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京都・花園キリスト教会

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苦しい時こそ会いに出かけましょう。

それでは今日、与えられたみ言葉を見ていきたいと思います。

今日の聖書箇所は皆さんも一度は耳にした事のある箇所だと思います。

そしてこの創世記に登場してくる人物たちは非常に今の私達にも重要な人物たちばかり。

なぜなら今日の聖書にでてくるヤコブの父はイサク、母リベカ、祖父にアブラハムがいる。

この祖父のアブラハムは、ユダヤ教においては全てのユダヤ人の父とされています。

またこのアブラハムは、イスラム教にとっても重要な人物で、イスラム教徒にとっても、全てのアラブ人の父とされているのです。

世界にまたがるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共通の人物を理解し、重要な人物として後の世に語り続けている。

これはすごい事だと私は思います。

私達に与えられた今日のみ言葉だって、ユダヤ教徒もイスラム教徒もよく知っている箇所なのです。

改めて私はこの旧約聖書の凄さを目の当たりにしたという感じです。

これだけ、共通項の多いユダヤ教、キリスト教、イスラム教なのですから私は、これらの宗教が共に手を取り尊重しあい、助け合う時が来るのを望まずにはいられません。

互いに憎しみあって戦争をし、殺し合うことが私達のそして神が求めるところではないのですから。

私は主なる神が与えてくださる平和の一致を願って祈ってまいりたいと思います。

そして、私達が主の祈りで祈っているように、いつかこの地上に神のみ国が来るように心から祈っていきたいのです。

でも私達は、
「じゃあ、そのみ国が来るのはいつですか?」

「ほんとに祈ってそんなものが来るんですか?」

とこの世の思いで、そして自分の常識と照らし合わせて疑いの心を持ってしまいます。

「そんな祈ることじゃなくて、もっと考えれば自分たちで具体的にもっとやれる事があるだろう」と。

もちろん、私達はこの世がより良くなるように平和になるように具体的に話し合っていく事は大事です。

でも、私達は自分の力の限界を知り、認め、悔い改めて神の恵みの介入があるように、

「み国がきますよう」「平和の一致を与えて下さい」

「聖霊よ。どうか私の元に来て下さい」と祈るのです。

もし私達がこれらの祈りを愚かなもの、くだらないものと言うのであれば、もう私達には信仰などいりません。

「どうぞ、あなたの努力で、どうぞ自分の努力でこの世界に平和が来るようにしてください」

という事になるのです。

ですが、皆さん!どうですか。この世界を見て下さい。

私達は、自分の罪にも気付かず、自分の愚かさも悟らず、ちっともいい世界を、平和な世界を作れないじゃないですか。

自分達の国でさえ、自分の周りや自分達の兄弟や家庭の中でさえも、私達は平和の世界を作れないでいるじゃないですか。


私達は、自分が罪人である事に気付き、自分の愚かさを知るべきです。

その事を知り、告白し、神に祈り求めて初めて、私達は何をなすべきかが明らかにされ、そこに希望の光が与えられるのです。

主イエス・キリストは天に上げられる時、こう言われました。

「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。

それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。

そう、私達は、この世の思いから、この世が作った常識から、自分の経験から、自分の思いから、『いつみ国がくるのか、いつ神の介入があるのか』などと知る必要はないのです。

私達はどんなときにも「み国がきますように」「平和の一致を与えて下さい」

「神よ。私の元に来て下さい。」

「聖霊よ。どうか私の元に来て下さい」と祈り続けるのです。

そうすれば、神の介入が必ずある。


今日の聖書の箇所も、苦しみを負ったヤコブに対して神が介入された場面です。

ここでは、祖父にアブラハム、父にイサク、母にリベカをもったヤコブが、家族のもとをさって逃亡生活をする物語が描かれています。

なぜヤコブが逃亡生活をしなくてはならなかったのか?

