こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会
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聖書箇所:ルカ5章1節~5節
皆さんこんにちは。
今日、与えられたみ言葉は、ルカによる福音からです。
さっき読んだ箇所の出来事を通してペテロがイエスの弟子となった箇所ですね。
ここの5章5節に「私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。とあります。
ペテロさんはいわゆるオール、ずっと魚をとるために漁をしていたんです。
でも全く魚がとれなかった。
この場面は、湖での漁が舞台だけれども、これと同じようなことをみんなも学校や家庭や職場でも・それに教会でも経験するかもしれません。
いいえ、もうしているかもしれない。
それは、みんなが何か作業をやっていて、色々試したのに、頑張ったのに、なにもできなかった。
そんな経験はないですか?
そんなときに、知り合いや友達や親に「またそれをやってみたら?」と言われたらどうでしょう。
友達から、知り合いから、親からそんなことを言われたら、先生なら、「そんなことを簡単に言うな!」とむかつくし、やる気がでなくなってしまいます。
またできなかった作業を再開する、もう一度やるということは容易じゃない、簡単じゃないですよね。
それどころか、すべてが退屈でいやになってしまいます。
すべてのことが嫌になってしまいます。
みんなそうしたらどうでしょうかねー。
「もうどうでもいいわ~」なんて思っちゃって、毎日の生活・学校・職場・人との交わり、教会で言うならば、毎週の礼拝などが重荷となってしまい、嫌になってしまう。
もしそうなったら、私たちの祈りでさえ冷え切ってしまいます。
クリスチャンであったとしても、「もうどうでもいいや~」と思ってしまったら、そこには喜びも感動も希望も他人の事を思いやる愛も無くなってしまいます。
そうなると、どうでしょう?
家庭や学校、職場などにおいて、特に、自分にとって一番身近な人を、傷つけ合ってしまう。
「別にそんなつもりはないのに」と思っても一番身近な人を傷つけてしまうのです。
そうなってしまったらまた、人を傷つけてしまうかもしれないという思いがどんどん大きくなり、しまいにはすべての事に無関心になってしまいます。
そしてお互いに「こいつが悪い、あいつが悪い」とただ批判するようになってしまいます。
また批判するようになると今度は、犠牲を払うこと嫌がる。それは、「じゃあ自分が、僕が私が●●をやってあげるよ」と他人に対して思いやる気持ちがなくなってしまうんです。
そうなるとそこには何も生まれないし、進歩もありません。愛も冷えてしまいます。
それは私たちクリスチャンであったとしても失望し、すべてに無関心になり、すべてのことについて疲れてしまいます。
私たちが生きている現代は非常に生きることが難しい・大変な時代です。
私たちをがっかりさせ、働きを困難にする要素は多いし、皆さんもそう感じることが家庭、学校、職場、友達、教会など色んなところであると思います。
ここで、もう一度聖書を読んでみたい。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」
ペトロは、自分の考えに凝り固まらず、自分の状態をありのままイエスにつげました。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」
ペテロは今までなにもできなかった。それを正直にイエスに話したんです。
みんなも今の自分の状態をイエス様に告げてみましょう。そう言ってみましょう。
私たちも、ペトロが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」
と言って見ましょう。
でも聖書に書いていても実際の生活の中で、どうせ神に言ったってどうにもなるわけがないと決め付けて神に背を向ける人がいます。
でもはっきりいいます。
それは間違いです!
