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私達の心の中には光がある。


聖書箇所: マルコ10章46節~52節

光は私達にとってかけがえのない存在です。

 

そして光は私達の身近に存在しています。

 

私達は光を通してものを見てものをとったり、つかんだり、光の強さによって暑いと感じたり涼しい・寒いと感じる事ができる。

 

もっと大きな視野で考えているならば私達は光によって生かされている。

 

そう例えば太陽の光。

 

私達の住むこの星に太陽の光が届くからこそ、草木は大地に根をはり、そして大地を潤していく。

 

その草木で潤った大地に動物がすみそしてそれを食べて成長していく。

 

私達人間もその潤った草木の果実や野菜、そして成長した動物を食べる事ができるからこそ、今こうして生かされているわけです。

 

光についてこうして振り返って考えてみると、私達はどれほどにこの光を必要としている存在なんだろうかと思います。

 

もしこの世界に光がなかったとしたらそれはとても恐ろしい事です。

 

光がなければ、植物が育つ事はないし、私達が住むこの星も冷え切って私達は住む事ができない。

 

そう光がなければ生物も生き絶え、そして私達人間も生きてはいけない。

 

光は私達にとってそれほどに身近でそして絶対に必要なものです。

 


私は、最近聖書を読んでいて、改めて神の業の凄さに驚かされました。

 

それはもう有名な箇所にして神が私達に示してくださった業の箇所。

 

創世記の1章のこの節。

 

「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」

 

ここは聖書の一番初めに記されているところなので、教会にいけば必ず目にする場所です。

 

わたしにとってもこの箇所はよく知っていたし、暗記だってできるくらいに読んでいる箇所でした。

 

けれども私は、この神の「光あれ」という言葉を当たり前のように読んでいて、

 

「ふーんそうなんだ。神様はそんな事をしたんだ。へえ~それで・・・」という感じでまるで他人事かのように、なんの関心も持たずにごく最近まで読んでいました。

 

でも、この「光あれ」という神の言葉をしみじみ通勤電車の中で味わった時に、ふと思ったのです。

 

ああなんてこの言葉は素敵でそして力強い言葉なんだろうと。

 

私はそれまで聖書を、そこらへんのマンガや小説などの本と同じように「読書」として聖書を読んでいました。

 

ですから、どんなに聖書の中で神が語られた言葉を読んでいてもすべてが他人事だったのです。

 

そんなあるとき私は聖書が、読み物ではないという事に気付かされました。

 

そして、聖書は読破するものでなく、征服するものでもなく、神の言葉をすべて理解するものでもないという事を知らされたのです。

 

そして、ひとつひとつの聖書の言葉をゆっくりそしてじっくりと深く味わった時にそこにある神の深い愛を知ることができたのでした。

 

「光あれ」

 

この言葉はとても短い言葉です。

 

ですが、この短い言葉の中に神の私達への愛が力強く語られています。

 

神の「光あれ」という言葉があったからこそ私達は今見ることができるのであり、温かさや寒さを感じることができるのであり、そして食べる事ができるのであり、今こうして生きることができているのです。

 

そしてこの「光あれ」という神の言葉が、私達人間が造られる前に言われた事がこれまたすごい。

 

それはなぜか?

 


私達人間は何か作ろうとするとき、

 

「まあとりあえず、まずはじめてみよう」

 

という見切り発車からはじめ、そしてとりあえず作っていくと、駄目な点がでてくるので、そこに反省点を取りあげてそして修正を加えていき作り上げていきます。

 

でも神様は違う。

 

人間をとりあえず作ってみたけれども、この環境では人間は生きていけないみたいだから、これを反省して光を作ろうと言われたのではないのです。

 

神は私達を造る前にすでに私達の事を思いすべてを供えてくださったのです。

 

皆さん、これはとても凄い事だと思いませんか?

