津和野に153名の長崎・浦上村の方が連れてこられた。(江戸後期~明治2年の間に)
つまり明治に入ろうが、キリシタンに対する迫害はめちゃくちゃすごかったという事になります。
津和野では明治6年のキリシタンに対する高札が撤去されるまでの間に、36名が殉教した。
(この中には5歳の女の子もいる‐飢餓でなくなった。)
また54名が形の上では教えを捨て、63名が信仰を守り抜いた。
その後、津和野ではキリシタン迫害の名残りのものは取り払われた。
寺は取り壊され、池は埋められ、敷地は農地に変わった。
それから20年後、フランス人宣教師ビリヨン神父が津和野を訪れ、殉教者の遺体を探し掘りだし、遺骨を見つけ、ひと山隣りの千人塚に立派な墓石を立てそこに埋め直した。
そこに「信仰の光」と刻んだ記念碑を建てる。
それから長い年月が経ち1939年カトリック教会は乙女峠の土地を買い取り戦後、聖母マリア聖堂を建てた。
これが津和野が殉教地とされる所以である。
ここで重要なのはキリシタンの遺体を掘り起し墓石を立てたのは宣教師だという点だと思う。
教会から三尺牢のパノラマ
近畿地区NYIでプレゼンした【キリシタンについて】の資料
※キリシタン禁教の高札が撤去された後も正式に認められたのはそれから数十年後なんです。だから実際は迫害されていた明治の間の期間は長いんです!!
PR
http://kyotohana.blog.shinobi.jp/Entry/439/津和野-殉教地 研修レポート3:キリシタンの信仰
COMMENT