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京都・花園キリスト教会

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憐れみとはなんですか?

皆さん、おはようございます。

ここは先週も触れた、山上の説教と呼ばれるイエス・キリストが私達に教えてくださっているみ言葉です。

山上の説教は、5章1節から7章の最後までと言われます。

このイエス・キリストのみ言葉は、私達キリスト者がこの世を生きていくなかで規範とも言うべき、またキリスト者の生き方と知る上で重要なみ言葉です。

しかし、そうであるが故に、私達はこのみ言葉に戸惑う事もあります。

それはこの山上の説教から得る次のような考えからです。

「キリスト教徒はどんなときでも愛を持って接するようにという」という考えに。

これはとても重要な事であり、メッセージでもよく言われます。

しかし、ここで私達は決して忘れてはいけません。

怒らない事が愛ではありません。言わない事が愛ではありません。

批判を受けてじっと耐えることが愛ではありません。

この世の中から離れることが愛ではありません。

この世・この社会に注視せず、この世に対して批判すべき事から目をそらす事が愛ではありません。

私達がこのような愛をもっているならば、いつかその愛のために疲れ、教会から静かに離れてしまうことでしょう。

これはクリスチャンにとってとても陥り易い事柄です。

そして私達は、このような問題に差し掛かったとき、必ずと言っていいほど、愛をもって、もっと祈りをこめて接すれば、必ず打開できるはずだと考えがちになってしまいます。

そしてそれが打開されないと思ってしまうとき、自分の愛と祈りが足らないという思いに至ってしまうのです。

そして多くの善意の人たちは行き詰まり、自分自身の至らなさ故に、失望し、
その行き着く先は、静かに教会から離れてしまうというとても残念な結果になる事があるのです。

わたしは、この方々が良くないと言っているのではありません。

でも、これは大きな勘違いだと私は言いたい。

この事がなぜ勘違いなのか今日の御言葉から見て生きたいと思うのですが、その前に、

私達は勘違い、思い違いをそのままにしておくと、最初の傷はどんなに小さくても、年が経つにつれ、どんどんどんそのキズは大きくなり、

最後にはすぐに治療するのは難しいほどの致命傷となってしまいます。

よく罪とはなにかと聞かれます。

私達は罪と聴くと、殺人や盗み、人に危害を加える事だけが罪のように感じます。

しかしそうではありません。

罪とは、的外れという意味があります。

つまり、的からはずれている。思い違いをしている。勘違いをしてしまっているという事。

そしてその的からはずれている行為が、どんどんどん蓄積されていきそれが大きくなっていくと、悪魔・サタンとよばれる誘惑する者・その力に左右されやすくなる。

そしてその結果、神から離れていく、教会から離れていってしまい、信仰を持つことが嫌になり、神の存在をも否定してしまうことになってしまうのです。

これが罪です。

つまり心に思った怒りや悲しみ、憎悪がすぐに罪なのではなく、その憎悪をそのままに、その怒りをそのままに、悲しみをそのままにずっとほおっておき、神から離れてしまう事が罪なのです。

