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京都・花園キリスト教会

こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会

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義とは一体私たちにとってなんであるのか(礼拝メッセージより)

皆さんおはようございます。

先週は待ちに待ちそして祈りに祈ってまいりました50周年の特集でした。

講師に広島・呉教会から日本ナザレン教団理事長 松田基子先生をお迎えしての特集でした。

当日はあいにくの雨、しかもどしゃぶりの雨にも拘らず多くの方々がこの教会へと足を運んでくださいました。

しかも新しい方や久しい方も来てくださった。

私にとってこの出来事は嬉しいだけでなく、神の業だなあと本当に思わされた出来事でした。

よく選挙などでも雨が降ったら投票率が落ちるといいます。

週間予報を見て、当日は大雨が降ると聞いていたので心のどこかで難しいかなあと思っていました。

けれども、私の思いと主の思いは違っていた。

ふたを開けたらとても素晴らしい特集となっていました。

やはり、人の業ではないなあと感じます。

松田先生にとっても大変、こんな言い方は少々変ですが、のびのびできた特集だったとおっしゃっておられました。

先生は理事長という事で各地を回っておられるわけですが、その中で花園教会はのびのびできたという事ですから先生からの最高の褒め言葉ではないでしょうか。

また、花園教会は呉教会と似ており、親近感を持たれたようです。

夫婦で同じ教会に属しそして共に毎週礼拝へと足を運ぶ。

これは当たり前のようで中々当たり前ではないのです。

その意味でも大変この教会は祝されていると私は思います。


松田基子先生は京都に来られる事は多いようですが、すべて仕事なので観光をした事はほとんどなかったそうです。

けれども今回は宿泊場所も嵐山であった事もとても喜ばれておりましたし、特集が終わった後、先生をお連れして広隆寺と蚕の社をご案内したのですが、興味津々に見ておられました。

なんでキリスト教の牧師が日曜日、ましてや特集の後に、お寺・神社に行くんだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

けれども前任の牧師篠澤忠俊が変わっている様に、私も、、変わり者のようです。

血は争えませんね。

松田先生は、兼ねてより父から景教の話・京都のキリスト教について話を聞いておられたようで、その関連した今回の広隆寺と蚕の社をお連れしたときにはその父の話を思い起こされながら私の説明を聞いておられました。

