実は、私たちの信仰も同じで、
罪という敵に対して必ず神による勝利があたえられると信じないで、どうやって私たちはその罪に対して本気で戦うことができるのでしょうか。
私たちにとって、十字架と復活によって罪に対して勝利していると信じなければ、私たちには真の希望を見つけ出す事はできません。
けれども私たちの人生、そうあなたの人生は負け試合なんかじゃない!
私たちはこれまでのロマ書でみてきました。
私たちはキリストを信じた時にすでに神の義の中にいる。
「そう勝利の中にいるんです!」と言う事を御言葉は私たちに示してくれています。
私たちは、勝利があると信じるとき、どんな困難に出会おうとも、希望を見出すことができる。
そしてその希望は、人間が与えるような淡い希望ではなく神から来る真実の希望であり、その希望は人を救う力を与えてくれるのです。
ロマ8章24節がまさにそれを語っている通りです。
新共同訳でお読みしますと
「私たちは、このような希望によって救われているのです。」
キリストの十字架と復活における恵みというのは、罪の鎖を断ち切り、打ち砕かれるのです。
けれども、そうは言ってもイエス・キリストがゲッセマネの園で「心は燃えているが、肉体は弱い」といわれたように、私たちは弱い。
そして宗教改革者ルターが言うように「義人にして今まだ罪人」なのです。
そう、こうメッセージしている牧師だって、人間であり、弱い。
だからこそ私もこの7月というは、過去の事が思い出され、ある意味、トラウマとなってしまった。
そして、実はキリスト教にとって重要な役目を負っていたあの聖人でもあるアウグスティヌスでさえ、肉の弱さに苦しんだ一人なのです。
その事についてはアウグスティヌスの「告白」という書に記されていますので興味があればよんでみて下さい。
そう人間誰一人として肉の弱さを持たない特別な人はいないのです。
そして、私たちキリスト者が、私たちが私たちの心にある弱さを認識し受け入れ、また私たちの心が平穏になるのは、人によっては、信仰をもち平安になるには時間が掛かることもあるでしょう。
けれども、時間は掛かるんだからいって、私たちは罪人なんだ、所詮罪人なんだからと、そこに留まってはいけない。
今日の御言葉になんと書いてあるでしょうか。
6章12節「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません」
そう、私たちは、あきらめていけないんですよ。
そう私たちは罪ある自分のまま、そしてこの世界の情欲につかり続けてはいけないのです。
ではどうすればいいのか?
聖書の御言葉はこう続けるのです。
6章13節「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」
そう、パウロは「あなた自身の力で罪と全力で戦え!」と言ったのではありません。
私たちは信仰の戦いというと、自分の力で罪と戦うのかと誤解しますが、そうではなく、「貴方の体を主に捧げなさい!」と言われるのです。
先週、潜伏キリシタンのお話をさせていただきました。
その中、甚三郎というどんな拷問に耐えてやると豪語していた人の話をしました。
けれども激しい拷問に耐える事は難しく、彼は自分の弱さを嘆いた。けれどもそんなときに主の祈りを祈り「我らを試みにあわせずあくより救いたまえ」
と主に祈った。
そうしたら、すっと自分を責めていた心と言うものが解かれ、勇気が与えられた」というのです。
これはまさにこれは甚三郎にとって自分の体を主に捧げた瞬間なのではないだろうかと私は思うのです。
私たちもこの甚三郎と同じように、私たちは信仰者であってもどこかで自分の体で、自分の力で・・・と思っている事があるのではないでしょうか。
そしてだからこそ、そのような人は自分の体と自分の心が清くあるように保とうとする。
信仰者は自分の身を清く・自分の身を高くするために、清められた生活をしなければならない。
祈りに祈らなくてはならない。聖書の御言葉を読みに読まなくてはならない。
・・・このような信仰生活を送ろうとしてしまうのです。
でもちょっと待ってほしい。
勿論、祈りや聖書の御言葉や清い生活を送る事は正しい。
けれども、本当にその信仰・その信仰の中に主イエス・神ご自身が中心におられるんですか?
