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京都・花園キリスト教会

こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会

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イースターの日に・・・ 

突然ですが今日は何の日か知っていますか?

そうイースター。

じゃあイースターって何?

そう、イエスキリストが私達の罪のために十字架に掛かって下さり死んで私たちの罪を取り除いてくださり、3日目に復活された日が今日です。

復活するという事は死という一番の敵を打ち負かしたということです。

私達は何かに挫折したりもう終わりだと思ったとき死のうとします。

しかし、イエス・キリストはその死を打ち負かされたのです。

これは私達イエス・キリストを信じるものとしてこの事はとても大きい・一番大切なことです。

私達は、悲しんだり、苦しいときがあります。

そしてそれに耐え切れないと思うことがある。

ときにはもう嫌だ!やりたくないと思うかもしれない。

それが自分にとって耐え切れないと感じたら、ああもう死にたい!とすら思うかもしれません。

今からある男の子の話を皆さんにしましょう。その男の子の名前はそうですね~田中君としましょう。

その田中君はみんなと同じように教会学校にいっていました。

田中君はイエス様のことも信じていたし、そして教会でイエス様を信じますという告白をし、洗礼もうけていました。

田中君は、中学校に上がるとその中学校はちょっと不良の子が多かったので、田中君もいたずらが好きになってしまった。

けれども、そんないたずらばかりしていたけど、田中君は教会は大好きだったので教会にはちゃんと来ていたのです。

そしてその田中君が高校生になりました。

田中君はいたずら好きだったこともあって、その高校の不良のグループに入ってしまいました。

でもみんなと遊ぶことはとても楽しかったし、つるむことが面白かったので全然それが悪いこと感じませんでした。

しかし、そんなある日、田中君のいた不良グループの子がイジメを始めたのです。

その標的となった子は、クラスでもちょっとおとなしめの男の子の山田君でした。

別にそのおとなしい山田君が不良グループにちょっかいをだしてきたわけでもありません。

にも関らず、田中君のいた不良グループの子達は山田君に対してみんなの前で馬鹿にしたり段々とそのいじめはエスカレートしていったのです。

ちなみにクラスの他の子達は、不良グループにかかわりたくないので、山田君をさけるようになり、山田君は誰からも声をかけなくなってしまったのです。

田中君は最初は田中君自身もその不良グループにいたので一緒になって、山田君を馬鹿にしていました。

けれども段々田中君にとってそれが重荷になっていったのです。

それは教会では、弱い者を助け・イエス様は神様であるはずなのに、誰からも無視されているような人たちと共に食事をし、そして楽しくすごし、そしてイエス様は神様であるにもかかわらず、私はあなたの友・友達になるといわれる。よく神様は、人間に命令するだけだけど、イエスさはそうではなく、私達と同じ目線になっていつも私達の事を一番に考え、そして私達人間に殺されそうになるときも、私達をかばいつづけ、私達のために祈られた。・・・

そんなイエス様の姿を田中君は知っていたにも関らず、そしてイエス様のことを信じていたにも関わらず、自分はいじめに加担している。

田中君は自分のやっている事に少しずつ疑問が生まれてきました。

「弱い者をいじめをしてる僕って本当にいいだろうか」と。

そう考えると段々と田中君は心が重くなっていきました。そして不良グループにいても楽しくなくなっていったのです。

そしてある日、田中君は、不良グループの遊びの誘いを断り、山田君と遊ぶようになったのです。

山田君と色々話してみると彼はとてもゲームが好きでした。田中君もゲームが大好きだったのですぐ友達になれたのでした。

そして一番の嬉しかった点は、それまで心がとても重たかったのに山田君と付き合うようになるとすっとその重荷が心が消え、軽くなり、そして心の底から喜びが生まれたと言うのです。