私も父から色々と指南を受け、父が名古屋にいくときには、私に研究を託すといって名古屋に行きました。

私もまあ色々と落ち着いてきたら勉強してみようかなと思っています。

ともあれ、今度の50周年記念礼拝・特別集会は大変素晴らしかった。

そして、この為にご奉仕してくださった教会員の方々に本当に感謝したい。

そして祈ってこられた方々、その祈りが答えられました。

どうぞ皆さんでこの喜びを共に共有したいと思います。

どうぞ皆さんのご奉仕に感謝の拍手をしましょう。


そしてお祈りによって支えられたことに喜びの拍手をしましょう。


そしてこの特集によって神の御業が現れ、主の御名が高らかに崇められた事を感謝と喜びをもって拍手いたしましょう。


ありがとうございました。


この花園教会創立五十周年、特集は終わりました。けれども50周年のイベントは続いていきます。

そのひとつひとつのプログラムが本当に祝されていくようにまた祈っていきたいと思います。


さて、先週は50周年の記念礼拝と言うことで、松田先生は放蕩息子のたとえから、神の愛についてそして私たちの存在についてメッセージしてくださいました。

松田先生のメッセージは本当に心の中がポッと温かくなるそんなメッセージでした。

そしてその前の週、つまり先々週はどこを学んでいたかと言いますと、ローマ人の手紙から罪の問題についてメッセージいたしました。


先週のメッセージからガラっと変わりますが、この罪の問題は私たちが生きる中において常に付きまとうそして、知らなくてはならない事柄です。

勿論、私も先々週のメッセージでその罪について解決が起こった、よくわかった・解決したなどとは思っていません。

なぜなら私自身においても、これはこの牧会において私にとっても、突きつけられる大変な事柄なのですから。

ですから私も先々週のメッセージを神から与えられたときは、戸惑いましたし、もどかしかった。

そして何か、もやもやしたものがあったのも事実です。

ですから自分自身でも本当に罪を知り、悔い改める事ができたのかというのは疑問として残りました。

けれども、今回メッセージ準備をする中で、神はこの疑問に対して光を与えてくれました。

それは神学者カールバルトの言葉を通してでした。

ドイツの神学者カールバルトはこう語っています。

「自分の罪を知り、その事において自分を悔い改める事は、神から与えられる御業である」と。

そう私たちは自分の罪を知り悔い改めるという事柄は何か自分がやっていることのように思ってしまっている。

けれどもそれは全くの間違いであり、悔い改めとは神が人間に与える最初の基礎的な行為としての神の義なのです。

ですから、ゴッドファーザーの映画のように誰かを傷つけそして、悔い改めの祈りを行い、そしてまたその足で誰かを傷つけるとった類のものは悔い改めではないし、

人からお前は悔い改めなくてはいかんと言われ、人からそういわれつつ罰を与えられるようなものでもないのです。

これは私たちにとって実は目からウロコなのではないでしょうか。

私たちは自分で悔い改めることができると考えてはいないでしょうか。

とあるキリスト教新興団体では、牧師が悔い改め悔い改めと言っているようですが、悔い改めとは、強要する事ではなく、主の恵みにおいて気づくことなんです。

勿論、「悔い改めなさい」と言葉で伝えることもあるかもしれません。

けれども、その言葉が主から与えられた恵みから来た、神から来た義でなければ、それは本当の意味での悔い改めではないのです。

「悔い改めなさい!」

これは言葉として伝わるかもしれない。そして頭では伝わるかもしれない。

けれども、次の瞬間、その悔い改めは全くなかった状態へと戻ってしまう。そう、それはまさにゴッドファーザーのように。。。

悔い改めとは、悔いて嘆いて嘆いて嘆くものではなく、天に喜びを起こす業であり、心からの喜びであるのです。

そう悔い改めとはそれまでの自分の罪を気づき、神によって新たにされるという大きな喜びなのです。

イエス・キリストは例えを通してこういわれています。

ルカ福音書18章9節~15節

この徴税人は誰かに「悔い改めなさい!」と言われて、こうして悔い改めているのではないのです。

この徴税人の罪をあらわにし、そして胸を打って悔い改めと導いたのはまさに神の義。

この後、徴税人はどうしたのか?については聖書は記していませんが、

まさに神が私を憐れんで下さったと知ったときには、同じ徴税人のザアカイと同じように財産の半分を貧しい人々に施したり、

騙し取ったお金は4倍にして返したような行動をしたのではないでしょうか。

そう、悔い改めとは喜びへの第一歩、そして主を信じる者としての永遠の命へと向かう第一の行為なのです。

それをパウロはこのローマ2章4節で語っているのです。

さて、この5月はロマ書から御言葉語っていますが、この1章18節~3章20節まで、罪の事柄についてパウロは語っています。

それは何についての罪であるのか、

先々週与えられた箇所は、異邦人による罪でありました。

「時間的な中で私たちは神の御業を考えそして、適わない時には神から離れ、もうひとつの主人である富へと移っていき、そしていつの間にか自分が神のようになっていく偶像の神となる。」と。

ある方が、このメッセージの後、私にこういいました。

「先生、先生はメッセージの中で、ああ言うけれども、時間的な考えをしない人間なんて誰一人いないんですよ」と。


わたしもそう思います。私だって、そうなんですから。


今回特集に松田基子理事長が来て下さいましたが、今から二年前にも実は理事長はこの花園教会に来られました。

それは私が牧師として挫折し病気療養で、京都に来た後、

牧師として立って神学校から巣立ったのに4ヵ月後には大きな挫折を味わい、神がいないのではと思い、もう牧師をやめようと思っていたときでした。

私はそのときわざわざ花園教会に来られた松田基子理事長に対して、「牧師を辞める」とまで言いました。

けれども今回、主任牧師として立ち、今回松田先生をお迎えした。。。

私にとって振り返ってみるととても不思議な事ですし、先生が理事長になられたすぐ後の教団にとって大変大きな問題となりましたので、今回私は先生に、謝ったのです。

「あのときはご迷惑をお掛けしました」と。

けれどもそんな私に対して松田先生は
こう言われました。

「私はずっと祈ってきました。すべては神がなされていることなんです。だから謝る事はせず、そんな事は忘れてしまいなさい」と。


私にとってあのときは

「神が喜ぶであろう職についたのに、すぐに挫折し、家庭・家族でさえボロボロにさせた神が許せない。信じられない」

という考えでいっぱいでした。

そして私にとっては、それが全てでありました。

それが私の心を、信仰を支配していました。

だから、誰かがそんなときに、「牧師を続けて」と言われたところで、反感を・反発を持つだけでした。。。

ましてやここで、「悔い改めろ」と言われたら大きな反発をもっただけでしょう。
けれどもじゃあ今どうか。

私は牧師としてこうして続けられていることに感謝している自分がいます。

こうしてここの講壇に上がらしてくださっている神に感謝している自分がいる。

あの二年前の思いが嘘のようです。

今回、私が先生に謝った後には、そこにはなにか心に大きな温かい感謝の心がありました。

これは私にとっての悔い改めだったのかもしれない。私はそう感じるのです。

私はこの事を思うとき、ある方がメッセージの後に私に言った、

「先生、先生はメッセージの中で、ああ言うけれども、時間的な考えをしない人間なんて誰ひとりいないんですよ」

と言ったあの言葉に対する答え・光が与えられたことに気づきました。

それは何か?