 

神は私達人間を創造する前から私達の事を思いそしてそのためにすべてを準備してくださっていたのです。

 

私の為に、そしてそうあなたのために。

 


でも私達は、それが身近にありすぎるとそして当たり前すぎるとそれは凄い事とは感じなくなるし、神に感謝もしなくなるようです。

 

そしてしまいには自分の身に苦難が訪れると「神は私になにもしてくれない!」と私達は神を罵り、

 

そして最終的には神の存在をも否定し、そして

 

「すべて自分がやってきた」

 

「自分だけの力で今までやってきたから今があるんだと!」

 

とおごっていきそして自分、自分、すべてが自分となり、いつしか他者を傷つけていく。

 

私はこの事を考えるとこれが原罪なんだな~と思います。

 

これは私の心の内にもあるし、そして皆さんにもそしてあなたの心の内にあるのです。

 

そう、あなたの中に罪は存在するのです。

そして私達の内にある罪はサタン・悪魔の誘惑によって益々増長されていきます。

 

その増長された罪は、憎しみを生みそして他者を傷つけ、自分をも破滅へと導いていき、私達の体をむしばんでいきます。

 


でも私達はだからと言って落胆してはいけません。

 

どうぞ、思い起こしてください。

 

私は、そして皆さんはそしてあなたはこの世の人とは全く違うものをすでにもっているし知っているではありませんか?

 

そうそれは、神様の短くしてそして奥深く、私達への絶大なる愛である

 

「光あれ!」

 

という神の福音の言葉を。

 

そしてイエス・キリストの十字架と復活と言う現実たる事実を。

 

そしてそのイエス・キリストを信じますという告白を。

 

これらの神の福音は、私達にとって唯一にして且つ最大の武器なのです。

 

これがイエス・キリストを信じる私達の大きな強みであり、この世においてのそして最大の敵である死に対しての最大の武器であり、勝利なのです。

 

その意味で、今日朗読したマルコの福音書にでてきる目の見えないパルティマイとイエスとのやり取りは、私達クリスチャンにとっては福音をそして信仰の意味を再確認させてくれる箇所であり、

 

また、まだ洗礼を受けてない方々にとっては、

 

「イエス・キリストを信じたい」と思わせるようなそんな信仰の力強さを知る事のできる箇所と言っていいでしょう。

 

このパルティマイという人物は目の見えない人であったと聖書には記されています。

 

私達、目の見えている者にとって目の見えない人の苦労は想像がつかないくらいに大変なものだと思います。

 

勿論その全貌はわからないけれども、当たり前の事が当たり前でなくなったときの事を経験している人であるならば、その目の見えない方々の苦労が少しは垣間見れるかもしれません。

 


目の見えるものにとって、想像もつかないような苦労をされている目の見えない方々の目が、見えるようになる。

 

これはどれほどに凄いことなのか。

 

私達は実体験ではそのような現場に居合わせる機会がないために想像する事ができませんが、その様子この聖書から私達は知ることができます。

 


この目の見えないパルティマイという人物、道端で物乞いをしているときに、

 

イエスがここを通られる事を知ると、声いっぱいにイエスに対して叫んだとあります。

 

「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください」と。

 

何度も何度もイエスに対して叫んだというのです。

 

多くの人々が叱って黙らせようとしてもそれでもパルティマイは叫び続けたのでした。

 

この多くの人々が彼を叱りつけて黙らせようとするくらいですから、それはもうこのパルティマイはイエスに会うのに必死で大きな声で叫びまくったのでしょう。

 

そんな様子がここから浮かび上がってきます。

 

これまで目の見えないことで苦労をしてきたパルティマイにとって、イエスという人物はまさに自分がしがみ付いて離さないくらいに求めていた人だったのでしょう。

 

そうパルティマイにとってイエスこそが光であったのです。

 

当時の社会で、障害者になる、また障害者として生まれるというのは今の社会よりももっともっと難しいものでした。

 

なぜなら障害者になったということ事態がすぐに死に直結するからです。

 

障害者になるという事は災いがその子に降りかかったと当時信じられていたし、親も家族、親戚もそう思っていたのです。

 

そして誰も障害者に手を差し向けない・助けない社会でした。

 

また障害者になる事自体が罪だ言われ、社会から除外されたのです。

 

そんな障害者にとって行くべき道はただ一つ。

 

それは物乞いになるという事。それが唯一の選択肢だったのです。

 

これはまさに生き地獄でしょう。

 