それは、ヤコブが兄エサウをあざむき、そして父イサクをだまして、長子(長男)の祝福をもらったため、それを知った兄が激怒し、ヤコブの命を狙ったからです。

そしてこの逃亡生活の末、ヤコブは21年ぶりに外国から故郷に帰ろうと決心します。

しかし、そのヤコブの心には、「21年ぶりに故郷に帰るんだ。懐かしいな~」という喜びより、昔、自分がだまし、そしてあざむいてしまったエサウに対しての罪意識が大きくのしかかっていたのです。

この物語は、本当に人間の本質を表している場面だと思いますし、私達も共感できてしまう箇所と言えるんじゃないでしょうか。

これは現代で言う、遺産相続の問題に似ている気がします。

約3000年いや4000年近く前にすでに遺産相続の問題が大きくあった事は非常に驚くべき事ですが、

何千年経ったとしても全く変わらない人間の本質を表している物語であると言えるでしょう。

そしてこの物語は、そこらへんのサスペンスドラマなんかのすじがきよりもはるかに比べ物にならない程に、私達を引き込んでいくのです。

それでは私達は少し、ヤコブの過去を見ていく事といたしましょう。

ヤコブには双子の兄エサウがいました。

しかし、双子であってもこの双子は、性格が正反対でありました。

双子の兄エサウは、野人的な性格で狩りを好み、

一方のヤコブは穏やかでいつも家にいて、家の手伝いをするなどの家事などをして生活していました。

そしてこの双子の両親さえもお互いに自分の子どもに対して愛し方が違ったのです。

父イサクは兄エサウを愛し、一方の母リベカは弟ヤコブを愛すというように。

そしてそんなある日。

エサウが狩りから空腹をかかえて家に帰ると、ちょうどヤコブは台所で魚・鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物を煮ていました。

