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京都・花園キリスト教会

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あなたに平和と平安がありますように

皆さんおはようございます。

 

先週の木曜日は主の昇天、イエス・キリストが弟子達の前で天にあげられた日でありました。

 

このイエス・キリストの昇天については、マルコ1619節の「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあるように、キリストが死んで3日目に復活し40日目であったという事が記されています。

 

キリストの昇天は、キリストの復活後40日目の出来事でしたので、これに基づいて教会暦では伝統的に復活の主日から40日目の木曜日に祝ってきました。

 

しかし、日本のようにこの日を祝うために週日、集まることが難しい状況を考慮して、キリストの昇天の祭日をこの主日に移す教会もあるようです。

 

このキリストの昇天は、キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから、人間として神の栄光の状態に上げられ、また主なる神のもとで最高の権威に加わられたことを意味します。

 

ですから教会ではこう祈られるのです。

 

「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。

キリストの昇天に、私たちの未来が示されています。

キリストに結ばれる私たちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」

 

そう、この祈りのように、キリストの昇天は、私たちに訪れるこの世での旅の日に新たに私達の魂が天の国に引き上げられるという素晴らしい出来事の原型であり、

 

キリストの昇天は、私達も主なる神によって天の国に昇ることが許される保証でもあるのです。

 

ですから私たちは、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス・キリストに倣って、いつかキリストとともにいることができるという主の希望のうちにこのキリストの昇天の出来事を祝うのです。

 

そして、私達はそのイエス・キリストの昇天の出来事を知り、祝うことが今許されています。

 

これは私達にとって大いなる恵みです。

 

なぜならば、イエス・キリストが苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださったこの教会に集うことができているのですから。

 

天は父なる神の国、そして教会は母なる教会。

 

教会は天の国とこの地上を結ぶ場所です。

 

そして私達は母の胎内とも言うべきこの教会に集い、絶えず天の国におられる

主なる神から聖霊を受けています。

 

そうおおなる希望の恵みを私達は受けているのです。

 

そして私達に主なる恵みを与えてくださる聖霊はよくオリーブの葉をくわえている白いハトが使われています。

 

花園教会の下の礼拝堂にあるステンドグラスにも白い鳩が描かれています。皆さんご存知でしょうか。

 

知らない人は是非、下の礼拝堂をのぞいてみて下さい。

 

そしてこの教会のHPでも一番上の部分に写真がのっています。

 

教会はすべて知っているようで知らない事、思わされることがまだまだホントに多い場所なんです。皆さんも是非この教会を探検してみて下さい。

 

ところで、この白い鳩として描かれる聖霊は、世界において平和の象徴としての描かれる事が多い。

 

なぜハトが平和の象徴?と思われる方も多いと思いますが、ハトは、群れを成す性質をもっています。

 

群れをなして飛んでいく、それが共同体というイメージという事から平和の象徴となったのにこのような説がありますし、

 

また有名なのは、旧約聖書のノアの方舟との関係でしょう。

 

このノアの物語は創世記の6章にありますが、この物語は次のようなものです。

 

主なる神は、地上に増え始めた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じます。

 

ノアとその家族8人はこの神のお告げを聞いて一生懸命働きました。

 

その間に、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたけれども、誰一人耳を傾ける者はいませんでした。

 

 箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていました。

 

ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のオスと雌のペアを箱舟に乗せます。

 

雨が振り出しました。

 

そして、その雨は洪水をうみ4040夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくしたのです。

 

水は150日の間、引くことがありませんでした。

 

その後、箱舟はアララト山の上にとまります。

 

そしてノアはハトと飛ばしました。

 

けれども一回目は羽を休めるところがなく帰ってきてしまいました。

7日後、もう一度鳩を放すと、なんと鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきたのです。

 

この事によりノアは水がひいたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出ました。

 

そこでノアは神に感謝をささげたのです。

 

神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全生物を全滅させる大洪水は決して起こさないことを契約したのでした。

 

その契約のしるしとして、空に虹をかけたというのがノアの物語です。

 

この旧約聖書のノアの物語でてくるオリーブの葉をくわたえたハトは、洪水で地上を見ることができなかったノアたちにとっての希望であり、争いから脱出、滅びを逃れたものにとっての平和だったのだと思います。

