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京都・花園キリスト教会

こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会

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憐れみとはなんですか?

皆さん、おはようございます。

ここは先週も触れた、山上の説教と呼ばれるイエス・キリストが私達に教えてくださっているみ言葉です。

山上の説教は、5章1節から7章の最後までと言われます。

このイエス・キリストのみ言葉は、私達キリスト者がこの世を生きていくなかで規範とも言うべき、またキリスト者の生き方と知る上で重要なみ言葉です。

しかし、そうであるが故に、私達はこのみ言葉に戸惑う事もあります。

それはこの山上の説教から得る次のような考えからです。

「キリスト教徒はどんなときでも愛を持って接するようにという」という考えに。

これはとても重要な事であり、メッセージでもよく言われます。

しかし、ここで私達は決して忘れてはいけません。

怒らない事が愛ではありません。言わない事が愛ではありません。

批判を受けてじっと耐えることが愛ではありません。

この世の中から離れることが愛ではありません。

この世・この社会に注視せず、この世に対して批判すべき事から目をそらす事が愛ではありません。

私達がこのような愛をもっているならば、いつかその愛のために疲れ、教会から静かに離れてしまうことでしょう。

これはクリスチャンにとってとても陥り易い事柄です。

そして私達は、このような問題に差し掛かったとき、必ずと言っていいほど、愛をもって、もっと祈りをこめて接すれば、必ず打開できるはずだと考えがちになってしまいます。

そしてそれが打開されないと思ってしまうとき、自分の愛と祈りが足らないという思いに至ってしまうのです。

そして多くの善意の人たちは行き詰まり、自分自身の至らなさ故に、失望し、
その行き着く先は、静かに教会から離れてしまうというとても残念な結果になる事があるのです。

わたしは、この方々が良くないと言っているのではありません。

でも、これは大きな勘違いだと私は言いたい。

この事がなぜ勘違いなのか今日の御言葉から見て生きたいと思うのですが、その前に、

私達は勘違い、思い違いをそのままにしておくと、最初の傷はどんなに小さくても、年が経つにつれ、どんどんどんそのキズは大きくなり、

最後にはすぐに治療するのは難しいほどの致命傷となってしまいます。

よく罪とはなにかと聞かれます。

私達は罪と聴くと、殺人や盗み、人に危害を加える事だけが罪のように感じます。

しかしそうではありません。

罪とは、的外れという意味があります。

つまり、的からはずれている。思い違いをしている。勘違いをしてしまっているという事。

そしてその的からはずれている行為が、どんどんどん蓄積されていきそれが大きくなっていくと、悪魔・サタンとよばれる誘惑する者・その力に左右されやすくなる。

そしてその結果、神から離れていく、教会から離れていってしまい、信仰を持つことが嫌になり、神の存在をも否定してしまうことになってしまうのです。

これが罪です。

つまり心に思った怒りや悲しみ、憎悪がすぐに罪なのではなく、その憎悪をそのままに、その怒りをそのままに、悲しみをそのままにずっとほおっておき、神から離れてしまう事が罪なのです。

