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メッセージ:私たちはキリストによって夜明けをみる

聖書箇所:ローマ5章1節~11節

今日の御言葉に入って参りましょう。

私たちは今日からローマ書5章に入りました。このロマ書は16章までありますから3分の1を読み進めたことになります。

今日の聖書箇所はよくメッセージで使われる箇所であり皆さんもよくご存知の御言葉かもしれません。

今日のここの御言葉をひと言で言うなれば、「平和」です。それも「キリストにおける平和」です。

私たちは、これまでロマ書の1章から順に見てきました。

けれども私は、このロマ書の書かれた時代背景を説明してきませんでした。

ですが、今回「キリストにおける平和」というキーワードがでてきましたのでお話ししたいと思います。

私たちは平和と聞くとき、戦争もなく争いもなく平凡な生活ができる事を一般的には平和とし、考えますが、今日の1節にある「平和」は私達の考える平和とは違っています。

その前に少しパウロがローマ教会に手紙を送った背景を皆さんと見ていこうと思います。
パウロはローマ教会の人たちとは全くと言っていいほど面識はありませんでした。

そしてこのローマの教会はパウロが作った教会ではなく恐らくローマに住んでいたユダヤ人達が建てた教会でしょう。

パウロは皆さんもご存知のようにユダヤ人達がそれまで自分達だけに神の恵みが与えられている・選ばれている・神によって義とされている事柄は、

異邦人、つまりユダヤ人以外にも及んでいるんだと強調し、異邦人伝道を行なっていきました。

彼はその異邦人に伝道しているときに、その当時の異邦人・つまり世界の中心であったローマに行って福音を述べ伝えようと思い、この手紙を書いたのです。

けれども、彼はこの手紙を今のギリシャのコリントスという場所で書いたのち、ローマへは向かわず、エルサレムへと向かいます。

それは、エルサレムの教会に異邦人教会で募った献金を渡すためでした。

その献金は、エルサレムにいる聖なる人たちの中の貧しい人々を援助するためのものであったのですが、

当時すでにパウロの異邦人伝道が功を奏して異邦人教会が成長していくにつれて、異邦人教会とエルサレムのユダヤ人キリスト者との間で律法理解などで大きな 溝・確執が出来てしまった。

その溝を埋めるべくパウロは献金を携え、エルサレムにむかったのでした。

パウロはこれまでの溝や確執が、自分が献金を持っていく事によって埋まる可能性は低いと感じていました。

つまり、彼にとってこれからエルサレムへと向かう旅はまさに危険な旅だったのです。

その意味でそのエルサレムに向かう前に書かれたこのローマの手紙というのは

彼のこれまでの福音理解、まさにパウロのこれまでの集大成がここには記されています。

その意味でこのローマ書は神学的にも信仰的にも非常に重要な手紙なのです。


さて、先ほど私は平和について言及しました。

私達が考える平和はいわば、目に見える平和・感じることのできる平和です。

けれどもここでパウロがあげている平和とは、1節「イエス・キリストによっての神との平和」とあります。

新共同訳聖書ですと、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」となっています。

つまり、パウロが語っている平和とは、この世界においての自由ではなく、自分の思いのままに生活できる自由の中での平和ではなく、「神との間にある平和で ある」と語っているのです。

パウロがこの手紙を書いている当時、パウロにとって、これからおきる事柄、今起きてる事柄を考えると、この世界においての自由はなく、自分の思いのままに 生活できる自由・平和ではなかった事でしょう。

けれどもパウロはここで「平和」と言う言葉を使っている。


それではこの「神との間にある平和」とはいったいなんでしょうか。

それは、神の怒り・罪・律法・死から解放されたまさに神との間における平和なのです。

私たちは、先週までの4章をヒモどいてきましたが、その中であなたはすでに信仰によって義とされていると語ったのですが、

今日の御言葉において、あなたがイエス・キリストを信じた事によって神の平和の中にすでにあなたはいるとパウロは語っているのです。

つまり、それまでは神の怒りや罪や律法や死におびえ、人を裁き、そして自分をも裁いてきたけれども、神を信じ、キリストの十字架と復活の罪の赦しによって それから解放されたと、パウロはここで力強く語っているのです。