 

この事から、ハトが平和、平安の象徴となりました。

 

そして今日与えられている御言葉もまさに平和について語っています。

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」

 

私達はよく平和、平和と言う言葉をよく使います。

 

それは戦争しない事、紛争しない事によく私達の周りでは使われているようです。

 

イスラエルでの挨拶ではシャローム!と言われます。

 

これは、「こんにちは」という意味で使われていますが、このシャロームはヘブル語で、平和・平安・やすらぎという意味があります。

 

ですから、シャロームとは「あなたに今日も平和・平安がありますように」ということなるのです。

 

いいですね。

 

どんな人にも「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言える事というのは。

 

皆さんは挨拶で、「あなたに今日も平和・平安がありますように」と挨拶する事はあるでしょうか?

 

わたしも言ってみたいですが、なかなか日常生活で言う事はない。

 

それは、自分の身の回りの事ばかり気になって考えて、他人を他者を考えていないからもしれません。

 

いや、自分の生きることで精一杯なのかもしれません。

 

でもいつかわたしもこの挨拶のように他人に対して言えることができるのであればなんと素晴らしい事でしょう。

 

まず身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見る。

 

私達は、そんなシャロームといえる「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるような、そんな人間関係を作って生きたいと思っています。

 

私の場合、まず妻に対して「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるようにならないと。

 

皆さんもまず一番身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見て下さい。

 

平和・平安とは本来、ただ戦争しない事、紛争しない事だけではなく、私達の身近で使われていくものなんだと思うのです。

 

 

そして是非、シャローム・平和・平安を目指して人生と言う名の旅を皆さんも続けていっていただきたい。

 

これは、イエス・キリストが私達に望んでおられる事なのです。

 

イエス・キリストは復活して弟子たちの元に来て下ったとき、「平安があなたがたにあるように」といわれました。

 

私達はこのイエス・キリストの言われるシャローム・平和・平安こそが、私達にとって切なものであり、天の国へと目指していく私達にとって必要なものなのです。

 

平和は人間の力によって作られる事はありません。

 

というより、こういった方がいいかもしれない。

 

それは、人間の力で平和を作り出すことはできるけれども、それはすぐに崩れてしまう平和であると。

 

この世界にも昔も今も、平和という名のものとにそれを大義名分として戦争、紛争が絶えず行なわれてきました。

 

軍事力、同盟の力を背景にして平和を保とうと人間はしています。

 

しかし、これらも、人間の思惑によって、一変し、平和から争いへと換わっていってしまう。

 

昔のローマもそう、今の大国と言われる国々もそうなのです。

 

しかし、これは、本当の平和なのでしょうか。

 

神が語っておられる平和なのでしょうか。

 

イエスは、私達に「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と言われます。

 

ここで言われる【平和を作る者】とは、人間たちの考えで、人間たちの思いで実現するのではなく、

まず神を第一として神の示されている事をあらわすことができる人が平和をつくっていくというのです。

 

それじゃあ平和はどこから来るのか?

 

神から来るとイエスはいわれます。

 

神が平和の神である。

 

神が遣わすイエス・キリストのみが平和の人なのであると。

私達には平和を作り出せない。

 

それでは私達はどうして平和を求めていくのでしょうか。

 

パウロはこう語っています。

コロサイ119節、新共同訳ですけれども、

「神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すことなく御子の内に宿らせ、その十字架の地によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。

 

しかし、今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

 

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」と。

 

つまり天の国とこの地上を和解させてくださったイエス・キリストをまず信じなさいという事です。

死んで滅びるはずだった私達を、イエス・キリストが私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった事により、この世と天の国の和解となってくださったのです。

その和解をしてくださったイエス・キリストをまず信じなさい。これが平和を実現させるための第一歩であると聖書は語っているのです。

 

そう、この十字架と復活という和解を信じる事ができるからこそ、私達はこの世において、どんなことでも和解というのです。

 

でも私達はイエス・キリストの和解がなんだかわからないでいます。

 

私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのかと。

 

イエスは、十字架上で、こう言われました。

 

「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。

 

そう私達は傷つけた事すら気付かない。

 