そして誘惑する者も、ずっとほおっておくように甘い言葉で誘惑し、教会から神から大きく離れさせるのです。

ですから、教会での礼拝、み言葉のメッセージ、聖餐式は大きな意味を持ちます。

勿論、これは牧師・教職者にとっても一番大切な事です。

けれども、その教会での礼拝、み言葉のメッセージ・聖餐式に集う

【あなたがた】も神の民、聖なる民であるのですから、神にとってとても重要なのであり、必要な存在なのです。

ですから勘違い、思い違いによって、兄弟姉妹として、教会員としてこの教会からかけてほしくありません。

思い違い・勘違いによって、教会にそして愛に疲れて欲しくないのです。

そしてなによりあなたがここにいなければ意味がないのです。

なぜならあなたは神から愛された存在なのですから。

ですから今日、与えられた御言葉を思い違い、勘違いせず、教会には喜びをもって本当の意味での愛をもって憐れみとはなんであるかを信仰をもって聞きましょう、

イエス・キリストは私達に言われました。

「憐れみ深い者は幸いです。

その人たちは憐れみを受けるからです。」と。

私達は「憐れみ」と言う言葉をよく耳にします。

辞書で調べてみると憐れみとは、同情する事。慈悲とありました。

ということは、辞書の意味から考えると、この箇所は、同情深い人々は幸いであるということになります。

同情とは、その言葉通り、同じ情、なさけになるということです。

ということは、何かに困っている、悲しんでいる人の事を思い、心に感じ、いたわってあげるのです。

憐れみというと何か上から見ている感じが良くします。

よくドラマとかのセリフの中でも

「わたしを憐れみの目でみないでよ」とかマイナスなイメージで言ったりしています。

しかし、それは憐れみではないでしょう。

憐れみとは、上から見るものでも下からも見るものではありません。

同じ視線に立つ。同じ目線になるということです。

よく私達は、小さな子どもに話しかけるとき、上からのぞきこむように話をしていないでしょうか。

でもそれって子どもにとっては心を共有する、いたわるというよりも、威圧的になってしまうものです。

私達大人が本当の意味で、子どもの事を憐れみ深く接したいのであれば、膝をおとして、しゃがんで同じ視線で話しかける必要があると思います。

憐れみとは、誰が行なってよくて、誰がおこなってはいけないという基準はないのです。

ですから、私達が小さな子ども達に憐れみをもって接しているようで、実は、子ども達から憐れみをもらっているかもしれません。

憐れみ深ければ深いだけ、その憐れみは自分に戻ってくるものなのです。

ですから憐れみは与えるものではありません。与えられ、与えるものなのです。

そして憐れみは、愛をもってその人をいたわることです。

しかし、私達はこの愛による憐れみに対して思い違いをしてしまうことがあります。

キリスト者はよく、イエス・キリストの行ないから、聖書からの規範に基づいて行動するものです。

つまり「教会に来なければならない。」

「キリスト者は、愛をもってどんな事にもただただ耐え、柔和であり親切であるべきなのだ」と。

また、冷たい態度をしてしまったとき「あの人に対して悪いことをしてしまった」などとも思う。

そして聖書を読み、愛の箇所、憐れみについて記述してあるみ言葉を読むと、愛をもって接しなかった、憐れみをもって接しなかったと思い、罪と感じる人もいるでしょう。

これらの事で「これは罪だ。悔い改めろ!」という牧師もいるかもしれません。

そう教わった人もこの中にいるかもしれません。

勿論、教会に来る事は大事だし、いつでも柔和であり親切であり、冷たい態度に対して悪い事をしてしまった思うことは、とても大事な事ですし、とても重要です。

でも、この事は、イエス・キリストの行ないから、聖書からの規範、もしく自分の教えられてきた規範が守れなかったという思いから来ています。

その意味で、先ほどの「あの人に対して悪いことをしてしまった」という思いは、神に対しての赦しを求めている、罪を告白すると言う事よりも、自分がうまくできなかったという意味での「後悔である」と言ったほうがいい。

そう私達はとんだ勘違いをしてしまう事があるのです。

すぐにみ言葉にそぐわない事があれば、私達は罪だ!罪だ!と言います。

しかし私達は、み言葉から、そうあるべきだ・そうしなければならないという言葉にはよく耳を傾け、思いは大きいのに、そうあるべき事・しなければならない事を破ったときに、「罪だ!」と思うだけであとのケアが少ない、しないことが多いのではないでしょうか。

ですから私達は、規範・きまりを守れなかった事に罪を感じるのではなく、私達の行動によって自分の行為がもたらした結果、どのようになってしまっているのかをしっかり理解し、罪ある自分自身を本当の意味で向き合わなければなりません。

罪とは、自分自身と向き合わず、ケアせず、ほっぽっといて、思い違い・勘違いをずっと持ち続けて、不安や苦しみを蓄積させ、自分にはできないと失望し、神から離れる事が罪なのです。

なぜ、本当に自分自身と向き合わず、そして神に対して赦しを求めないのか?

私達は自分自身としっかり向き合わなければ、再び同じ事を繰り返します。

そして
「愛をもって接しなかった、憐れみをもって接しなかった。神様申し訳ない。もうしません」という簡単な祈りによって自己解決してしまうのです。

私達に必要なのは、愛をもって接しなかった、憐れみを持って接しなかった行動を悔やむ事ではなく、

愛をもって接しなかったことによって、憐れみを持って接しなかったことによって、

自分は誰をどのように傷つけてしまい。

どのような状況で憐れみをもって接しなかったのか。

憐れみをもって接しなかった事によってどのような事が現在、自分の周りを取り囲んでいるのか。

これらを自分自身の中で深く見つめる事です。

そして神に対して、これらの事を告白して赦しを乞い祈るのです。

そしたら必ず何か変わっていくはずです。

またもし「教会に行く事ができなかった」と言うことでしたら、

じゃあそれは誰を傷つけたの?どんな事をしてしまったのか。

それを自分自身で見つめ直して認めることが私達には必要なのです。

そうしなければ、「教会はいけなかったのは、疲れていたし、忙しかったし、しょうがないよ」という結論に必ず至ってしまいます。

「教会はいけなかったのは、疲れていたし、忙しかったし、しょうがないよ」の言葉の中には誰を傷つけたのか?

