こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会
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●詩編で祈る
神に「自分の言葉で」自由に語りかけることは、ある意味では、祈りの理想です。
初心者で素直にこれができる人があります。
しかし、だんだんに難しくなるのが普通です。本当の神に話しているのか、おもちゃのぬいぐるみに話しかけているようなものなのか、わからなくなるのです。
そして、かつて自分がまっていた神との親しい交わりを失ってしまったように思い、がっかりします。
しかし、これは本当の問題に取り組み始めたからなので、退歩ではなく、進歩なのです。
人間が神に語りかけることが難しい理由を考えて見ましょう。
① 相矛盾する思いが同時にある
例えば、自分に不当な仕打ちをした(と思う)人への怒りがある。
しかし、同じ心の中には同時に、「自分が悪いのかもしれない」「人を責めることができる立派な自分だろうか?」という相反する思いもあるのが普通です。
一つの思いを神に語ろうとすれば、もう一つの思いが足を引っ張って、思い切って語ることができません。
② 言葉が見つからない
現代の日本人は怒りに限らず、嘆き、喜び、痛悔などの強い情念をしっかりとぶつけることのできる言葉を失っています。私達はみな、「むかつく」「この野郎」というような短い貧しい言葉を投げつけるか、あるいは新聞の社説のようにしゃべるのです。
「テロはゆるされるべきではない。・・・なければならない」など。
③ 自分の思いが弱々しく思える
黙っているときには、自分の中に非常に強い感情があるように思える。
しかし、いざ語ろうとすると、急にそれが弱々しいものに感じられて、腰砕けになってしまいます。「言うほどのことでもない、言ってもしようがない」
④ 聴いてくださる方はそこにおられるのか?
たぶんこれがもっとも根本的な問題です。神が人間の旅路に深い関心を持っておられること、自分が語りかけるときには耳を傾けてくださることを、私は知っています。
しかし、信仰のレベルでそれを確信していることと、自分の心の思いを真剣に聴く方がそこにおられると感覚のレベルで感じることは別です。
身体的、感覚的なレベルの手ごたえがないと、神に語り続けることはむなしく思われるのです。
●詩編の力
このように思いも、言葉も、信頼も貧しい。そんな私達のために、神は詩編を与えて下さいました。
詩編は人間からの神への語りかけです。
詩編の祈りの秘訣は、「詩編の言葉に自分の思いを乗せる」ということです。
例えば詩編88・16
「わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます」
これは現代日本の都会の中で孤独に苦しむ人の思いを乗せてくれます。
特別な感情が溢れるときは思わず叫んだりします。しかし、そんな特別な感情は日常的にできるものではありません。
祈る人になるとは、感情が満ち溢れてはいない普通の日々にも祈れる、神に語りかけることができる、という事です。詩編はそのために大きな助けになります。
●詩編を祈る手順
① 詩編を一つ、ゆっくりと声をだして読む
一つひとつの言葉を自分の心に触れさせながら。
② もう一度、ゆっくり黙読する。今度は、どの言葉が自分の中にある思いを呼び起こしてくれるかを感じ取ろうとする。
③ 一行、二行分くらいを選ぶ。
④ その言葉に自分の心を乗せてやるつもりで、声を出して読む。
三度、間をおいて、ゆっくりと読む。
※ 勿論、詩編の全部が神に「あなた」と直接呼びかける文体ではありません。けれども祈る時は、その歴史を感じながら自分が語り、神もその場におられ、この言葉を聴いてくださると考えるのです。
祈りは、神にすべてをぶちまけること。詩編には怒りもあれば屈辱、赦し、希望、感謝、嘆きなどの人間の心の奥底に隠されているものがすべて神にぶちまけられているのです。
神は私達の祈りを聴き、そして神の御心のままに私達を導いて下さいます。
●実際にみんなで祈ってみよう
怒りから嘆き―詩編109 怒りを吐き出し、神に嘆いていく
屈辱 102篇 ●独りで祈ってみよう-123篇