エサウはそれを見ると、空腹に耐え切れず

「すぐ食べさせてくれ」

とヤコブに頼みます。

このようにせがむ兄エサウに対して、弟ヤコブは、この料理と引きかえに長子(長男)の特権を自分に売ってくれと頼みました。

ここでの長子の特権とは、現代的な遺産相続のように親の財産をもらいうけるという物質的な意味とは違って、

先祖代々にわたって与えられる神の祝福を、責任をもって父親から受けつぐという重要な意味を持っていたのです。

そのとき兄エサウは、
「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言って、

弟ヤコブの作った料理をわしづかみにして平らげ、満腹すると再び外に出ていってしまいました。

この事によって、エサウは軽い気持ちで自分の長子の権利を譲るという口約束をしてしまったのでした。

その頃、年をとり、目が見えなくなっていた父親イサクは、兄エサウに長子の権利を与え、祝福しようと考えていました。

しかしそれを知った母親のリベカは自分の愛した弟ヤコブに長子の特権を与えようと画策します。

母リベカは、ヤコブに自分の画策した事を教え、

ヤコブもそれに従い、兄エサウのふりをし、目の見えないイサクをだまして、長子の権利と先祖代々にわたって与えられる神の祝福をもらうことに成功するのでした。

つまり、ヤコブは母リベカの策略もあり、イスラエル族長という権利を受けつぐこととなったのでした。

当然それを知ったエサウは激怒し、ヤコブを殺そうとします。

そこで、母リベカはヤコブを自分の兄ラバンのところへ逃すのでした。

しかし、ヤコブは逃げた先でも両手をのばして、喜ぶことはできず苦労していくのでありました。

そこでの人間関係や結婚などのために。

それからヤコブは、色々な人間模様の中で、押し問答がありながらも、そこで多くの財産を作ったヤコブは、自分の家族と共に21年ぶりに故郷に帰ることにしたのです。

ヤコブにとって、故郷と言うのは自分にとっての基礎の部分であり、忘れる事のできないものだったようです。

けれども、そこには喜びはありません。

ヤコブの周りには恐怖と不安が取り巻いていたのです。

ヤコブが次のように神に祈ってことからも明らかです。

「どうか、私の兄、エサウの手から私を救い出してください。私は彼を恐れているのです」と。

ヤコブは、まず兄エサウの為に最高級の贈り物を事前に贈りました。

それは1回だけではなく、2度も3度も送ったのです。

ヤコブは自分に言い聞かせました。

「贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば恐らく快く迎えてくれるだろう」と。

しかし、自分でそう言い聞かせながらも兄エサウにあう前日になると、その不安はますます大きくなっていきました。

また何か目には見えないとてつもない重いものが自分の目の前にあったのです。

そしてヤコブは故郷に帰る途中、ヤボクという川に差し掛かりました。

この川を渡るともうすぐ兄エサウのいる地です。

ヤコブはその大きな恐怖と不安から一人になりたかったのでしょう、

ヤコブは、ヤボクの渡し場・

つまり、船を使って人や荷物を対岸へと渡す場所で、

自分の家族一行を渡らせた後、彼は一人そこに残ったのでありました。


そして真夜中になったとき、不思議なことが起こったのです。

「ある人が、夜明けまで彼と格闘した」と言うのです。

そして、ある人はヤコブに勝てないと見て、立ち去ろうとしました。

しかし、ヤコブはこの人を離しませんでした。
「私はあなたをさらせません。私を祝福してくださらなければ」(25節)と。

するとある人はヤコブに、名を尋ね、ヤコブに対して、人と神と戦って勝ったイスラエルという新しい名前を与えたのでした。

しかし、ある人は自分自身の名を明かそうとはしません。

そしてある人はヤコブを祝福しました。

ヤコブはこれらの一連の格闘が終わった後、

「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」と語りその場を立ち去ります。

そんな時に朝がきました。

そして今や、とても不思議な事に、ヤコブはこれまで自分が罪を犯した兄に対して、恐怖と大きな不安を抱えていたはずなのに、ある人と戦った後は、深い傷を負ったにも関わらず、もはや彼の中には何の不安もなくなっていたのです。

これまで豊かな財産・豊かな地位、豊かな贈り物を兄に贈った事柄ですら越えることができなかった大きな不安や恐怖の壁を、この不思議な夜が果たしてくれたのです。

ヤコブは今、朝日が昇るのを見て、今!自由に安心して未来を見つめることができました。

これまでの罪意識は、ヤコブの心から完全に取り除かれ、不安の壁は崩れ去ったのです。

そして彼は今や確信と喜びとをもって、今まで恐れてきたエサウの到着をまつのでした。

もうそこには何も不幸なことは起こらないと確信して。。。


このヤコブの一連の出来事は、私達にどのような意味を与えてくれるのでしょうか?

私達は最後のヤコブの言葉のところをみてみると、

30節に「私のいのちは救われた」と書かれています。

このヤコブの喜びの叫びには、今まで大きな妨げとなっていたトゲが取り除かれた、

恐怖と不安と言う一つの山が克服された、

一つの重荷が投げ捨てられた、

今までは心の中が暗くて不安でたまらなかったが、
今ではもう心が、希望で満たされているんだということを示しています。

ヤコブはこの夜の格闘で腿を痛めました。

それは足を引きずるほどのものでした。

しかしその痛みは今やヤコブにとっては大きな喜びの勲章として表されたのです。

※ここでちょっと注意しなければならない事があるのですが、新改訳聖書では、この足を引きずる表現を「びっこ」と記しているのですが、これは差別的な表現です。

この訳が出た当時はおそらくそのような意識がまだ広まっていなかったかもしれません。でも聖書は、その時代・時代に訳が変わっていきます。新共同訳ではここは「足を引きずっていた」と記されています。

ですから、皆さん、聖書はひとつですが、訳は移り変わっていくものであるという事をよく知っておいて下さい。だから一番良い訳なんてものはありません。

その聖書箇所・箇所によって、「文語訳がいい」、「口語訳がいい」、「新改訳がいい」、「新共同訳がいい」というのがあるのです。

一番いい方法は原典を読むことなんですけどね。

ともあれ、私達が聖書を読む時は、聖書の訳は変わっていくものなんだという事を頭に入れ、読んでいって下さい。


少し脱線してしまいましたが・・・・

私達のこころの中の魂が、希望で満たさる・・いや、満たされたという事がわたしたちにもできるのであれば、それは何とすごいことでしょう?

