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京都・花園キリスト教会

こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会

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父の日

今日は父の日でした!

花園教会では、父の日に壮年の方々が昼食とデザート、催しをするんです。

変わっているでしょ!!

でも、壮年の方々が作ったあんかけは美味P1010002.JPGしかったですよ。

その風景と、赤ちゃんが可愛かったので思わず撮ってしまいました!!





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ラブゴスメッセージ(最後)

聖書箇所:ルカ5章1節~5節

 

皆さんこんにちは。

 

今日、与えられたみ言葉は、ルカによる福音からです。

 

さっき読んだ箇所の出来事を通してペテロがイエスの弟子となった箇所ですね。

 

ここの5章5節に「私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。とあります。

 

ペテロさんはいわゆるオール、ずっと魚をとるために漁をしていたんです。

 

でも全く魚がとれなかった。

 

この場面は、湖での漁が舞台だけれども、これと同じようなことをみんなも学校や家庭や職場でも・それに教会でも経験するかもしれません。

 

いいえ、もうしているかもしれない。

 

それは、みんなが何か作業をやっていて、色々試したのに、頑張ったのに、なにもできなかった。

 

そんな経験はないですか?

 

そんなときに、知り合いや友達や親に「またそれをやってみたら?」と言われたらどうでしょう。

 

友達から、知り合いから、親からそんなことを言われたら、先生なら、「そんなことを簡単に言うな!」とむかつくし、やる気がでなくなってしまいます。

 

またできなかった作業を再開する、もう一度やるということは容易じゃない、簡単じゃないですよね。

 

それどころか、すべてが退屈でいやになってしまいます。

 

すべてのことが嫌になってしまいます。

 

みんなそうしたらどうでしょうかねー。

 

「もうどうでもいいわ~」なんて思っちゃって、毎日の生活・学校・職場・人との交わり、教会で言うならば、毎週の礼拝などが重荷となってしまい、嫌になってしまう。

 

もしそうなったら、私たちの祈りでさえ冷え切ってしまいます。

 

クリスチャンであったとしても、「もうどうでもいいや~」と思ってしまったら、そこには喜びも感動も希望も他人の事を思いやる愛も無くなってしまいます。

 

そうなると、どうでしょう?

 

家庭や学校、職場などにおいて、特に、自分にとって一番身近な人を、傷つけ合ってしまう。

 

「別にそんなつもりはないのに」と思っても一番身近な人を傷つけてしまうのです。

 

そうなってしまったらまた、人を傷つけてしまうかもしれないという思いがどんどん大きくなり、しまいにはすべての事に無関心になってしまいます。

 

そしてお互いに「こいつが悪い、あいつが悪い」とただ批判するようになってしまいます。

 

また批判するようになると今度は、犠牲を払うこと嫌がる。それは、「じゃあ自分が、僕が私が●●をやってあげるよ」と他人に対して思いやる気持ちがなくなってしまうんです。

 

そうなるとそこには何も生まれないし、進歩もありません。愛も冷えてしまいます。

 

それは私たちクリスチャンであったとしても失望し、すべてに無関心になり、すべてのことについて疲れてしまいます。

 

私たちが生きている現代は非常に生きることが難しい・大変な時代です。

 

私たちをがっかりさせ、働きを困難にする要素は多いし、皆さんもそう感じることが家庭、学校、職場、友達、教会など色んなところであると思います。

 

ここで、もう一度聖書を読んでみたい。

 

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」

 

ペトロは、自分の考えに凝り固まらず、自分の状態をありのままイエスにつげました。

 

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」

 

ペテロは今までなにもできなかった。それを正直にイエスに話したんです。

 

みんなも今の自分の状態をイエス様に告げてみましょう。そう言ってみましょう。

 

私たちも、ペトロが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」

と言って見ましょう。

 

でも聖書に書いていても実際の生活の中で、どうせ神に言ったってどうにもなるわけがないと決め付けて神に背を向ける人がいます。

 

でもはっきりいいます。

 

それは間違いです!

 

それはイエスキリストから離れる行為です。

 

悪魔・サタンが喜ぶ行為です。神様を忘れようとしている証拠です。

 

私達はそうではなく、私達はイエス・キリストという人がどんな人であるか知っているんですからいってみましょう。言って見ましょうよ。

 

「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。・何もできなかったんですよイエス様」って

 

そのときイエス様は

 

「沖に漕ぎ出して網をおろしなさい」と言われるんです。

 

この沖に漕ぎ出すとは、神様がくれる希望に向かって前進しなさい、チャレンジしなさいということです。

 

教会は、沖に漕ぎ出すための停泊所に似ていると私は思います。

 

教会は、希望という約束の地にむかうため停泊所である。

 

旧約聖書にでてくるアブラハムもモーセも神様が約束してくださった土地を目指して砂漠と言う名の大きな海で旅を続けました。

 

アブラハムとモーセはその約束の土地にいくまでに、何度も何度も休むために同じ神様を信じる仲間たちと一緒に、停泊所を張り生活しました。

 

約束の地にいくために前に進みそして停泊所をつくりそこで休む。

これを幾度となく繰り返したいのです。

 

しかし、その約束の土地にいくまでの数々の困難がありました。

 

休むための停留所・天幕を張っていたときでさえ困難が起こりました。

 

しかし、神様はその停留所・天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与え、最後までアブラハムやモーセを見捨てることはなさいませんでした。

 

またアブラハムやモーセたちも神を信じ続け、約束の土地へとたどり着いたのです。

 

そう教会も同じです。

 

神様の約束の地、希望に向かうためには教会と言う停泊所が必要なのです。

 

