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ラブゴスメッセージ(最後)

聖書箇所:ルカ5章1節~5節

 

皆さんこんにちは。

 

今日、与えられたみ言葉は、ルカによる福音からです。

 

さっき読んだ箇所の出来事を通してペテロがイエスの弟子となった箇所ですね。

 

ここの5章5節に「私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。とあります。

 

ペテロさんはいわゆるオール、ずっと魚をとるために漁をしていたんです。

 

でも全く魚がとれなかった。

 

この場面は、湖での漁が舞台だけれども、これと同じようなことをみんなも学校や家庭や職場でも・それに教会でも経験するかもしれません。

 

いいえ、もうしているかもしれない。

 

それは、みんなが何か作業をやっていて、色々試したのに、頑張ったのに、なにもできなかった。

 

そんな経験はないですか?

 

そんなときに、知り合いや友達や親に「またそれをやってみたら?」と言われたらどうでしょう。

 

友達から、知り合いから、親からそんなことを言われたら、先生なら、「そんなことを簡単に言うな!」とむかつくし、やる気がでなくなってしまいます。

 

またできなかった作業を再開する、もう一度やるということは容易じゃない、簡単じゃないですよね。

 

それどころか、すべてが退屈でいやになってしまいます。

 

すべてのことが嫌になってしまいます。

 

みんなそうしたらどうでしょうかねー。

 

「もうどうでもいいわ~」なんて思っちゃって、毎日の生活・学校・職場・人との交わり、教会で言うならば、毎週の礼拝などが重荷となってしまい、嫌になってしまう。

 

もしそうなったら、私たちの祈りでさえ冷え切ってしまいます。

 

クリスチャンであったとしても、「もうどうでもいいや~」と思ってしまったら、そこには喜びも感動も希望も他人の事を思いやる愛も無くなってしまいます。

 

そうなると、どうでしょう?

 

家庭や学校、職場などにおいて、特に、自分にとって一番身近な人を、傷つけ合ってしまう。

 

「別にそんなつもりはないのに」と思っても一番身近な人を傷つけてしまうのです。

 

そうなってしまったらまた、人を傷つけてしまうかもしれないという思いがどんどん大きくなり、しまいにはすべての事に無関心になってしまいます。

 

そしてお互いに「こいつが悪い、あいつが悪い」とただ批判するようになってしまいます。

 

また批判するようになると今度は、犠牲を払うこと嫌がる。それは、「じゃあ自分が、僕が私が●●をやってあげるよ」と他人に対して思いやる気持ちがなくなってしまうんです。

 

そうなるとそこには何も生まれないし、進歩もありません。愛も冷えてしまいます。

 

それは私たちクリスチャンであったとしても失望し、すべてに無関心になり、すべてのことについて疲れてしまいます。

 

私たちが生きている現代は非常に生きることが難しい・大変な時代です。

 

私たちをがっかりさせ、働きを困難にする要素は多いし、皆さんもそう感じることが家庭、学校、職場、友達、教会など色んなところであると思います。

 

ここで、もう一度聖書を読んでみたい。

 

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」

 

ペトロは、自分の考えに凝り固まらず、自分の状態をありのままイエスにつげました。

 

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」

 

ペテロは今までなにもできなかった。それを正直にイエスに話したんです。

 

みんなも今の自分の状態をイエス様に告げてみましょう。そう言ってみましょう。

 

私たちも、ペトロが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」

と言って見ましょう。

 

でも聖書に書いていても実際の生活の中で、どうせ神に言ったってどうにもなるわけがないと決め付けて神に背を向ける人がいます。

 

でもはっきりいいます。

 

それは間違いです!

 

それはイエスキリストから離れる行為です。

 

悪魔・サタンが喜ぶ行為です。神様を忘れようとしている証拠です。

 

私達はそうではなく、私達はイエス・キリストという人がどんな人であるか知っているんですからいってみましょう。言って見ましょうよ。

 

「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。・何もできなかったんですよイエス様」って

 

そのときイエス様は

 

「沖に漕ぎ出して網をおろしなさい」と言われるんです。

 

この沖に漕ぎ出すとは、神様がくれる希望に向かって前進しなさい、チャレンジしなさいということです。

 

教会は、沖に漕ぎ出すための停泊所に似ていると私は思います。

 

教会は、希望という約束の地にむかうため停泊所である。

 

旧約聖書にでてくるアブラハムもモーセも神様が約束してくださった土地を目指して砂漠と言う名の大きな海で旅を続けました。

 

アブラハムとモーセはその約束の土地にいくまでに、何度も何度も休むために同じ神様を信じる仲間たちと一緒に、停泊所を張り生活しました。

 

約束の地にいくために前に進みそして停泊所をつくりそこで休む。

これを幾度となく繰り返したいのです。

 

しかし、その約束の土地にいくまでの数々の困難がありました。

 

休むための停留所・天幕を張っていたときでさえ困難が起こりました。

 

しかし、神様はその停留所・天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与え、最後までアブラハムやモーセを見捨てることはなさいませんでした。

 

またアブラハムやモーセたちも神を信じ続け、約束の土地へとたどり着いたのです。

 

そう教会も同じです。

 

神様の約束の地、希望に向かうためには教会と言う停泊所が必要なのです。

 

この世に疲れて、困難に陥ったり、また教会自体が自分にとって時には困難になり、行くことができないときがあるかもしれない。

 

でも、神様はアブラハムやモーセに対して、天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与えました。

 

私たちの通っている教会も同じです。

 

私達は前に前進する時、困難なことも多い事でしょう。

 

そんな時は、私達はいつでもどんなときでもなんどでも教会と言う停留所に戻ってきていいんです。

 

モーセやアブラハムも何度も何度も天幕という停留所を立てては出発しまた天幕を張ったじゃないですか。

 

わたしたちはこの繰り返しがあるからこそ、神が与えてくださった希望の約束の地へと入ることができるのです。

 

そして天の約束の地に繋がる教会だからこそ、神はここで私たちに希望や奇跡を見せ、与えておられるんです。

 

それから神様は沖へ漕ぎ出した私たちに、静かにこう言葉は語りかけておられます。

「網をおろしなさい」と。

 

網をおろすとは、祈りなさい、ということです。

 

私たちは祈りという網を降ろそうではありませんか。

 

でも、クリスチャンの中には、「今は祈れない」という人がいます。

 

でも私は言いたい。

 

祈れないと思う時にこそ、祈るんです。

 

だって「祈れない」ってときってそれは相当自分が追い込まれている時ってことでしょ?

