み込みなさいというけど、一体どれがどれなんだ?」と。


私たちは今、こうして聖書を持っています。

そして私たちはこの聖書にある旧約・新約聖書を読むことができます。

イエス・キリストがこの世界に来られるまで、ユダヤ人にとっては旧約聖書のみが御言葉でした。

ユダヤ人たちは旧約聖書にある預言者たちを通してのみの神の御言葉をよりどころにして自分達が救われる事を待ち続けたのですが私たちは違う。

イエス・キリストがこの世界に来られた事によって私たちは御言葉をよりどころとするだけではなく、そのよりどころとなる根拠を知り、神が直接私たちに御言葉を与えてくださっています。


21節~22節にはこうあります。

そう、私たちはイエスがこの世界に来られた事によって、それまでの聖書の御言葉はただの癒しや慰め、神を待ち望むだけの心のよりどころとして受け取るのではなくて、

私たちが御言葉を受け取るときには、

なぜ慰められるのか・なぜ癒されるのかという事の根拠、

そしてすでに神はあなたを神よって価値あるものであることのイエス・キリストを通して教えてくださり、そしてその証拠・約束を私たちに見せてくださったのです。

だから私たちが御言葉を受け取るときにはイエス・キリストを信仰の中心に据えることなのです。

「じゃあ十字架と復活とは何であるのか」


イエス・キリストを信じ、洗礼を受けるときのきっかけというのはそれぞれ違う、みんな違います。

そして洗礼を受けた後、私たちは御言葉を通して信仰を養っていく。

けれども、私たちと言うのはこの世にいる限り、この世界においての様々な苦しみに遭遇する。
貧困であったり、職につけなかったり、失望したり、失恋したり、嫉妬したり、憎しみをもったり、争いが起こったり、死に直面したり・・・

私たちはそうすると、私たちは一度、心のシャッターを空け、神。イエスを主と受け入れたはずなのに、そのようなこの世の苦しみを受ける事によってまたどんどんシャッターを閉じようとしてしまう。

「神なんかいない。神は私を苦しんでいるのに助けてくれない」「そんな神を信じて意味があるのか」と。

私たちはそのようにして一度開いたシャッターを今度は完全に閉めようとする。

けれども、絶対に阻止しようとするのがまさに十字架と復活にある。

25節・26節にはこうあります。ここは新共同訳の方が良いので新共同訳でお読みします。

「神はこのキリストを立て、その血のよって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義が示されたのは、ご自分が正しいかたであることを明らかにし、イエスを信じる者が義となさるためです」

私たちはキリスト者として神を信じる者となったのに、この世界の惑わしや誘惑によって神との関係を閉ざそうとする。

けれどもコレに対して神は、ここで神との関係を閉ざせば滅びしかない、

そうであってはならない、

あなたは滅んではならないと、私たちが閉じようとするシャッターを、閉じさせてなるものかとイエス・キリストの十字架と復活によって、あなたの心のシャッターが閉じないよう支えとしているのです。

それも私たちが望んでいるのではなく、神の方から一方的に。
私たちは、苦しいから、もうこんな信仰は嫌だから、もう疲れたから閉じたい・もう閉じたいと望む。

けれども神はあなたは滅んではならない。あなたは滅んではならないとイエス・キリストをあなたに送られたのです。


実は私たち・キリスト者はこの世界において苦しい時に、危機的な状況にあるときにこそ、それまで見えなかったものが見えてくるんです。

つまり、希望の光が。。

実は病んだ時、苦しみにあるときにこそ十字架と復活の出来事というのは私たちにとっての大きな癒しとなり勇気となるのです。

勿論、私たちはそんな事をしてまで、苦しみたくないし、そこまで痛い思いや病んでまでして、十字架と復活なんて知りたくないと思う。

けれども、この苦しみや病む事は、イエスを信じなくたって十字架と復活を信じなくたって私たちを襲ってくるのです。

私たちがこの罪ある社会に私たちが存在している限り。そしてそんな苦しみの社会を作った私たちの罪がある限り。

私たちは何か勘違いをしてしまっている。

それは「信仰を持ったからこそ苦しみを受けているんだ」と


でも十字架と復活の出来事というのはそうじゃない。

信仰を持ち、私の罪は赦されたという十字架と復活の出来事を知っているからこそどんな苦しみ・病がきたとしても、それに対処でき、希望が持て勇気が与えられるのです。
   
だからこそ、私は十字架と復活の出来事を、信仰に刻んでほしいと何度何度も語らせていただいています。

イエス・キリストの十字架と復活を信じることなしに、自分自身を心から信じよう、そして人を信じてみようという勇気は与えられません。

私たちは「神がまず私たちを信じた事を十字架と復活の出来事を通して知る事ができるからこそ、本当に心から自分をそして人を信じてみようとすることができるのです。

今あなたは神に対して病んでいるかもしれない。

神なんて信じられないと思っておられるかもしれない。

けれどもあなたにとっての分岐点でもあります。

神の癒し・勇気への分岐点・分かれ道。

是非とも今こそあなたの罪が赦されたことを証明されたイエス・キリストの十字架と復活を信じ歩んでいってみて下さい。

そうすれば必ず神への真理の道が見え、あなたの信仰が癒され、段々と日々自分が新たにされていく事を感じることができるでしょう。

それはまさに第二コリント5章17節の御言葉の実現です。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
ふるいものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

あなたが日々新たにされるか、ここがまさにあなたの正念場・そしてチャンスでもあるのです。

どうぞ、十字架と復活の出来事をしっかりと掴んでください。

信仰に刻んでください。

あなたが十字架と復活を信じていくとき、そのときには必ずイエス・キリストがあなたの信仰に迫ってくる。

そしてあなたは新しくされるのです。

主の祝福が大いにありますように祈ります。

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