これで終われば、このお話しはハッピーエンドなのですが、この話にはまだ続きがあります。

それは、不良グループ。不良グループにとってはこの出来事は全然面白くないことでした。

不良グループは次に何をしたか。今度は田中君をいじめだしたのです。

田中君のまわりには山田君以外に誰も近づかなくなりました。

友達がこれほど簡単に裏切りそして冷たいものかと田中君は感じたといいます。

それまでは仲良く話して友達が、み~んな田中君を避けるようになっていく。

田中君は、とてもそのいじめで苦しみました。「自分はイエス様みたいに弱い人を助けたのになんでこうなるんだ」と、神様を憎みさえしました。

「なんでこんなに神様に祈っているのに助けてくれないんだ!」と叫びました。

そしてそのいじめに耐え切れないと感じ、ビルの屋上にいき飛び降りようともしました。

しかし、死ぬことはできませんでした。

そんなときふとひとつのみことばが自分の頭をよぎったのです。

それは「勤勉で怠らず霊に燃え主に仕えよ」というみ言葉でした。

なぜその御言葉が頭をよぎったのか。それは田中君自身にもわかりません。

自分がいじめられている事とこの御言葉は全く接点がありません。

「生きることがつらい」・「もう生きる事をやめたい!」・「もう耐えられない」と言うことと「勤勉で怠らず霊に燃え主に仕えよ」というみ言葉に全く共通点がないのです。


この御言葉を簡単に言うならば「怠らず励み、霊に燃えて主につかえなさい」、なまけてないでいつでもイエス様を信じて、そしてイエス様に仕えなさいということです。

はたから見たら、田中君のおかれている状況とこの御言葉は全くあっていない。

でも田中君にとってこの御言葉は衝撃的な事でした。田中君はもうわからないけどその御言葉にしがみついたのです。

絶対この御言葉を忘れてはいけないと思って・・・。忘れたら自分がいなくなると思うくらいでした。だから田中君は必死になってこの御言葉を覚えました。
すると不思議な事に田中君の心には勇気がわいてきたのです。

そしていじめに対して立ち向かおうと思うようになりました。いじめに合っているうちは不登校にもなりました。

でもその御言葉を受け取ってからは学校にいくようになり山田君ともそれまで以上に楽しく遊ぶようになっていったです。

それからはとてもすべての事が不思議。

田中君のいた不良グループは、内部分裂を引き起こしていき、ひとり・また一人と抜けていき、ついにはその不良グループはなくなっていったのです。

そして田中君のまわりにも友達が増えて言ったのです。

田中君は悲しくつらいときもありました。

でもイエス様を信じることという事の意味、御言葉を覚える・握り締めるという本当の意味を知ったのです。そしてそこからは生きる・もっと生きたいという希望が生まれたのでした。

そしてそれからのお祈りもただ自分のことだけの事を祈るのではなく、他の苦しんでいる友達のことも祈るようになっていったのです。

イエス様は今日、私達がもっとも恐れている死・死ぬ事に勝利された日です。

これは私達に、希望を与えてくれます。私達が死ななくてはいけなかったのにイエス様は私達の身代わりになり死なれた。しかし、死なれた後3日後に復活され、私達に希望を与えてくれたのです。

そう田中君に希望を与えたように。

田中君は死のうと思った。でもイエス様すでに田中君のために自分が犠牲になられたのです。そして田中君に死ぬ事ではなく生きることの希望を復活によって与えたのです。
イエス様はいつでも私達の隣におられ、そしてあなたの周りの誰もが貴方の事をいじめたり、無視したり、冷たくしてもイエス様だけはあなたの事を友・友達と言われる。
そうイエス様はあなたを信じているのです。

そして、あなたが倒れそうになるときには、田中君に与えたように御言葉与えられるのです。そう、それは関係ないように思える御言葉であっても。。。

だからあなたは是非今日、イエス様の事を本当から信じて欲しい。教会に初心者も熟練者もありません。

あなたがイエス様を信じると思った時点からもうあなたはイエス様の側に立っているのです。
そうすれば必ずいつかあなたのくるしみや本当につらい時でもそれが喜びに変わっていきます。そして今度は他の人を助け生きる勇気をあなたが与える事ができるのです。

ですから皆さん、毎週御言葉を書いてもらっていますが、どうぞその御言葉を覚えて下さい。そして思い出してください。必ずあなたにとってそれが一番必要になるときがくるはずですから。

おいのりしましょう。

(2009年4月12日イースター 教会学校礼拝メッセージより)
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動画集を春仕様にしました!!

Yotube花園教会動画集の背景を春仕様にしました~!!