それはイエスキリストから離れる行為です。
悪魔・サタンが喜ぶ行為です。神様を忘れようとしている証拠です。
私達はそうではなく、私達はイエス・キリストという人がどんな人であるか知っているんですからいってみましょう。言って見ましょうよ。
「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。・何もできなかったんですよイエス様」って
そのときイエス様は
「沖に漕ぎ出して網をおろしなさい」と言われるんです。
この沖に漕ぎ出すとは、神様がくれる希望に向かって前進しなさい、チャレンジしなさいということです。
教会は、沖に漕ぎ出すための停泊所に似ていると私は思います。
教会は、希望という約束の地にむかうため停泊所である。
旧約聖書にでてくるアブラハムもモーセも神様が約束してくださった土地を目指して砂漠と言う名の大きな海で旅を続けました。
アブラハムとモーセはその約束の土地にいくまでに、何度も何度も休むために同じ神様を信じる仲間たちと一緒に、停泊所を張り生活しました。
約束の地にいくために前に進みそして停泊所をつくりそこで休む。
これを幾度となく繰り返したいのです。
しかし、その約束の土地にいくまでの数々の困難がありました。
休むための停留所・天幕を張っていたときでさえ困難が起こりました。
しかし、神様はその停留所・天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与え、最後までアブラハムやモーセを見捨てることはなさいませんでした。
またアブラハムやモーセたちも神を信じ続け、約束の土地へとたどり着いたのです。
そう教会も同じです。
神様の約束の地、希望に向かうためには教会と言う停泊所が必要なのです。
この世に疲れて、困難に陥ったり、また教会自体が自分にとって時には困難になり、行くことができないときがあるかもしれない。
でも、神様はアブラハムやモーセに対して、天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与えました。
私たちの通っている教会も同じです。
私達は前に前進する時、困難なことも多い事でしょう。
そんな時は、私達はいつでもどんなときでもなんどでも教会と言う停留所に戻ってきていいんです。
モーセやアブラハムも何度も何度も天幕という停留所を立てては出発しまた天幕を張ったじゃないですか。
わたしたちはこの繰り返しがあるからこそ、神が与えてくださった希望の約束の地へと入ることができるのです。
そして天の約束の地に繋がる教会だからこそ、神はここで私たちに希望や奇跡を見せ、与えておられるんです。
それから神様は沖へ漕ぎ出した私たちに、静かにこう言葉は語りかけておられます。
「網をおろしなさい」と。
網をおろすとは、祈りなさい、ということです。
私たちは祈りという網を降ろそうではありませんか。
でも、クリスチャンの中には、「今は祈れない」という人がいます。
でも私は言いたい。
祈れないと思う時にこそ、祈るんです。
だって「祈れない」ってときってそれは相当自分が追い込まれている時ってことでしょ?
そんなときに、自分が追い詰められた時に、「祈らない」、「祈れない」って、ほんとにそれって神との関係をもっているんでしょうか?
自分の肝心な時に神がいないんじゃ、神様の恵みが自分の中で大きく生かされるはずがないじゃないですか?
そうじゃないんですか?
祈れないという人は、いつの間にか神様と語り合うができなくなってしまっている人です。
その人は是非、あなたを変えたときの御言葉を祈りを信仰を、そして祈ってくれている人の信仰をどうぞ思い出してほしい。
私達が神と語り合える事ができるようになれば、この世でどんなに、どんなに、苦しくて、死にたくなっても、それは神の恵みによって、希望へと変えられます。
人は裏切りますが、神様は絶対裏切りません。
だってその証拠を十字架と復活で神はイエス・キリストを通して見せてくださっているではありませんか!
だから私達も網を下ろしましょうよ。
やってみましょうよ!!
私たちは疲れていても、教会に停泊し、そしてこの世へと漕ぎ出し、網と言う祈りができるとき、私達は大きく変えられ、約束の地へ、永遠の命への道が与えられている事を知る事でしょう。
どうぞ、イエス・キリストを信じて自信をもってください。
あなたは神様から選ばれ祝福され、必要とされている事をです。
それではお祈りします。
●詩編で祈る
神に「自分の言葉で」自由に語りかけることは、ある意味では、祈りの理想です。
初心者で素直にこれができる人があります。
しかし、だんだんに難しくなるのが普通です。本当の神に話しているのか、おもちゃのぬいぐるみに話しかけているようなものなのか、わからなくなるのです。
そして、かつて自分がまっていた神との親しい交わりを失ってしまったように思い、がっかりします。
しかし、これは本当の問題に取り組み始めたからなので、退歩ではなく、進歩なのです。
人間が神に語りかけることが難しい理由を考えて見ましょう。
① 相矛盾する思いが同時にある
例えば、自分に不当な仕打ちをした(と思う)人への怒りがある。
しかし、同じ心の中には同時に、「自分が悪いのかもしれない」「人を責めることができる立派な自分だろうか?」という相反する思いもあるのが普通です。
一つの思いを神に語ろうとすれば、もう一つの思いが足を引っ張って、思い切って語ることができません。
② 言葉が見つからない
現代の日本人は怒りに限らず、嘆き、喜び、痛悔などの強い情念をしっかりとぶつけることのできる言葉を失っています。私達はみな、「むかつく」「この野郎」というような短い貧しい言葉を投げつけるか、あるいは新聞の社説のようにしゃべるのです。
「テロはゆるされるべきではない。・・・なければならない」など。
③ 自分の思いが弱々しく思える
黙っているときには、自分の中に非常に強い感情があるように思える。
しかし、いざ語ろうとすると、急にそれが弱々しいものに感じられて、腰砕けになってしまいます。「言うほどのことでもない、言ってもしようがない」
④ 聴いてくださる方はそこにおられるのか?