この世に疲れて、困難に陥ったり、また教会自体が自分にとって時には困難になり、行くことができないときがあるかもしれない。

 

でも、神様はアブラハムやモーセに対して、天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与えました。

 

私たちの通っている教会も同じです。

 

私達は前に前進する時、困難なことも多い事でしょう。

 

そんな時は、私達はいつでもどんなときでもなんどでも教会と言う停留所に戻ってきていいんです。

 

モーセやアブラハムも何度も何度も天幕という停留所を立てては出発しまた天幕を張ったじゃないですか。

 

わたしたちはこの繰り返しがあるからこそ、神が与えてくださった希望の約束の地へと入ることができるのです。

 

そして天の約束の地に繋がる教会だからこそ、神はここで私たちに希望や奇跡を見せ、与えておられるんです。

 

それから神様は沖へ漕ぎ出した私たちに、静かにこう言葉は語りかけておられます。

「網をおろしなさい」と。

 

網をおろすとは、祈りなさい、ということです。

 

私たちは祈りという網を降ろそうではありませんか。

 

でも、クリスチャンの中には、「今は祈れない」という人がいます。

 

でも私は言いたい。

 

祈れないと思う時にこそ、祈るんです。

 

だって「祈れない」ってときってそれは相当自分が追い込まれている時ってことでしょ?

 

そんなときに、自分が追い詰められた時に、「祈らない」、「祈れない」って、ほんとにそれって神との関係をもっているんでしょうか?

 

自分の肝心な時に神がいないんじゃ、神様の恵みが自分の中で大きく生かされるはずがないじゃないですか?

 

そうじゃないんですか?

 

祈れないという人は、いつの間にか神様と語り合うができなくなってしまっている人です。

 

その人は是非、あなたを変えたときの御言葉を祈りを信仰を、そして祈ってくれている人の信仰をどうぞ思い出してほしい。

私達が神と語り合える事ができるようになれば、この世でどんなに、どんなに、苦しくて、死にたくなっても、それは神の恵みによって、希望へと変えられます。

 

人は裏切りますが、神様は絶対裏切りません。

 

だってその証拠を十字架と復活で神はイエス・キリストを通して見せてくださっているではありませんか!

 

だから私達も網を下ろしましょうよ。

 

やってみましょうよ!!

 

私たちは疲れていても、教会に停泊し、そしてこの世へと漕ぎ出し、網と言う祈りができるとき、私達は大きく変えられ、約束の地へ、永遠の命への道が与えられている事を知る事でしょう。

 

どうぞ、イエス・キリストを信じて自信をもってください。

 

あなたは神様から選ばれ祝福され、必要とされている事をです。

 

それではお祈りします。

お祝い!お祝い!

花園教会員でゴスペルシンガーである福原さんがこのたびご結婚されました~。


おめでとうございます!!

花園教会青年会からもお祝いに写真立てをプレゼントしました。


どうぞこれから二人力合わせて末永くお幸せに!!

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詩編で祈る。

今日は、第3日曜日なので青年会の例会とラブゴスがありました。

ちなみにラブゴスは7月で終了する事となりました。


これからは関西のNYI(青年会)にバトンタッチし、関西にいる青年たちと協力して一緒になってやって行く事となります。


まあ詳細はまたお話しするとして、今日は例会で先月にも学んだ「詩編で祈る」という祈りを学びました。

『目からウロコ 詩編で祈る』 来住 英俊神父著書の女子パウロ会が出している本から学びです。

以下はその本を元に作成した私達のレジメです。


是非、皆さんもこの祈りを試してください。ホントにいいものだと思います。


もっと詳細を知りたい方は、購入をおススメします!!


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●詩編で祈る

 

神に「自分の言葉で」自由に語りかけることは、ある意味では、祈りの理想です。

初心者で素直にこれができる人があります。

 しかし、だんだんに難しくなるのが普通です。本当の神に話しているのか、おもちゃのぬいぐるみに話しかけているようなものなのか、わからなくなるのです。

そして、かつて自分がまっていた神との親しい交わりを失ってしまったように思い、がっかりします。

 しかし、これは本当の問題に取り組み始めたからなので、退歩ではなく、進歩なのです。

人間が神に語りかけることが難しい理由を考えて見ましょう。

 

①     相矛盾する思いが同時にある

例えば、自分に不当な仕打ちをした(と思う)人への怒りがある。

しかし、同じ心の中には同時に、「自分が悪いのかもしれない」「人を責めることができる立派な自分だろうか?」という相反する思いもあるのが普通です。

一つの思いを神に語ろうとすれば、もう一つの思いが足を引っ張って、思い切って語ることができません。

 

②     言葉が見つからない

現代の日本人は怒りに限らず、嘆き、喜び、痛悔などの強い情念をしっかりとぶつけることのできる言葉を失っています。私達はみな、「むかつく」「この野郎」というような短い貧しい言葉を投げつけるか、あるいは新聞の社説のようにしゃべるのです。

「テロはゆるされるべきではない。・・・なければならない」など。

 

③     自分の思いが弱々しく思える

黙っているときには、自分の中に非常に強い感情があるように思える。

しかし、いざ語ろうとすると、急にそれが弱々しいものに感じられて、腰砕けになってしまいます。「言うほどのことでもない、言ってもしようがない」

 

④     聴いてくださる方はそこにおられるのか?