私は、先日の行なわれた前夜式・告別式の司式をさせていただき、本当に思った事は、死からの解放と言うのはこういうことなのかなと心の底から感じ取られま した。

賛美や祈り、弔辞やご遺族の挨拶、、これらの中に信仰の本髄を見る事が私はできました。

「ああ、信仰とは見えないものだけれども、私達が必ず訪れる最後の敵である死のときに一番の力を発揮し、

しかも死を目の前にする地上に残された私達にも、普通ならば、葬儀というのはいやしいもの、汚れたものとされているけれども、

しかし私達キリスト者にとっては勇気が与えられるものなんだ」と本当に感じたのです。

そう、この世界に生きている中にあって、一般の方々、

とくに日本人においてはどんなに自分が無宗教だといっても、怨念や怨霊というものの存在をどこかで感 じ、また死においては最大の恐怖がやってくる。

またキリスト者であっても神の怒り・罪と言う言葉にとらわれすぎて十字架と復活と言う言葉を聞いても、メッセージで触れられても、

神は恐怖の存在で私達を懲らしめる・痛めつけるんだと信じきり、十字架と復活の本当の恵みに触れられない方がいらっしゃる。


けれども、イエス・キリストの十字架と復活はなんであったのか?

それは、パウロが言うように「不信心な者」、つまり不敬な者。もっと言うなれば、神に対して反逆した人・神に背き、そして神の子を殺すこともいとわなかっ た人々のために、

神の子であるイエス・キリストは自分の命を捧げたんです。

あれだけ、イエスに唾をかけ、鞭によって体を傷つけ、イエスがはりつけにされているにも拘らず、笑い声を出し、罵ったもに関らず。

そんな人たちのためにイエスは十字架にかかったんです。

イエスはそして彼らのために十字架上で祈られた。


このイエスの姿のどこに怨霊が怨念が存在するでしょうか?

このイエスの姿のどこに神の怒りや罪があるでしょうか?


そこにあるのは神の怒りではなく神の赦しの恵みなんです。

そして私達の最大の恐怖である死も解決されたのでした。

それはイエス・キリストの復活によって。

イエス・キリストの復活によって死はなんら意味もなかった。

いやそれだけではなく、イエス・キリストの復活によって死の向こうにある本当の永遠の命を知る事が出来た。

これはなんと素晴らしく、喜ばしい、そして私達に勇気を与えてくれる神の大いなる恵みでしょうか。


神の間にある平和とはまさにこの神の怒り・罪・律法・死から解放されたこと。

神の間にある平和とは私達が考える平和じゃない・この世の快適な生活をするための幸福のことじゃない。

神の間にある平和とは私達の信仰・からだの真髄から・・・神の怒り・罪・律法・死から解放された事をいうんです。


この事を聞いた人の中には、

「なーんだ結局、自分だけを助ける独りよがりな排他的なものなんじゃん!」

と、思うかもしれません。

けれども、そうでしょうか?

私は、信仰によってそれまでの罪や死や神の怒りから解放されたからこそ、

本当の喜びを相手に伝えたいと思うだろうし、

主の愛にならって人を傷つけない・主イエスが人を差別されなかったように、自分も差別しないように傷ついている・弱気を覚えている人に手を差し伸べるよう になり、

その中から平和という輪もどんどん広がっていくのではないでしょうか。


聖書の御言葉と言うのはまさに逆説で、真理・真実に反しているようで実はそれが真理なんです。

つまり、あなたが神の前で信仰を持ち、イエス・キリストの十字架と復活を通して、

「ああ自分は神の怒り・罪・律法・死から解放されたんだ」

と、心から感じた時にそこには大きな安らぎが生まれ、

自分に対してもそして相手・家族や兄弟・他者に対してもそれまでの自分と違う自分がそこにはある。

だからこそ、人間のうちにも平和を築こう、差別の問題に対して立ち向かおうという人たちがでてきた。

人権だってそうです。 今は人権、人権とよく叫ばれますが、

この「人権」という言葉・概念もまさにこのイエス・キリストの愛、神の平和を知る人キリスト者たちが声を出していったのです。(トマス・ホッブズ-社会契約説、ジョン・ロックなど)

