それは
「キリスト教の用いる聖書では環境を支配するというなんとも勝手な独善的なことを言っている。
だから、環境破壊を平気で行なうんだ。だから外来宗教は嫌いなんだよ」
と。
非常に私にとって厳しくそしてとても屈辱的な言葉でした。
けれども本当にそうでしょうか?
聖書はそんな勝手な独善的な事を書いているのでしょうか?
いえいえそうじゃない。
新改訳や新共同訳や他の翻訳は「支配せよ」としか書いてありませんが、
けれども英語訳には「管理する」という単語(コントロール)がここでは当てはまれていました。
これはどういうことか?
そう、それは、私達は「すべて支配せよ」と言われた瞬間、何かある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くことを考え、また行動を束縛させるというような意味と捉え、意味を取り違えることがあります。
しかし、ここの「支配せよ」から「管理せよ」と言えばどうでしょうか。
管理するとは、ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。
事が円滑に運ぶよう、処理し、そのものを保存維持していくこと。となるのです。
私達は「支配せよ」と、言われたとき、何か自分の思いのままにする事ができると考えがちですが、私達は神から管理せよとも、言われているのです。
だから私達は、神が創造してくださっているすべての物を円滑に保存し維持する責務が負かされています。
私達がこの事を考えるとき、現代の環境問題は、神から言われた「管理せよ」という責務から外れているといえるのかもしれません。
ですから私達は神にあってこの環境問題を真剣に考える時にきているのだと思います。
そして、キリスト教は外来宗教として批判した人も実は、知らずに環境破壊に加担している事だってある。
日本人がこれまで行なってきた貧困国での数々の搾取も一例です。
私は、いつも思うのですが批判する前に自分が動く。
まずは自分が動いてほしいと思うのです。
先週のメッセージでもそうでしたが、
私たちは神との間に平和をもっているのですから、
その福音によって、様々な苦難が私達に振りかかったとしても、批判するのではなく、キリストと友に戦う勇気を持って一歩踏み出してほしい。」
そう思います。
なぜならそのキリストの救いにあずかった喜びの光は、この負の連鎖・罪の連鎖のあるこの世界を断ち切り、罪の支配を打ち砕くからです。
けれどもある人が、わたしにこういいました。
それは「キリストの血によってこの世界が救われる?・・・はあ、なんて傲慢なんだ。そのキリストって奴は。ひとりの力でこの世界を救えるわけがないじゃん」
と。
皆さん、こういわれてどう思われるでしょうか?
最近、京都駅の近くに大きなショッピングモールができました。
イオンモール京都と言われているモールで年間1000万人を見込んでいるとの事。
私も何度か足を運んだ事があるのですが、すごい人だかりでした。
私はよく映画館に程近い駐車場に車を止めるのですが、そこからエスカレータを下ってモールへ向かいます。
するとそのエスカレータの横では特に人だかりができていたのです。
そこは皆さんどんなところか想像できますか?
そこは占いの館だったのです。
日本人は、宗教を信じないといいますが、また先ほどの私に対して「キリスト一人の血によってこの世界が救われるなんて傲慢だ」と言った発言も含めて、
「一人に力によって多くの人々が救われない」と思っていますが、
けれども多くの人たちが、占いにはまったり、自分が不幸なのは先祖の霊を敬わないからだといって厄を払いにいく。
私はこの光景が不思議でしょうがない。
なぜなら、一人の力で救われないと言っている人が、先祖と言う過去の一人にとらわれて不幸は信じる。
そしてその不幸をどうにか解決されるように占いに走ったり、厄払いにいったりする。
でもこれは、わたしから言わせれば、
「一人に人によって救われないというのであれば、一人の人によっても不幸は起こらないとも言えるはず。