たぶんこれがもっとも根本的な問題です。神が人間の旅路に深い関心を持っておられること、自分が語りかけるときには耳を傾けてくださることを、私は知っています。

しかし、信仰のレベルでそれを確信していることと、自分の心の思いを真剣に聴く方がそこにおられると感覚のレベルで感じることは別です。

身体的、感覚的なレベルの手ごたえがないと、神に語り続けることはむなしく思われるのです。

●詩編の力

このように思いも、言葉も、信頼も貧しい。そんな私達のために、神は詩編を与えて下さいました。

詩編は人間からの神への語りかけです。

詩編の祈りの秘訣は、「詩編の言葉に自分の思いを乗せる」ということです。

例えば詩編88・16

「わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます」

 

これは現代日本の都会の中で孤独に苦しむ人の思いを乗せてくれます。

 

特別な感情が溢れるときは思わず叫んだりします。しかし、そんな特別な感情は日常的にできるものではありません。

祈る人になるとは、感情が満ち溢れてはいない普通の日々にも祈れる、神に語りかけることができる、という事です。詩編はそのために大きな助けになります。

 

●詩編を祈る手順

 

①     詩編を一つ、ゆっくりと声をだして読む

一つひとつの言葉を自分の心に触れさせながら。

②     もう一度、ゆっくり黙読する。今度は、どの言葉が自分の中にある思いを呼び起こしてくれるかを感じ取ろうとする。

③     一行、二行分くらいを選ぶ。

④     その言葉に自分の心を乗せてやるつもりで、声を出して読む。

三度、間をおいて、ゆっくりと読む。

 

※     勿論、詩編の全部が神に「あなた」と直接呼びかける文体ではありません。けれども祈る時は、その歴史を感じながら自分が語り、神もその場におられ、この言葉を聴いてくださると考えるのです。

 

祈りは、神にすべてをぶちまけること。詩編には怒りもあれば屈辱、赦し、希望、感謝、嘆きなどの人間の心の奥底に隠されているものがすべて神にぶちまけられているのです。

 

神は私達の祈りを聴き、そして神の御心のままに私達を導いて下さいます。

●実際にみんなで祈ってみよう

怒りから嘆き―詩編109 怒りを吐き出し、神に嘆いていく

屈辱 102篇 ●独りで祈ってみよう-123篇



今日は母の日

今日は母の日でした。

教会でもお花を飾り

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そしてなんと!教会からママさんたち・お母さんたちに花を送りました~。
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花はいいですよね!


ちなみに来月の父の日なんですが、なんとこの花園教会では、お父さんたちがみんなに接待する日なんです。

日頃お父さんたちは家族や知り合いに接待できないですからね~。


来月も楽しみです。

あなたに平和と平安がありますように

皆さんおはようございます。

 

先週の木曜日は主の昇天、イエス・キリストが弟子達の前で天にあげられた日でありました。

 

このイエス・キリストの昇天については、マルコ16章19節の「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあるように、キリストが死んで3日目に復活し40日目であったという事が記されています。

 

キリストの昇天は、キリストの復活後40日目の出来事でしたので、これに基づいて教会暦では伝統的に復活の主日から40日目の木曜日に祝ってきました。

 

しかし、日本のようにこの日を祝うために週日、集まることが難しい状況を考慮して、キリストの昇天の祭日をこの主日に移す教会もあるようです。

 

このキリストの昇天は、キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから、人間として神の栄光の状態に上げられ、また主なる神のもとで最高の権威に加わられたことを意味します。

 

ですから教会ではこう祈られるのです。

 

「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。

キリストの昇天に、私たちの未来が示されています。

キリストに結ばれる私たちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」

 

そう、この祈りのように、キリストの昇天は、私たちに訪れるこの世での旅の日に新たに私達の魂が天の国に引き上げられるという素晴らしい出来事の原型であり、

 

キリストの昇天は、私達も主なる神によって天の国に昇ることが許される保証でもあるのです。

 

ですから私たちは、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス・キリストに倣って、いつかキリストとともにいることができるという主の希望のうちにこのキリストの昇天の出来事を祝うのです。

 

そして、私達はそのイエス・キリストの昇天の出来事を知り、祝うことが今許されています。

 

これは私達にとって大いなる恵みです。

 

なぜならば、イエス・キリストが苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださったこの教会に集うことができているのですから。

 

天は父なる神の国、そして教会は母なる教会。

 

教会は天の国とこの地上を結ぶ場所です。

 

そして私達は母の胎内とも言うべきこの教会に集い、絶えず天の国におられる

主なる神から聖霊を受けています。

 

そうおおなる希望の恵みを私達は受けているのです。

 

そして私達に主なる恵みを与えてくださる聖霊はよくオリーブの葉をくわえている白いハトが使われています。

 

花園教会の下の礼拝堂にあるステンドグラスにも白い鳩が描かれています。皆さんご存知でしょうか。

 

知らない人は是非、下の礼拝堂をのぞいてみて下さい。

 

そしてこの教会のHPでも一番上の部分に写真がのっています。

 

教会はすべて知っているようで知らない事、思わされることがまだまだホントに多い場所なんです。皆さんも是非この教会を探検してみて下さい。

 

ところで、この白い鳩として描かれる聖霊は、世界において平和の象徴としての描かれる事が多い。

 

なぜハトが平和の象徴?と思われる方も多いと思いますが、ハトは、群れを成す性質をもっています。

 

群れをなして飛んでいく、それが共同体というイメージという事から平和の象徴となったのにこのような説がありますし、

 

また有名なのは、旧約聖書のノアの方舟との関係でしょう。

 

このノアの物語は創世記の6章にありますが、この物語は次のようなものです。

 

主なる神は、地上に増え始めた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じます。

 

ノアとその家族8人はこの神のお告げを聞いて一生懸命働きました。

 

その間に、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたけれども、誰一人耳を傾ける者はいませんでした。