そして誘惑する者も、ずっとほおっておくように甘い言葉で誘惑し、教会から神から大きく離れさせるのです。

ですから、教会での礼拝、み言葉のメッセージ、聖餐式は大きな意味を持ちます。

勿論、これは牧師・教職者にとっても一番大切な事です。

けれども、その教会での礼拝、み言葉のメッセージ・聖餐式に集う

【あなたがた】も神の民、聖なる民であるのですから、神にとってとても重要なのであり、必要な存在なのです。

ですから勘違い、思い違いによって、兄弟姉妹として、教会員としてこの教会からかけてほしくありません。

思い違い・勘違いによって、教会にそして愛に疲れて欲しくないのです。

そしてなによりあなたがここにいなければ意味がないのです。

なぜならあなたは神から愛された存在なのですから。

ですから今日、与えられた御言葉を思い違い、勘違いせず、教会には喜びをもって本当の意味での愛をもって憐れみとはなんであるかを信仰をもって聞きましょう、

イエス・キリストは私達に言われました。

「憐れみ深い者は幸いです。

その人たちは憐れみを受けるからです。」と。

私達は「憐れみ」と言う言葉をよく耳にします。

辞書で調べてみると憐れみとは、同情する事。慈悲とありました。

ということは、辞書の意味から考えると、この箇所は、同情深い人々は幸いであるということになります。

同情とは、その言葉通り、同じ情、なさけになるということです。

ということは、何かに困っている、悲しんでいる人の事を思い、心に感じ、いたわってあげるのです。

憐れみというと何か上から見ている感じが良くします。

よくドラマとかのセリフの中でも

「わたしを憐れみの目でみないでよ」とかマイナスなイメージで言ったりしています。

しかし、それは憐れみではないでしょう。

憐れみとは、上から見るものでも下からも見るものではありません。

同じ視線に立つ。同じ目線になるということです。

よく私達は、小さな子どもに話しかけるとき、上からのぞきこむように話をしていないでしょうか。

でもそれって子どもにとっては心を共有する、いたわるというよりも、威圧的になってしまうものです。

私達大人が本当の意味で、子どもの事を憐れみ深く接したいのであれば、膝をおとして、しゃがんで同じ視線で話しかける必要があると思います。

憐れみとは、誰が行なってよくて、誰がおこなってはいけないという基準はないのです。

ですから、私達が小さな子ども達に憐れみをもって接しているようで、実は、子ども達から憐れみをもらっているかもしれません。

憐れみ深ければ深いだけ、その憐れみは自分に戻ってくるものなのです。

ですから憐れみは与えるものではありません。与えられ、与えるものなのです。

そして憐れみは、愛をもってその人をいたわることです。

しかし、私達はこの愛による憐れみに対して思い違いをしてしまうことがあります。

キリスト者はよく、イエス・キリストの行ないから、聖書からの規範に基づいて行動するものです。

つまり「教会に来なければならない。」

「キリスト者は、愛をもってどんな事にもただただ耐え、柔和であり親切であるべきなのだ」と。

また、冷たい態度をしてしまったとき「あの人に対して悪いことをしてしまった」などとも思う。

そして聖書を読み、愛の箇所、憐れみについて記述してあるみ言葉を読むと、愛をもって接しなかった、憐れみをもって接しなかったと思い、罪と感じる人もいるでしょう。

これらの事で「これは罪だ。悔い改めろ!」という牧師もいるかもしれません。

そう教わった人もこの中にいるかもしれません。

勿論、教会に来る事は大事だし、いつでも柔和であり親切であり、冷たい態度に対して悪い事をしてしまった思うことは、とても大事な事ですし、とても重要です。

でも、この事は、イエス・キリストの行ないから、聖書からの規範、もしく自分の教えられてきた規範が守れなかったという思いから来ています。

その意味で、先ほどの「あの人に対して悪いことをしてしまった」という思いは、神に対しての赦しを求めている、罪を告白すると言う事よりも、自分がうまくできなかったという意味での「後悔である」と言ったほうがいい。

そう私達はとんだ勘違いをしてしまう事があるのです。

すぐにみ言葉にそぐわない事があれば、私達は罪だ!罪だ!と言います。

しかし私達は、み言葉から、そうあるべきだ・そうしなければならないという言葉にはよく耳を傾け、思いは大きいのに、そうあるべき事・しなければならない事を破ったときに、「罪だ!」と思うだけであとのケアが少ない、しないことが多いのではないでしょうか。

ですから私達は、規範・きまりを守れなかった事に罪を感じるのではなく、私達の行動によって自分の行為がもたらした結果、どのようになってしまっているのかをしっかり理解し、罪ある自分自身を本当の意味で向き合わなければなりません。

罪とは、自分自身と向き合わず、ケアせず、ほっぽっといて、思い違い・勘違いをずっと持ち続けて、不安や苦しみを蓄積させ、自分にはできないと失望し、神から離れる事が罪なのです。

なぜ、本当に自分自身と向き合わず、そして神に対して赦しを求めないのか?