 

そんなときに、自分が追い詰められた時に、「祈らない」、「祈れない」って、ほんとにそれって神との関係をもっているんでしょうか?

 

自分の肝心な時に神がいないんじゃ、神様の恵みが自分の中で大きく生かされるはずがないじゃないですか?

 

そうじゃないんですか?

 

祈れないという人は、いつの間にか神様と語り合うができなくなってしまっている人です。

 

その人は是非、あなたを変えたときの御言葉を祈りを信仰を、そして祈ってくれている人の信仰をどうぞ思い出してほしい。

私達が神と語り合える事ができるようになれば、この世でどんなに、どんなに、苦しくて、死にたくなっても、それは神の恵みによって、希望へと変えられます。

 

人は裏切りますが、神様は絶対裏切りません。

 

だってその証拠を十字架と復活で神はイエス・キリストを通して見せてくださっているではありませんか!

 

だから私達も網を下ろしましょうよ。

 

やってみましょうよ!!

 

私たちは疲れていても、教会に停泊し、そしてこの世へと漕ぎ出し、網と言う祈りができるとき、私達は大きく変えられ、約束の地へ、永遠の命への道が与えられている事を知る事でしょう。

 

どうぞ、イエス・キリストを信じて自信をもってください。

 

あなたは神様から選ばれ祝福され、必要とされている事をです。

 

それではお祈りします。

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あなたに平和と平安がありますように

皆さんおはようございます。

 

先週の木曜日は主の昇天、イエス・キリストが弟子達の前で天にあげられた日でありました。

 

このイエス・キリストの昇天については、マルコ1619節の「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあるように、キリストが死んで3日目に復活し40日目であったという事が記されています。

 

キリストの昇天は、キリストの復活後40日目の出来事でしたので、これに基づいて教会暦では伝統的に復活の主日から40日目の木曜日に祝ってきました。

 

しかし、日本のようにこの日を祝うために週日、集まることが難しい状況を考慮して、キリストの昇天の祭日をこの主日に移す教会もあるようです。

 

このキリストの昇天は、キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから、人間として神の栄光の状態に上げられ、また主なる神のもとで最高の権威に加わられたことを意味します。

 

ですから教会ではこう祈られるのです。

 

「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。

キリストの昇天に、私たちの未来が示されています。

キリストに結ばれる私たちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」

 

そう、この祈りのように、キリストの昇天は、私たちに訪れるこの世での旅の日に新たに私達の魂が天の国に引き上げられるという素晴らしい出来事の原型であり、

 

キリストの昇天は、私達も主なる神によって天の国に昇ることが許される保証でもあるのです。

 

ですから私たちは、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス・キリストに倣って、いつかキリストとともにいることができるという主の希望のうちにこのキリストの昇天の出来事を祝うのです。

 

そして、私達はそのイエス・キリストの昇天の出来事を知り、祝うことが今許されています。

 

これは私達にとって大いなる恵みです。

 

なぜならば、イエス・キリストが苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださったこの教会に集うことができているのですから。

 

天は父なる神の国、そして教会は母なる教会。

 

教会は天の国とこの地上を結ぶ場所です。

 

そして私達は母の胎内とも言うべきこの教会に集い、絶えず天の国におられる

主なる神から聖霊を受けています。

 

そうおおなる希望の恵みを私達は受けているのです。

 

そして私達に主なる恵みを与えてくださる聖霊はよくオリーブの葉をくわえている白いハトが使われています。

 

花園教会の下の礼拝堂にあるステンドグラスにも白い鳩が描かれています。皆さんご存知でしょうか。

 

知らない人は是非、下の礼拝堂をのぞいてみて下さい。

 

そしてこの教会のHPでも一番上の部分に写真がのっています。

 

教会はすべて知っているようで知らない事、思わされることがまだまだホントに多い場所なんです。皆さんも是非この教会を探検してみて下さい。

 

ところで、この白い鳩として描かれる聖霊は、世界において平和の象徴としての描かれる事が多い。

 

なぜハトが平和の象徴?と思われる方も多いと思いますが、ハトは、群れを成す性質をもっています。

 

群れをなして飛んでいく、それが共同体というイメージという事から平和の象徴となったのにこのような説がありますし、

 

また有名なのは、旧約聖書のノアの方舟との関係でしょう。

 

このノアの物語は創世記の6章にありますが、この物語は次のようなものです。

 

主なる神は、地上に増え始めた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じます。

 

ノアとその家族8人はこの神のお告げを聞いて一生懸命働きました。

 

その間に、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたけれども、誰一人耳を傾ける者はいませんでした。

 

 箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていました。

 

ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のオスと雌のペアを箱舟に乗せます。

 

雨が振り出しました。

 

そして、その雨は洪水をうみ4040夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくしたのです。

 

水は150日の間、引くことがありませんでした。

 

その後、箱舟はアララト山の上にとまります。

 

そしてノアはハトと飛ばしました。

 

けれども一回目は羽を休めるところがなく帰ってきてしまいました。

7日後、もう一度鳩を放すと、なんと鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきたのです。

 

この事によりノアは水がひいたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出ました。

 

そこでノアは神に感謝をささげたのです。

 

神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全生物を全滅させる大洪水は決して起こさないことを契約したのでした。

 

その契約のしるしとして、空に虹をかけたというのがノアの物語です。

 

この旧約聖書のノアの物語でてくるオリーブの葉をくわたえたハトは、洪水で地上を見ることができなかったノアたちにとっての希望であり、争いから脱出、滅びを逃れたものにとっての平和だったのだと思います。

 

この事から、ハトが平和、平安の象徴となりました。

 

そして今日与えられている御言葉もまさに平和について語っています。

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」

 

私達はよく平和、平和と言う言葉をよく使います。

 

それは戦争しない事、紛争しない事によく私達の周りでは使われているようです。

 

イスラエルでの挨拶ではシャローム!と言われます。

 

これは、「こんにちは」という意味で使われていますが、このシャロームはヘブル語で、平和・平安・やすらぎという意味があります。

 

ですから、シャロームとは「あなたに今日も平和・平安がありますように」ということなるのです。

 

いいですね。

 

どんな人にも「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言える事というのは。

 

皆さんは挨拶で、「あなたに今日も平和・平安がありますように」と挨拶する事はあるでしょうか?