勿論、目が見えないという身体的なショックも計り知れないものだと思います。

 

でもそれ以上に、それを取り巻く人間社会自体が腐っていた。

 

障害者を人間社会から除外し、この世に存在してはいけないようなものして扱う。

 

そんなむごい現実を人間社会がパルティマイに与えていたのです。

 


私達は、よく

 

「なぜ神はこんな事をするのか。なんでこんな状況になってしまうのか」と言ったりまた状況に遭遇します。

 

でもよくよく考え、聖書から私達人間の内なる所をヒモどいてみると、私人間自体がそのような状況を作っているのに気がつくでしょう。

 

それは、私達の内には日常生活において不安を抱える事がひとつにあります。

 

最初は小さい不安だけれど、私達はその不安を持ち続けていくと私達の心でその不安はどんどん成長していき、そしてその不安は自分自身では制御しきれないくらいに大きくしていってしまうのです。

 

神が不安という暗闇を作り出すのではなく、私達自身が不安というものを作り出し、大きくしていく。

 

そしてそれを持ち続けると恐ろしい暗黒として変わっていってしまうのです。

 

それは友人関係や夫婦関係、そして家族の中にでも起こりえます。

 

友人に対して、「あの人は僕の事を私の事を、よく思っていないのでは」という不安が生まれれば、その不安はどんどん成長していき、最後には友人が恐怖の対象へと変わっていくのです。

 

そしてそこから得る結論は、「もうこいつは信じられない」というものになってしまい友人を傷つけたり事件を起こしたりしてしまう。

 

また夫婦において考えてみるならば、

 

「あいつは、俺にそして私に隠れて何かやっているのでは?」

 

という不安が生まれれば、その不安は、相手を疑いへと導く。

 

そしてそこから得る結論は、相手を支配しようという家庭内暴力につながっていったり、そして夫婦関係を崩壊させていくのです。

 

また子どもを持った親が

 

「これから社会はどうなっていくんだろう」という不安を持つならば、

 

その不安は、将来への希望を見えないようにしてしまいそして絶望を生ませるのです。

 

そして、

「社会が不安定でこの家族が路頭に迷うならばその前に、みんな殺して自分も死のう」

 

と無理心中を考え、そして実行してしまう。

 

また、ある国が

 

「あの国はわたしの国をよく思っていない」という不安を持つならば、

 

「攻められる前に攻めなければ」、戦争をはじめるのです。

 

これらの話は大げさな話でも空想物語でもありません。

 

これは現実世界ですでに起こってしまっている出来事なのです。

 

私達は、不安と言う暗闇を作り出しそしてその不安によって人と人の間に境界線を作り、そして国は国とで国境をつくる。

 

そしてひとたびその境界線を越えたら争いがそして戦争が行なわれる。

 

これが私達の今の姿です。他人事ではありません。私達の不安こそが今の社会をそして世界を作ってしまっているのです。

 

なのに私達はそれが自分の身に降りかかり自分の心が暗黒へと変わると

 

「なぜ、神は何もしてくれないんだろう」

というのです。

 

でも、思い出してほしい。

 

神は一番初めに何を造られたのでしょうか。

 

そう神は光を造られたではありませんか!


私達はその事実を、不安と言う暗闇で多い尽くしてしまう故に、その光の存在を忘れてしまっているのです。

 

この2008年も半分以上が過ぎましたがこの2008年だけ見ても残酷な事件、争い、戦争がありました。

 

私達はそのニュースを見ると「なぜ?」と思いますが、これは私達から生まれた不安という暗闇の結果なのです。

 

人はよく事件を起こした犯人、戦争を起こした人々を悪魔と呼びます。

 

でも、カール・バルトという神学者は、こういいました。

 

「悪魔になる人間はいない。人間は悪魔的な存在にはなるが、悪魔ではない」

と。

 

そう私達人間は、悪魔として生まれてくるわけではありません。

 

神は私達を悪魔として作られはしないのです。

 

それはなぜか?