私達は自分自身としっかり向き合わなければ、再び同じ事を繰り返します。

そして
「愛をもって接しなかった、憐れみをもって接しなかった。神様申し訳ない。もうしません」という簡単な祈りによって自己解決してしまうのです。

私達に必要なのは、愛をもって接しなかった、憐れみを持って接しなかった行動を悔やむ事ではなく、

愛をもって接しなかったことによって、憐れみを持って接しなかったことによって、

自分は誰をどのように傷つけてしまい。

どのような状況で憐れみをもって接しなかったのか。

憐れみをもって接しなかった事によってどのような事が現在、自分の周りを取り囲んでいるのか。

これらを自分自身の中で深く見つめる事です。

そして神に対して、これらの事を告白して赦しを乞い祈るのです。

そしたら必ず何か変わっていくはずです。

またもし「教会に行く事ができなかった」と言うことでしたら、

じゃあそれは誰を傷つけたの?どんな事をしてしまったのか。

それを自分自身で見つめ直して認めることが私達には必要なのです。

そうしなければ、「教会はいけなかったのは、疲れていたし、忙しかったし、しょうがないよ」という結論に必ず至ってしまいます。

「教会はいけなかったのは、疲れていたし、忙しかったし、しょうがないよ」の言葉の中には誰を傷つけたのか?