絵本の読み聞かせ講習会

絵本の読み聞かせ講習会が無事終わりました。

多くの方々が参加してくださりとても感謝でした。

初めて教会に来たというママさんも参加してくださいました。

パワーポイントを使い約1時間の講習でしたが質疑応答もあり、

現在進行形の子育て中のママさんやパパさんの悩みなど様々な事を皆で共有する事ができとても感謝です。


また花園教会で子ども達の事を皆で考える時間が与えられればと思います。

これからの子ども達の成長を私達大人は温かく見守っていきたいものです。


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講座の一部のレジメ


イースター餅つき大会!!

花園教会ではイースター・復活祭に恒例の餅つき大会をやります!!

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春に餅つき??と思われる方もいらっしゃると思いますが、いえいえめちゃくちゃ思い出になりますし、

まずめちゃくちゃうまい!!!

しかもただつくだけじゃない。自分で色々トッピングするんです。

昨年はよもぎ・あんこ・きなこなど・・・・。

すべて絶品!!食べ過ぎに注意ッス!!

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イメージ図



やっぱり餅はつきたてに限りますって(笑

ということでイースターに餅つき大会をするので是非皆さん参加してみて下さい。

参加無料ですよ~!


ちなみにイースターとはイエス・キリストの復活を祝う日です!


イエス・キリストが私達の罪の為に死なれたけれども、

しかしその死に勝利し復活された・私達に一番大切な希望を・勇気を与えてくださったキリスト教で一番大切な日でもあります。

一般にはイースターエッグで有名ですよね。


日時:4月12日(日)1時15分~ 花園教会駐車場にて

私には金銀はない。けれどもわたしにあるものをあげよう。

聖書箇所:「使徒の働き(使徒信条)3章1~10節」


今日は、受難節(四旬節)、またの名をレントという第2週目の主日礼拝です。

受難節(四旬節)・レントの起源は、モーセの荒野においての40年間の生活や、イエス・キリストが断食をされ、その時に、悪魔から誘惑を受けられた40日間から来ていると言われます。 

受難節(四旬節)・レントの期間は、イエス・キリストが復活された日であるイースターまでの40日間、日曜日はカウントしないのですが、灰の水曜日と言われる水曜日から始まります。 

この受難節(四旬節)・レントの期間は、わたしたちに、祈りを強め、また悔い改めて心を開き、神のみむねを従順に受け入れるよい機会を与えてくれます。

受難節(四旬節)・レントの間、わたしたちがたどる霊的旅路は、キリストの死と復活という大いなるみ業を思い起こす準備をするためのものです。

その実現のためには、第一に、神のみことばにより熱心に耳を傾け、さらに、より惜しみなく節制を実践することが必要です。 

節制とは、規則正しく、度を越えた行動を抑えることです。 

こうすることで、苦しみのうちにある人々をより広く援助することができるようになります。 

今日の聖書の箇所はその広く援助するという意味で私達にその援助の本当の意味を知らしめてくれる御言葉と言えるのではないでしょうか。

今日の「使徒の働き」には3人の人物が登場します。

それはペトロとヨハネ、そして生まれながらにして足の不自由な人の三人です。

ペトロについては皆さんもよくご存知だと思います。

ペトロは漁師でしたがイエス・キリストに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、兄弟アンデレと共にすぐに網を捨てイエスにしたがったあのペトロです。

そしてヨハネ。このヨハネは洗礼者ヨハネとは別の人物です。

このヨハネはゼベダイの子ヨハネで、彼も漁師でした。

マタイ福音書の4章18節を見てみるとヨハネがイエス・キリストの弟子になる記述があります。

それによるとペトロとアンデレがイエスに従った後すぐに兄弟ヤコブと共にヨハネもイエスに従いました。

この事からもわかるようにこのペトロとヨハネはイエス・キリストの最初の弟子となるわけです。

この2人の弟子は、イエスが天に上げられた後、聖霊を受けて・ペンテコステでありますがイエス・キリストの福音を多くの人々にのべ伝えたのでした。

この事はイエス・キリストがペトロに言われたあの言葉の実現のひとつの形でもあったのです。

その箇所はマタイによる福音書16章18節から

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」

つまり、ここに登場するペトロ・ヨハネを始め、聖霊を受けた弟子たちがイエス・キリストの福音をのべ伝えていったわけです。

ペンテコステはよく教会の誕生日とも言われますが、聖霊を受けた弟子たちがイエス・キリストの伝えた神の福音を全世界に伝えていきました。

今日の箇所はその教会が建てていくぺトロとヨハネの宣教がここに記述されているのです。

そして登場する3人目は、足の不自由な男性です。

この男性は生まれながらにして足が不自由でした。
70人訳聖書には「母の胎にいるときから」と記されています。

この人の年齢は、次の章4章22節を見てみると40歳を過ぎていたと記されています。

この教会に40代の方はいらっしゃいますか?