そして実は、

キリスト教の信仰は「なーんだ結局、自分だけを助ける独りよがりな排他的なものなんじゃん!」
と言っている人が実は、一番排他的で独りよがり事が多いのではないか。

私はそう思うのです。


私がこれまで活動してきた貧困の問題もそうです。

「海外の支援するなら、日本国内の貧困を解決する活動をしろ!」

と言う人がいます。

けれども実は、そういっているほど、貧困が進む国と日本の国を分けて考え、差別意識を持ち、日本の貧困の問題について積極的に関っていない現状がある。

また海外支援を行なってきた人が実は、日本国内における問題が客観的に見えてきて日本国内の支援に回る人も実は多いのです。

人間の節々にある言葉や行動の奥には必ずその人の裏返しの感情が横たわっていたりするものです。


けれども神の間にある平和とは私達の中にあるような偽善的なものではなく、神から出てくるものであるからまさに、真実であるのです。


ドイツの神学者カールバルトという人はこんな事を語っています。

それは

「われわれは、神の前で信仰によって義とされないかぎりいわば神と戦闘状態にある」
と。


そう、これまさにパウロがイエスに出会う前の状況です。

パウロは復活したイエスに会う前までは、イエスをメシア・救世主であると信じるキリスト者を迫害する・捕まえることとに熱心で、それは狂気のごとくキリス ト者に対しては敵意に燃えていました。

しかしここにひとつの疑問が生まれます。

それは、なぜパウロはキリスト者に対してそこまで敵意を燃えていたのか?


