聖書箇所:「使徒の働き(使徒信条)3章1~10節」
今日は、受難節(四旬節)、またの名をレントという第2週目の主日礼拝です。
受難節(四旬節)・レントの起源は、モーセの荒野においての40年間の生活や、イエス・キリストが断食をされ、その時に、悪魔から誘惑を受けられた40日間から来ていると言われます。
受難節(四旬節)・レントの期間は、イエス・キリストが復活された日であるイースターまでの40日間、日曜日はカウントしないのですが、灰の水曜日と言われる水曜日から始まります。
この受難節(四旬節)・レントの期間は、わたしたちに、祈りを強め、また悔い改めて心を開き、神のみむねを従順に受け入れるよい機会を与えてくれます。
受難節(四旬節)・レントの間、わたしたちがたどる霊的旅路は、キリストの死と復活という大いなるみ業を思い起こす準備をするためのものです。
その実現のためには、第一に、神のみことばにより熱心に耳を傾け、さらに、より惜しみなく節制を実践することが必要です。
節制とは、規則正しく、度を越えた行動を抑えることです。
こうすることで、苦しみのうちにある人々をより広く援助することができるようになります。
今日の聖書の箇所はその広く援助するという意味で私達にその援助の本当の意味を知らしめてくれる御言葉と言えるのではないでしょうか。
今日の「使徒の働き」には3人の人物が登場します。
それはペトロとヨハネ、そして生まれながらにして足の不自由な人の三人です。
ペトロについては皆さんもよくご存知だと思います。
ペトロは漁師でしたがイエス・キリストに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、兄弟アンデレと共にすぐに網を捨てイエスにしたがったあのペトロです。
そしてヨハネ。このヨハネは洗礼者ヨハネとは別の人物です。
このヨハネはゼベダイの子ヨハネで、彼も漁師でした。
マタイ福音書の4章18節を見てみるとヨハネがイエス・キリストの弟子になる記述があります。
それによるとペトロとアンデレがイエスに従った後すぐに兄弟ヤコブと共にヨハネもイエスに従いました。
この事からもわかるようにこのペトロとヨハネはイエス・キリストの最初の弟子となるわけです。
この2人の弟子は、イエスが天に上げられた後、聖霊を受けて・ペンテコステでありますがイエス・キリストの福音を多くの人々にのべ伝えたのでした。
この事はイエス・キリストがペトロに言われたあの言葉の実現のひとつの形でもあったのです。
その箇所はマタイによる福音書16章18節から
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」
つまり、ここに登場するペトロ・ヨハネを始め、聖霊を受けた弟子たちがイエス・キリストの福音をのべ伝えていったわけです。
ペンテコステはよく教会の誕生日とも言われますが、聖霊を受けた弟子たちがイエス・キリストの伝えた神の福音を全世界に伝えていきました。
今日の箇所はその教会が建てていくぺトロとヨハネの宣教がここに記述されているのです。
そして登場する3人目は、足の不自由な男性です。
この男性は生まれながらにして足が不自由でした。
70人訳聖書には「母の胎にいるときから」と記されています。
この人の年齢は、次の章4章22節を見てみると40歳を過ぎていたと記されています。
この教会に40代の方はいらっしゃいますか?
そう、いらっしゃらない。じゃあ自分は気持ち40歳かな?と感じている方は?
私はいつも自分の年齢を言うと
「ええ!?まだ20代なんですか?」
とびっくりされてしまいます。
「20代には見えない!考え方が40代くらいに見える」
と言われます。
その事を考えるとある意味、私に近いかもしれません(笑
しかしこの40歳の男性は、身体的には40歳であっても気持ちは違ったかもしれません。
今日の聖書の箇所には【この男性が施しを受けていた】とあるからです。
現代で言えばまだバリバリ働けるであろう年齢の方が、足が不自由であるいう理由から施ししかできない。
今日の聖書箇所からもわかるようにこの男性の日課は「施し」だったわけです。
毎日、毎日「施し」のために神殿の門そばに置いてもらう。
彼にできる事はそれだけでした。
皆さんは施しを受ける方をご覧になった事はあるでしょうか?