 

 箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていました。

 

ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のオスと雌のペアを箱舟に乗せます。

 

雨が振り出しました。

 

そして、その雨は洪水をうみ40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくしたのです。

 

水は150日の間、引くことがありませんでした。

 

その後、箱舟はアララト山の上にとまります。

 

そしてノアはハトと飛ばしました。

 

けれども一回目は羽を休めるところがなく帰ってきてしまいました。

7日後、もう一度鳩を放すと、なんと鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきたのです。

 

この事によりノアは水がひいたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出ました。

 

そこでノアは神に感謝をささげたのです。

 

神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全生物を全滅させる大洪水は決して起こさないことを契約したのでした。

 

その契約のしるしとして、空に虹をかけたというのがノアの物語です。

 

この旧約聖書のノアの物語でてくるオリーブの葉をくわたえたハトは、洪水で地上を見ることができなかったノアたちにとっての希望であり、争いから脱出、滅びを逃れたものにとっての平和だったのだと思います。

 

この事から、ハトが平和、平安の象徴となりました。

 

そして今日与えられている御言葉もまさに平和について語っています。

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」

 

私達はよく平和、平和と言う言葉をよく使います。

 

それは戦争しない事、紛争しない事によく私達の周りでは使われているようです。

 

イスラエルでの挨拶ではシャローム!と言われます。

 

これは、「こんにちは」という意味で使われていますが、このシャロームはヘブル語で、平和・平安・やすらぎという意味があります。

 

ですから、シャロームとは「あなたに今日も平和・平安がありますように」ということなるのです。

 

いいですね。

 

どんな人にも「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言える事というのは。

 

皆さんは挨拶で、「あなたに今日も平和・平安がありますように」と挨拶する事はあるでしょうか?

 

わたしも言ってみたいですが、なかなか日常生活で言う事はない。

 

それは、自分の身の回りの事ばかり気になって考えて、他人を他者を考えていないからもしれません。

 

いや、自分の生きることで精一杯なのかもしれません。

 

でもいつかわたしもこの挨拶のように他人に対して言えることができるのであればなんと素晴らしい事でしょう。

 

まず身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見る。

 

私達は、そんなシャロームといえる「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるような、そんな人間関係を作って生きたいと思っています。

 

私の場合、まず妻に対して「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるようにならないと。

 

皆さんもまず一番身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見て下さい。

 

平和・平安とは本来、ただ戦争しない事、紛争しない事だけではなく、私達の身近で使われていくものなんだと思うのです。

 

 

そして是非、シャローム・平和・平安を目指して人生と言う名の旅を皆さんも続けていっていただきたい。

 

これは、イエス・キリストが私達に望んでおられる事なのです。

 

イエス・キリストは復活して弟子たちの元に来て下ったとき、「平安があなたがたにあるように」といわれました。

 

私達はこのイエス・キリストの言われるシャローム・平和・平安こそが、私達にとって切なものであり、天の国へと目指していく私達にとって必要なものなのです。

 

平和は人間の力によって作られる事はありません。

 

というより、こういった方がいいかもしれない。

 

それは、人間の力で平和を作り出すことはできるけれども、それはすぐに崩れてしまう平和であると。

 

この世界にも昔も今も、平和という名のものとにそれを大義名分として戦争、紛争が絶えず行なわれてきました。

 

軍事力、同盟の力を背景にして平和を保とうと人間はしています。

 

しかし、これらも、人間の思惑によって、一変し、平和から争いへと換わっていってしまう。

 

昔のローマもそう、今の大国と言われる国々もそうなのです。

 

しかし、これは、本当の平和なのでしょうか。

 

神が語っておられる平和なのでしょうか。

 

イエスは、私達に「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と言われます。

 

ここで言われる【平和を作る者】とは、人間たちの考えで、人間たちの思いで実現するのではなく、

まず神を第一として神の示されている事をあらわすことができる人が平和をつくっていくというのです。

 

それじゃあ平和はどこから来るのか?

 

神から来るとイエスはいわれます。

 

神が平和の神である。

 

神が遣わすイエス・キリストのみが平和の人なのであると。

私達には平和を作り出せない。

 

それでは私達はどうして平和を求めていくのでしょうか。

 

パウロはこう語っています。

コロサイ1章19節、新共同訳ですけれども、

「神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すことなく御子の内に宿らせ、その十字架の地によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。

 

しかし、今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

 

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」と。

 

つまり天の国とこの地上を和解させてくださったイエス・キリストをまず信じなさいという事です。

死んで滅びるはずだった私達を、イエス・キリストが私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった事により、この世と天の国の和解となってくださったのです。

その和解をしてくださったイエス・キリストをまず信じなさい。これが平和を実現させるための第一歩であると聖書は語っているのです。

 

そう、この十字架と復活という和解を信じる事ができるからこそ、私達はこの世において、どんなことでも和解というのです。

 

でも私達はイエス・キリストの和解がなんだかわからないでいます。

 

私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのかと。

 

イエスは、十字架上で、こう言われました。

 

「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。

 

そう私達は傷つけた事すら気付かない。

 

イエスがこのように「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言っている中でも、十字架にかけてなお、人々はイエスの服をくじを引いて分け合っているんです。

 

これが私達なんです。

傷つけていることに気付かないんですよ私達は。自分では気付かない。

 

じゃあどうして気付くのでしょう。

 

それは、イエス・キリストをまず信じることでなんです。

 

私達は、イエスがなぜ私達の為に死なれそして復活されたのかを信じなければ、私達はこの世においても人と和解することできません。

 

そして、イエス・キリストの十字架と復活の和解を信じない・知らない人は平気で人を傷つけるし、自分をも傷つけるのです。

 

信じる事とは、何かを学んだり、決心したり、捜し求めるものではありません。

でも私達は、いつ間にかこの世の知識、常識からすべてを考えてしまっている。

 

じゃあここで一つの質問をしてみたい思います。

 

あなたが、今ここで熱を出して倒れてしまったとしましょう。

 

そしたらここにいる周りの人はあなたに声を掛けてくれるでしょうか?

