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主イエス・キリストにおける交わりは生ける希望を生む

<礼拝メッセージより>

おはようございます。

先週は主イエス・キリストの復活を共に喜び、聖餐式の恵みに共に与れた事を私はとても嬉しく思います。

やはり、共に与るということほど、素晴らしいものはありません。

これが共同体の本当な姿だと思います。

同じ神を信じ、その御堂で交わり、神の恵みを受ける。

信じる者たちが共に集まって聖餐のときを持つ事は非常に重要なのです。

つまり、聖餐に与る時、与るものすべてが主イエス・キリストを見上げて、食べ、飲むのです。

その聖餐のときに、ひとりでもそうでない人がいるとすれば、共同体としての意識も薄れていき、教会としての力も小さくなってしまいます。

ですから、聖餐式のときに「ふさわしくないままあで主のパンを食べ、その杯を飲むことがないよう、自分をよく確かめて、聖餐にあずかりましょう」と司式者は皆さんに問うわけです。


ナザレン教団の元であるメソジスト・清め派というべき基礎を作り上げたイギリスの神学者でもあり伝道師でもあるジョン・ウェスレーは、共同体の中心、教会の中心として聖餐式を据えています。

ジョン・ウェスレー自身の日記の中で、「私たち人間は神から私たちに先行して、先行とは先立ってという意味の先行ですが、そのような、神が先行して私たちに恵みが与えられている」と語っているのですが、

その先行する恵みは、主の晩餐、つまり聖餐式において伝えられると彼は語っています。

そしてウェスレーは、その先行する恵みはすべての人に与えられている恵みであるとしているのですが、ジョン・ウェスレーはその先行する恵みは人によっては、人は、その先行する恵みを失うことも可能であるというのです。

つまり、意識的に恵みを消してしまう、つまりそれは、神の愛なんてありはしないと否定したり自分から神を遠ざけた人ですけれども、

そう言う人もその先行する恵みを失うとウェスレーは語っているのです。

そしてウェスレはーは先行する恵みを失った人間は、もう一度先行する恵みを受け取る必要があると語りました。

それが聖餐を受けることなのです。

つまり、失ってしまった先行する恵みを受け取り直す(初めの愛に戻る)ことが起こる。ということなのです。


これは逆を言えば、先行する恵み・つまり聖餐は、神から降り注がれている恵みから落ちるのを防ぐという意味もあることになります。

そう、ウェスレーによれば、聖餐というのは「人が恵みから落ちるのを妨げる大きな恵みの手段である」というのです。

私たちナザレン・つまりメソジスト派の創設者であるジョン・ウェスレーは聖餐式は、神の恵みを受け取る事の目に見える形であり、罪の堕落を防ぐ大きな防御であると語っているほどに、聖餐式を重要視していたのです。

ですから私たちも新年度を向かえ初めて先週、しかも主イエス・キリストの復活されたという一番重要な日に聖餐の恵みを受けたのですが、ここでもう一度この聖餐に与るという意味をより深く理解していきたいと思います。

そして今度、行われる聖餐式の時には、皆一致して、主イエス・キリストの体と血に与り、交わりのときを持とうではありませんか!


さて先週私たちは、復活しした主イエス・キリストに出会い、少しずつ変わっていった弟子たちの姿を共に見る事ができました。
今日はその後のお話です。

この21章をひと言でいうなれば「イエスの使徒との交わり」と言えるでしょう。

今日の1節にテベリアの湖畔と記されていますが、これはつまりガリラヤ湖のことです。

今日の聖書の箇所、皆さん読んでみて感じる事はなかったでしょうか?