たぶんこれがもっとも根本的な問題です。神が人間の旅路に深い関心を持っておられること、自分が語りかけるときには耳を傾けてくださることを、私は知っています。
しかし、信仰のレベルでそれを確信していることと、自分の心の思いを真剣に聴く方がそこにおられると感覚のレベルで感じることは別です。
身体的、感覚的なレベルの手ごたえがないと、神に語り続けることはむなしく思われるのです。
●詩編の力
このように思いも、言葉も、信頼も貧しい。そんな私達のために、神は詩編を与えて下さいました。
詩編は人間からの神への語りかけです。
詩編の祈りの秘訣は、「詩編の言葉に自分の思いを乗せる」ということです。
例えば詩編88・16
「わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます」
これは現代日本の都会の中で孤独に苦しむ人の思いを乗せてくれます。
特別な感情が溢れるときは思わず叫んだりします。しかし、そんな特別な感情は日常的にできるものではありません。
祈る人になるとは、感情が満ち溢れてはいない普通の日々にも祈れる、神に語りかけることができる、という事です。詩編はそのために大きな助けになります。
●詩編を祈る手順
① 詩編を一つ、ゆっくりと声をだして読む
一つひとつの言葉を自分の心に触れさせながら。
② もう一度、ゆっくり黙読する。今度は、どの言葉が自分の中にある思いを呼び起こしてくれるかを感じ取ろうとする。
③ 一行、二行分くらいを選ぶ。
④ その言葉に自分の心を乗せてやるつもりで、声を出して読む。
三度、間をおいて、ゆっくりと読む。
※ 勿論、詩編の全部が神に「あなた」と直接呼びかける文体ではありません。けれども祈る時は、その歴史を感じながら自分が語り、神もその場におられ、この言葉を聴いてくださると考えるのです。
祈りは、神にすべてをぶちまけること。詩編には怒りもあれば屈辱、赦し、希望、感謝、嘆きなどの人間の心の奥底に隠されているものがすべて神にぶちまけられているのです。
神は私達の祈りを聴き、そして神の御心のままに私達を導いて下さいます。
●実際にみんなで祈ってみよう
怒りから嘆き―詩編109 怒りを吐き出し、神に嘆いていく
屈辱 102篇 ●独りで祈ってみよう-123篇
皆さんおはようございます。
先週の木曜日は主の昇天、イエス・キリストが弟子達の前で天にあげられた日でありました。
このイエス・キリストの昇天については、マルコ16章19節の「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあるように、キリストが死んで3日目に復活し40日目であったという事が記されています。
キリストの昇天は、キリストの復活後40日目の出来事でしたので、これに基づいて教会暦では伝統的に復活の主日から40日目の木曜日に祝ってきました。
しかし、日本のようにこの日を祝うために週日、集まることが難しい状況を考慮して、キリストの昇天の祭日をこの主日に移す教会もあるようです。
このキリストの昇天は、キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから、人間として神の栄光の状態に上げられ、また主なる神のもとで最高の権威に加わられたことを意味します。
ですから教会ではこう祈られるのです。
「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。
キリストの昇天に、私たちの未来が示されています。
キリストに結ばれる私たちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」
そう、この祈りのように、キリストの昇天は、私たちに訪れるこの世での旅の日に新たに私達の魂が天の国に引き上げられるという素晴らしい出来事の原型であり、
キリストの昇天は、私達も主なる神によって天の国に昇ることが許される保証でもあるのです。
ですから私たちは、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス・キリストに倣って、いつかキリストとともにいることができるという主の希望のうちにこのキリストの昇天の出来事を祝うのです。
そして、私達はそのイエス・キリストの昇天の出来事を知り、祝うことが今許されています。
これは私達にとって大いなる恵みです。
なぜならば、イエス・キリストが苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださったこの教会に集うことができているのですから。
天は父なる神の国、そして教会は母なる教会。
教会は天の国とこの地上を結ぶ場所です。
そして私達は母の胎内とも言うべきこの教会に集い、絶えず天の国におられる
主なる神から聖霊を受けています。
そうおおなる希望の恵みを私達は受けているのです。
そして私達に主なる恵みを与えてくださる聖霊はよくオリーブの葉をくわえている白いハトが使われています。
花園教会の下の礼拝堂にあるステンドグラスにも白い鳩が描かれています。皆さんご存知でしょうか。
知らない人は是非、下の礼拝堂をのぞいてみて下さい。
そしてこの教会のHPでも一番上の部分に写真がのっています。
教会はすべて知っているようで知らない事、思わされることがまだまだホントに多い場所なんです。皆さんも是非この教会を探検してみて下さい。
ところで、この白い鳩として描かれる聖霊は、世界において平和の象徴としての描かれる事が多い。
なぜハトが平和の象徴?と思われる方も多いと思いますが、ハトは、群れを成す性質をもっています。
群れをなして飛んでいく、それが共同体というイメージという事から平和の象徴となったのにこのような説がありますし、
また有名なのは、旧約聖書のノアの方舟との関係でしょう。
このノアの物語は創世記の6章にありますが、この物語は次のようなものです。