そう、いらっしゃらない。じゃあ自分は気持ち40歳かな?と感じている方は?

私はいつも自分の年齢を言うと

「ええ!?まだ20代なんですか?」

とびっくりされてしまいます。

「20代には見えない!考え方が40代くらいに見える」

と言われます。

その事を考えるとある意味、私に近いかもしれません(笑

しかしこの40歳の男性は、身体的には40歳であっても気持ちは違ったかもしれません。

今日の聖書の箇所には【この男性が施しを受けていた】とあるからです。

現代で言えばまだバリバリ働けるであろう年齢の方が、足が不自由であるいう理由から施ししかできない。

今日の聖書箇所からもわかるようにこの男性の日課は「施し」だったわけです。

毎日、毎日「施し」のために神殿の門そばに置いてもらう。
彼にできる事はそれだけでした。

皆さんは施しを受ける方をご覧になった事はあるでしょうか?

私は、あります。

それは、高校のときです。

当時、鹿児島の県立高校はほとんどの学校が修学旅行に海外が選ばれていました。

海外に行って様々な体験をするというのが当時の鹿児島の教育方針だったようで、私の学校はマレーシア・シンガポールに行きました。

その修学旅行の中でマレーシアにあるマラッカ海峡・中東・アジアの貿易を結ぶ大変重要な航路ですが、その船の往来を望める丘が観光名所となっていた場所に行った時のことでした。

その丘はとても綺麗で言われるようにマラッカ海峡が望め、沢山の船舶の往来しているのが見えました。

しかし、私が衝撃だったのはそのマラッカ海峡でも沢山の船舶の往来を見たことでもなく、その観光名所の通り道で1人の老人が手をこう固定させていた姿でした。

最初、何をやっているんだろうと遠めから見ていたのですが、近づいてみるとその手の上にはお金が置いてあったのです。

その老人は全く微動だにせず、手を固定させていました。

私は初めてこの目で物乞いをしている人を見たのです。

私もお金をその手のひらにそっと置いたのですが、私がその老人の顔を見た際、とても衝撃だったのはその老人の目でした。

その老人の目はどこかこの世に自分がいないような・・・・そんな事を思わせる目で、遠くをずっと見ていた目でした。

死んだ目ではないけれど、でも生きた目でもなかった。

私達が「物乞い」をイメージすると、どうしてもこの前のクリスマスに女性会の方が素晴らしい演技してくださったあの「マッチ売り」のように、人の情に訴えながら
物乞いをする人をイメージすると思いますが、