 

それは、神は私達を造られた時にすべてが良いと言われたからです。

 

私達は生まれながらにして悪魔なのではなく、私の中にあるそして皆さんの中にあるそしてあなたの中に不安という暗闇が恐怖の暗黒へと変わっていき、

 

人間を悪魔的な存在にしてしまいそして自分を傷つけ、他者をも傷つけていくのです。


この今日の箇所にでてくるパルティマイもそんな私達が持つ不安以上の不安を持っていたことでしょう。

 

なにせ彼の時代の社会は、障害者は物乞いにしかさせないという時代だったのですから。

 

しかしパルティマイはそんな中にあってもほかの人と違ってました。

 

そう彼は目が見えないにも関わらず何が光であるかを忘れていなかったのです。

 

弟子たちですら忘れてしまっていた光を。

 

今日の聖書箇所の前を少し見てみると、そこには弟子たちがイエスに対して自分を高い地位を置いてくれるように頼む場面がでてきています。

 

この聖書の構成にはいつも私は驚嘆させられるのですが、この対比、皆さんならどう思われるでしょうか。

 

弟子達は高い地位をイエスに願い、一方の物乞いで目の見えないパルティマイは、イエスに「自分を憐れんでください」と願うこの対比を。

 

また弟子達はイエスに高い地位をイエスに願うとき「先生」と英語で言うteacherと呼んだのですが、一方のパルティマイはここでは日本語では「先生」となっていますが原語では「わたしの主」と呼んでいるのです。

 

ここにパルティマイの信仰の深さがうかがえます。

 

弟子達はイエスを先生と呼び、一方の物乞いで目の見えないパルティマイが

イエスをわたしの主と呼んだ。

 

そうパルティマイにとってイエス様に出会うということは彼の人生の中で一番のチャンスだったのです。

 

それはただ目が見えるようにしてもらいたいという事だけではありません。

 

パルティマイが目を見えるようにしてもらってから後に、イエスに従って歩んだという事からもその事がよくわかります。

 

「この私の心のうちにある不安の闇に光をさして取り除いてくださるのはイエス・キリストただ1人しかおられない。」

 

と思ったからこそ、人に邪魔されようが、黙るようねじ付されようが、必死にイエスを求めそして必死に叫んだのです。

 

「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください」と。

 

イエスの近くにいた弟子達は、光を身近で見て感じていたのに当たり前すぎて実は光に気付いていなかった。

 

けれども一方のパルティマイは、目の見えないそして社会で無価値と思われていたけれども、闇を切り裂き、勝利をもたらし愛で包んでくれる優しくそして真実の光を知っていた。

 

この聖書の出来事、あなたは今どう感じられるでしょうか。


あなたの心にはすでに神が光を与えてくださっています。

 

それにあなたは気付けますか?

 

そしてその光が私達の不安や恐れや恐怖を打ち壊し、私達の心にある不安が生み出した境界線を取り除き、神の愛で満たしてくださる事を信じますか?

 

そしてその光がイエス・キリストである事を信じますか?

 


心の扉をコンコンと叩いておられるイエス・キリストの光を迎え入れるのはあなた自身です。

 

クリスチャンである方もそうでない方もどうぞもう一度、イエス・キリストの光を心に迎えそして灯してください。

 

神の光をすでにもっているあなたならば、イエス・キリストの灯を迎え入れたときもっとあなたの心は光り輝きそしてその光に心が暖かくなるはずです。

 

そしてその温かい心はあなたを最高の笑顔に変えそして、友人、家族、夫婦、そして他者を変え、国にひいてはこの星を変えていくはずです。

 

なぜなら私がそしてあなたがこの世に生まれたきた意味は、パルティマイと同じようにイエス・キリストの火に出会い、

 

そして心に灯しイエスに従い、この世の人々にあなたの最高の笑顔を届け、不安に陥っている人々に

「あなたは光をすで持っているんだよ」と気付かせ、

 

そしてイエス・キリストの光を灯してあげるお手伝いをすることにあるのですから。

 

これはこの世にあって何事にも変えがたい大きな喜びです。

私達がその事を思い、この世へとでかけていく時、イエス・キリストは私にそしてあなたにこう語られることでしょう。

 

「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と。

 

皆さんに主の祝福がありますように。

 

祈ります。
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