来週の日曜日は教会暦からいうと使徒パウロの日です。
皆さんもよくご存知のようにパウロはユダヤ人に述べ伝えられた福音を異邦人、つまり私達に福音をのべ伝えた使徒です。
このパウロがいたからこそ、今私達にイエス・キリストの福音がのべ伝えられています。
そんなパウロの異邦人伝道から始まり、多くの月日が流れそして多くの方々の信仰の継承があるため、こんにちこの京都の花園においてもこうして花園教会が建っているわけです。
そしてそこに通う私達がいます。
皆さんはこうして今日も教会に来られているわけですが、私たちにとって教会とは一体どのような存在なのでしょうか。
皆さん考えたことがあるでしょうか。
パウロはこう語っています。
26節「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。」と。
神は私たちを聖なる者たちとなさいました。
その聖なる私たちには、これまで隠されてきた、秘められてきた計画が明らかにされているとパウロはここで語っています。
それでは、その計画とは一体なんでしょう。
パウロは聖書の中でこう続けています。
27節の後半
「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」
つまり、救われた私たちにすでに心の内にそして私たちの人生のうちに,希望のともしびが、かかげていると言うことなのです。
そしてそんな私たちの内にそして人生に存在する希望のともしびはそこにだけ留まるのでなくすべての人の心をも、ともしていくものであるパウロはここで語っています。
それは28節にあるように
「このキリストをわたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちがこの御言葉を聞いたとき、ハッとしないでしょうか。
私などはこの御言葉を聞くとハッと思わされることがあります。
「それは、ああ俺はできていないな」と。
そう、つまり、御言葉には「あなたはキリストを宣べ伝える者」と書いてある・・・・・。
けれども、自分にはそれができていないと感じるのです。
もしくは、自分の事だけで精一杯であるのに他の人のことを考えることはできないと感じるからかもしれません。
そして私たちはその事を考えると重荷となったりします。
自分なりに頑張ろうと思っても、またキリストを宣べ伝えたいのだけどもそれができない状況におかれている。
このことを学校や家庭や職場でも・それに教会においても経験するかもしれません。
いいえ、もうしているかもしれない。
自分なりに色々試したのに、頑張ったのに、または、なにもしていないと感じる小さな自分がそこにはいる。
皆さんの中にはそんな経験されている方はいらっしゃらないでしょうか。
そんなときに、知り合いや友人や牧師に
「私たちは救われた者であり、この世に派遣されているのです。ですからキリストに生きる私たちを証ししなければならないのです」と言われたらどうでしょう。
友人から、知り合いから、牧師からそんなことを言われたら、
「そんなことはわかってるよ。でも一人じゃ何も出来ないし何も変わらない。」や、「今は自分の事でで精一杯だ。」
と不愉快になったり、反発したり、やる気がなってしまうものです。
今までやってきたのに結果がでなければ、再開することも、容易ではありませんし、自分の事で精一杯であるならば挑戦することも、簡単ではありません。
それどころか、すべてがどうでもよくなり、いやになってしまいます。
そしてしまいには、私たちはクリスチャンであったとしても、聖なる者だとしても失望し、すべてに無関心になり、すべてのことについて疲れてしまうのです。
パウロはどうだったでしょうか、29節を読んでみましょう。
「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」
あの伝道者パウロでさえも、人に宣べ伝えるために労苦しているとここでは語っているのです。
しかし、ここで重要なのは使徒パウロが人に宣べ伝えるために労苦しているという点ではありません。
ここで重要なのはもう一度御言葉を読むと
「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」
とあります。
皆さんにここで質問です。
なぜ私達はパウロが伝道に苦労しているという事を知ることができるのでしょうか。
まあ当たり前の事ですがそれはここに書いてあるからです。
そうパウロが自分で「伝道で苦労している」と書いてあるからです。
そう言い返れば、パウロは苦労している事をちゃんと手紙に正直に告白しているからです。
つまりこれはパウロはこれまでやってきたけど、苦労したと、正直にコロサイの人々に話したからです。
私たちは、結果が伴わない事、恥ずかしいことがあるとすぐ隠そうとします。
「臭いものには蓋をしろ」という言葉のように。
そして、いい結果をもたらすことだけをみんなに自慢しようとします。
皆さん、良く考えてみて下さい。
パウロは使徒として召された存在です。
使徒とは、イエス・キリストから直接伝道しなさいと命令された人々です。
いわゆるイエス・キリストの派遣命令を使命にした人です。
そんな使徒にとって、人々にイエス・キリストを宣べ伝えることは絶対です。
そんな伝道が絶対である使徒が、近況を報告する際普通ならその結果をどう伝えるでしょうか。
この世的に考えるなら、
「今日はこれだけの人が救われました。これだけの人が結果として多くキリストの言葉を聴いて信じたのです。」
と言うはずです。
また、もし結果がよくなかったとしても自分を弁護し、結果を人々に公表せず、良い結果を言おうとするはずです。
どこかの企業のように粉飾決算してでも良い結果を公表しなければと思うはずです。
しかし、パウロは違いました。
自分の事をさらけ出し、こう語ったのです。
「わたしは労苦しています」と。
これはとても勇気のいる事です。
なにせ、イエスから直接派遣命令を受けているにも拘らず「伝道に苦労しているなんて」事を多くの人々に伝えるのですから。
なぜパウロは使徒であるにも拘らずなぜこのような事が言えたのでしょうか!
それは29節の後半にあります。
29節:「このために、わたしは労苦しており、わたしのうちに力強く働く、キリストの力によって闘っています」
つまりパウロは自分の力で行い立つのではなく、キリストの力によって立っていると語っているのです。
パウロは自分がキリストの力によって立っていると確信していたからこそ、正直に自分が苦労している事を語ることができたのでした。
私達はどうでしょうか?
私たちは、クリスチャン・聖なる民であるにも関わらず、自分の力だけを頼ろうとすることがあるのではないでしょうか。
私達は自分の力によって結果が出せなければ、落胆し落ち込みます。
しかし、今日の御言葉にあるように私たちはそうではなく、自分の力で立つのではなく、キリストの力によって立っていることを心に刻みつけようではありませんか。
そして、皆さん今の自分の状態を神に告げてみてください。
私たちも、パウロが「私たちは労苦しています。」言ったように正直に言ってみて下さい。
私達が自分の力で立つのではなくキリストの力に立っていると確信したとき、その後に待っているのは失望ではありません。
神は私達に必要な御言葉を与えて、祝福し、勇気付けてくださるのです
パウロが「わたしのうちに力強く働く、キリストの力によって闘っているのです」といったように。
パウロの前であらわされた神の栄光の希望は、今日、私たちにおいても表されています。
私たちは、栄光の希望を与えられている聖なる者です。
私たちは自分たちの力で立つのではなく、キリストの力によって立つのです。
そうすれば、どんなに労苦していても、イザヤ書40章31節に「主を待ち望む者は新しく力を得、 鷲のように翼をかって上ることができる。 走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
と、あるように私達はキリストの力によって勇気付けられそしてこの世へと派遣され、人々に宣べ伝えることができるのです。
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http://kyotohana.blog.shinobi.jp/Entry/93/メッセージ:私は苦労しています。
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