実は、この敵意に燃えていた背景には律法を全うしなければ「神の裁き」があると心の奥深くに秘められていたからなのです。

そして律法を全うしようとしているけれども、そこには全く安らぎの心が与えられず、その空虚さを無意識に埋めようとパウロは激しい行動へと駆り立てられて いったのです。

そうまさに、パウロはカールバルトが言うように、神の前で信仰によって義とされないときは、神と戦闘状態にあった。

これはキリスト者においても言えるのではないでしょうか。

キリスト者でも神が天罰を下される存在として恐れるが故に、異常な熱心さで伝道するけれども、無意識のうちに差別し、偏見をもってしまうキリスト者が。

しかし、パウロがダマスコ途上で復活イエスに出会ったときパウロは、その一撃によって、こんな自分をも赦してやまないキリストの恵みに触れ、

パウロはキリストの反逆者からキリストの使徒として偉大な伝道師として歩んでいった。

まさに神の愛によって・一瞬によって敵対・戦闘状態はなくなり、神とパウロの間に平和が訪れたのでした。


実は私たちは同じなのです。

私達も信仰によって神の義、つまり正しいものとなったときに私たちはそれまでの自分から全く違う自分へ変えられるのです。

パウロにおいてはそれはダマスコの出来事がそうでした。

パウロにとってあの復活のイエスにあった、あの一度だけの出来事がそれ以降のパウロの人生を変えた。

私達もそうです。

私たちはイエス・キリストを知るまでは、パウロのように目が見えないものであった。

けれども教会に来て、御言葉にふれ、そして自分の心にその御言葉を心から触れさせる時に、あなたは神を愛し始めたのです。

そしてそのときから貴方は神があなた・そしてすべての人間の創造者、救済者として認識した。


そしてそのときに神への熱意が燃えはじめるのです。

この中には神を憎み、神が大嫌いな人もいるかもしれない。神を疑い、神に疑念をもっているかたもいるかもしれない。

けれども、まさにそのような方の為にイエス・キリストはこの地上に来てくださった。

あなたのうちに神との平和があるようにイエス・キリストは来られたのです。

そう、苦しんでいる・もがいている・あがいている・心が安らがないあなたのために主イエス・キリストはこの地上に来られたのです。


そんなあなただからこそ、


「聖霊を受けなさい」


あなたの心の中にはすでに聖霊によって注がれている神の愛が存在している。


「聖霊を受けなさい」



パウロはこの聖霊によって注がれる神の愛について6節-8節において語っています。

【ローマ5章6節-8節を読む】

そう、あなたはもう神を恐れる必要ないのです。

そしてあなたの辿ってきたこれまでの道、

この世界は「あれをやったから不幸になった」とか「あんなことやったからお前はダメなんだ」とか

「おまえがこうしたら・あーしたから」とすべてに因果関係 を求め、

因果関係で全てを説明しようとします。


けれども神はそんな因果関係を求めません。

神は、イエス・キリストの十字架と復活を通してそんな因果関係を断ち切って、あなたを本当に自由・神の間の平和へと引き入れられたのです。

「どうぞ聖霊をうけて、信じてほしい」


あなたが聖霊を受け、信じ歩んでいく時、

あなたの信仰のうちに次の御言葉が宿ることでしょう。

それはガラテヤ2章20節

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」という御言葉。

私達の心・信仰にこの御言葉が宿った時、あなたはこれまで暗闇の世界であったけれども、そこから神の光が差し、信仰の夜明けを見ることでしょう。


「もはや生きているはわたしではない!私のうちにキリストが生きておられる」

私たちの信仰はこれによって立ち、絶望と思えるような中にあっても決して失望しないのです。

今日の聖書箇所の3節から5節の御言葉を見てください。

【ローマ5章3節~5節】

ここで語られている事は、私たちは苦労する・かん難に会うから最終的に希望を与えられるのではありません。

そうではなくて、「もはや生きているはわたしではない!私のうちにキリストが生きておられる」

という恵みによって立った時、かん難なときでさえ信仰の確信をもって、心に平安が与えられ、勇気があたえられるのです。


そしてそのかん難に対して立ち向かう勇気が与えられて、

戦い・忍耐し、練達しそしてそこからより輝かしい真の希望を生むんです。

クリスチャンというのは、勇気をもって患難と戦うんです。チャレンジするんです。


クリスチャンの中には、いつでも謙遜でなくちゃならないという頭があり、人の前では自己卑下し弱々しくいるのがクリスチャンなんだと誤解している人がいま す。

でもそうじゃない!

私たちは「もはや生きているはわたしではない!私のうちにキリストが生きておられる」

という事を自分の誇りにして

あなたのおかれている患難と戦うんですよ。

チャレンジするんですよ。

戦い忍耐するんですよ。

これまで自分を誇っていた事をやめて、神を賛美し・神を誇りにし、

「もはや生きているはわたしではない!私のうちにキリストが生きておられる」

と信じて、歩んでいく。


ここに私達の希望をもった、神の間の平和があるんです。

福音こそが、キリストと友に戦う勇気・勇者を生み出す力なんです。


皆さん、一緒にガラテヤ2章20節(新改訳)を読んでみましょう。


「もはやというところから」


主はあなたを神によって正しいもの・義とされています。

どうぞ、その事を今日、このときにあなたの信仰に刻んでほしい。

どうぞ刻んでください。忘れないように御言葉にしがみついてください。


そうすれば必ずあなたはこの世界がどうなっての信仰によって立つことができ、失望に終わらない希望を見出すことでしょう。

主に会って勇気をもってください。

主は貴方を大きな恵みの中に引き入れてられるのです。

主の祝福が大いにありますように祈ります。
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