とくに今日の9節以降を読んでみて

9節「こうして彼らが陸地にあがったとき、そこに炭火とその上に乗せたうおとパンがあるのを見た」

イエスは彼らに言われた「あなたがたの今とったうおを幾匹か持ってきなさい」


そう、これは、ヨハネの福音書の6章の「5千人に食べ物を与える」箇所に非常に似ているのです。

新約聖書の福音書を読んでみると、実にイエス・キリストは交わりのときが多いです。

いつも誰かと食べています。

イエスを敵対ししていたファリサイ派の人々からは「食いしんぼうの大酒のみ」、新共同訳聖書では大食漢で大酒のみ」だといわれるほどでした。ルカ7章34節

このイエスの食べての飲むことが大好きだったイエスの事をいうと、結構若者は知らないようで、ビックリするようです。

先日、私もフィリピンのミンダナオ島に行ったのですが、痩せて細って帰ってくるつもりだったのですが、実際帰ってきても誰からも、

「焼けましたね~」とは言われたとしても

決して「痩せましたね~」とは誰からも言われませんでした。

まあそれはそのはずです。私はフィリピンに言っても食べていましたから。

私はフィリピン料理を食べておなかをくだすかな~と思ったのですが実際言って見るとそんな事はなく、フィリピン料理はとても美味しかったです。

すごく味付けが日本人好みで、全く食事違和感を感じませんでした。

またミンダナオ島は果物がおいしく、ヤシの木に生えているヤシのみを子ども達がとってくれてそれをその場で飲んだときにはそのうまさに感動しました。

日本ではあまり、そこらへんに生えている・自生している実を食べるという事はほとんどないため、そのヤシの実のジュースを飲んだときには、ヤシの木の生命をもらっているという何か不思議な感じもしつつ、けれども何か力がこみ上げてくるのを感じました。

これが自然の中で生きるということなんだなあと実感しました。

ともあれ、私はミンダナオ島に行ったときに、現地スタッフも笑うほどに食べまくったのですが、すごくよかったと思う点はこの食べる行為が自分一人だけではなく、みんなで食べるという点にあったことです。

このフィリピン・ミンダナオ島の旅で、一人で食べるという事はほとんどなかったと思います。

必ず誰かと一緒に食べていましたし、そしてそこには必ず笑顔があり、そして料理が「美味しい!と共感することができる人がいたのです。

その事を思いつつ、ふと日本人の食事の事を考えると日本人の食事の乏しさが浮かんできます。

それは食事内容が乏しいということではなく、むしろフィリピンの方が食事内容は乏しかったけれども、すごく今の自分の印象に残っている事を考えると、
食事をする事を楽しむ・そして共感し合うという事がフィリピンの方が質がいいのではないかと思うのです。

私はミンダナオ島にいたときに、お昼にお世話になっていた施設:ミンダナオ子ども図書館という施設ですけれども、そこで働くスタッフがお昼になるといなくなってしまうことに気づき、質問してみました。

「お昼、姿が見えなくなるけれどもどうしたんですか?」

するとこういう答えが返ってきました。

「えっ、家に帰ってご飯を食べるんですよ」
と。


これは今の日本では考えられないことだと思います。

今の日本は家に帰る事はないどころか自分ひとりでご飯を食べる時間さえないのが実情ではないでしょうか。

私はこの日本の実情を現地の子に話しました。

「お父さんは会社にいき、お母さんはパートで働き、おじいちゃん・おばあちゃんはデイケアセンターにいき、子ども達は学校にいくから、昼間は家に誰もいないんですよ」と。

そう私が話したことに対して、現地の子達はなんて答えたと思いますか?皆さん。


それは「日本の人たちは年齢毎に一箇所に集められているんですね」
と言ったんです。

私はそれを聞いて、ああそうだと思いました。


私たちは、自分達の行動で、会社に行ったり、パートに行ったり、学校に行ったり、デイケアセンターにいくように思っているけれども、実際には行かされている・集められているんだなと。