 

わたしも言ってみたいですが、なかなか日常生活で言う事はない。

 

それは、自分の身の回りの事ばかり気になって考えて、他人を他者を考えていないからもしれません。

 

いや、自分の生きることで精一杯なのかもしれません。

 

でもいつかわたしもこの挨拶のように他人に対して言えることができるのであればなんと素晴らしい事でしょう。

 

まず身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見る。

 

私達は、そんなシャロームといえる「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるような、そんな人間関係を作って生きたいと思っています。

 

私の場合、まず妻に対して「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるようにならないと。

 

皆さんもまず一番身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見て下さい。

 

平和・平安とは本来、ただ戦争しない事、紛争しない事だけではなく、私達の身近で使われていくものなんだと思うのです。

 

 

そして是非、シャローム・平和・平安を目指して人生と言う名の旅を皆さんも続けていっていただきたい。

 

これは、イエス・キリストが私達に望んでおられる事なのです。

 

イエス・キリストは復活して弟子たちの元に来て下ったとき、「平安があなたがたにあるように」といわれました。

 

私達はこのイエス・キリストの言われるシャローム・平和・平安こそが、私達にとって切なものであり、天の国へと目指していく私達にとって必要なものなのです。

 

平和は人間の力によって作られる事はありません。

 

というより、こういった方がいいかもしれない。

 

それは、人間の力で平和を作り出すことはできるけれども、それはすぐに崩れてしまう平和であると。

 

この世界にも昔も今も、平和という名のものとにそれを大義名分として戦争、紛争が絶えず行なわれてきました。

 

軍事力、同盟の力を背景にして平和を保とうと人間はしています。

 

しかし、これらも、人間の思惑によって、一変し、平和から争いへと換わっていってしまう。

 

昔のローマもそう、今の大国と言われる国々もそうなのです。

 

しかし、これは、本当の平和なのでしょうか。

 

神が語っておられる平和なのでしょうか。

 

イエスは、私達に「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と言われます。

 

ここで言われる【平和を作る者】とは、人間たちの考えで、人間たちの思いで実現するのではなく、

まず神を第一として神の示されている事をあらわすことができる人が平和をつくっていくというのです。

 

それじゃあ平和はどこから来るのか?

 

神から来るとイエスはいわれます。

 

神が平和の神である。

 

神が遣わすイエス・キリストのみが平和の人なのであると。

私達には平和を作り出せない。

 

それでは私達はどうして平和を求めていくのでしょうか。

 

パウロはこう語っています。

コロサイ119節、新共同訳ですけれども、

「神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すことなく御子の内に宿らせ、その十字架の地によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。

 

しかし、今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

 

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」と。

 

つまり天の国とこの地上を和解させてくださったイエス・キリストをまず信じなさいという事です。

死んで滅びるはずだった私達を、イエス・キリストが私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった事により、この世と天の国の和解となってくださったのです。

その和解をしてくださったイエス・キリストをまず信じなさい。これが平和を実現させるための第一歩であると聖書は語っているのです。

 

そう、この十字架と復活という和解を信じる事ができるからこそ、私達はこの世において、どんなことでも和解というのです。

 

でも私達はイエス・キリストの和解がなんだかわからないでいます。

 

私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのかと。

 

イエスは、十字架上で、こう言われました。

 

「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。

 

そう私達は傷つけた事すら気付かない。

 

イエスがこのように「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言っている中でも、十字架にかけてなお、人々はイエスの服をくじを引いて分け合っているんです。

 

これが私達なんです。

傷つけていることに気付かないんですよ私達は。自分では気付かない。

 

じゃあどうして気付くのでしょう。

 

それは、イエス・キリストをまず信じることでなんです。

 

私達は、イエスがなぜ私達の為に死なれそして復活されたのかを信じなければ、私達はこの世においても人と和解することできません。

 

そして、イエス・キリストの十字架と復活の和解を信じない・知らない人は平気で人を傷つけるし、自分をも傷つけるのです。

 

信じる事とは、何かを学んだり、決心したり、捜し求めるものではありません。

でも私達は、いつ間にかこの世の知識、常識からすべてを考えてしまっている。

 

じゃあここで一つの質問をしてみたい思います。

 

あなたが、今ここで熱を出して倒れてしまったとしましょう。

 

そしたらここにいる周りの人はあなたに声を掛けてくれるでしょうか?

 

皆さんどうでしょう。

 

たぶんすべての人が「声をかけてくれるだろう」と思ったはず。

 

でもなんで皆さん、そう思ったのでしょうか。

 

それは、必ず声を掛けてくれる人がいると信じたから、疑う事ができないものだと信じたからそう思ったんじゃないのですか。

 

信仰も同じなのです。

 

もはや疑う余地もないほどに神が確かな恵みを、イエス・キリストの和解の恵みを与えてくださっている事に気付き、信じて全てを神に委ねる事、これが信仰なのです。

 

自分が倒れた時に、人が声をかけてくれるのですから、神ならなおさら私達をずっと生まれてからこれまで、そして未来においても気にかけてくださり、愛しておられます。

 

私達が、それに気付きこれまでの事を主において振り返る事ができるのであれば、

「イエス・キリストの十字架と復活の和解がなんだかわからない。信じない」

 

「私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのか」

 

などという質問自体があり得ないのです。

 

神があなたを愛してくださったから、神はこの世にイエス・キリストを送り、そして私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった。

 

そして復活によって私達を、この世での死で終わるはずの私達を、永遠の命を与えて、天の国へと招いてくださっているのです。

 

これほど、大きな希望はありません。

 

私達はこれほどの希望を知っているからこそ、イエスの十字架・復活によって希望、罪からの解放、死よりも大きい永遠の命の恵みを神から与えられているからこそ平和・平安を求める事ができるのです。

 

この神からの大きな恵みに気付けば私達は喜ばずにはいられない。

 

そうあのノアがオリーブの葉を加えた鳩を見て、平和が訪れたと信じ、神に賛美をささげたように。

 

私達も同じで、その希望に気付けば神に賛美をささげるだろうし、祈るはずです。

 