でもそうは考えないんですよね。人と言うのは。
また、どうして一人の人によって引き起こされた不幸は、多くの人たちに影響を及ぼすと信じるのに、・・・・
ひとりの人によって人々に・そしてあなたに恵みがもたらされているんだといっても信じないのだろうか。
不幸より恵みの方が私達にとっていいはずなのに。。。
すごく私には不思議でしょうがない。
私はこの事を考えると、人と言うのは心の奥底に恐れがあるんだと私は思う。
それはどんな恐れか。
それは「死にたくない」という思い。
つまり「死にたくない」と思うから不幸を恐れ、その不幸を取り除こうと人間はあがく。
古来より、人間はどうすれば生きながらえるのかという事を探求してきました。
多くの王がそうであり、そしてミイラになって永遠の命が与えられると信じたり、自分が生きながらえるのならばと他者を傷つけてきた歴史だってあるわけです。
また、私は昨日の朝、大阪の西成にある釜ヶ崎に家族と行き、覚醒剤の撲滅パレードに参加しました。
今はこの恐れの形が、若い人を初めて覚醒剤・ドラッグに傾いている現実がある。
昔はたばこやお酒でした。けれども今は覚醒剤やドラッグです。
皆さんは知らないかもしれませんが、実は今は小学生の現場にまで覚醒剤やドラッグが入り込もうとしている現実がすぐそこまである。
何年か前に合法ドラッグというものが東京周辺から流行りだしました。
実は私の後輩も合法ドラッグをやっていたことがあります。
私はその現場を目の当たりにした時にはそれを即座に捨てさせ、もう買わないように説得した経験があります。
実はそれほどに私たちの身近に覚醒剤やドラッグがある。
私は関西で今一番、覚醒剤が出回っている・売人がいる釜ヶ崎で覚醒剤撲滅のパレードがあるという事だったので今回家族皆で参加しました。
その様子はブログや動画サイトにまた載せたいと思っています。
このように、一番「死」が近い場所・ホームレスというのはまさに死と隣り合わせ、また「死にたくない」という恐れが渦巻いているところ、そして精神的にも肉体的にも弱い青年や子ども達のところに、悪魔と呼ばれるサタンの誘惑が大きい。
これが今の日本の現実です。
私たちは「死にたくない」という思いが心のどこかにある。
そう、この「死にたくない」という思いは、必ず人間誰しもが必ず思うこと。
けれども実はその思いと言いますかその「死にたくない」という願いは、実は私達のアキレス腱・弱点だったりするのです。
今の社会問題で言えば覚醒剤にドラッグ。
またこの「死にたくない」という思いは、これはキリスト者でさえ弱点になり私達の信仰を死なす・信仰すてさせる大きな問題でもあるんです。
でも私たちは忘れてはなりません。
それは、私たちは本来、神から死なないものとして創造されていたという事実を。
創世記を開いてみましょう。
創世記1章31節
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よそれは非常によかった」
そう神は、月や太陽、地上や海やすべての動物・植物に対して、そしてなによりも最後に創造された人間を見て、
「見よ、それは非常によかった」と言われた。
ここの創世記の創造の業のどこに神が死を造られたと書いてあるのでしょうか。
書いてはいません。
パウロはこれに対してどう語っているのか?
それはローマ5章12節
【ローマ5章12節を読む】
そう、私達人間が罪を犯したことによって死が入り込んだとある。
そう、私たちは元々は神から非常に良いと言われた神の貴重な作品なんです。
ある意味、罪が拭い去る事ができるのであれば私たちは死なない存在なのです。
けれども、その事を忘れて、私たちは罪を拭い去るどころかどんどん罪を重ねてしまっている。
そう、それは律法を通して、、、律法を盾にどんどん私たちは罪を重ねて。
そして私たちはその律法を盾にして、イエス・キリストさえも断罪し、私たちは盲目となり、キリストを殺してしまった。
でも実は、これらの多くの罪はたった一人の罪からはじまった。
じゃあ私たちはこれに対して罪をぬぐう事ができるでしょうか?