どんな事をしてしまったのか?という自分を見つめなおす思いが含まれておらず、自分の行為を肯定すらしてしまいます。

この言葉の中には、それならこれからどうしようか、何をしていけばいいのかという進歩の言葉・希望の言葉がありませんし、前向きな行動をすることはできません。

これでは、あなたと神との繋がりも薄くなってしまい、誘惑する力に左右されてしまうでしょう。

私がここで「罪を悔い改めよ」という裁きの言葉を言う事は簡単です。

でもそれだけなら何の解決にもなりません。

裁きは最後に神が行なうのであって、私が神とあなたの関係を裁く事はできないのです。

私が皆さんに伝えたいのはそんな事ではなく、あなたが、自分自身を深く見つめ、

そこに苦しんでいる人はいるのか。いるのならどんな苦しみを負っているのか。

そしてその苦しみと自分はどう関わっているのか。自分の行動と関係しているのか。

それを自分の罪であると認めるのかという事です。

ここに大きな決断があるのです。


憐れみも同じなのです。

あなた達は、神の民として、心の清いものとして、神はあなたを祝福し愛しておられます。

私達は、憐れむ行為をしなかった事自体に罪を感じるのではなく、憐れむ行為をしなかった事によって、

どのように人を傷つけしまったのかという確固たる自覚が必要なのです。

そうすれば、イエス・キリストが私達の罪のために、あなたの罪のために十字架にかかった事の意味が、わかってくるはずです。

私達は自分の罪を認めても、それを自分だけでは絶対に背負いきれません。

しかし、神はそんなあなたを本当に愛してくださったからこそ、神はこの世にイエス・キリストを送られ、私達が滅びる事のないように十字架に掛けられたのです。

そしてその罪に復活と言う奇跡によって勝利されたのでした。

私達は【罪が許された】というとき、それほどに大きなかけがえのない喜びなのです。

ですから、自分自身の罪をしっかり目にし、とらえるとき私達は、

神とのかかわりによってイエス・キリストの十字架と復活の出来事に心から感謝できるのであり、神に赦しをこい、新たな気持ちで出発できるのです。


完全な愛と憐れみをもって歩まれた方はイエス・キリストただ一人。

そう、イエス・キリストだけが完全な方。

私達はこの事と、自分の罪をしっかりとらえているなら、愛や憐れむ行為に対して不安や恐れを持つ必要はないのです。


私達は罪を持っている人間ですから、間違う事もあるでしょう。

しかし、間違う事から私達は、神に対して正面から向き合って、赦しを確信し、間違いを正し、そこから脱却し、希望を持って、人生を歩んでいけるのではないでしょうか。

あなたが自分の罪を深く知り、希望を持って、歩み、憐れみを持てば必ず世界は変わっていきます。

憐れみを持てば、必ず憐れみで返って来る。

そうキリストが、私達を憐れんでくださったように。

私達は十字架と復活と言うキリストの憐れみが、私達にとってのかけがえのない贈り物、喜びであると信じることができるからこそ、周囲に広める事ができるのです。

間違える事は必ずある。

しかし、それ以上に神の赦しがあるのです。

今日の御言葉、「憐れみ深い者は幸いです。

その人たちは憐れみを受けるからです」

この言葉は決して理想を表しているのではありません。

しっかりと罪を見つめながら、十字架と復活の喜びを知っている私達だからこそ求められている御言葉なのです。

勘違い、思い違いをしてはいけない。

神の言葉にしっかり立ち、間違ったときはそれがなんであるかを深く見つめ、

神に赦しをこい、そして恐れずに、キリストの復活の喜びゆえに前に進みなさい。 

神があなたと共におられるから。

あなたがたに主の祝福が大いにあるように。

祈ります。
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花園教会員の方が参加されているコンサートです。

お近くの方、ご興味ある方是非、ど805b41de.JPGうぞ!








ご対面~!!

今日は6ヶ月の男の子の赤ちゃんと4ヶ月の女の子の赤ちゃんがご対面~!

かわいいですね~。ホント癒されます!!

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赤ちゃん同士、出会うってとてもいいことみたいですよ。

主題:『神様、罪人のわたしを憐れんでください』

今日は、復活節第2主日の礼拝です。

 

そして今日は、ドイツの教会暦でいえば喜べ、喜びなさいとなっています。

 

パウロは第一テサロニケ5章16節でこう語っています。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。

 

パウロは、第2回の伝道旅行で、同じユダヤ人に対して迫害を受けました。

 

それはどのような迫害かと言えば、これまでパウロが宣べ伝えた福音に対して、同じユダヤ人が、パウロの事を悪く伝え、広めていたのです。

 

その誘惑の言葉、サタン的な言葉は、パウロを通して語られた福音を聴いた人々を惑わし、そして教会を惑わしたのでありました。

 

これに対して、パウロはこの状況を大変心配し、弟子テモテを教会のあるテサロニケへと派遣します。

 

それは、弟子テモテにテサロニケの教会の様子と、その言葉に惑わされないよう信徒達を激励するために派遣したのでした。

 

そして、しばらくするとテモテがテサロニケからパウロのところに帰ってきたのです。

 

パウロはそのテモテからの教会の報告にとても緊張します。

 

しかし、テモテからでる言葉は、パウロの思っていた不安とは裏腹に、テサロニケの教会の人々は堅く信仰を守って立っており、パウロ先生との再会を心から望んでいるという報告でした。

 

パウロはこの報告を聞いてとてもうれしくなったのです。

そして喜びと感謝を伝えるために書かれたのが第一テサロニケの信徒への手紙となったのでした。

 

 

パウロがなぜ、このように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と、

語ったのでしょうか。

 

それは、パウロ自身も経験した事であったのです。

 

 

イエス・キリストの福音を宣べ伝えている伝道者パウロですら、ユダヤ人の悪い噂、誘惑を恐れ、自分の心に不安が生まれ、そしてその不安がどんどん大きくなっていったのです。

 

しかし、そのパウロの思いは真実ではなかったと知らされたのでした。

 

それを教えてくれたのは、テサロニケの教会の信仰、そしてそこにいる信徒の人々の堅く立った信仰。誘惑の力に勝った信仰であったのです。

 