イエスがこのように「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言っている中でも、十字架にかけてなお、人々はイエスの服をくじを引いて分け合っているんです。

 

これが私達なんです。

傷つけていることに気付かないんですよ私達は。自分では気付かない。

 

じゃあどうして気付くのでしょう。

 

それは、イエス・キリストをまず信じることでなんです。

 

私達は、イエスがなぜ私達の為に死なれそして復活されたのかを信じなければ、私達はこの世においても人と和解することできません。

 

そして、イエス・キリストの十字架と復活の和解を信じない・知らない人は平気で人を傷つけるし、自分をも傷つけるのです。

 

信じる事とは、何かを学んだり、決心したり、捜し求めるものではありません。

でも私達は、いつ間にかこの世の知識、常識からすべてを考えてしまっている。

 

じゃあここで一つの質問をしてみたい思います。

 

あなたが、今ここで熱を出して倒れてしまったとしましょう。

 

そしたらここにいる周りの人はあなたに声を掛けてくれるでしょうか?

 

皆さんどうでしょう。

 

たぶんすべての人が「声をかけてくれるだろう」と思ったはず。

 

でもなんで皆さん、そう思ったのでしょうか。

 

それは、必ず声を掛けてくれる人がいると信じたから、疑う事ができないものだと信じたからそう思ったんじゃないのですか。

 

信仰も同じなのです。

 

もはや疑う余地もないほどに神が確かな恵みを、イエス・キリストの和解の恵みを与えてくださっている事に気付き、信じて全てを神に委ねる事、これが信仰なのです。

 

自分が倒れた時に、人が声をかけてくれるのですから、神ならなおさら私達をずっと生まれてからこれまで、そして未来においても気にかけてくださり、愛しておられます。

 

私達が、それに気付きこれまでの事を主において振り返る事ができるのであれば、

「イエス・キリストの十字架と復活の和解がなんだかわからない。信じない」

 

「私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのか」

 

などという質問自体があり得ないのです。

 

神があなたを愛してくださったから、神はこの世にイエス・キリストを送り、そして私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった。

 

そして復活によって私達を、この世での死で終わるはずの私達を、永遠の命を与えて、天の国へと招いてくださっているのです。

 

これほど、大きな希望はありません。

 

私達はこれほどの希望を知っているからこそ、イエスの十字架・復活によって希望、罪からの解放、死よりも大きい永遠の命の恵みを神から与えられているからこそ平和・平安を求める事ができるのです。

 

この神からの大きな恵みに気付けば私達は喜ばずにはいられない。

 

そうあのノアがオリーブの葉を加えた鳩を見て、平和が訪れたと信じ、神に賛美をささげたように。

 

私達も同じで、その希望に気付けば神に賛美をささげるだろうし、祈るはずです。

 

そしてこの恵みに気付いてもらいたいと、他の人の為にも祈るはずです。

 

伝道者パウロだって、自分が復活したイエスを知った喜びを神の福音を知らせるために世界を歩き回ったのです。

 

私達にもそれができる。

 

私達は、いえあなたはその神からの力をすでにいただいているのです。

 

ですから恐れず、十字架と復活による和解をしてくださった神に、イエス・キリストにすべて頼って参りましょう。

 

そして皆さん。「今日もあなたに主による平和・平安がありますように」とまず身近な人の前で言うことにチャレンジしてはどうでしょうか。

 

これが自分の思惑によってのまた力によっての平和ではなく、神がもたらす平和へと繋がっていくのですから。

 

先ほどのコロサイ1章23節と、今日の御言葉とをもう一度読みます。

 

「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」

 

皆さんに主の祝福が大いにありますように。

 

祈ります。

 

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生きる意味は。。。。

はじめまして。
すばらしいブログですね・・・。
北国にも春が訪れ、桜も開花しました。
最近、「死にたい」という若い人が急増しているように感じていますね。

人は一体、何のために生きているのでしょうか。
人はどこから来て
何のために、勉強し、働き、生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
なぜ、人は孤独なのでしょうか。
愛とは何か、生きる意味、死とは何かなどのことについて、ブログで分かりやすく聖書から福音を書き綴って来ました。
ひまなときにご訪問下さい。
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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書)                   

★私のブログから:「生きる目的は一体何か」
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