ある人にとっては良かった一年だったかもしれないし、ある人にとってはやな一年だったかもしれない。
人によって、いろんな一年があったんだと私は思います。
けれども、どんな一年であったとしても、私は、2010年は私にとっても皆さんにとっても大切な年だったと私は思うのです。
それはなぜならこの2010年があるからこそ、この2011年があるのだから。
あるテレビ番組で、ある外国人がこういっていました。
「日本には忘年会というものがあり、その一年の苦労を忘れるために宴会を持つけれども、今年一年あった事を忘れてはいけないと思う。
この一年を継続させていき、次の年に繋げて、経験にしていく事が大切なのでは?」
と。
私は、その外国人の何気ない一言に、本当にそうだなあと思いました。
私たちは嫌な事、苦しい事があったときには勿論、忘れたいと思う。
これは当たり前の事です。
けれども、聖書にはこうあります。
【第一コリント10章13節読む】
この箇所を原文で読むと、ここで言われる「逃れる道」というのが道ではなく、逃れる出口、脱出とも読むことができます。
つまり、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる出口をも備えていてくれるというのです。
今は2010年のその大切さが私たちにはわからないかもしれない。
けれども、人はふと人生を振り返ったときに、そのときの大切さをあとで知ることができるのではないでしょうか。
それは、、、試練はすごくきつくてどうしようもできなかったけれども、それと同時にその試練から逃れる出口を与えてもらったと思える事が出てくるのではないでしょうか。
私にとっては去年は、父から私に牧師のバトンが渡され、牧会と同時にNYIや青年達との集いによって忙しさが大きくなり、疲労もピークになった事もありましたが、
青年達の出会いも祝福であり、そしてそれを支えてくれた妻やそして教会の皆さんの温かい支えがあったと私は感じています。
また妻も昨年は特に例年よりも偏頭痛が大変きつかった。時には子育てもままらないほどに寝込む事も多々ありました。
その重圧はかなりのものだった思うのですが、昨年はそんな中にあってもメンタルケア心理士という資格を取る事ができ、牧師としての新たな形・視野を広げる良い機会・開拓になったと私は思っています。
イザヤ書の55章10節にはこうあります。
【イザヤ書55章10節を読む】
ここの「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ」という箇所、
私たちは主イエス・キリストを信じていく中で、そのときはよくわからないけれども、けれども着実にそして確実、あなたの信仰という土の中に、御言葉や恵みという水は注ぎこまれ、
そしてその水は、あなたの信仰を潤し、根をはらしてくれているのです。
ですから私たちはこの2010年の事を忘れるのではなく、2010年の出来事を私たちのいいえ・・・あなたのステップアップとして今年の2011年をより前進させ、2010年を土台として2011年を過ごしていきたいそう思うのです。
この2011年というのは、ただただ過ぎていくのではなく2010年のステップアップがこの2011年なんです!
ですから、今年もまず「主イエス・キリストの十字架と復活」を信じていっていきましょう!と私は皆さんに伝えたい。
そう、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということ。
週報にもあるように、2010年度の標語は「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」です。
私はこの御言葉にした理由を昨年の教会総会資料にこう書きました。
私たちがいま生きているこの日本の社会には「家族を信じられない」、そして「自分すら信じられない」といった異常とも言うべき状況がどんどん広がっており、それを引き金として事件が引き起こされ、虐待や暴力といった負の連鎖が年々増加していっています。
そんな社会にあって、この御言葉は私たちに神と私の【縦の関係】と、私と家族の【横の関係】をもう一度再確認させてくれる、そして社会に渦巻く負の連鎖を断ち切らせてくれる希望の御言葉です。
つまり、パウロによれば主イエス・キリストを信じる事によって神と私の【縦の関係】が生まれると同時に、私と家族・知人といった【横の関係】も自ずと生まれるということなのです。
負の連鎖は私たちの罪が作り出したものであり、主イエス・キリストはその罪を取り去ってくださる方です。その方を私たちが頼りにし十字架と復活を信じるとき、大きな希望が与えられその希望は家族まで広がっていくのです。
私たちは今年、主イエス・キリストを信じるキリスト者として一層交わりを深め、祈りによって支え合い、主の御言葉によって信仰を養い、益々主の業に励み、主による兄弟姉妹として共に信じあえるそんな光・希望の連鎖を作っていきたいと思います。」と。
つまり、相互理解・共有といった、人間の信頼関係に必ずと言って必要なものはまず主イエス・キリストからはじまる・スタートすることであったのが2010年。
ここから2010年の花園教会は始まって行った。
今年はこの事を踏まえて2011年、花園教会はさらにステップアップしていきたい、そう思うのです。
それではどう、ステップアップしていくのか?