それは祈り。


そう祈りである。


祈ることであるという事。


そして、ある方が私と同じように時間的な考えの束縛の中で、神を見失っているのであるなら、

もしあなたがそのような方を知っておられるなら、その人のために祈る。

そうあなたが祈ってあげる。

そうあなたが祈る。

そう、その人が祈れない中にあるのなら、あなたが変わって祈ってあげてほしいのです。


これはなんと私たち共同体の大きな強みでしょうか。


これは何物にも変えられない私たちにとっての一番大きな武器。

これが私たちの信仰の源泉。

あなたのその神への執り成しの祈りは、その人がまた自分で祈るときが与えられるときにはとても大きな力となるはずです。

そして自分で祈れるようになるとき、キリストがいつも実は、「私たちが神から見放された、神はいない」
と思っているときでさえも私の隣にいて支えてくださった事を知るのです。

そしてそのときにはどうしようもない自分の罪が明らかにされるけれども、私たちはそこで復活の主に出会い、どうしようもない罪ある私にでさえ

絶え間ない恵みがそして赦しが与えられている事を心から信じる事ができ、

そして主に信頼していくことができるのです。


プロテスタントもカトリックもない、宗派・教派を問わずただ「祈り」を通して主を讃美する「テゼ」という共同体があります。

私もその共同体に参加したことがあるのですが、

この「テゼ」を創設したブラザーロジェ、この方は残念な事に夕べの祈りの会で刺され殺されてしまったのですが

生前彼は祈りの中で知った神の愛についてこう語っています。

「始まりも終わりもない愛のなんと不思議な事か・・・。そしてあなたは思わずこう言っている自分に気づくのです。」

「復活された主イエスは、わたしの内におられたのに、わたしはそれに気づきませんでした。
いつも、どこか別のところにキリストを探していたのです。

わたしの存在の深みにキリストが置いてくださったいのちの泉から逃げている限り、どんなに遠く遠く地の果てまで走り探し回っても、ただ道に迷うばかりだったのです。
どこを探しても、神の内にある喜びを見つけることはできませんでした。

しかし、あるときわたしは気づいたのです。キリストはいつも私と共におられ、決して離れることがなかったと。

わたしは相変わらずそのキリストに声をかけることができませんでした。

しかし、キリストはそういうわたしをすでに理解し、キリストの方からわたしに呼びかけられていたのです。洗礼というのは見えない現存のしるしだったのです。

不安と心配のベールが取り除かれた時、信仰への信頼が訪れ、わたし自身の夜さえも照らすのです」。



ですから是非、祈ってほしい。

パウロは言います。今日の御言葉のローマ2章13節。

新共同訳ではこうあります。
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が義とされるからです」

つまりここでいう律法とは、神のメッセージつまり礼拝における神の御言葉を実行する人が神の前で正しいものとされるということです。


そうそれは今日においては祈りである。そして執り成しの祈りであるという事なのです。


今日のメッセージタイトルは「義とは、私たちにとって一体なんであるのか」となっています。

私たちはまさにこの世にあって、時間的な流れに生きているが故に、すべてを時間的な流れで見、そして神の義つまり、神の正しささえもその自分で勝手に設けた・セッティングした、制限の中でのみ行われると勝手に思い込んでしまっている。

しかも先々週のメッセージではその思い込みは罪へと繋がっていく事を知ったが故に、

また私たちは自分でこの義、つまり自分自身の力で、義と呼ばれる神の正しさを知る事はできないという事を知った。

私たちはその中にあって

「じゃあ一体私たちはどうすればいいんだ」

と私たちは思うはず。


けれどもだからこそ、今日あなたはこの御言葉が与えられたのです。

2章の13~14節

つまり、「祈りなさい」、そして祈れない人のためにあなたがその人のために祈りなさいと。

私たちに与えられている神の義は、祈りと礼拝における神の御言葉においてあなたは知る事ができるのです。

あなたが祈りと御言葉において神の義を知る事ができたとき、

あの徴税人と同じように神から与えられる悔い改め業が現れ、

そして私たちに与えられた十字架の赦しと復活の喜びをあなたは知る事ができるでしょう。

キリストはあなたの傍らにいつもおられます。

なぜなら主イエス・キリストは、あなたがキリストを信じるときでも、信じないときでも、あなたにとってのキリストであり、

またキリストを信じるもの、キリストを信じないものにとっても、主イエスはキリストであるのですから。


どうぞ、あなたにとってはキリストを信じるものとなってほしい。

なぜなら

主イエスを信じない。そうすればあなたもあなたの家族も救われると聖書に書いてあるからです。

主の祝福は皆さんにありますように

祈ります。

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