主なる神は、地上に増え始めた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じます。
ノアとその家族8人はこの神のお告げを聞いて一生懸命働きました。
その間に、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたけれども、誰一人耳を傾ける者はいませんでした。
箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていました。
ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のオスと雌のペアを箱舟に乗せます。
雨が振り出しました。
そして、その雨は洪水をうみ40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくしたのです。
水は150日の間、引くことがありませんでした。
その後、箱舟はアララト山の上にとまります。
そしてノアはハトと飛ばしました。
けれども一回目は羽を休めるところがなく帰ってきてしまいました。
7日後、もう一度鳩を放すと、なんと鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきたのです。
この事によりノアは水がひいたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出ました。
そこでノアは神に感謝をささげたのです。
神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全生物を全滅させる大洪水は決して起こさないことを契約したのでした。
その契約のしるしとして、空に虹をかけたというのがノアの物語です。
この旧約聖書のノアの物語でてくるオリーブの葉をくわたえたハトは、洪水で地上を見ることができなかったノアたちにとっての希望であり、争いから脱出、滅びを逃れたものにとっての平和だったのだと思います。
この事から、ハトが平和、平安の象徴となりました。
そして今日与えられている御言葉もまさに平和について語っています。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」
私達はよく平和、平和と言う言葉をよく使います。
それは戦争しない事、紛争しない事によく私達の周りでは使われているようです。
イスラエルでの挨拶ではシャローム!と言われます。
これは、「こんにちは」という意味で使われていますが、このシャロームはヘブル語で、平和・平安・やすらぎという意味があります。
ですから、シャロームとは「あなたに今日も平和・平安がありますように」ということなるのです。
いいですね。
どんな人にも「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言える事というのは。
皆さんは挨拶で、「あなたに今日も平和・平安がありますように」と挨拶する事はあるでしょうか?
わたしも言ってみたいですが、なかなか日常生活で言う事はない。
それは、自分の身の回りの事ばかり気になって考えて、他人を他者を考えていないからもしれません。
いや、自分の生きることで精一杯なのかもしれません。
でもいつかわたしもこの挨拶のように他人に対して言えることができるのであればなんと素晴らしい事でしょう。
まず身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見る。
私達は、そんなシャロームといえる「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるような、そんな人間関係を作って生きたいと思っています。
私の場合、まず妻に対して「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるようにならないと。
皆さんもまず一番身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見て下さい。
平和・平安とは本来、ただ戦争しない事、紛争しない事だけではなく、私達の身近で使われていくものなんだと思うのです。
そして是非、シャローム・平和・平安を目指して人生と言う名の旅を皆さんも続けていっていただきたい。
これは、イエス・キリストが私達に望んでおられる事なのです。
イエス・キリストは復活して弟子たちの元に来て下ったとき、「平安があなたがたにあるように」といわれました。
私達はこのイエス・キリストの言われるシャローム・平和・平安こそが、私達にとって切なものであり、天の国へと目指していく私達にとって必要なものなのです。
平和は人間の力によって作られる事はありません。
というより、こういった方がいいかもしれない。
それは、人間の力で平和を作り出すことはできるけれども、それはすぐに崩れてしまう平和であると。
この世界にも昔も今も、平和という名のものとにそれを大義名分として戦争、紛争が絶えず行なわれてきました。
軍事力、同盟の力を背景にして平和を保とうと人間はしています。
しかし、これらも、人間の思惑によって、一変し、平和から争いへと換わっていってしまう。
昔のローマもそう、今の大国と言われる国々もそうなのです。
しかし、これは、本当の平和なのでしょうか。
神が語っておられる平和なのでしょうか。
イエスは、私達に「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と言われます。
ここで言われる【平和を作る者】とは、人間たちの考えで、人間たちの思いで実現するのではなく、
まず神を第一として神の示されている事をあらわすことができる人が平和をつくっていくというのです。
それじゃあ平和はどこから来るのか?