私は、あります。
それは、高校のときです。
当時、鹿児島の県立高校はほとんどの学校が修学旅行に海外が選ばれていました。
海外に行って様々な体験をするというのが当時の鹿児島の教育方針だったようで、私の学校はマレーシア・シンガポールに行きました。
その修学旅行の中でマレーシアにあるマラッカ海峡・中東・アジアの貿易を結ぶ大変重要な航路ですが、その船の往来を望める丘が観光名所となっていた場所に行った時のことでした。
その丘はとても綺麗で言われるようにマラッカ海峡が望め、沢山の船舶の往来しているのが見えました。
しかし、私が衝撃だったのはそのマラッカ海峡でも沢山の船舶の往来を見たことでもなく、その観光名所の通り道で1人の老人が手をこう固定させていた姿でした。
最初、何をやっているんだろうと遠めから見ていたのですが、近づいてみるとその手の上にはお金が置いてあったのです。
その老人は全く微動だにせず、手を固定させていました。
私は初めてこの目で物乞いをしている人を見たのです。
私もお金をその手のひらにそっと置いたのですが、私がその老人の顔を見た際、とても衝撃だったのはその老人の目でした。
その老人の目はどこかこの世に自分がいないような・・・・そんな事を思わせる目で、遠くをずっと見ていた目でした。
死んだ目ではないけれど、でも生きた目でもなかった。
私達が「物乞い」をイメージすると、どうしてもこの前のクリスマスに女性会の方が素晴らしい演技してくださったあの「マッチ売り」のように、人の情に訴えながら
物乞いをする人をイメージすると思いますが、
しかし、今日の聖書箇所に出てくる足の不自由な男性のように長年、物乞いをしていると先ほどお話しした老人のように、情に訴える事を越えて
それが何かもう生活の一部となってしまい感情すらあまり持ち得ない状況となってしまっているような・・・・。
今でのあの老人の目は忘れられません。
その事を思うとき、今日の箇所でペトロがじっとこの物乞いをしていた男性をじっと見つめ、「わたしたちを見なさい」と言った事は私にとってとても印象的です。
このペトロの「わたしたちを見なさい」という言葉にはこの男性を人間としてちゃんと認めているからこの言葉が言えるのではないでしょうか。
私が初めてその「物乞い」をして老人の姿を見たとき、そして老人の目を見たとき、あまり良くない言葉ですが、正直「この人は人なの??」
「人間なの??」と心で感じてしまいました。
しかし、ペトロはこの物乞いの男性に「わたしたちを見なさい」と語り、この男性との人間関係を求めたのです。
この日本においても、最近のニュースでホームレスを襲撃する事件が多発しています。
よく捕まった犯人はこういいます。
「なんかうざかった。」、「自分の仕事がうまく行かずイライラしていた」「自分とは同じ人間だとは思わなかった」
と。
ここには、ペトロが求めた人間関係のかけらさえありません。
これは、人間の罪なんだろうと思います。
私達自身が生み出した罪の社会・罪の生活の一つの結果なんだろうと思い知らされます。
私は大学時代・ホームレスの支援活動や炊き出しのお手伝いをしていた事があるのですが、
その炊き出しをしていた時、1人の60代近くの男性が私のところにきてこう言って来ました。
「炊き出しにならんでいるあいつらは、人間のクズだ。あんなくずはいなくなればいい。俺とあいつ達は人種が違う」と。
同じ日本人同士であってもこう人種差別するような日本人がこの日本に存在するんだと改めて知らされた瞬間でした。
同じ日本人だろうが、外国人であろうが、皮膚の違いであろうが、差別意識はそして人間の根底に罪が存在している。
つまり同じ日本人だろうが、外国人であろうが、皮膚の違いであろうが、全く関係なく差別の人間の関係を求めない心を持っている。
ですからこの人間の関係を求めない心は、いつどこでだって起きるのです。
つまり、学校であっても職場であっても夫婦であっても、親子であっても兄弟であっても、そしてそれが教会であっても起る。
そうそれがいつでもどこでも起きてしまうということなんです。
それはどうしてか?