どんなに神の言葉を取り次ぐほどの伝道師パウロであっても、彼の信仰だけで福音は成り立ちえなかったのです。

 

つまり、教会、伝道師、牧師、信徒それぞれの信仰と祈りによって福音が本当の意味で成り立ち、聖霊の力が強められるのです。

 

教会が力とは、共同体の力であると言われるのはこのためです。

 

このテサロニケの教会の件で自分を知らされたパウロは、自分の不安を悔い改めたことでしょう。

 

その結果、この御言葉をパウロは語ったのです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。

 

これは、順調な時だけでなく、逆境のときにも、いや人生における苦難、挫折、絶望といったマイナスと思われる時にこそ、キリスト者はこうした生きた方をし、

 

そうすれば、必ずマイナスは克服されてプラスになる。

 

「これこそが神の意志である」と

 

パウロは、神から教えられたのであり、このパウロを通して神の言葉を聞く私達も神から教えられているのです。

 

ですから私達もいつもというのはできないかも知れないけれども、希望をもってこの御言葉を聴くのです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と。

 

私達は特にこの事を覚えつつ、今日の与えられた御言葉を聴きましょう。

 

今日はマタイ5章10節~12節が与えられました。

 

祈ってきた事が少しでも実現する。

 

これほど私達に喜びを与えるものはありません。

 

私達はどうしても苦難に耐え忍ぶ事ばかり思わされ、その向こうにある喜びを知る・見る・感じる事がなかなかできないでいるようです。

 

しかし、今日は、神の恵みであるという事をしっかりと受けて喜びを持ちたいと思います。

 

 

わたしはいつも思います。

 

どんな事に対しても、そして苦難を恵みと信じられるのであればどれだけよいだろうかと。

 

そうは思いたいのですけど、そうは思えないこともいっぱいある。

 

人は簡単に、他人に対して、『それは恵みになるよ』というけれども、本当にそうなのか?なんて思ってしまうこともあるのです。

 

けれども、是非とも、苦難が恵みだと勇気を持っていってみたい。

 

これは言うべき事なのかもしれません。

 

そう私達はこれが恵みだと言ってこそ苦難に耐え忍ぶ・背負うことができるのでしょう。

 

しかし、勇気をもって言う以上は、生半可な思いで・いい加減な思いで言う事は許されないはずです。

 

なぜなら、苦難は恵みだと思う以上、他の人の苦難のために祈り、助け支えなければならないからです。

 

苦難で悩んで悩んで、路頭に迷って、希望を失っている人々が、私達の回りに存在しているんです。

 

苦難によってやる気を失い、目標を失った人がいるんです。

 

苦難によって大きく苦しんでいる人がいるんです。

 

苦難によって絶望している人がいるんです。

 

苦難によって死を選ぼうとしている人もいるんです。

 

人生を捨てようとしてしまう人がいるんです。

 

その人たちの気持ちを知らないで、考えないで『ただ自分だけが苦難は恵みだ』なんていい加減な事は言えるはずがありません。

 

苦難が恵みである。この言葉はそれほどに勇気のいる言葉なんです。

 

もし自分が相手に苦難を与えているとしたならばどうでしょう。

 

あなたは、恥を捨て、自分の行為を相手に対して心から謝罪し、そして心から悔い改めて全てを改めようとするでしょうか。

 

自分の苦難は恵みだけれども、相手に与えた苦難は知らない。

 

これは、「苦難が恵みだ」と言えるでしょうか。

 

私達は、今この主の御前に立って礼拝しています。

 

ですから私達は、この礼拝で中で聖餐式の中で「苦難は恵みであると」知ろうではありませんか?