そしてこの恵みに気付いてもらいたいと、他の人の為にも祈るはずです。

 

伝道者パウロだって、自分が復活したイエスを知った喜びを神の福音を知らせるために世界を歩き回ったのです。

 

私達にもそれができる。

 

私達は、いえあなたはその神からの力をすでにいただいているのです。

 

ですから恐れず、十字架と復活による和解をしてくださった神に、イエス・キリストにすべて頼って参りましょう。

 

そして皆さん。「今日もあなたに主による平和・平安がありますように」とまず身近な人の前で言うことにチャレンジしてはどうでしょうか。

 

これが自分の思惑によってのまた力によっての平和ではなく、神がもたらす平和へと繋がっていくのですから。

 

先ほどのコロサイ1章23節と、今日の御言葉とをもう一度読みます。

 

「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」

 

皆さんに主の祝福が大いにありますように。

 

祈ります。

 

苦しい時こそ会いに出かけましょう。

それでは今日、与えられたみ言葉を見ていきたいと思います。

今日の聖書箇所は皆さんも一度は耳にした事のある箇所だと思います。

そしてこの創世記に登場してくる人物たちは非常に今の私達にも重要な人物たちばかり。

なぜなら今日の聖書にでてくるヤコブの父はイサク、母リベカ、祖父にアブラハムがいる。

この祖父のアブラハムは、ユダヤ教においては全てのユダヤ人の父とされています。

またこのアブラハムは、イスラム教にとっても重要な人物で、イスラム教徒にとっても、全てのアラブ人の父とされているのです。

世界にまたがるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共通の人物を理解し、重要な人物として後の世に語り続けている。

これはすごい事だと私は思います。

私達に与えられた今日のみ言葉だって、ユダヤ教徒もイスラム教徒もよく知っている箇所なのです。

改めて私はこの旧約聖書の凄さを目の当たりにしたという感じです。

これだけ、共通項の多いユダヤ教、キリスト教、イスラム教なのですから私は、これらの宗教が共に手を取り尊重しあい、助け合う時が来るのを望まずにはいられません。

互いに憎しみあって戦争をし、殺し合うことが私達のそして神が求めるところではないのですから。

私は主なる神が与えてくださる平和の一致を願って祈ってまいりたいと思います。

そして、私達が主の祈りで祈っているように、いつかこの地上に神のみ国が来るように心から祈っていきたいのです。

でも私達は、
「じゃあ、そのみ国が来るのはいつですか?」

「ほんとに祈ってそんなものが来るんですか?」

とこの世の思いで、そして自分の常識と照らし合わせて疑いの心を持ってしまいます。

「そんな祈ることじゃなくて、もっと考えれば自分たちで具体的にもっとやれる事があるだろう」と。

もちろん、私達はこの世がより良くなるように平和になるように具体的に話し合っていく事は大事です。

でも、私達は自分の力の限界を知り、認め、悔い改めて神の恵みの介入があるように、

「み国がきますよう」「平和の一致を与えて下さい」

「聖霊よ。どうか私の元に来て下さい」と祈るのです。

もし私達がこれらの祈りを愚かなもの、くだらないものと言うのであれば、もう私達には信仰などいりません。

「どうぞ、あなたの努力で、どうぞ自分の努力でこの世界に平和が来るようにしてください」

という事になるのです。

ですが、皆さん!どうですか。この世界を見て下さい。

私達は、自分の罪にも気付かず、自分の愚かさも悟らず、ちっともいい世界を、平和な世界を作れないじゃないですか。

自分達の国でさえ、自分の周りや自分達の兄弟や家庭の中でさえも、私達は平和の世界を作れないでいるじゃないですか。


私達は、自分が罪人である事に気付き、自分の愚かさを知るべきです。

その事を知り、告白し、神に祈り求めて初めて、私達は何をなすべきかが明らかにされ、そこに希望の光が与えられるのです。

主イエス・キリストは天に上げられる時、こう言われました。

「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。

それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。

そう、私達は、この世の思いから、この世が作った常識から、自分の経験から、自分の思いから、『いつみ国がくるのか、いつ神の介入があるのか』などと知る必要はないのです。

私達はどんなときにも「み国がきますように」「平和の一致を与えて下さい」

「神よ。私の元に来て下さい。」

「聖霊よ。どうか私の元に来て下さい」と祈り続けるのです。

そうすれば、神の介入が必ずある。


今日の聖書の箇所も、苦しみを負ったヤコブに対して神が介入された場面です。

ここでは、祖父にアブラハム、父にイサク、母にリベカをもったヤコブが、家族のもとをさって逃亡生活をする物語が描かれています。

なぜヤコブが逃亡生活をしなくてはならなかったのか?

それは、ヤコブが兄エサウをあざむき、そして父イサクをだまして、長子(長男)の祝福をもらったため、それを知った兄が激怒し、ヤコブの命を狙ったからです。

そしてこの逃亡生活の末、ヤコブは21年ぶりに外国から故郷に帰ろうと決心します。

しかし、そのヤコブの心には、「21年ぶりに故郷に帰るんだ。懐かしいな~」という喜びより、昔、自分がだまし、そしてあざむいてしまったエサウに対しての罪意識が大きくのしかかっていたのです。

この物語は、本当に人間の本質を表している場面だと思いますし、私達も共感できてしまう箇所と言えるんじゃないでしょうか。

これは現代で言う、遺産相続の問題に似ている気がします。

約3000年いや4000年近く前にすでに遺産相続の問題が大きくあった事は非常に驚くべき事ですが、

何千年経ったとしても全く変わらない人間の本質を表している物語であると言えるでしょう。

そしてこの物語は、そこらへんのサスペンスドラマなんかのすじがきよりもはるかに比べ物にならない程に、私達を引き込んでいくのです。

それでは私達は少し、ヤコブの過去を見ていく事といたしましょう。

ヤコブには双子の兄エサウがいました。

しかし、双子であってもこの双子は、性格が正反対でありました。

双子の兄エサウは、野人的な性格で狩りを好み、

一方のヤコブは穏やかでいつも家にいて、家の手伝いをするなどの家事などをして生活していました。

そしてこの双子の両親さえもお互いに自分の子どもに対して愛し方が違ったのです。

父イサクは兄エサウを愛し、一方の母リベカは弟ヤコブを愛すというように。

そしてそんなある日。

エサウが狩りから空腹をかかえて家に帰ると、ちょうどヤコブは台所で魚・鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物を煮ていました。