私たちは、病気であった人の体が再び健康になるということがどういう意味をもっているのか私達は知っています。

私自身も、大学時代、原因不明の病気にかかり、死と隣り合わせの時期がありました。

そんな自分がまた、再び、歩きまわり、仕事をし、友人と付き合い、そして共に喜ぶことができる。

そして、今まで食べることができなかったのに再びしっかり食べることができるようになって、どれだけうれしかったことでしょう。

わたしたちが、もし家族や友達などのそういう状況に立ち会ったときは、その人の身になって喜んで、嬉しくなるのだと思います。

しかし、それにも関わらず、私たちの多くの人々は、例え体がよくなったとしても、

あらゆる病気よりもっと重く、いかなる医者にも治すことができず、いかなる静養によっても除去されえない苦悩・苦難をさらに担い続けているのです。


ヤコブのように「私のいのちは救われた」と希望が、私達の心の中にある魂に入ってくる事ができるのならば、それこそが、真実の健康であり、大いなる希望になるのです。

なぜならば、私達の魂は人間の一部分ではなく、人間全体であるためです。

私たちは、物を食べることで体を維持します。

しかし私達の魂は、物を食べることだけで生きるのではありません。

マタイ4章4節のように、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』とあるように、神のみ言葉によって、この聖書のみ言葉によって生きるのです。

イエス・キリストも聖書のみ言葉によって生きられた方でした。

今のイエス・キリストの言葉も、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。

ですから私達も、自分自身の中にある魂を、この聖書のみ言葉によって満たすことができるならば、その全体は満たされていくことでしょう。

そしてそこには必ず希望が生まれてくる。

けれども、注意しなければならない点もあります。

聖書は、人間の本質を現すため、罪など部分もせきららに記されています。

ですから私たちは、自分よがりの聖書の読み方をしてしまうと、誤った方向に進んでしまう恐れがあるのです。

ですから私たちは、誤った聖書の読み方をするのではなく、礼拝においてのメッセージを聴き、賛美し、わからない事があれば牧師に聞いてみるなどして、み言葉を自分のものとしていきましょう。

そうすれば、本当の意味での希望が生まれてくるはずです。

しかし、私達は、自分の罪にも気付かず、自分の愚かさも悟らないために、クリスチャンであったとしても、生活が思わしくない、常に不幸に見舞われ、誰ともうまくいかないことがあったとき、つまづきます。

陽気に振舞い、確実に人生を歩んでいて、あらゆることに正しい仕方で取り組む人、うまくいく人を見ると、「どうしてあんなにうまくいくんだろう」と思い、嫉妬し、恨むことがあるのです。

私達は、他の人のことが気になり、そして遂にはこのような間違ったイメージに陥ってしまうことが多々ある。

私達は心の内にある魂に知らず知らずに角度をつけ、物事や人間や世界を見ようとしまっています。

つまり私達は、自分の心の内のある魂の見る角度によって、私達は人を見てしまい、自分の角度が間違っていてもそれが正しいと勘違いし、それが真実だと決め付け、他人を周りに影響を及ぼしていくのです。

ヤコブはどうであったのでしょうか?

最初は自分の犯した事によって、魂に角度をつけ、兄が自分を殺すんじゃないだろうかと恐れと不安に駆られました。

しかし、ヤコブは一つの格闘という苦悩と苦難とをやり遂げることによって、魂に角度は消え、希望で満たされ、恐怖や不安の壁が崩れたのです。


そこには大きな傷・いたみが伴ってしまったのにも関わらず。

しかし、これはこうも言えるのではないでしょうか?