 

皆さんどうでしょう。

 

たぶんすべての人が「声をかけてくれるだろう」と思ったはず。

 

でもなんで皆さん、そう思ったのでしょうか。

 

それは、必ず声を掛けてくれる人がいると信じたから、疑う事ができないものだと信じたからそう思ったんじゃないのですか。

 

信仰も同じなのです。

 

もはや疑う余地もないほどに神が確かな恵みを、イエス・キリストの和解の恵みを与えてくださっている事に気付き、信じて全てを神に委ねる事、これが信仰なのです。

 

自分が倒れた時に、人が声をかけてくれるのですから、神ならなおさら私達をずっと生まれてからこれまで、そして未来においても気にかけてくださり、愛しておられます。

 

私達が、それに気付きこれまでの事を主において振り返る事ができるのであれば、

「イエス・キリストの十字架と復活の和解がなんだかわからない。信じない」

 

「私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのか」

 

などという質問自体があり得ないのです。

 

神があなたを愛してくださったから、神はこの世にイエス・キリストを送り、そして私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった。

 

そして復活によって私達を、この世での死で終わるはずの私達を、永遠の命を与えて、天の国へと招いてくださっているのです。

 

これほど、大きな希望はありません。

 

私達はこれほどの希望を知っているからこそ、イエスの十字架・復活によって希望、罪からの解放、死よりも大きい永遠の命の恵みを神から与えられているからこそ平和・平安を求める事ができるのです。

 

この神からの大きな恵みに気付けば私達は喜ばずにはいられない。

 

そうあのノアがオリーブの葉を加えた鳩を見て、平和が訪れたと信じ、神に賛美をささげたように。

 

私達も同じで、その希望に気付けば神に賛美をささげるだろうし、祈るはずです。

 

そしてこの恵みに気付いてもらいたいと、他の人の為にも祈るはずです。

 

伝道者パウロだって、自分が復活したイエスを知った喜びを神の福音を知らせるために世界を歩き回ったのです。

 

私達にもそれができる。

 

私達は、いえあなたはその神からの力をすでにいただいているのです。

 

ですから恐れず、十字架と復活による和解をしてくださった神に、イエス・キリストにすべて頼って参りましょう。

 

そして皆さん。「今日もあなたに主による平和・平安がありますように」とまず身近な人の前で言うことにチャレンジしてはどうでしょうか。

 

これが自分の思惑によってのまた力によっての平和ではなく、神がもたらす平和へと繋がっていくのですから。

 

先ほどのコロサイ1章23節と、今日の御言葉とをもう一度読みます。

 

「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」

 

皆さんに主の祝福が大いにありますように。

 

祈ります。

 

苦しい時こそ会いに出かけましょう。

それでは今日、与えられたみ言葉を見ていきたいと思います。

今日の聖書箇所は皆さんも一度は耳にした事のある箇所だと思います。

そしてこの創世記に登場してくる人物たちは非常に今の私達にも重要な人物たちばかり。

なぜなら今日の聖書にでてくるヤコブの父はイサク、母リベカ、祖父にアブラハムがいる。

この祖父のアブラハムは、ユダヤ教においては全てのユダヤ人の父とされています。

またこのアブラハムは、イスラム教にとっても重要な人物で、イスラム教徒にとっても、全てのアラブ人の父とされているのです。

世界にまたがるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共通の人物を理解し、重要な人物として後の世に語り続けている。

これはすごい事だと私は思います。

私達に与えられた今日のみ言葉だって、ユダヤ教徒もイスラム教徒もよく知っている箇所なのです。

改めて私はこの旧約聖書の凄さを目の当たりにしたという感じです。

これだけ、共通項の多いユダヤ教、キリスト教、イスラム教なのですから私は、これらの宗教が共に手を取り尊重しあい、助け合う時が来るのを望まずにはいられません。

互いに憎しみあって戦争をし、殺し合うことが私達のそして神が求めるところではないのですから。

私は主なる神が与えてくださる平和の一致を願って祈ってまいりたいと思います。

そして、私達が主の祈りで祈っているように、いつかこの地上に神のみ国が来るように心から祈っていきたいのです。

でも私達は、
「じゃあ、そのみ国が来るのはいつですか?」

「ほんとに祈ってそんなものが来るんですか?」

とこの世の思いで、そして自分の常識と照らし合わせて疑いの心を持ってしまいます。

「そんな祈ることじゃなくて、もっと考えれば自分たちで具体的にもっとやれる事があるだろう」と。

もちろん、私達はこの世がより良くなるように平和になるように具体的に話し合っていく事は大事です。

でも、私達は自分の力の限界を知り、認め、悔い改めて神の恵みの介入があるように、

「み国がきますよう」「平和の一致を与えて下さい」

「聖霊よ。どうか私の元に来て下さい」と祈るのです。

もし私達がこれらの祈りを愚かなもの、くだらないものと言うのであれば、もう私達には信仰などいりません。

「どうぞ、あなたの努力で、どうぞ自分の努力でこの世界に平和が来るようにしてください」

という事になるのです。

ですが、皆さん!どうですか。この世界を見て下さい。

私達は、自分の罪にも気付かず、自分の愚かさも悟らず、ちっともいい世界を、平和な世界を作れないじゃないですか。

自分達の国でさえ、自分の周りや自分達の兄弟や家庭の中でさえも、私達は平和の世界を作れないでいるじゃないですか。


私達は、自分が罪人である事に気付き、自分の愚かさを知るべきです。

その事を知り、告白し、神に祈り求めて初めて、私達は何をなすべきかが明らかにされ、そこに希望の光が与えられるのです。

主イエス・キリストは天に上げられる時、こう言われました。

「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。

それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。

そう、私達は、この世の思いから、この世が作った常識から、自分の経験から、自分の思いから、『いつみ国がくるのか、いつ神の介入があるのか』などと知る必要はないのです。