聖書にはこうあります。
それはヨハネの手紙1章7節
ヨハネの手紙1章7節を読む
そう、私たちは御子イエスの血によって私達のすべての罪が清められる。
これなんですよ。
そうまさにこれがイエス・キリストにおける十字架と復活なのです。
そう、まさに私たちは律法を盾に、イエスを十字架につけたけれども、
けれどもその十字架上で流されたイエスの血によって私達の罪は清められたんです。
そう、そして私たちはキリストの復活によって徹底的に、新しいものへと変えられたのです。
神学者カールバルトは
この状態を「新しく、勝ち誇り・優れた人間の歴史の中で決定的な状態」であると語りました。
パウロは今日の御言葉でこう語ります。
ローマ5章17節。
【ローマ5章17節をよむ】
そう私たちは自分で罪をぬぐわないといけない存在、でも拭えないために滅びが待っている存在であったけれども、
神はそんな事はなさらず、この地上に、この世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。
それは、18節にあるように私達が命、つまり恵みと義の賜物を私達が得るためだったのです。
私達が、先祖などの一人の人によって不幸が私達に降りかかると考え、死がすべてを支配していると信じているところに、
まさに神は私達の考えとは全く違って、イエス・キリストという一人の人を通して、命が恵みが私にそしてあなたの上に降り注がれ、その恵みによって支配された。
これこそ、私達の思いと神の思いが全く持って違う点です。
そして、15節にこうあります。
【15節を読む】
実はこの15節の訳はあまり正しくない。
できれば並行して書き加えてほしいと思います。
それは15節の最初の「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります」という箇所。
ここを原文で読むと、「しかし、恵みの賜物は罪と同じではない。」となります。
新共同訳は「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」とあります。
皆さんにはこの原文に沿っている「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」と書き加えて下さい。
つまり、私達の思いである罪と、神の思いである恵みは比較にならないのです。
私たちはその事実を、この聖書にしっかりと記されている「恵みの賜物は罪とは比較にならない」と言う御言葉を知り、しっかりと信じる必要があります。
私達の思いは罪へと続き、
神の思いは恵みと永遠の命に到達する。
神はこの恵みと永遠の命の印として、イエス・キリストの十字架と復活を通して私達に示してくださいました。
その示してくださった事を信じる事が私達の信仰なのです。
アダムから始まりそして今の私達まで続いてきた罪、そしてあなたにまで続いてきた罪。
この罪は私達の目・肉眼で見える世界をあなたに見せ付けます。
「これがお前のおかれた現実だ」と。
けれども、これは実はキリスト者から見れば、古い世界。
一方で神はと言うと、神は肉眼では見ない・信仰の目によって見える新しい世界を私達に見せ付けてくださる。
神は私達にすでに新しい世界を見せて、そして見せるだけではなくて新しい世界に立たせてくださっています。
その事をどうぞ信じてほしい。
これこそまさにあなたの信仰であり、聖書にあるようにあなたの信仰があなたを救う事になる。
このときにサタンと呼ばれる悪魔は必ずあなたにこう誘惑してくるでしょう。
「ほんとうに神はそんな世界を見せていると言っておられたんですか?」
そう、創世記3章1節に出てくる蛇がエバを誘惑した言葉と同じように。
罪が見せる世界は古い世界だけれども、私達に、私達が現実と認識する・現実はこれしかありえないと思わせるような、この目で肉眼で見える・・説得力のあるものを私達に突きつけます。
それはいうなれば「死」。
私たちはこの現実世界の中では私たちは「死」に対して無力です。
そして私たちは「死ぬ」と言う事をこの目で見る事ができる。
またこの「死」を私達は恐れ、そして私達に「どうすれば死なないようにするのか」という律法を作らせる。
そしてそれは生きる律法として、いつも私たちのこの現実世界でいきる先・つまり私達が死ぬまで先にまでいて、私達を支配している。
けれども、だからこそ、ここに
そんな罪の支配・死の支配を根底から打ち消した・打ち壊した・イエス・キリストの十字架の死と、死を克服した復活イエスが私達の心にいるじゃないですか!
そうこれこそが私たちの信仰です。
そう、神が見せる新しい世界は、古い世界の現実という名の失望と絶望を、神の恵みと神の義と変えさせ、
古い世界の死を、新しい世界では生・生きるものとし、
古い世界では古い私達が、新しい世界では新しい・永遠の命を持ったものに転換されるのです。
今日の御言葉ローマ書5章21節
「罪が死によって支配したように、恵みが私達の主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」
わたしたちには必ず、見えないと思っていた神の恵みが、見えるときが必ずあります。
それは貴方が神の新しい世界の入り口に立っている証拠でもある。
そして私たちはその恵みのくり返しによって新しい世界の入り口に出会い、神の新しい世界に近づいていっているということ。
あなたの信仰が益々主によって強められ、今週も信仰によって生きることができますように。
主の祝福が皆さんに大いにありますように。
祈ります。
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