格闘をやり遂げたからこそ、魂が満たされそこに希望が生まれたと。

ヤコブにとって他のどんなことも役にはたちませんでした。

私達にとってもそうではないでしょうか。

私達は、格闘という苦悩・苦難を通り抜ける以外、通る道はない、そうしなければ役には立たたないという時がある。

でも、その苦難や苦悩の末には、もう私達は、主の希望の灯での魂を満たす事しかあり得ない。

ヤコブが格闘したこのペヌエルと言われた場所とは、本来、悪鬼や悪霊の類が出現すると考えられていた場所でした。

しかし、「人がもうダメだ。」「あとは悪霊がいるだけだ」、「もう終わりだ」と言わせてしまう場所であっても、神はそこに介入してくださり、不安や恐怖を取り除き希望を与えてくださった。

そう名前も語られず。

人間は自分の名前を売るために売名行為をしますが、神はそんな事はならされず、ただただ私達のために、ただただ私をそしてあなたを愛しているが故に神は介入してくださるのです。

苦悩・苦難のうちにあるところには、神が介入される。

これが私達の信仰であり、主における希望なのです

ヤコブは魂が満たされる者となった。

今まで長い雨だったところに突然、太陽が現れ、光がさす様子、これが神の介入だと思います。

私たちは、雨のような暗いときがあります。

しかしそれは自然なことであり、雨のときにも大切なのです。

私達は雨なしでは生きていけません。

しかし、私たちは雨によっていきているのではなく、太陽によっていきているのです。

ヤコブが格闘し、そして神から祝福を得たように、私達は、苦悩や苦難という雨を通してそれを越え、

そして神からの祝福を得たとき、本当の魂の満たしや希望を得ることができる。

私達は苦悩や苦難と格闘しそれを通り抜けるとき、本当の太陽の日差しを浴びることができるのです。

わたしたちはその苦悩や苦難によって痛み・きずを負うかもしれない。

しかし、それは私たちが主における希望で魂が満たされたときには、勲章となるでしょう。

健康になるということはただただ肉体的なものではないのです。

肉体的には弱さを覚えている人であっても心のうちに神に希望をおいている人はどうでしょう。

この人たちほど、私達より健康なのです。

そして私達はそのような方々から多くの勇気をもらっているはず。

そのような方の肉体的痛みやきずは、主における、神における大きな希望の勲章だと私は思います。

今、あなたの目の前にある挫折・苦しみ・悲しみがどのように解決し、また変わっていくのかわたしにはわかりません。

しかし、そんなあなたはもう主によって希望の灯での魂を満たされる事しかあり得ない。

「どうぞ勇気をだしてください。」

「どうぞ勇気をもってください。」

「どうぞ傷つくことを恐れずに教会に会いにでかけてください。」

私達がその事を信じて、この御堂に集い、天の国と結ばれているこの教会、花園教会に集い、

主の十字架と復活を知り、賛美を捧げ、

「神よ私の元に来て下さい。」「聖霊よ。私の元に来て下さい」「平和の一致を与えて下さい」

と祈り続ければ、素晴らしい事が起こる。

そしてここから、この世へと出かけていく時、この世の周りの人々にも尽きる事のない主の恵みを知らせる事ができる。

神がヤコブに介入したように、必ずあなたにも介入されるはずです。

そしてあなたの信仰が今のあなたを救い、そしてあなたの現在の苦しみが希望の勲章となる時が必ず来るはず。

ですから、私達は、罪を償う十字架と復活と希望を与えてくださった神に、の信仰と希望と愛を持ち続け、たゆまず祈ってまいりましょう。


神の祝福が皆さんと共にありますように。

祈ります。
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