今日与えられた御言葉をみてください。
今日は、それまでキリスト者を迫害していたサウロが、イエスに出会い、回心する有名な箇所です。
サウロは皆さんもよくご存じのようにキリスト教徒を迫害する事に大変熱心でその彼の行動は9章13節・14節や26節にあるようにキリスト者を大変恐怖の中に陥れていました。
けれども、ダマスコにいく途中で、天の光を受け、目が見えなくなってしまった。
そして彼は人に手を引かれてアナニヤという弟子に手を置かれると目からウロコのようなものが取れてまた見えるようになった。
皆さんもよくご存じの箇所ではないでしょうか。
ちなみにここに18節の言葉が、ことわざの「目からウロコ」の原点であり、ここから「目からウロコ」ということわざは来ています。
さて話を戻しますが、
サウロは皆さんもよくご存じのように、その後パウロという名前に変わり、ギリシャ人やローマ人、様々な人々にイエス・キリストの福音を伝えていく大伝道者へとなっていく。
私たちはこの箇所を読むとき、サウロが、復活したイエスに出会い、すぐに回心し、伝道へとむかったように思ってしまいます。
けれども、ホントにそうなのか?
彼は今までやってきたことをすぐ様、放棄してガラッと変えられ、伝道へと言ったのか?
私は少し違うように感じます。
9節を見てみてください。
【9節を読む】
この三日間というのはすごく意味があると私は思います。
勿論、3日間という日数的に考える事もできるけれども、この三日というのはイエスキリストの十字架と復活における期間も3日でした。
つまり、この事を踏まえて考えると、イエスに出会い、イエスを知り、そしてイエスに従って伝道していくまでの期間には、断絶と希望が渦巻いていたのではと、私は思うのです。
言い換えれば、サウロはこの三日間という流れの中で、まずイエス・キリストと出会い、そしてその出会いによって「自分のやってきたことを振り返ってみた」。
まさにここで振り返るということは、、、まさにサウロにとって自分のやってきたことを考えると、
イエスが喜ばれる・主が喜ばれる事とは全く正反対の事を彼はやってきたことをサウロは知ったはず。
つまり、神とサウロとの関係に断絶が生じてしまったと彼は感じたはずです。
一番彼は、神との関係を構築・作り上げていく事は、キリスト者を捕まえる事だと思っていたのに、実は、それが大間違いだった。
この過ちは、自分の力ではどうする事も出来ない。彼はどん底に落とされたと感じたはずです。
けれどもその断絶に手を差し伸べたのがイエスだった。
4節「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか?」
6節、新共同訳でお読みしますが「起きて、町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」
サウロにとってこの三日間というのは本当に葛藤・苦しみのときにあったんだと思います。
自分の信じてきた事が違うんじゃないか?おかしいんじゃないかと思うようになり、
そして事実を知れば知るほど、自分を責めて責めて、そして自分の人生を呪ったかもしれません。
「なぜ、こうなるんだ!」と。
「自分の信じてきたものとはじゃあ、一体なんなんだ!」と。
責めて責めて、悔いて悔いたのかもしれない。
また強く、主・神に対して反発したのかもしれません。
けれども、主はそんな人物を不思議にも選ばれた。
いいえ、これは不思議なんかじゃなく、まさにこれが主のご計画であった。
私たちには不思議としかいいようがない仕方でサウロは導かれたのです。
サウロはこの三日間、、、日数ではない、ある意味絶望という長い長いとき
を過ごした後、復活の光をみたのでした。
まさにサウロは、主に出会い、どん底に陥った時に、何度も何度もこうあの言葉を繰り返したのでしょう。
5節「主よ、あなたはどなたですか?」と。
彼はそんな「主よ、あなたはどなたですか?」とどん底の中で叫んでいた時に復活の光がさしたのです。
彼はそしてその復活の光を信じ、主イエス・キリストから助けを受け、自分のこれから為すことを希望をもって、しかもイエスに出会う前の出来事も踏み台として、
彼はすぐさま異邦人に対して伝道して行ったのです。
ですからパウロのローマ8章24節の御言葉というのは、すごく、彼の実体験を知る、また信仰の真髄を知る事の出来る御言葉なんだと思います。
「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目でみていることを、どうしてさらに望むでしょう。」