エサウはそれを見ると、空腹に耐え切れず

「すぐ食べさせてくれ」

とヤコブに頼みます。

このようにせがむ兄エサウに対して、弟ヤコブは、この料理と引きかえに長子(長男)の特権を自分に売ってくれと頼みました。

ここでの長子の特権とは、現代的な遺産相続のように親の財産をもらいうけるという物質的な意味とは違って、

先祖代々にわたって与えられる神の祝福を、責任をもって父親から受けつぐという重要な意味を持っていたのです。

そのとき兄エサウは、
「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言って、

弟ヤコブの作った料理をわしづかみにして平らげ、満腹すると再び外に出ていってしまいました。

この事によって、エサウは軽い気持ちで自分の長子の権利を譲るという口約束をしてしまったのでした。

その頃、年をとり、目が見えなくなっていた父親イサクは、兄エサウに長子の権利を与え、祝福しようと考えていました。

しかしそれを知った母親のリベカは自分の愛した弟ヤコブに長子の特権を与えようと画策します。

母リベカは、ヤコブに自分の画策した事を教え、

ヤコブもそれに従い、兄エサウのふりをし、目の見えないイサクをだまして、長子の権利と先祖代々にわたって与えられる神の祝福をもらうことに成功するのでした。

つまり、ヤコブは母リベカの策略もあり、イスラエル族長という権利を受けつぐこととなったのでした。

当然それを知ったエサウは激怒し、ヤコブを殺そうとします。

そこで、母リベカはヤコブを自分の兄ラバンのところへ逃すのでした。

しかし、ヤコブは逃げた先でも両手をのばして、喜ぶことはできず苦労していくのでありました。

そこでの人間関係や結婚などのために。

それからヤコブは、色々な人間模様の中で、押し問答がありながらも、そこで多くの財産を作ったヤコブは、自分の家族と共に21年ぶりに故郷に帰ることにしたのです。

ヤコブにとって、故郷と言うのは自分にとっての基礎の部分であり、忘れる事のできないものだったようです。

けれども、そこには喜びはありません。

ヤコブの周りには恐怖と不安が取り巻いていたのです。

ヤコブが次のように神に祈ってことからも明らかです。

「どうか、私の兄、エサウの手から私を救い出してください。私は彼を恐れているのです」と。

ヤコブは、まず兄エサウの為に最高級の贈り物を事前に贈りました。

それは1回だけではなく、2度も3度も送ったのです。

ヤコブは自分に言い聞かせました。

「贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば恐らく快く迎えてくれるだろう」と。

しかし、自分でそう言い聞かせながらも兄エサウにあう前日になると、その不安はますます大きくなっていきました。

また何か目には見えないとてつもない重いものが自分の目の前にあったのです。

そしてヤコブは故郷に帰る途中、ヤボクという川に差し掛かりました。

この川を渡るともうすぐ兄エサウのいる地です。

ヤコブはその大きな恐怖と不安から一人になりたかったのでしょう、

ヤコブは、ヤボクの渡し場・

つまり、船を使って人や荷物を対岸へと渡す場所で、

自分の家族一行を渡らせた後、彼は一人そこに残ったのでありました。


そして真夜中になったとき、不思議なことが起こったのです。

「ある人が、夜明けまで彼と格闘した」と言うのです。

そして、ある人はヤコブに勝てないと見て、立ち去ろうとしました。

しかし、ヤコブはこの人を離しませんでした。
「私はあなたをさらせません。私を祝福してくださらなければ」(25節)と。

するとある人はヤコブに、名を尋ね、ヤコブに対して、人と神と戦って勝ったイスラエルという新しい名前を与えたのでした。

しかし、ある人は自分自身の名を明かそうとはしません。

そしてある人はヤコブを祝福しました。

ヤコブはこれらの一連の格闘が終わった後、

「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」と語りその場を立ち去ります。

そんな時に朝がきました。

そして今や、とても不思議な事に、ヤコブはこれまで自分が罪を犯した兄に対して、恐怖と大きな不安を抱えていたはずなのに、ある人と戦った後は、深い傷を負ったにも関わらず、もはや彼の中には何の不安もなくなっていたのです。

これまで豊かな財産・豊かな地位、豊かな贈り物を兄に贈った事柄ですら越えることができなかった大きな不安や恐怖の壁を、この不思議な夜が果たしてくれたのです。

ヤコブは今、朝日が昇るのを見て、今!自由に安心して未来を見つめることができました。

これまでの罪意識は、ヤコブの心から完全に取り除かれ、不安の壁は崩れ去ったのです。

そして彼は今や確信と喜びとをもって、今まで恐れてきたエサウの到着をまつのでした。

もうそこには何も不幸なことは起こらないと確信して。。。


このヤコブの一連の出来事は、私達にどのような意味を与えてくれるのでしょうか?

私達は最後のヤコブの言葉のところをみてみると、

30節に「私のいのちは救われた」と書かれています。

このヤコブの喜びの叫びには、今まで大きな妨げとなっていたトゲが取り除かれた、

恐怖と不安と言う一つの山が克服された、

一つの重荷が投げ捨てられた、

今までは心の中が暗くて不安でたまらなかったが、
今ではもう心が、希望で満たされているんだということを示しています。

ヤコブはこの夜の格闘で腿を痛めました。

それは足を引きずるほどのものでした。

しかしその痛みは今やヤコブにとっては大きな喜びの勲章として表されたのです。

※ここでちょっと注意しなければならない事があるのですが、新改訳聖書では、この足を引きずる表現を「びっこ」と記しているのですが、これは差別的な表現です。

この訳が出た当時はおそらくそのような意識がまだ広まっていなかったかもしれません。でも聖書は、その時代・時代に訳が変わっていきます。新共同訳ではここは「足を引きずっていた」と記されています。

ですから、皆さん、聖書はひとつですが、訳は移り変わっていくものであるという事をよく知っておいて下さい。だから一番良い訳なんてものはありません。

その聖書箇所・箇所によって、「文語訳がいい」、「口語訳がいい」、「新改訳がいい」、「新共同訳がいい」というのがあるのです。

一番いい方法は原典を読むことなんですけどね。

ともあれ、私達が聖書を読む時は、聖書の訳は変わっていくものなんだという事を頭に入れ、読んでいって下さい。


少し脱線してしまいましたが・・・・

私達のこころの中の魂が、希望で満たさる・・いや、満たされたという事がわたしたちにもできるのであれば、それは何とすごいことでしょう?