主イエスが中心と言っていながら、実はいつのまにかどこかで自分、自らが清められ、高められる事が信仰の中心となってしまい、すりかわっていないでしょうか。
主イエス・キリストは例えを通してこういわれます。
マタイ12章43節。
【マタイ12章43節を読む】
私たちは自分の力で、一生懸命になって心を清め、そのために清い生活をしようと努力する。
ときには、周りさえ、家族でさえその生活を強要されてしまう。
けれども、そこにはどんなに頑張っても否定的なものの連続。
最初はいいんです。でもそのときにどんどん自分の弱さが露呈する、
そして自分の思っている事、祝福をうけようと思っている事とは全く逆に事ばかり起こっていると、
しまいには、心が耐えられなくなってしまう。疲れていっていしまう。
そして、ついには自分が思い描いた清い生活ができるはずもなく、そこにはただただ空しさだけが漂っている。
そうすると人はこういうのです
「なんと信仰生活のつまらないこと」
「なんて信仰生活は窮屈なもの」
「なんて信仰生活はくるしいものなんだ」
と。
そしてそんなときに、先ほどのイエスの言葉のように、一度は清い生活を通して悪霊を追い出したけれども、
その信仰者が空虚さを感じている時に、その霊がもっと悪い悪霊を連れてきて、その人の心に入ってくる。
すると、こうあなたを誘惑するのです。
「もっと人生を楽しめよ!」と。
「そんなつまらない・窮屈な・そして苦しい生活なんてやめちまって、もっと自由な空気をすってリラックスしたらどう?」と。
そうすると、あなたは一気に、これまでの清い信仰生活の裏切りを感じていることもあり、もうなんの違和感や抵抗感もなく、
今置かれている現実を手放しで肯定し、そして未来もそうなると信じ、「それならばこれからもこんな苦しいんならば」と、信仰を投げ出してしまう。
皆さんどうでしょうか。
パウロはこれに対して力強くこういうのです。
「主イエス・キリストを自分の新しい主人として迎えなさい」と。
そして「自分の体を義の武器として神に捧げなさい」と。
エペソ6章13節~18節にはこうあります。
【エペソ6章13節~18節を読む】
私たちは主にゆだねることができる・・・・この事を忘れてはいけません。
私たちはまず、あなたの信仰の中に主イエスが生きている事を、新しい主人は自分ではなく主イエス・キリストなんだと知る事が必要なのです。
そのとき、私たちは、罪からの解放されている自分を知る事ができる。
つまりそれは、具体的にどういうことなのか?
その一つには、赦すという行為があると思います。
そう赦すことのdけいる自分がいるんです。
私たちはこの罪ある肉の中で、そして社会の中でいきる中で、憎しみ、嫉妬が生まれてしまいます。
これはこの世界では当たり前のこと。
けれども見て下さい。その憎しみがこの世界を覆い、争い・戦争、殺人・虐待、様々な事柄が私たちの周りを覆っている現実。
しかし、私たちは自分の信仰の主が主イエス・キリストであること、新しい主人に出会い、神に従順になることによって、
そこから自分では今まで作る事のできなかった平安が生まれ、そしてその信仰は神の愛に包まれるが故に、 この世の自然と思われる憎しみという罪を打ち砕く赦す心が与えられるのです。
宗教者改革者ルターは「義人にして今だ罪人」と言いました。
ある青年が私に「なんで救われたのに罪人なのか意味がわからない」と言ったことがあります。
あのとき、私もその言葉にすぐに返す言葉がみつかりませんでした。
けれども、今なら言えます。
それは、信仰者であっても憎しみ・嫉妬という罪を持つが、信仰の主人を主イエス・キリストとして、主に自分を捧げる時に、自分の頭では到底理解できない・考えもしない赦しが生まれる。
そう私たちは、「義人にして今だ罪人である」という事を知っている事によって、自分の信仰の主人が誰であるのかをもう一度再確認することができるのです。
そう、私たちが罪人だからこそ私たちは信仰の主人にはなりえない。
つまり、私たちの信仰の主人・中心は主イエス・キリストでしかあり得ない。
このルターの言葉は、私たちに信仰の主人は誰かを、見つめ直す・再確認させてくれる言葉であるのです。
私たちが信仰の主が主イエスであると信じるとき、聖書の読み方、祈り方、生活の仕方も変わることでしょう。
自分を清くする・高くするといった思いでの聖書の読み方、祈り方、生活の仕方とは雲泥の差がそこにはあります。
束縛された思いによる行いと、主イエスによって解放された思いによる行いが全く違うように、
喜びをもってそしてイエス・キリストを新しい主人として迎え入れたときの自分の律し方は、
すべてに希望を持たせ、そして勇気をもって前へと歩く力を私たちに得させてくれるのです。
主は私たちに恵みを与えてくださっています。
そしてその恵みは私たちを神への従順へと引き付けてくれているのです。
私たちは主の恵みによって、神の正しさ・義の中にいるのですから、あなたの信仰のうちに主イエス・キリストが生きておられる事を信じてほしい。
そうすればあなたには力が勇気が与えられる。
私自身もどうぞ、ここに主イエスキリストが生きている事を信じ歩んでいこうと思っています。
私も今日の御言葉において深く教えられました。
主の恵みは罪よりも力強く、罪の深さよりも深くそして広い。
主の祝福が大いにありますように祈ります。
PR
COMMENT