サウロは知ったのです。
目に見えないものを信じ、目に見えないものに希望を持つ事こそが一番強いのだと。
私は先日、4人の学生を連れて、、、その中には近畿NYIの会長で五条教会の西川奈々姉も一緒に、大阪・西成・釜ヶ崎に一泊2日で行ってきました。
一日目は、釜ヶ崎の重鎮で昔は日雇い労働者として働き、現在は大学講師・各地の講演会を回っておられる水野阿修羅さんという方から、釜ヶ崎周辺を約2時間歩きながら、釜ヶ崎の歴史から現状・そして課題を聞きました。
そして夜には他の学生や社会人も参加してディスカッションのときを持ち、その後、釜ヶ崎周辺の医療パトロールに約3時間出かけました。
そして朝4時半に起き、5時から炊き出しの準備のために約5000人分の食事作りを行い、帰ってきました。
私は今回のこの1泊2日のボランティア研修で、水野阿修羅さんが言った言葉が非常に心に残りました。
それは、
「コミュニケーション能力とは、人に助けを求める事が出来る人だ」と。
これは私にとって衝撃でした。
私にとってコミュニケーション能力とはいろんな人との調整役を行う事だと思っていたのですが、「「コミュニケーション能力とは、人に助けを求める事」
私にとって本当に衝撃だった。
また少しずつこの時の話は、皆さんにご紹介していきたいと思うのですが、
なぜ近年では、ひきこもり、自殺、路上生活者が若者だけでなく、広く様々な世代で増えてきたのか?
阿修羅さんはこう語っていました。
それは、現代社会は「すべてがお金・権力であると信じている人が多いから」と。
だからこそ、そのお金・権力・地位・立場を失った人は、人に助けを求める!という事は恥であるとして、ひきこもり、自殺、路上生活へと落ちて行ってしまう。
彼はこう説明していました。
まさにすべてがお金・権力である人にとって「人に助けを求める!」という中間の部分がごっそり抜けてしまい、どん底へと一気に落ちてしまう。
つまり死へと直結していってしまう。
私はこの「コミュニケーション能力とは、人に助けを求める事」だと聞いた時、まさにこれこそ、キリスト者の真の姿ではないか!と思いました。
私たちは人に助けを求めるし、そして何より神に助けを求める事が出来る。
この事はなんと幸せな事なんだろう・・・とそのお話を聞いたときに衝撃と同時に、心底・・心の底からそう思いました。
助けを求めるという事は、弱い事ではなく、実は生きるための大きな糧であり、勇気を与えられる事柄だったのです。
そして私たちは、執り成しの祈りに支えられるし、私たちが目に見えないキリストの福音に望みを置き、助けを求める事ができるからこそ、
次の行動することができるし、挫折しても絶望に陥ってもそこから、それを踏み台にしてステップアップしていく・・勇気・行動が沸きあがってくる。
この事がまさに証明されたと私は思いましたし、一番弱いところに働かれるのが主イエス・キリストの福音だなと思いました。
私自身もこうして立っているのは、私というよりは妻が、私の両親に助けを求めた事が大きなきっかけであり、京都に来るという大きな転換でした。
それらの事を考えるとき、今日の聖書に出てくるサウロはまさにそうだったのではないでしょうか?
かれはこの三日の間にどん底から「主に助けを求めた。」
するとそこにアナニアがやってきてサウロの目に手を置き、ウロコのようなものが落ち、かれはそこからサウロのこれまでの行動を踏み台にして、主に委ねて、、、ステップアップしていったのです。
私たちもこの今日の聖書の御言葉に習って「主に助けを求めて」ステップアップしようではありませんか!!
昨年2010年はあなたにとって2011年の踏み台となる年だった。
2010年の目標は、「主による兄弟姉妹として共に信じあえるそんな光・希望の連鎖を作っていきたい」でした。
私たちはこの目標を今年さらに前進させ、主イエス・キリストを信じ、、、十字架と復活の出来事を信じて、今年も共に助け合い・祈り合い・信じ合って、歩んでまいりましょう。
あなたには、助けを求める場所となるここ、花園教会があるのですから。
最後に9章5節~6節をお読みいたします。
【9章5節~6節を読む】
主はあなたをどんな状況においても用い、そしてあなたに勇気と希望をあたえてくださいます。
なぜなら神・主イエス・キリストはあなたと共におられるのですから。
安心していきなさい!
主に栄光があり、あなたの上に平和と平安がこの2011年もありますように。
祈ります。
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