しかし、今日の聖書箇所に出てくる足の不自由な男性のように長年、物乞いをしていると先ほどお話しした老人のように、情に訴える事を越えて

それが何かもう生活の一部となってしまい感情すらあまり持ち得ない状況となってしまっているような・・・・。

今でのあの老人の目は忘れられません。

その事を思うとき、今日の箇所でペトロがじっとこの物乞いをしていた男性をじっと見つめ、「わたしたちを見なさい」と言った事は私にとってとても印象的です。

このペトロの「わたしたちを見なさい」という言葉にはこの男性を人間としてちゃんと認めているからこの言葉が言えるのではないでしょうか。

私が初めてその「物乞い」をして老人の姿を見たとき、そして老人の目を見たとき、あまり良くない言葉ですが、正直「この人は人なの??」

「人間なの??」と心で感じてしまいました。

しかし、ペトロはこの物乞いの男性に「わたしたちを見なさい」と語り、この男性との人間関係を求めたのです。

この日本においても、最近のニュースでホームレスを襲撃する事件が多発しています。

よく捕まった犯人はこういいます。

「なんかうざかった。」、「自分の仕事がうまく行かずイライラしていた」「自分とは同じ人間だとは思わなかった」
と。

ここには、ペトロが求めた人間関係のかけらさえありません。
これは、人間の罪なんだろうと思います。

私達自身が生み出した罪の社会・罪の生活の一つの結果なんだろうと思い知らされます。

私は大学時代・ホームレスの支援活動や炊き出しのお手伝いをしていた事があるのですが、

その炊き出しをしていた時、1人の60代近くの男性が私のところにきてこう言って来ました。

「炊き出しにならんでいるあいつらは、人間のクズだ。あんなくずはいなくなればいい。俺とあいつ達は人種が違う」と。

同じ日本人同士であってもこう人種差別するような日本人がこの日本に存在するんだと改めて知らされた瞬間でした。

同じ日本人だろうが、外国人であろうが、皮膚の違いであろうが、差別意識はそして人間の根底に罪が存在している。

つまり同じ日本人だろうが、外国人であろうが、皮膚の違いであろうが、全く関係なく差別の人間の関係を求めない心を持っている。

ですからこの人間の関係を求めない心は、いつどこでだって起きるのです。

つまり、学校であっても職場であっても夫婦であっても、親子であっても兄弟であっても、そしてそれが教会であっても起る。

そうそれがいつでもどこでも起きてしまうということなんです。

それはどうしてか?

そう、なぜならそれは、私達の中に罪が存在するから。

私達は【人間は人間との関係によって生きる】と言われるにも拘らず、知っているにも拘らずその関係を求めない。

今日の御言葉に出てくるペトロはどうだったでしょうか。

「わたしたちを見なさい」

彼はまさに人間関係を求めたのです。

しかし、なぜペトロにはこれができたのでしょうか。

それは6節を見てみるとわかるはずです。

つまり6節、「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレ・・・」

新共同訳では「わたしには金や銀はないが持っている物をあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

そう、ペトロはイエス・キリストの名によって行動したのです。

ペトロは使徒の働き2章45節にあるように

財産や持ち物を皆で共有していた事から彼自身本当にここで言うように金銀がなかったのだと思います。

普通なら、物乞いをしている人を見たら「相手が求めているものを上げなくては!」と思います。

つまりここで言えばまさに金や銀などのお金です。

ペトロももし、イエス・キリストに出会っていなければ、この物乞いが求めるもののように金や銀などのお金を施そうと思ったことでしょう。

しかし、ペトロは金・銀よりももっと、お金よりももっと尊く・高価なものに最高のものを知っていたのです。

そうそれは主イエス・キリストの福音であると。

ペトロは自身の手紙でこう記しています。

「ペトロの手紙1 1章7節」

彼はそれを知っていたからこそ、必要以上の財産や持ち物は共有していたのであり、自分には必要がないと感じていたのでしょう。

そしてその最高の贈り物を・福音をまさにこの物乞いの男性に与えたわけです。

この奇跡の出来事は私達に一体どのようの意味を与えてくれるのでしょう。

それは、私達もこの物乞いの男性のように主イエス・キリストの福音に触れる前までには目が生きていなかったのに、

この8節を見て下さい。

踊り上がって立ち、歩き出し回って踊ったというではありませんか!

私達も主イエス・キリストの福音に触れれば私達も立ち上がる・生きる勇気が活気が与えられるのです。

そして遂にはこの弟子たちと同じように主イエス・キリストの福音を他者に与える事が許されるということです。


この世界は、お金で動いています。

最近の政治の世界にもお金がまとわりつき、この不景気もお金がからみ、すべてにお金が絡んでいます。

私はここでお金自体を否定するつもりはありません。

今も昔も変わらず人は、お金と付き合ってきているのですから。

これからもそうでしょう。

私自身も先立つもののために平日はアルバイトですが、会社に行き、フルタイム働きそして時には朝から深夜近くまで働くことだってあるわけです。

勿論、少しでもアルバイト代がアップする事は嬉しい事ではあります。
私が働いている会社でもお昼の休憩時間もやはりお金にまつわる話になるわけです。

その会話の中で、社会情勢や会社の話は会話に出てきますが、あまり会話の中に、自分の家庭の事をさらけ出すような内容、ましてや相手の家庭の事情や子どもの事を心配してあげるという内容の話は聞きません。