そう、なぜならそれは、私達の中に罪が存在するから。
私達は【人間は人間との関係によって生きる】と言われるにも拘らず、知っているにも拘らずその関係を求めない。
今日の御言葉に出てくるペトロはどうだったでしょうか。
「わたしたちを見なさい」
彼はまさに人間関係を求めたのです。
しかし、なぜペトロにはこれができたのでしょうか。
それは6節を見てみるとわかるはずです。
つまり6節、「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレ・・・」
新共同訳では「わたしには金や銀はないが持っている物をあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
そう、ペトロはイエス・キリストの名によって行動したのです。
ペトロは使徒の働き2章45節にあるように
財産や持ち物を皆で共有していた事から彼自身本当にここで言うように金銀がなかったのだと思います。
普通なら、物乞いをしている人を見たら「相手が求めているものを上げなくては!」と思います。
つまりここで言えばまさに金や銀などのお金です。
ペトロももし、イエス・キリストに出会っていなければ、この物乞いが求めるもののように金や銀などのお金を施そうと思ったことでしょう。
しかし、ペトロは金・銀よりももっと、お金よりももっと尊く・高価なものに最高のものを知っていたのです。
そうそれは主イエス・キリストの福音であると。
ペトロは自身の手紙でこう記しています。
「ペトロの手紙1 1章7節」
彼はそれを知っていたからこそ、必要以上の財産や持ち物は共有していたのであり、自分には必要がないと感じていたのでしょう。
そしてその最高の贈り物を・福音をまさにこの物乞いの男性に与えたわけです。
この奇跡の出来事は私達に一体どのようの意味を与えてくれるのでしょう。
それは、私達もこの物乞いの男性のように主イエス・キリストの福音に触れる前までには目が生きていなかったのに、
この8節を見て下さい。
踊り上がって立ち、歩き出し回って踊ったというではありませんか!
私達も主イエス・キリストの福音に触れれば私達も立ち上がる・生きる勇気が活気が与えられるのです。
そして遂にはこの弟子たちと同じように主イエス・キリストの福音を他者に与える事が許されるということです。
この世界は、お金で動いています。
最近の政治の世界にもお金がまとわりつき、この不景気もお金がからみ、すべてにお金が絡んでいます。
私はここでお金自体を否定するつもりはありません。
今も昔も変わらず人は、お金と付き合ってきているのですから。
これからもそうでしょう。
私自身も先立つもののために平日はアルバイトですが、会社に行き、フルタイム働きそして時には朝から深夜近くまで働くことだってあるわけです。
勿論、少しでもアルバイト代がアップする事は嬉しい事ではあります。
私が働いている会社でもお昼の休憩時間もやはりお金にまつわる話になるわけです。
その会話の中で、社会情勢や会社の話は会話に出てきますが、あまり会話の中に、自分の家庭の事をさらけ出すような内容、ましてや相手の家庭の事情や子どもの事を心配してあげるという内容の話は聞きません。
私達が四六時中、このようにお金の情報を見聞きし、話、悩んでいたら、自分の心がすべてお金になっていくのがわかるような気がします。
しかし、そう考えると教会は違いますね。
教会では勿論見聞きした話など愚痴っぽくなる話もあるわけですが、しかし相手の事を気遣いそしてその家庭の為にその子ども達のために祈るわけです。
ここに大きな違いがあると私は思います。
祈りとは相手を心配する行為ではなく、相手に積極的に関与するという能動的行為なのです。
つまり、とりなしの祈りに代表されるようにペトロが物乞いの男性に人間と人間との交わり・関係を求めたように教会にもそれがある。
交わり・関係のない教会はいつかこの世と同じになってしまうでしょう。
ですから皆さん、日曜日の朝こうしても忙しい中御堂に集まっているのですから是非人間と人間との交わり・関係を求めてもらいたい。
一方が求めて一方が求めない。これでは成り立ちません。
どちらも交わりを求めなければ成立しないのです。
主イエス・キリストはどんな時でも交わりを欠かさない方でした。
ペトロもそれをよく知っていたからこそ彼も物乞いの男性に交わりを求めたのです。
あなたの土台はいつしかお金にまつわるこの世の煩い(わずらい)になっていないでしょうか?