私たちは、病気であった人の体が再び健康になるということがどういう意味をもっているのか私達は知っています。

私自身も、大学時代、原因不明の病気にかかり、死と隣り合わせの時期がありました。

そんな自分がまた、再び、歩きまわり、仕事をし、友人と付き合い、そして共に喜ぶことができる。

そして、今まで食べることができなかったのに再びしっかり食べることができるようになって、どれだけうれしかったことでしょう。

わたしたちが、もし家族や友達などのそういう状況に立ち会ったときは、その人の身になって喜んで、嬉しくなるのだと思います。

しかし、それにも関わらず、私たちの多くの人々は、例え体がよくなったとしても、

あらゆる病気よりもっと重く、いかなる医者にも治すことができず、いかなる静養によっても除去されえない苦悩・苦難をさらに担い続けているのです。


ヤコブのように「私のいのちは救われた」と希望が、私達の心の中にある魂に入ってくる事ができるのならば、それこそが、真実の健康であり、大いなる希望になるのです。

なぜならば、私達の魂は人間の一部分ではなく、人間全体であるためです。

私たちは、物を食べることで体を維持します。

しかし私達の魂は、物を食べることだけで生きるのではありません。

マタイ4章4節のように、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』とあるように、神のみ言葉によって、この聖書のみ言葉によって生きるのです。

イエス・キリストも聖書のみ言葉によって生きられた方でした。

今のイエス・キリストの言葉も、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。

ですから私達も、自分自身の中にある魂を、この聖書のみ言葉によって満たすことができるならば、その全体は満たされていくことでしょう。

そしてそこには必ず希望が生まれてくる。

けれども、注意しなければならない点もあります。

聖書は、人間の本質を現すため、罪など部分もせきららに記されています。

ですから私たちは、自分よがりの聖書の読み方をしてしまうと、誤った方向に進んでしまう恐れがあるのです。

ですから私たちは、誤った聖書の読み方をするのではなく、礼拝においてのメッセージを聴き、賛美し、わからない事があれば牧師に聞いてみるなどして、み言葉を自分のものとしていきましょう。

そうすれば、本当の意味での希望が生まれてくるはずです。

しかし、私達は、自分の罪にも気付かず、自分の愚かさも悟らないために、クリスチャンであったとしても、生活が思わしくない、常に不幸に見舞われ、誰ともうまくいかないことがあったとき、つまづきます。

陽気に振舞い、確実に人生を歩んでいて、あらゆることに正しい仕方で取り組む人、うまくいく人を見ると、「どうしてあんなにうまくいくんだろう」と思い、嫉妬し、恨むことがあるのです。

私達は、他の人のことが気になり、そして遂にはこのような間違ったイメージに陥ってしまうことが多々ある。

私達は心の内にある魂に知らず知らずに角度をつけ、物事や人間や世界を見ようとしまっています。

つまり私達は、自分の心の内のある魂の見る角度によって、私達は人を見てしまい、自分の角度が間違っていてもそれが正しいと勘違いし、それが真実だと決め付け、他人を周りに影響を及ぼしていくのです。

ヤコブはどうであったのでしょうか?

最初は自分の犯した事によって、魂に角度をつけ、兄が自分を殺すんじゃないだろうかと恐れと不安に駆られました。

しかし、ヤコブは一つの格闘という苦悩と苦難とをやり遂げることによって、魂に角度は消え、希望で満たされ、恐怖や不安の壁が崩れたのです。


そこには大きな傷・いたみが伴ってしまったのにも関わらず。

しかし、これはこうも言えるのではないでしょうか?

格闘をやり遂げたからこそ、魂が満たされそこに希望が生まれたと。

ヤコブにとって他のどんなことも役にはたちませんでした。

私達にとってもそうではないでしょうか。

私達は、格闘という苦悩・苦難を通り抜ける以外、通る道はない、そうしなければ役には立たたないという時がある。

でも、その苦難や苦悩の末には、もう私達は、主の希望の灯での魂を満たす事しかあり得ない。

ヤコブが格闘したこのペヌエルと言われた場所とは、本来、悪鬼や悪霊の類が出現すると考えられていた場所でした。

しかし、「人がもうダメだ。」「あとは悪霊がいるだけだ」、「もう終わりだ」と言わせてしまう場所であっても、神はそこに介入してくださり、不安や恐怖を取り除き希望を与えてくださった。

そう名前も語られず。

人間は自分の名前を売るために売名行為をしますが、神はそんな事はならされず、ただただ私達のために、ただただ私をそしてあなたを愛しているが故に神は介入してくださるのです。