私達が四六時中、このようにお金の情報を見聞きし、話、悩んでいたら、自分の心がすべてお金になっていくのがわかるような気がします。

しかし、そう考えると教会は違いますね。

教会では勿論見聞きした話など愚痴っぽくなる話もあるわけですが、しかし相手の事を気遣いそしてその家庭の為にその子ども達のために祈るわけです。

ここに大きな違いがあると私は思います。

祈りとは相手を心配する行為ではなく、相手に積極的に関与するという能動的行為なのです。

つまり、とりなしの祈りに代表されるようにペトロが物乞いの男性に人間と人間との交わり・関係を求めたように教会にもそれがある。

交わり・関係のない教会はいつかこの世と同じになってしまうでしょう。

ですから皆さん、日曜日の朝こうしても忙しい中御堂に集まっているのですから是非人間と人間との交わり・関係を求めてもらいたい。

一方が求めて一方が求めない。これでは成り立ちません。

どちらも交わりを求めなければ成立しないのです。

主イエス・キリストはどんな時でも交わりを欠かさない方でした。

ペトロもそれをよく知っていたからこそ彼も物乞いの男性に交わりを求めたのです。

あなたの土台はいつしかお金にまつわるこの世の煩い(わずらい)になっていないでしょうか?

私達の土台はなんでしょう。

それはペトロがここで「ナザレの人イエス・キリストの名によって」と語っているようにクリスチャンの土台はすべてにイエス・キリストなのです。

これはしっかり持って欲しい。そして求めて欲しい。

あなたがそう、求めなければ、土台をイエス・キリストにあると信じなければ何も成り立たないのです。

あなたの土台はお金でも、社会情勢でもあなたの思い煩いでも・あなたの心でも・あなたの性格でも・あなたの気持ち・心境でもない。

ただただあなたの土台はイエス・キリストにあるのです。

イエス・キリストがすべてにおいて私達に答えてくださる方なのです。

私達の土台がイエス・キリストにあるからこそ私達はどんな困難が来ても大きく土台が揺れたとしても崩れる事もブレる事もないのです。

【ペトロの手紙1 1章7節】これが私達の信仰であり、苦難に打ち勝つ力であり、主イエスが私達に与えてくださった福音なのです。

是非その事をもう一度あなたの信仰に刻み付けて欲しい。

そうすれば真の主による交わり・関係も自ずと与えられるはずです。

私はこの一年、会社と教会というものを所謂、両立するような形になりました。

今振り返ってみると牧師と言う立場にありながら社会を知ることができたという点ではメリットはありましたが、聖書に浸るという点では時間が足りなかったというデメリットも知らされた一年であったように思います。

以前ある教会に行ったとき、ある信徒の方が、「牧師は社会経験してから牧師になるべきだ!」と断定している方がいらっしゃいました。

私は色んな経験を通して牧師になられる事はとても素晴らしい事であるし

その経験が必ず賜物として生かされていくと思うのですが、

だからと言って「社会経験してから牧師になるべき」と断定する事はできないと思います。

いいえ、断定してはいけない事だと感じます。

それはなぜか。

それは伝道の書の3章の御言葉にあるように。
この箇所は新共同訳の方がいいので読みますが
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」