私達の土台はなんでしょう。
それはペトロがここで「ナザレの人イエス・キリストの名によって」と語っているようにクリスチャンの土台はすべてにイエス・キリストなのです。
これはしっかり持って欲しい。そして求めて欲しい。
あなたがそう、求めなければ、土台をイエス・キリストにあると信じなければ何も成り立たないのです。
あなたの土台はお金でも、社会情勢でもあなたの思い煩いでも・あなたの心でも・あなたの性格でも・あなたの気持ち・心境でもない。
ただただあなたの土台はイエス・キリストにあるのです。
イエス・キリストがすべてにおいて私達に答えてくださる方なのです。
私達の土台がイエス・キリストにあるからこそ私達はどんな困難が来ても大きく土台が揺れたとしても崩れる事もブレる事もないのです。
【ペトロの手紙1 1章7節】これが私達の信仰であり、苦難に打ち勝つ力であり、主イエスが私達に与えてくださった福音なのです。
是非その事をもう一度あなたの信仰に刻み付けて欲しい。
そうすれば真の主による交わり・関係も自ずと与えられるはずです。
私はこの一年、会社と教会というものを所謂、両立するような形になりました。
今振り返ってみると牧師と言う立場にありながら社会を知ることができたという点ではメリットはありましたが、聖書に浸るという点では時間が足りなかったというデメリットも知らされた一年であったように思います。
以前ある教会に行ったとき、ある信徒の方が、「牧師は社会経験してから牧師になるべきだ!」と断定している方がいらっしゃいました。
私は色んな経験を通して牧師になられる事はとても素晴らしい事であるし
その経験が必ず賜物として生かされていくと思うのですが、
だからと言って「社会経験してから牧師になるべき」と断定する事はできないと思います。
いいえ、断定してはいけない事だと感じます。
それはなぜか。
それは伝道の書の3章の御言葉にあるように。
この箇所は新共同訳の方がいいので読みますが
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」
と書いてあるからです。
そう、主に導かれ牧師の道を歩むときは私達が決めるのではない。神がお決めになるからです。
これは勿論、牧師になるときだけの話ではありません。
クリスチャンになるときだって、主の祝福に触れるときだってそう、教会にこうして来ることだってそうなのです。
今日の御言葉に出てくる物乞いの男性もそのときだったのでしょう。
でも私達は、ここで大切な事を知らなければなりません。
それは、神は主の福音を知らせるとき必ず神はそこには人を立てて、人を遣わして知らせるという事を。
この物乞いの男性に神が主の福音が知らされたのはまさに人であるペトロの存在がありました。
そう、神は人を遣わして主の福音を知らせそして福音を与えられるのです。
ある人にとっては親であり、ある人にとっては兄弟であったり、ある人にとっては伴侶であったり、ある人にとっては友人・知人であったり。
神は人を遣わし、福音を知らせる。
ここにおられる1人1人もそうであったはずです。
そしてここにおられる1人1人も必ず福音を知らされる者から福音を知らす者へと変化していくのです。
今のあなたは、福音を受けるものだけだと思っているかもしれない。
しかし、それは違う。
あなたは福音を受けるものから、福音を受け続けながらその福音を知らす者へと変わっていくのです、
その時がいつなのか私にも誰にもわかりません。しかし必ず主が与えてくださいます。
信仰と言うのは大きな運動体です。
つまり、あなたのその信仰が次の世代の信仰へと受け継がれていくのです。
そう、あなたはすでにその受け継ぐための要(かなめ)・担い手なのです。
あなたはそれに気付いていないかもしれません。信じられないかもしれません、
しかし神はすでにあなたのその信仰によって他者に福音を与えられているのかもしれません。
ペトロが物乞いの足の不自由な男性をイエス・キリストの名によって立ち上がり・歩くよう命令した際、とても印象的なのはペトロがこの男性の右手を取って彼を立ち上がらせたというところです。
私達もそうなのです。
神が、生きていないような目をした者・弱り果てた者を立ち上がらせる際、ペトロが物乞いの男性の右手をとって立ち上がる手助けをしたように、私達はそのお手伝いを担うのです。
これはこの世にどっぷり浸っている人間には到底与えられない、素晴らしい役目です。
あなたも神の業の一部を担うという重要な役割が与えられるのです。
神の業に関られる事ほど、この世界で素晴らしい事はありません。
私達はお金よりももっと高価でこの世の中で一番尊くそして強い主イエス・キリストの福音をもっているのですから
主イエス・キリストを土台に据え、あなた自身が人間の関係を求めそしてあなた自身が立ち上がり、
そして立ち上がることができたならば今度は自分が主イエス・キリストの名によって他者を立たせるお手伝いをするのだという事を信じていただきたい・歩んでいただきたいと思います。
そうすればあなたの心を支配していたお金やこの世の煩いは消えて平安が与えられるでしょう。
そして真の希望が与えられ苦難に打ち勝つ勇気が与えられるのです。
そしてあなたの目は来るべき神の国を見据えてこの世を堂々と歩んでいける。
主の祝福が皆さんに大いにありますように祈ります。
(3月8日主日礼拝説教にて)
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http://kyotohana.blog.shinobi.jp/Entry/103/私には金銀はない。けれどもわたしにあるものをあげよう。
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