苦悩・苦難のうちにあるところには、神が介入される。

これが私達の信仰であり、主における希望なのです

ヤコブは魂が満たされる者となった。

今まで長い雨だったところに突然、太陽が現れ、光がさす様子、これが神の介入だと思います。

私たちは、雨のような暗いときがあります。

しかしそれは自然なことであり、雨のときにも大切なのです。

私達は雨なしでは生きていけません。

しかし、私たちは雨によっていきているのではなく、太陽によっていきているのです。

ヤコブが格闘し、そして神から祝福を得たように、私達は、苦悩や苦難という雨を通してそれを越え、

そして神からの祝福を得たとき、本当の魂の満たしや希望を得ることができる。

私達は苦悩や苦難と格闘しそれを通り抜けるとき、本当の太陽の日差しを浴びることができるのです。

わたしたちはその苦悩や苦難によって痛み・きずを負うかもしれない。

しかし、それは私たちが主における希望で魂が満たされたときには、勲章となるでしょう。

健康になるということはただただ肉体的なものではないのです。

肉体的には弱さを覚えている人であっても心のうちに神に希望をおいている人はどうでしょう。

この人たちほど、私達より健康なのです。

そして私達はそのような方々から多くの勇気をもらっているはず。

そのような方の肉体的痛みやきずは、主における、神における大きな希望の勲章だと私は思います。

今、あなたの目の前にある挫折・苦しみ・悲しみがどのように解決し、また変わっていくのかわたしにはわかりません。

しかし、そんなあなたはもう主によって希望の灯での魂を満たされる事しかあり得ない。

「どうぞ勇気をだしてください。」

「どうぞ勇気をもってください。」

「どうぞ傷つくことを恐れずに教会に会いにでかけてください。」

私達がその事を信じて、この御堂に集い、天の国と結ばれているこの教会、花園教会に集い、

主の十字架と復活を知り、賛美を捧げ、

「神よ私の元に来て下さい。」「聖霊よ。私の元に来て下さい」「平和の一致を与えて下さい」

と祈り続ければ、素晴らしい事が起こる。

そしてここから、この世へと出かけていく時、この世の周りの人々にも尽きる事のない主の恵みを知らせる事ができる。

神がヤコブに介入したように、必ずあなたにも介入されるはずです。

そしてあなたの信仰が今のあなたを救い、そしてあなたの現在の苦しみが希望の勲章となる時が必ず来るはず。

ですから、私達は、罪を償う十字架と復活と希望を与えてくださった神に、の信仰と希望と愛を持ち続け、たゆまず祈ってまいりましょう。


神の祝福が皆さんと共にありますように。

祈ります。

憐れみとはなんですか?

皆さん、おはようございます。

ここは先週も触れた、山上の説教と呼ばれるイエス・キリストが私達に教えてくださっているみ言葉です。

山上の説教は、5章1節から7章の最後までと言われます。

このイエス・キリストのみ言葉は、私達キリスト者がこの世を生きていくなかで規範とも言うべき、またキリスト者の生き方と知る上で重要なみ言葉です。

しかし、そうであるが故に、私達はこのみ言葉に戸惑う事もあります。

それはこの山上の説教から得る次のような考えからです。

「キリスト教徒はどんなときでも愛を持って接するようにという」という考えに。

これはとても重要な事であり、メッセージでもよく言われます。

しかし、ここで私達は決して忘れてはいけません。

怒らない事が愛ではありません。言わない事が愛ではありません。

批判を受けてじっと耐えることが愛ではありません。

この世の中から離れることが愛ではありません。

この世・この社会に注視せず、この世に対して批判すべき事から目をそらす事が愛ではありません。

私達がこのような愛をもっているならば、いつかその愛のために疲れ、教会から静かに離れてしまうことでしょう。

これはクリスチャンにとってとても陥り易い事柄です。

そして私達は、このような問題に差し掛かったとき、必ずと言っていいほど、愛をもって、もっと祈りをこめて接すれば、必ず打開できるはずだと考えがちになってしまいます。

そしてそれが打開されないと思ってしまうとき、自分の愛と祈りが足らないという思いに至ってしまうのです。

そして多くの善意の人たちは行き詰まり、自分自身の至らなさ故に、失望し、
その行き着く先は、静かに教会から離れてしまうというとても残念な結果になる事があるのです。

わたしは、この方々が良くないと言っているのではありません。

でも、これは大きな勘違いだと私は言いたい。

この事がなぜ勘違いなのか今日の御言葉から見て生きたいと思うのですが、その前に、

私達は勘違い、思い違いをそのままにしておくと、最初の傷はどんなに小さくても、年が経つにつれ、どんどんどんそのキズは大きくなり、

最後にはすぐに治療するのは難しいほどの致命傷となってしまいます。

よく罪とはなにかと聞かれます。

私達は罪と聴くと、殺人や盗み、人に危害を加える事だけが罪のように感じます。

しかしそうではありません。

罪とは、的外れという意味があります。

つまり、的からはずれている。思い違いをしている。勘違いをしてしまっているという事。

そしてその的からはずれている行為が、どんどんどん蓄積されていきそれが大きくなっていくと、悪魔・サタンとよばれる誘惑する者・その力に左右されやすくなる。

そしてその結果、神から離れていく、教会から離れていってしまい、信仰を持つことが嫌になり、神の存在をも否定してしまうことになってしまうのです。

これが罪です。

つまり心に思った怒りや悲しみ、憎悪がすぐに罪なのではなく、その憎悪をそのままに、その怒りをそのままに、悲しみをそのままにずっとほおっておき、神から離れてしまう事が罪なのです。