と書いてあるからです。

そう、主に導かれ牧師の道を歩むときは私達が決めるのではない。神がお決めになるからです。

これは勿論、牧師になるときだけの話ではありません。

クリスチャンになるときだって、主の祝福に触れるときだってそう、教会にこうして来ることだってそうなのです。

今日の御言葉に出てくる物乞いの男性もそのときだったのでしょう。

でも私達は、ここで大切な事を知らなければなりません。

それは、神は主の福音を知らせるとき必ず神はそこには人を立てて、人を遣わして知らせるという事を。

この物乞いの男性に神が主の福音が知らされたのはまさに人であるペトロの存在がありました。

そう、神は人を遣わして主の福音を知らせそして福音を与えられるのです。

ある人にとっては親であり、ある人にとっては兄弟であったり、ある人にとっては伴侶であったり、ある人にとっては友人・知人であったり。

神は人を遣わし、福音を知らせる。

ここにおられる1人1人もそうであったはずです。

そしてここにおられる1人1人も必ず福音を知らされる者から福音を知らす者へと変化していくのです。

今のあなたは、福音を受けるものだけだと思っているかもしれない。

しかし、それは違う。

あなたは福音を受けるものから、福音を受け続けながらその福音を知らす者へと変わっていくのです、

その時がいつなのか私にも誰にもわかりません。しかし必ず主が与えてくださいます。

信仰と言うのは大きな運動体です。

つまり、あなたのその信仰が次の世代の信仰へと受け継がれていくのです。

そう、あなたはすでにその受け継ぐための要(かなめ)・担い手なのです。

あなたはそれに気付いていないかもしれません。信じられないかもしれません、

しかし神はすでにあなたのその信仰によって他者に福音を与えられているのかもしれません。

ペトロが物乞いの足の不自由な男性をイエス・キリストの名によって立ち上がり・歩くよう命令した際、とても印象的なのはペトロがこの男性の右手を取って彼を立ち上がらせたというところです。

私達もそうなのです。

神が、生きていないような目をした者・弱り果てた者を立ち上がらせる際、ペトロが物乞いの男性の右手をとって立ち上がる手助けをしたように、私達はそのお手伝いを担うのです。

これはこの世にどっぷり浸っている人間には到底与えられない、素晴らしい役目です。

あなたも神の業の一部を担うという重要な役割が与えられるのです。

神の業に関られる事ほど、この世界で素晴らしい事はありません。

私達はお金よりももっと高価でこの世の中で一番尊くそして強い主イエス・キリストの福音をもっているのですから

主イエス・キリストを土台に据え、あなた自身が人間の関係を求めそしてあなた自身が立ち上がり、

そして立ち上がることができたならば今度は自分が主イエス・キリストの名によって他者を立たせるお手伝いをするのだという事を信じていただきたい・歩んでいただきたいと思います。
そうすればあなたの心を支配していたお金やこの世の煩いは消えて平安が与えられるでしょう。

そして真の希望が与えられ苦難に打ち勝つ勇気が与えられるのです。

そしてあなたの目は来るべき神の国を見据えてこの世を堂々と歩んでいける。

主の祝福が皆さんに大いにありますように祈ります。

(3月8日主日礼拝説教にて)

とても嬉しい事・・・

先日から始めたギターレッスン。

今日もギターレッスンをやろうとしたところ、なんと今日は、新たに今度高校生となるお友達が来てくれてました~!

そのお友達は教会に来るのは初めてという事で、まずは共に紅茶タイムでひといき。

いい交わりができました。

ちなみにこのお友達は教会に来ている子の同級生と言うことでした。

いやーとても嬉しかったです。

神様に本当に感謝したいと思います。

少しずつですがティーンズの人数が増えてきました。

ちなみに今日初めて来たお友達もギターレッスン・賛美練習に参加してくれました。

というか、これから賛美練習に来てくれそうな感じでした。

是非また遊びにきてギターをやりましょうね!


花園教会のギター人口がこれから増えそうです(笑


ちなみに花園教会にはなぜかギターが5本もあります。。。なぜ!?

信じることって!?

今日はイエス様がガリラヤ湖という湖に弟子たちとボートに乗り向こう岸に渡ろうとしたときの話です。

イエス様はお疲れになったのかボートですやすや寝ておられました。


そして弟子たちがボートを漕いでいると、突然ゴオオオオーっと嵐になってしまいました。


ボートは揺れて揺れて今にも沈みそうになってしまったのです。


弟子達は恐れて恐れてもうどうしようもできませんでした。


しかし、ふとイエス様を見て見ると、

なんと!!!・・・・みんなどうしたと思う?


なんと・・・すやすや寝ていたんです。


弟子達はそれを見てびっくり!!


弟子達はイエス様に


「イエス様起きて下さい!イエス様起きて下さい!舟が沈みそうです。


私達もしずんでしまうかもしれません」


と、イエス様を起こして訴えました。



イエス様は起きて舟の先端に立ち

「嵐よ静まれ!」

と嵐をおしかりになりました。

すると、それまでボートが沈みそうになるくらいの嵐がスウウーーっと収まったのです。


そしてイエス様は弟子たちに言われました

「どうしてそんなに慌てるんですか?私を信じないのか?」

と言われたのです。



教会ではよく信じるという言葉を使います。

この信じるという事は・・・・


この信じるとは一体どういう事だと思う??