 

そして主に勇気を持って宣言しようではありませんか。「苦難は恵みである」と。

これがイエスが私達に示してくださっている希望であり、十字架という苦難の後に続く、復活と言う大きな希望なのですから。

 

私達は、主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。

 

なぜならそれはイエス自身がそうだったからです。

 

でも私達は、苦難に合うことは嫌だと思います。

 


私は今、すらっと「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」と言いました。

 

でもこの言葉を聴いたら、ドキッとしますよね。

 

えっ!そんな苦難になんか合いたくないって。

 

そうりゃあ、いつも楽しく、嬉しく、喜んで生きていくことをしていきたいというのは当たり前に思います。

 

わたしだって、そう思います。

 

苦難になんか合いたくない、楽しくやっていきたいって。

 


私は神学生時代、色んな大学の学生達が集まり、寮の寮監をやっていた事がありました。

 

そこの学生達は、ノンクリスチャンの人ばかりでした。

 

寮では聖書研究会があったのですが、そんな中、キリスト教の話題になって、キリスト教に対する印象を聞いたことがあるんです。

 

そうすると大部分の学生達が、「最初は、キリスト教は暗い感じがした。」という意見が大勢でした。

ああキリスト教ってこう思われているんだと思った瞬間でした。

 

神学校が渋谷にあるものですから、土曜日など駅前にいくと大きな看板とプラカードとマイクをもっている外国人の方々がいるんです。

 

「悔い改めよ。悔い改めなければ永遠の地獄にいく」と。

 

「悔い改めよ!」・「悔い改めよ!」・「永遠の地獄にいくぞ」と言われると、なんか怖い感じがしますし、人々に暗いというイメージを与えている感じがします。

 

家庭教師をしていたときの高校生の男の子と新宿に遊びに行ったときも、同じような人たちがいて、高校生の子は「とても気持ちが悪い」と言っていました。

 

どんなに聖書に書いてあると言っても、このような仕方の証しでは、誰もキリスト教を知りたいと思わないし、暗いイメージを与えてしまうものです。

 

私達は、救われていると同時に、世に対しての証し人でもあるんです。

 

ですから、こわばった顔をしていたら、誰も近づいてこないように、暗いような事を証しすれば、キリスト教、クリスチャンのイメージも暗いものになってしまいます。

 

ですから、先ほどの言葉、「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」という言葉で終わるならば、

キリスト教なんて暗いもので、怖いもので終わってしまうでしょう。

 

でも、私達の中心はこの迫害や苦難にあるわけではありません。

 

中心は、なんでしょう。

 

それは十字架と復活です。

 

十字架とは苦難や迫害です。

 

じゃあ復活とは?

 

それは希望です。喜びです。恵みです。

 

野球でいうならば9回裏2アウトからの逆転ホームランみたいなもんなんです。

 

サッカーなら、ロスタイムからの逆転ゴールと言えるんじゃないでしょうか。

 

私達の中心が、十字架で終わるとき、その先にあるのは滅びです。失望です。

 

死です。無です。

 

でもそうではない。

 

私達の中心は、復活である。それも十字架を通しての復活なのです。

 

十字架を通っているときは私達はわからないのです。

 

クリスチャンだってわからない。逆にクリスチャンだから分からなくなるのかもしれない。

 

苦難がなぜ私達にあるのか?

 

神のなさる事は私にはわかりません。

 

皆さん一人ひとりが神の元の帰った時、なんであの時はこうだったのと神に聴いてみて下さい。

 

でもこれだけは私は大きな声で言えます。

 

必ず、絶対、最後は勝利をもって、この世の人生が全うされるという事を。

 

これは、誰かに勝つという事ではありません。

 

死に打ち勝ち、自分の罪に打ち勝つという事です。

 

私達は、選ばれた者、つまり、わかりやすく言うと選手、日本代表というよりクリスチャン代表なんですよ。

 

えっ私が選手??