私達はどんなときにも「み国がきますように」「平和の一致を与えて下さい」

「神よ。私の元に来て下さい。」

「聖霊よ。どうか私の元に来て下さい」と祈り続けるのです。

そうすれば、神の介入が必ずある。


今日の聖書の箇所も、苦しみを負ったヤコブに対して神が介入された場面です。

ここでは、祖父にアブラハム、父にイサク、母にリベカをもったヤコブが、家族のもとをさって逃亡生活をする物語が描かれています。

なぜヤコブが逃亡生活をしなくてはならなかったのか?

それは、ヤコブが兄エサウをあざむき、そして父イサクをだまして、長子(長男)の祝福をもらったため、それを知った兄が激怒し、ヤコブの命を狙ったからです。

そしてこの逃亡生活の末、ヤコブは21年ぶりに外国から故郷に帰ろうと決心します。

しかし、そのヤコブの心には、「21年ぶりに故郷に帰るんだ。懐かしいな~」という喜びより、昔、自分がだまし、そしてあざむいてしまったエサウに対しての罪意識が大きくのしかかっていたのです。

この物語は、本当に人間の本質を表している場面だと思いますし、私達も共感できてしまう箇所と言えるんじゃないでしょうか。

これは現代で言う、遺産相続の問題に似ている気がします。

約3000年いや4000年近く前にすでに遺産相続の問題が大きくあった事は非常に驚くべき事ですが、

何千年経ったとしても全く変わらない人間の本質を表している物語であると言えるでしょう。

そしてこの物語は、そこらへんのサスペンスドラマなんかのすじがきよりもはるかに比べ物にならない程に、私達を引き込んでいくのです。

それでは私達は少し、ヤコブの過去を見ていく事といたしましょう。

ヤコブには双子の兄エサウがいました。

しかし、双子であってもこの双子は、性格が正反対でありました。

双子の兄エサウは、野人的な性格で狩りを好み、

一方のヤコブは穏やかでいつも家にいて、家の手伝いをするなどの家事などをして生活していました。

そしてこの双子の両親さえもお互いに自分の子どもに対して愛し方が違ったのです。

父イサクは兄エサウを愛し、一方の母リベカは弟ヤコブを愛すというように。

そしてそんなある日。

エサウが狩りから空腹をかかえて家に帰ると、ちょうどヤコブは台所で魚・鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物を煮ていました。