どんな事をしてしまったのか?という自分を見つめなおす思いが含まれておらず、自分の行為を肯定すらしてしまいます。

この言葉の中には、それならこれからどうしようか、何をしていけばいいのかという進歩の言葉・希望の言葉がありませんし、前向きな行動をすることはできません。

これでは、あなたと神との繋がりも薄くなってしまい、誘惑する力に左右されてしまうでしょう。

私がここで「罪を悔い改めよ」という裁きの言葉を言う事は簡単です。

でもそれだけなら何の解決にもなりません。

裁きは最後に神が行なうのであって、私が神とあなたの関係を裁く事はできないのです。

私が皆さんに伝えたいのはそんな事ではなく、あなたが、自分自身を深く見つめ、

そこに苦しんでいる人はいるのか。いるのならどんな苦しみを負っているのか。

そしてその苦しみと自分はどう関わっているのか。自分の行動と関係しているのか。

それを自分の罪であると認めるのかという事です。

ここに大きな決断があるのです。


憐れみも同じなのです。

あなた達は、神の民として、心の清いものとして、神はあなたを祝福し愛しておられます。

私達は、憐れむ行為をしなかった事自体に罪を感じるのではなく、憐れむ行為をしなかった事によって、

どのように人を傷つけしまったのかという確固たる自覚が必要なのです。

そうすれば、イエス・キリストが私達の罪のために、あなたの罪のために十字架にかかった事の意味が、わかってくるはずです。

私達は自分の罪を認めても、それを自分だけでは絶対に背負いきれません。

しかし、神はそんなあなたを本当に愛してくださったからこそ、神はこの世にイエス・キリストを送られ、私達が滅びる事のないように十字架に掛けられたのです。

そしてその罪に復活と言う奇跡によって勝利されたのでした。

私達は【罪が許された】というとき、それほどに大きなかけがえのない喜びなのです。

ですから、自分自身の罪をしっかり目にし、とらえるとき私達は、

神とのかかわりによってイエス・キリストの十字架と復活の出来事に心から感謝できるのであり、神に赦しをこい、新たな気持ちで出発できるのです。


完全な愛と憐れみをもって歩まれた方はイエス・キリストただ一人。

そう、イエス・キリストだけが完全な方。

私達はこの事と、自分の罪をしっかりとらえているなら、愛や憐れむ行為に対して不安や恐れを持つ必要はないのです。


私達は罪を持っている人間ですから、間違う事もあるでしょう。

しかし、間違う事から私達は、神に対して正面から向き合って、赦しを確信し、間違いを正し、そこから脱却し、希望を持って、人生を歩んでいけるのではないでしょうか。

あなたが自分の罪を深く知り、希望を持って、歩み、憐れみを持てば必ず世界は変わっていきます。

憐れみを持てば、必ず憐れみで返って来る。

そうキリストが、私達を憐れんでくださったように。

私達は十字架と復活と言うキリストの憐れみが、私達にとってのかけがえのない贈り物、喜びであると信じることができるからこそ、周囲に広める事ができるのです。

間違える事は必ずある。

しかし、それ以上に神の赦しがあるのです。

今日の御言葉、「憐れみ深い者は幸いです。

その人たちは憐れみを受けるからです」

この言葉は決して理想を表しているのではありません。

しっかりと罪を見つめながら、十字架と復活の喜びを知っている私達だからこそ求められている御言葉なのです。

勘違い、思い違いをしてはいけない。

神の言葉にしっかり立ち、間違ったときはそれがなんであるかを深く見つめ、

神に赦しをこい、そして恐れずに、キリストの復活の喜びゆえに前に進みなさい。 

神があなたと共におられるから。

あなたがたに主の祝福が大いにあるように。

祈ります。
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恐れずに目を向けること

とかく、分かっていても眼を背けて、心を楽なポジションに自分をおいて、無理矢理自分を納得させている事のなんと多い時代でしょうか。もっともらしい話をすると逆に辛気臭いと敬遠されてしまいがちです。でも、恐れずに愛を持って真理に生きる事は、本当に神様に喜ばれる事と、確信しました。
祈りを持って、たとえ100人のうちの1人となっても勇気を持って真理を貫き通す聖霊を与えてくださいと、祈るものです。それが、裁く事でなく、愛の故と伝わる様に知恵を神様に与えてくださいと祈りつつ・・・・

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