 

いやいやこんな私がそんな選手だなんて思うかもしれませんが、あなたは神から選ばれた選手なんです。

 

今の話を聴いて、そんなの自分にはできないと思うことは当然のことです。自然の事だと思います。

 

選手となってクリスチャン・神から選ばれた代表選手だなんて・・・。

 

けれども、今週の御言葉にあるように、パウロは1コリント1章26節でこう語っているのです。

 

『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。

 

人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。

 

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。

 

また神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです』と。

 

神から見ると、この世的な知恵や家柄は関係ないんです。

 

私達は、この世的になりすぎて、教会でも人を見ているんですよ。

 

この人はこれが得意だから自分にはできないとか、こいつは自分より知恵がないからこいつは頼りにならないとか。

 

人を見て自分を萎縮してしまう人。

 

萎縮している人を見下げる人。

 

教会で神を見ているようで人をみている事があります。

 

しかし、それは違う、ノーだと聖書は語っているんです。

 

そして、そんな見下げている人が最後には恥をかき、能力がないと思っている人を最後には神は引き上げるんです。

これが神のなさるわざなのです。

 

イエス・キリストがたとえを言われたように、

 

自分は正しい人間とうぬぼれて他人を見下しているファリサイ派よりも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人を義とされ、用いられるのです。

 

神に選ばれた選手として

 

私たちが神の義のために、人生をプレイするとき、人生を歩んでいくとき、

 

野球やサッカーみたいに、競技をやっている最中は、この試合がどうなるかわからないと不安を感じストレスを覚えることがあるかもしれない。

 

途中で点を入れられてしまい、ああおしまいだと意気消沈したりしてしまうかもしれません。

 

けれどもどんなに点を入れられても、どんなに点差があったとしても、負けると思ってしまっていても、最後の最後には神の勝利で終わるのです。

 

それが十字架と復活なのです。

 

ですからどんなに苦難があろうが、困難があろうが必ず勝利で終わり、そして永遠の命という続きがある。

 

これが神の私たちに与えている大きな希望なのです。人間が与える希望ではなく、まさしく神が与えてくださる希望なのです。

 

勝利で終わることを確信していれば私たちは希望を捨てるはずがありません。

 

あきらめるはずがありません。失望するはずがありません。自ら死を選ぶはずがありません。

 

そして、勝利を知っていればこうもいえるでしょう。

苦難や迫害されている事実が神の義に生きていることの保証となっている。

 

苦難や迫害されているからこそ、天の国の約束を保証されるのである。という事を。

 

ですから私たちは、その神の希望を十字架と復活という希望の神の義を語るのです。

 

天の国へ行くのはそのような人々なのです。

 

これが神が私たちに与えている希望であり、神のなされている事柄なのです。

 

冒頭で語ったように「苦難は恵みである」と言うことは簡単なことばではありません。

 

けれども、「苦難は恵みである」と本当に言える人々がこの世界を、教会を支えているのだと思います。

 

今私たちがここに立っているのは、苦難が恵みである。

 

最後に勝利がある。希望があると信じている人の支えがあるからこそなんです。

 

そして私たちもいずれ、神から選ばれた代表選手として人生という競技場のピッチに立ち、苦難というスポットライトを浴びることがあるでしょう。

 

そんなとき、苦難というスポットライトを浴びながらも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人のように、本当に意味での神の義を信じ、苦難は恵みであると心のうちから言えるのであれば、あなたも教会の支え、この世界の支えとなっていくのではないでしょうか。

 

神秘的な神の義の役割をあなたが果たすときがきますように。

 

主の祝福があなたがたにありますように。

 

祈ります。

壮行会を行いました!

花園教会は壮行される側がもてなすんです。

変わってるでしょ!

でもとても心温まる思い出になりました!

ファミリーありがとう!!

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今日はイースター!みんなで餅つき大会しました!

よもぎ、きなこ、あんこ、大根おろし、美味しかったな~。やっぱりつきたてはサイコー

ラブゴスの様子(写真で)

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ラブゴスで歌う曲を練習中!



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ギターを調節中です。



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ラブゴスの後のケーキはとても美味しかった。



花園教会ってどんなとこ?

主日礼拝:毎週日曜日
10:30~12:00




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絶望のあるところには希望を

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