エサウはそれを見ると、空腹に耐え切れず

「すぐ食べさせてくれ」

とヤコブに頼みます。

このようにせがむ兄エサウに対して、弟ヤコブは、この料理と引きかえに長子(長男)の特権を自分に売ってくれと頼みました。

ここでの長子の特権とは、現代的な遺産相続のように親の財産をもらいうけるという物質的な意味とは違って、

先祖代々にわたって与えられる神の祝福を、責任をもって父親から受けつぐという重要な意味を持っていたのです。

そのとき兄エサウは、
「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言って、

弟ヤコブの作った料理をわしづかみにして平らげ、満腹すると再び外に出ていってしまいました。

この事によって、エサウは軽い気持ちで自分の長子の権利を譲るという口約束をしてしまったのでした。

その頃、年をとり、目が見えなくなっていた父親イサクは、兄エサウに長子の権利を与え、祝福しようと考えていました。

しかしそれを知った母親のリベカは自分の愛した弟ヤコブに長子の特権を与えようと画策します。

母リベカは、ヤコブに自分の画策した事を教え、

ヤコブもそれに従い、兄エサウのふりをし、目の見えないイサクをだまして、長子の権利と先祖代々にわたって与えられる神の祝福をもらうことに成功するのでした。

つまり、ヤコブは母リベカの策略もあり、イスラエル族長という権利を受けつぐこととなったのでした。

当然それを知ったエサウは激怒し、ヤコブを殺そうとします。

そこで、母リベカはヤコブを自分の兄ラバンのところへ逃すのでした。

しかし、ヤコブは逃げた先でも両手をのばして、喜ぶことはできず苦労していくのでありました。

そこでの人間関係や結婚などのために。

それからヤコブは、色々な人間模様の中で、押し問答がありながらも、そこで多くの財産を作ったヤコブは、自分の家族と共に21年ぶりに故郷に帰ることにしたのです。

ヤコブにとって、故郷と言うのは自分にとっての基礎の部分であり、忘れる事のできないものだったようです。

けれども、そこには喜びはありません。

ヤコブの周りには恐怖と不安が取り巻いていたのです。

ヤコブが次のように神に祈ってことからも明らかです。

「どうか、私の兄、エサウの手から私を救い出してください。私は彼を恐れているのです」と。

ヤコブは、まず兄エサウの為に最高級の贈り物を事前に贈りました。

それは1回だけではなく、2度も3度も送ったのです。

ヤコブは自分に言い聞かせました。

「贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば恐らく快く迎えてくれるだろう」と。

しかし、自分でそう言い聞かせながらも兄エサウにあう前日になると、その不安はますます大きくなっていきました。

また何か目には見えないとてつもない重いものが自分の目の前にあったのです。

そしてヤコブは故郷に帰る途中、ヤボクという川に差し掛かりました。

この川を渡るともうすぐ兄エサウのいる地です。

ヤコブはその大きな恐怖と不安から一人になりたかったのでしょう、

ヤコブは、ヤボクの渡し場・

つまり、船を使って人や荷物を対岸へと渡す場所で、

自分の家族一行を渡らせた後、彼は一人そこに残ったのでありました。


そして真夜中になったとき、不思議なことが起こったのです。

「ある人が、夜明けまで彼と格闘した」と言うのです。

そして、ある人はヤコブに勝てないと見て、立ち去ろうとしました。

しかし、ヤコブはこの人を離しませんでした。
「私はあなたをさらせません。私を祝福してくださらなければ」(25節)と。

するとある人はヤコブに、名を尋ね、ヤコブに対して、人と神と戦って勝ったイスラエルという新しい名前を与えたのでした。

しかし、ある人は自分自身の名を明かそうとはしません。

そしてある人はヤコブを祝福しました。

ヤコブはこれらの一連の格闘が終わった後、

「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」と語りその場を立ち去ります。

そんな時に朝がきました。

そして今や、とても不思議な事に、ヤコブはこれまで自分が罪を犯した兄に対して、恐怖と大きな不安を抱えていたはずなのに、ある人と戦った後は、深い傷を負ったにも関わらず、もはや彼の中には何の不安もなくなっていたのです。

これまで豊かな財産・豊かな地位、豊かな贈り物を兄に贈った事柄ですら越えることができなかった大きな不安や恐怖の壁を、この不思議な夜が果たしてくれたのです。

ヤコブは今、朝日が昇るのを見て、今!自由に安心して未来を見つめることができました。

これまでの罪意識は、ヤコブの心から完全に取り除かれ、不安の壁は崩れ去ったのです。

そして彼は今や確信と喜びとをもって、今まで恐れてきたエサウの到着をまつのでした。

もうそこには何も不幸なことは起こらないと確信して。。。


このヤコブの一連の出来事は、私達にどのような意味を与えてくれるのでしょうか?

私達は最後のヤコブの言葉のところをみてみると、

30節に「私のいのちは救われた」と書かれています。

このヤコブの喜びの叫びには、今まで大きな妨げとなっていたトゲが取り除かれた、

恐怖と不安と言う一つの山が克服された、

一つの重荷が投げ捨てられた、

今までは心の中が暗くて不安でたまらなかったが、
今ではもう心が、希望で満たされているんだということを示しています。

ヤコブはこの夜の格闘で腿を痛めました。

それは足を引きずるほどのものでした。

しかしその痛みは今やヤコブにとっては大きな喜びの勲章として表されたのです。

※ここでちょっと注意しなければならない事があるのですが、新改訳聖書では、この足を引きずる表現を「びっこ」と記しているのですが、これは差別的な表現です。

この訳が出た当時はおそらくそのような意識がまだ広まっていなかったかもしれません。でも聖書は、その時代・時代に訳が変わっていきます。新共同訳ではここは「足を引きずっていた」と記されています。

ですから、皆さん、聖書はひとつですが、訳は移り変わっていくものであるという事をよく知っておいて下さい。だから一番良い訳なんてものはありません。

その聖書箇所・箇所によって、「文語訳がいい」、「口語訳がいい」、「新改訳がいい」、「新共同訳がいい」というのがあるのです。

一番いい方法は原典を読むことなんですけどね。

ともあれ、私達が聖書を読む時は、聖書の訳は変わっていくものなんだという事を頭に入れ、読んでいって下さい。


少し脱線してしまいましたが・・・・

私達のこころの中の魂が、希望で満たさる・・いや、満たされたという事がわたしたちにもできるのであれば、それは何とすごいことでしょう?

私たちは、病気であった人の体が再び健康になるということがどういう意味をもっているのか私達は知っています。

私自身も、大学時代、原因不明の病気にかかり、死と隣り合わせの時期がありました。

そんな自分がまた、再び、歩きまわり、仕事をし、友人と付き合い、そして共に喜ぶことができる。

そして、今まで食べることができなかったのに再びしっかり食べることができるようになって、どれだけうれしかったことでしょう。

わたしたちが、もし家族や友達などのそういう状況に立ち会ったときは、その人の身になって喜んで、嬉しくなるのだと思います。

しかし、それにも関わらず、私たちの多くの人々は、例え体がよくなったとしても、

あらゆる病気よりもっと重く、いかなる医者にも治すことができず、いかなる静養によっても除去されえない苦悩・苦難をさらに担い続けているのです。


ヤコブのように「私のいのちは救われた」と希望が、私達の心の中にある魂に入ってくる事ができるのならば、それこそが、真実の健康であり、大いなる希望になるのです。

なぜならば、私達の魂は人間の一部分ではなく、人間全体であるためです。

私たちは、物を食べることで体を維持します。

しかし私達の魂は、物を食べることだけで生きるのではありません。

マタイ4章4節のように、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』とあるように、神のみ言葉によって、この聖書のみ言葉によって生きるのです。