神から来るとイエスはいわれます。
神が平和の神である。
神が遣わすイエス・キリストのみが平和の人なのであると。
私達には平和を作り出せない。
それでは私達はどうして平和を求めていくのでしょうか。
パウロはこう語っています。
コロサイ1章19節、新共同訳ですけれども、
「神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すことなく御子の内に宿らせ、その十字架の地によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
しかし、今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」と。
つまり天の国とこの地上を和解させてくださったイエス・キリストをまず信じなさいという事です。
死んで滅びるはずだった私達を、イエス・キリストが私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった事により、この世と天の国の和解となってくださったのです。
その和解をしてくださったイエス・キリストをまず信じなさい。これが平和を実現させるための第一歩であると聖書は語っているのです。
そう、この十字架と復活という和解を信じる事ができるからこそ、私達はこの世において、どんなことでも和解というのです。
でも私達はイエス・キリストの和解がなんだかわからないでいます。
私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのかと。
イエスは、十字架上で、こう言われました。
「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。
そう私達は傷つけた事すら気付かない。
イエスがこのように「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言っている中でも、十字架にかけてなお、人々はイエスの服をくじを引いて分け合っているんです。
これが私達なんです。
傷つけていることに気付かないんですよ私達は。自分では気付かない。
じゃあどうして気付くのでしょう。
それは、イエス・キリストをまず信じることでなんです。
私達は、イエスがなぜ私達の為に死なれそして復活されたのかを信じなければ、私達はこの世においても人と和解することできません。
そして、イエス・キリストの十字架と復活の和解を信じない・知らない人は平気で人を傷つけるし、自分をも傷つけるのです。
信じる事とは、何かを学んだり、決心したり、捜し求めるものではありません。
でも私達は、いつ間にかこの世の知識、常識からすべてを考えてしまっている。
じゃあここで一つの質問をしてみたい思います。
あなたが、今ここで熱を出して倒れてしまったとしましょう。
そしたらここにいる周りの人はあなたに声を掛けてくれるでしょうか?
皆さんどうでしょう。
たぶんすべての人が「声をかけてくれるだろう」と思ったはず。
でもなんで皆さん、そう思ったのでしょうか。
それは、必ず声を掛けてくれる人がいると信じたから、疑う事ができないものだと信じたからそう思ったんじゃないのですか。
信仰も同じなのです。
もはや疑う余地もないほどに神が確かな恵みを、イエス・キリストの和解の恵みを与えてくださっている事に気付き、信じて全てを神に委ねる事、これが信仰なのです。
自分が倒れた時に、人が声をかけてくれるのですから、神ならなおさら私達をずっと生まれてからこれまで、そして未来においても気にかけてくださり、愛しておられます。
私達が、それに気付きこれまでの事を主において振り返る事ができるのであれば、
「イエス・キリストの十字架と復活の和解がなんだかわからない。信じない」
「私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのか」
などという質問自体があり得ないのです。
神があなたを愛してくださったから、神はこの世にイエス・キリストを送り、そして私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった。
そして復活によって私達を、この世での死で終わるはずの私達を、永遠の命を与えて、天の国へと招いてくださっているのです。
これほど、大きな希望はありません。
私達はこれほどの希望を知っているからこそ、イエスの十字架・復活によって希望、罪からの解放、死よりも大きい永遠の命の恵みを神から与えられているからこそ平和・平安を求める事ができるのです。
この神からの大きな恵みに気付けば私達は喜ばずにはいられない。
そうあのノアがオリーブの葉を加えた鳩を見て、平和が訪れたと信じ、神に賛美をささげたように。
私達も同じで、その希望に気付けば神に賛美をささげるだろうし、祈るはずです。
そしてこの恵みに気付いてもらいたいと、他の人の為にも祈るはずです。
伝道者パウロだって、自分が復活したイエスを知った喜びを神の福音を知らせるために世界を歩き回ったのです。
私達にもそれができる。
私達は、いえあなたはその神からの力をすでにいただいているのです。
ですから恐れず、十字架と復活による和解をしてくださった神に、イエス・キリストにすべて頼って参りましょう。
そして皆さん。「今日もあなたに主による平和・平安がありますように」とまず身近な人の前で言うことにチャレンジしてはどうでしょうか。
これが自分の思惑によってのまた力によっての平和ではなく、神がもたらす平和へと繋がっていくのですから。
先ほどのコロサイ1章23節と、今日の御言葉とをもう一度読みます。
「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」
皆さんに主の祝福が大いにありますように。
祈ります。