日本の生活は便利だけれども、今の日本の現状はどうなんでしょうか。

私も家族で外食にいく事があるのですが、横のテーブルを見ると家族連れながらも全く会話のない家族を目にする事が最近多くなりました。

子どもは食べながらゲームをし、親は親で携帯をする。

私もゲーム会社に働きゲームを作る側に人間だったのですが、ゲームをこうやって使ってほしくはないとすごく感じます。

私はそれを見ると何が楽しくて外食に来ているんだろうといつも思うのです。
その意味で今の日本人は特にコミュニケーションがへたくそだなと思います。

しかも親がそんな行動をしているのですから、子ども達はその親を見て育つわけです。
すごくこれからの日本の社会が不安に感じられるのは私だけでしょうか。

美味しいと共感し得る家族がいるのに、相手がいるのにそれを拒否し自分の世界に入っていく。

思いを共有する、しかも同じ思いを共有する事ほど信頼関係を生む行為はありません。

この事を考えるとまさに主イエス・キリストの行動がまさにそうでした。

差別を受けている人、身分が低い人の元にいき主は食事を同じ思いを共有する。

まさにコミュニケーションという観点からも主イエス・キリストの行為は素晴らしく理論に適った行動だと思います。

しかも今日の御言葉読んでもまず主が最初に弟子たちに声をかけておられる。

復活の後、イエスは、イエスご自身が声をかけられるのです。

それもただ声を変えるだけではなく、12節「さあ来て、朝の食事をしなさい」
と言われる。

つまり、復活された主イエス・キリストの方が、私たちに交わりをしないかとおっしゃっているのです。

言い換えれば、主イエス・キリストが交わりをしたいと望み、弟子達はその交わりにあずかっていったのです。

これは私たちにも同じことが言えます。

それはまず復活した主イエスが貴方に交わりを望まれるということです。

しかもそれは今日の御言葉にあるように弟子たちがそれがイエスだとわからないように。

つまり、貴方にそのような主からの招き・声かけ・出来事があるときには、「主からの招き・声かけ・出来事がきた!!!」とショックを受けるような招き・声かけ・出来事ではなく逆に、それが主からの招き・声かけ・出来事かわからないような。

けれども次に私たちは6節の「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言う風に主からの御言葉が私たちに与えられるのです。

つまり、私たちに聖書の御言葉が与えられるのです。何か、変な音が聞こえたというのではなく、まさに私たちにはこの聖書の御言葉があなたに与えられるのです。

さあ、ここで私たちが本当に信仰的に試されるのであります。

御言葉に言われたように、網を下ろすのか、下ろさないのか。という選択が。

つまりそれは復活した主イエスキリストを信じるのかと言うこと。これはクリスチャンであっても試されます。

いえ、クリスチャンだからこそ試されるのです。弟子たちがそうであったように。

私たちが信仰をもって復活したイエスの御言葉を信じたとき、どうなるでしょう。

それはまさに6節後半や11節にあるような網が引き上げらないほどの魚が与えられる。

ここで私たちが間違えてはならない点は、この魚が取れるという事は自分の欲求が満たされ実現するということではありません。

つまり、あなたの信仰の中心にイエス・キリストの光の火が灯されそれは個人的な体験にとどまらず、全世界へと広がっていくことを示しているのです。

そして今日の聖書箇所はまさに、今日の冒頭で語った聖餐式に繋がっていきます。

主イエスを信じ洗礼を受け、主が聖餐を通しての交わりに私たちを招き、そこで主の体と血に与る。

そしてその主の交わりには多くの方々と共に行う。しかも、同じ主の言葉を信じ祈りを持っているもの同士の交わりです。

主が招いておられ、そしてその主の言葉を信じ、その交わりにあずかる聖餐なのですから、これが私たちの個人的な体験に終わるはずがないのです。

いえ、それどころか私たちが聖餐にあずかることによってそれは深い神の愛を知る伝道へと繋がっていくのです。

ですから私は皆さんに冒頭でお話したように聖餐式と言うものをもう一度、もしこの中で少しでも軽んじている方がおられるのであればそれを改めていただき回心のときとしていただきたいのです。

聖餐のときとは、13節の「イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また魚も同じようにされた」とあるように復活の主イエスに出会うときなのです。

このときに私たちの信仰に私たちの罪の為に死なれた主は復活したイエス・キリストであるという信仰告白がなければ、いくらうわべだけで聖餐を受けても復活した主に出会えるはずがありません。

それどころかそれは主の体と血を犯すことになってしまうのです。

私たちはそうではなく、今日の弟子たちがそうであったように主イエスが言われるつまり、御言葉を信じて、復活の主を信じて網を下ろしてほしいと思います。

そうすれば必ず、これからもずっと行われる主の交わりである聖餐が、貴方にとっての生きる希望となっていくであろうし、恵みである事を知るだろうし、そして同じ主の交わりをまだ知らない人たちに知ってほしいと心から望みそしてその人のために祈っていこうと行動してはずです。

これが私たちの伝道です。伝道というは、伝道・伝道と叫ぶから伝道なのではありません。

伝道と言うのはまずあなたと神との関係、つまり聖餐によって復活の主に出会う事から始まるのです。

ですからどうぞ、皆さん聖餐式において復活の主に出会い、恵みを与えられている事を体験してほしいと思います。

主イエス・キリストにおける交わりほど素晴らしく私たちを力づけそして思いを一つにする事はありません。

だからこその交わりに生ける希望が生まれるのです。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」

あなたが主の御言葉によって力づけられ、生ける希望が与えられますように。
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