イエス・キリストも聖書のみ言葉によって生きられた方でした。

今のイエス・キリストの言葉も、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。

ですから私達も、自分自身の中にある魂を、この聖書のみ言葉によって満たすことができるならば、その全体は満たされていくことでしょう。

そしてそこには必ず希望が生まれてくる。

けれども、注意しなければならない点もあります。

聖書は、人間の本質を現すため、罪など部分もせきららに記されています。

ですから私たちは、自分よがりの聖書の読み方をしてしまうと、誤った方向に進んでしまう恐れがあるのです。

ですから私たちは、誤った聖書の読み方をするのではなく、礼拝においてのメッセージを聴き、賛美し、わからない事があれば牧師に聞いてみるなどして、み言葉を自分のものとしていきましょう。

そうすれば、本当の意味での希望が生まれてくるはずです。

しかし、私達は、自分の罪にも気付かず、自分の愚かさも悟らないために、クリスチャンであったとしても、生活が思わしくない、常に不幸に見舞われ、誰ともうまくいかないことがあったとき、つまづきます。

陽気に振舞い、確実に人生を歩んでいて、あらゆることに正しい仕方で取り組む人、うまくいく人を見ると、「どうしてあんなにうまくいくんだろう」と思い、嫉妬し、恨むことがあるのです。

私達は、他の人のことが気になり、そして遂にはこのような間違ったイメージに陥ってしまうことが多々ある。

私達は心の内にある魂に知らず知らずに角度をつけ、物事や人間や世界を見ようとしまっています。

つまり私達は、自分の心の内のある魂の見る角度によって、私達は人を見てしまい、自分の角度が間違っていてもそれが正しいと勘違いし、それが真実だと決め付け、他人を周りに影響を及ぼしていくのです。

ヤコブはどうであったのでしょうか?

最初は自分の犯した事によって、魂に角度をつけ、兄が自分を殺すんじゃないだろうかと恐れと不安に駆られました。

しかし、ヤコブは一つの格闘という苦悩と苦難とをやり遂げることによって、魂に角度は消え、希望で満たされ、恐怖や不安の壁が崩れたのです。


そこには大きな傷・いたみが伴ってしまったのにも関わらず。

しかし、これはこうも言えるのではないでしょうか?

格闘をやり遂げたからこそ、魂が満たされそこに希望が生まれたと。

ヤコブにとって他のどんなことも役にはたちませんでした。

私達にとってもそうではないでしょうか。

私達は、格闘という苦悩・苦難を通り抜ける以外、通る道はない、そうしなければ役には立たたないという時がある。

でも、その苦難や苦悩の末には、もう私達は、主の希望の灯での魂を満たす事しかあり得ない。

ヤコブが格闘したこのペヌエルと言われた場所とは、本来、悪鬼や悪霊の類が出現すると考えられていた場所でした。

しかし、「人がもうダメだ。」「あとは悪霊がいるだけだ」、「もう終わりだ」と言わせてしまう場所であっても、神はそこに介入してくださり、不安や恐怖を取り除き希望を与えてくださった。

そう名前も語られず。

人間は自分の名前を売るために売名行為をしますが、神はそんな事はならされず、ただただ私達のために、ただただ私をそしてあなたを愛しているが故に神は介入してくださるのです。

苦悩・苦難のうちにあるところには、神が介入される。

これが私達の信仰であり、主における希望なのです

ヤコブは魂が満たされる者となった。

今まで長い雨だったところに突然、太陽が現れ、光がさす様子、これが神の介入だと思います。

私たちは、雨のような暗いときがあります。

しかしそれは自然なことであり、雨のときにも大切なのです。

私達は雨なしでは生きていけません。

しかし、私たちは雨によっていきているのではなく、太陽によっていきているのです。

ヤコブが格闘し、そして神から祝福を得たように、私達は、苦悩や苦難という雨を通してそれを越え、

そして神からの祝福を得たとき、本当の魂の満たしや希望を得ることができる。

私達は苦悩や苦難と格闘しそれを通り抜けるとき、本当の太陽の日差しを浴びることができるのです。

わたしたちはその苦悩や苦難によって痛み・きずを負うかもしれない。

しかし、それは私たちが主における希望で魂が満たされたときには、勲章となるでしょう。

健康になるということはただただ肉体的なものではないのです。

肉体的には弱さを覚えている人であっても心のうちに神に希望をおいている人はどうでしょう。

この人たちほど、私達より健康なのです。

そして私達はそのような方々から多くの勇気をもらっているはず。

そのような方の肉体的痛みやきずは、主における、神における大きな希望の勲章だと私は思います。

今、あなたの目の前にある挫折・苦しみ・悲しみがどのように解決し、また変わっていくのかわたしにはわかりません。

しかし、そんなあなたはもう主によって希望の灯での魂を満たされる事しかあり得ない。

「どうぞ勇気をだしてください。」

「どうぞ勇気をもってください。」

「どうぞ傷つくことを恐れずに教会に会いにでかけてください。」

私達がその事を信じて、この御堂に集い、天の国と結ばれているこの教会、花園教会に集い、

主の十字架と復活を知り、賛美を捧げ、

「神よ私の元に来て下さい。」「聖霊よ。私の元に来て下さい」「平和の一致を与えて下さい」

と祈り続ければ、素晴らしい事が起こる。

そしてここから、この世へと出かけていく時、この世の周りの人々にも尽きる事のない主の恵みを知らせる事ができる。

神がヤコブに介入したように、必ずあなたにも介入されるはずです。

そしてあなたの信仰が今のあなたを救い、そしてあなたの現在の苦しみが希望の勲章となる時が必ず来るはず。

ですから、私達は、罪を償う十字架と復活と希望を与えてくださった神に、の信仰と希望と愛を持ち続け、たゆまず祈ってまいりましょう。


神の祝福が皆さんと共にありますように。

祈ります。



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主日礼拝:毎週日曜日
10:30~12:00




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