わたしは今回、研修旅行を通してキリシタンの信仰を垣間見ることができました。
私たちは通常「隠れキリシタン」という呼び名と迫害を恐れて仏像の後ろに十字架をあしらって隠れて信仰を守っていたという程度しか知りません。
けれども実は、このキリシタン達が声をあげなかったら今の明治時代からのキリスト教の信仰継承はあり得なかったでしょう。
私は今「キリシタン達が声をあげなかったら?」と言いました。
私はこの研修旅行で乙女峠を訪れまでずっと実は、明治時代、キリスト教が布教できるようになったのは、
それまで鎖国を続けてきた江戸時代から明治に代わり、諸外国との貿易&条約を結ぶにあたってキリスト教を禁教していては条約や貿易に不利になるから、禁止を解いたとばかり思っていました。
なぜなら私が学校の日本史でそう教えられてきたからです。(京都の友人もそう教わったと語っています)
私は学校の教科書において、「明治時代にキリスト教が布教できるようになった」という一文しか見たことがありませんでした。
けれども、真実というのは実はそんな単純なものではありませんでした。
ときは江戸時代から文明開化と呼ばれる明治時代に入ったとき、多くの外国人もこの日本に来るようになりました。
長崎はとくに江戸時代よりももっと多く外国人が来るようになったのです。
外国人が増えるという事は、キリスト教を信じている外国人も当たり前ですが、来日するわけです。
そうなると、キリスト教を信じている外国人にとっては教会がほしくなります。
ということで、外国人専用の教会が長崎にできました。
それが皆さんよく知っている大浦天主堂です。これも私は知らなかった・・・。
この教会の姿を見たキリシタン達は250年以上、自分の信仰を公にしたら死罪になる恐れの中にいましたが、
この教会を訪問し、同じ信仰を持った外国人・そして教会を見て、これまでのように隠れる事をやめて、
キリシタンの女性が亡くなったことを機に、仏教で葬儀をする事を拒否し、自分がキリシタンである事を公にしたのでした。
(250年間の願いが一気に噴出したんでしょうね。250年・・・すごい年月です。
この忍耐には脱帽です)
しかし、明治であってもキリスト教禁教令は続いていました。
ここから浦上村の人たちは各地に分散されて拷問をうけることになります。
そのひとつが亀井藩の津和野でした。
当時津和野は、神道の教育に大変熱心な土地だったのです。
改宗させるにはもってこいの場所というわけです。
<ひと言>現代の日本はどんな宗教であっても、信教の自由が守られている事はすばらしいですね。
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http://kyotohana.blog.shinobi.jp/Entry/307/津和野-殉教地 研修レポート2:なぜ津和野なのか?
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