じゃあひとつ実験をやってみましょう!



<ここで、目をつぶってもらい、歩いてもらう>



「どう?見えないってすごく不安になるでしょ?」



「でも、こうして私が、あなたの手をとってあげるとどう??


とても安心するでしょ!?」



そう信じるってそう言うこと!!


見えない中で不安な時に手をとってあげたら、

なにかホッと安心するように、


信じるとは、心がホッと安心するという事なんです。



私達は不安になるときがあります。


でもそんな時だからこそ信じて欲しい。


お祈りしてほしいんです。


先生も、高校のときちょっとやんちゃなときがあったんだけど、

僕のやんちゃの仲間がちょっと弱そうな子をいじめ始めた時、とても不安を覚えました。


中学や高校のときってそれが悪いことであっても周りに

「おまえかっこわるいな~」

「だっせー」、

「万引きもした事ねーの?」、


「お前、あいつをかばうわけ??」

と言われちゃうと、その言葉に負けて自分も悪いと分かっているのについついやっちゃうんです。


そして悪い事を自慢するようになっていく・・・・。


でも先生は声を大きくしていいたい。

それは違う!間違っている!と。


どんなに周りが「おまえかっこわるいな~」「だっせー」、「万引きもした事ねーの?」、「お前、あいつをかばうわけ??」と言ったとしても、


それは悪いこと、やってはいけない事なんです。



今日の聖書のお話の中にイエス様の弟子たちが嵐をみて不安になった場面がでてきます。


弟子たちもその嵐の事ばかりを考えてイエス様を全く見ていなかった。


イエス様がいるにも拘らず「先生、舟がしずんじゃうのに寝ていていいんですか!」

というくらいに不安にイエス様に言ったんデス。


私達も弟子たちと一緒。


「おまえかっこわるいな~」「だっせー」、「お前そんな事もした事ねーの?」、「お前、あいつをかばうわけ??」

と言われたとき、自分がやっていない事に不安覚えるわけ。


そしてその不安を取り除こうと周りがやっているから、自分も悪い事をやってしまう。


でもちょっと待って欲しい。


「おまえかっこわるいな~」「だっせー」、「お前そんな事もした事ねーの?」、「お前、あいつをかばうわけ??」

と言われたとき、不安に思ったとき、イエス様の事を思い出しているんですか?といいたい。



いいえ、是非、そんな不安になるときにこそ、

イエス様僕に私にそれを断る勇気を与えてください!

祈り、そして実行することなんです。


私達にとってかっこいい事は、万引きする事でも・人に迷惑をかけることでもいじめをする事でもありません。


私達クリスチャンにとってかっこいい事とは、神様・イエス様を信じてこれはだめなんだときっぱり断る・やめる勇気なんです。


それが真実のかっこいいこと。


先生もやんちゃ仲間がいじめをした時、とても不安に陥りました。


「お前もやれよ」と言われた。


先生、どうしようっと思った。


そんなとき先生は神様に祈りました。そして「きっぱり断る」をしたのです。


しかし、そのせいで先生は高校で逆にいじめに合いました。


でも今思うと、あのときの僕の決断「僕はいじめをしない!」という決断は間違ってはいなかったと自信を持っていえます。


そしてだからこそ悪い事は悪いことであると間違っていると今みんなに強く言えるんです。


でもこの決断ができたのはイエス様がそばで支えてくれている・

そして教会で悪い事は悪い!間違っている事は周りがどんなにださい!かっこわるい!と言っても間違っている!と教えてくれたから・・・・。


ですからみんなも周りに連れられて間違っている・悪い方向に引き寄せられるときが来ると思う。でもその時にこそ、今日の事を思い出して欲しい。


そしてどんなときにでもイエス様が支え・導いてくれてる事を信じて欲しいと思います。


そうすればさっき目を閉じて不安になったけど、

手をとられて安心したように断れる勇気が与えられ


そして心が安心できる平安できる心が与えられるのですから。

お祈りします。(2009/3/1 教会学校礼拝より)



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絶望のあるところには希望を

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