そして誘惑する者も、ずっとほおっておくように甘い言葉で誘惑し、教会から神から大きく離れさせるのです。

ですから、教会での礼拝、み言葉のメッセージ、聖餐式は大きな意味を持ちます。

勿論、これは牧師・教職者にとっても一番大切な事です。

けれども、その教会での礼拝、み言葉のメッセージ・聖餐式に集う

【あなたがた】も神の民、聖なる民であるのですから、神にとってとても重要なのであり、必要な存在なのです。

ですから勘違い、思い違いによって、兄弟姉妹として、教会員としてこの教会からかけてほしくありません。

思い違い・勘違いによって、教会にそして愛に疲れて欲しくないのです。

そしてなによりあなたがここにいなければ意味がないのです。

なぜならあなたは神から愛された存在なのですから。

ですから今日、与えられた御言葉を思い違い、勘違いせず、教会には喜びをもって本当の意味での愛をもって憐れみとはなんであるかを信仰をもって聞きましょう、

イエス・キリストは私達に言われました。

「憐れみ深い者は幸いです。

その人たちは憐れみを受けるからです。」と。

私達は「憐れみ」と言う言葉をよく耳にします。

辞書で調べてみると憐れみとは、同情する事。慈悲とありました。

ということは、辞書の意味から考えると、この箇所は、同情深い人々は幸いであるということになります。

同情とは、その言葉通り、同じ情、なさけになるということです。

ということは、何かに困っている、悲しんでいる人の事を思い、心に感じ、いたわってあげるのです。

憐れみというと何か上から見ている感じが良くします。

よくドラマとかのセリフの中でも

「わたしを憐れみの目でみないでよ」とかマイナスなイメージで言ったりしています。

しかし、それは憐れみではないでしょう。

憐れみとは、上から見るものでも下からも見るものではありません。

同じ視線に立つ。同じ目線になるということです。

よく私達は、小さな子どもに話しかけるとき、上からのぞきこむように話をしていないでしょうか。

でもそれって子どもにとっては心を共有する、いたわるというよりも、威圧的になってしまうものです。

私達大人が本当の意味で、子どもの事を憐れみ深く接したいのであれば、膝をおとして、しゃがんで同じ視線で話しかける必要があると思います。

憐れみとは、誰が行なってよくて、誰がおこなってはいけないという基準はないのです。

ですから、私達が小さな子ども達に憐れみをもって接しているようで、実は、子ども達から憐れみをもらっているかもしれません。

憐れみ深ければ深いだけ、その憐れみは自分に戻ってくるものなのです。

ですから憐れみは与えるものではありません。与えられ、与えるものなのです。

そして憐れみは、愛をもってその人をいたわることです。

しかし、私達はこの愛による憐れみに対して思い違いをしてしまうことがあります。

キリスト者はよく、イエス・キリストの行ないから、聖書からの規範に基づいて行動するものです。

つまり「教会に来なければならない。」

「キリスト者は、愛をもってどんな事にもただただ耐え、柔和であり親切であるべきなのだ」と。

また、冷たい態度をしてしまったとき「あの人に対して悪いことをしてしまった」などとも思う。

そして聖書を読み、愛の箇所、憐れみについて記述してあるみ言葉を読むと、愛をもって接しなかった、憐れみをもって接しなかったと思い、罪と感じる人もいるでしょう。

これらの事で「これは罪だ。悔い改めろ!」という牧師もいるかもしれません。

そう教わった人もこの中にいるかもしれません。

勿論、教会に来る事は大事だし、いつでも柔和であり親切であり、冷たい態度に対して悪い事をしてしまった思うことは、とても大事な事ですし、とても重要です。

でも、この事は、イエス・キリストの行ないから、聖書からの規範、もしく自分の教えられてきた規範が守れなかったという思いから来ています。

その意味で、先ほどの「あの人に対して悪いことをしてしまった」という思いは、神に対しての赦しを求めている、罪を告白すると言う事よりも、自分がうまくできなかったという意味での「後悔である」と言ったほうがいい。

そう私達はとんだ勘違いをしてしまう事があるのです。

すぐにみ言葉にそぐわない事があれば、私達は罪だ!罪だ!と言います。

しかし私達は、み言葉から、そうあるべきだ・そうしなければならないという言葉にはよく耳を傾け、思いは大きいのに、そうあるべき事・しなければならない事を破ったときに、「罪だ!」と思うだけであとのケアが少ない、しないことが多いのではないでしょうか。

ですから私達は、規範・きまりを守れなかった事に罪を感じるのではなく、私達の行動によって自分の行為がもたらした結果、どのようになってしまっているのかをしっかり理解し、罪ある自分自身を本当の意味で向き合わなければなりません。

罪とは、自分自身と向き合わず、ケアせず、ほっぽっといて、思い違い・勘違いをずっと持ち続けて、不安や苦しみを蓄積させ、自分にはできないと失望し、神から離れる事が罪なのです。

なぜ、本当に自分自身と向き合わず、そして神に対して赦しを求めないのか?

私達は自分自身としっかり向き合わなければ、再び同じ事を繰り返します。

そして
「愛をもって接しなかった、憐れみをもって接しなかった。神様申し訳ない。もうしません」という簡単な祈りによって自己解決してしまうのです。

私達に必要なのは、愛をもって接しなかった、憐れみを持って接しなかった行動を悔やむ事ではなく、

愛をもって接しなかったことによって、憐れみを持って接しなかったことによって、

自分は誰をどのように傷つけてしまい。

どのような状況で憐れみをもって接しなかったのか。

憐れみをもって接しなかった事によってどのような事が現在、自分の周りを取り囲んでいるのか。

これらを自分自身の中で深く見つめる事です。

そして神に対して、これらの事を告白して赦しを乞い祈るのです。

そしたら必ず何か変わっていくはずです。

またもし「教会に行く事ができなかった」と言うことでしたら、

じゃあそれは誰を傷つけたの?どんな事をしてしまったのか。

それを自分自身で見つめ直して認めることが私達には必要なのです。

そうしなければ、「教会はいけなかったのは、疲れていたし、忙しかったし、しょうがないよ」という結論に必ず至ってしまいます。

「教会はいけなかったのは、疲れていたし、忙しかったし、しょうがないよ」の言葉の中には誰を傷つけたのか?

どんな事をしてしまったのか?という自分を見つめなおす思いが含まれておらず、自分の行為を肯定すらしてしまいます。

この言葉の中には、それならこれからどうしようか、何をしていけばいいのかという進歩の言葉・希望の言葉がありませんし、前向きな行動をすることはできません。

これでは、あなたと神との繋がりも薄くなってしまい、誘惑する力に左右されてしまうでしょう。

私がここで「罪を悔い改めよ」という裁きの言葉を言う事は簡単です。

でもそれだけなら何の解決にもなりません。

裁きは最後に神が行なうのであって、私が神とあなたの関係を裁く事はできないのです。

私が皆さんに伝えたいのはそんな事ではなく、あなたが、自分自身を深く見つめ、

そこに苦しんでいる人はいるのか。いるのならどんな苦しみを負っているのか。

そしてその苦しみと自分はどう関わっているのか。自分の行動と関係しているのか。

それを自分の罪であると認めるのかという事です。

ここに大きな決断があるのです。


憐れみも同じなのです。

あなた達は、神の民として、心の清いものとして、神はあなたを祝福し愛しておられます。

私達は、憐れむ行為をしなかった事自体に罪を感じるのではなく、憐れむ行為をしなかった事によって、

どのように人を傷つけしまったのかという確固たる自覚が必要なのです。

そうすれば、イエス・キリストが私達の罪のために、あなたの罪のために十字架にかかった事の意味が、わかってくるはずです。

私達は自分の罪を認めても、それを自分だけでは絶対に背負いきれません。

しかし、神はそんなあなたを本当に愛してくださったからこそ、神はこの世にイエス・キリストを送られ、私達が滅びる事のないように十字架に掛けられたのです。

そしてその罪に復活と言う奇跡によって勝利されたのでした。

私達は【罪が許された】というとき、それほどに大きなかけがえのない喜びなのです。

ですから、自分自身の罪をしっかり目にし、とらえるとき私達は、

神とのかかわりによってイエス・キリストの十字架と復活の出来事に心から感謝できるのであり、神に赦しをこい、新たな気持ちで出発できるのです。


完全な愛と憐れみをもって歩まれた方はイエス・キリストただ一人。

そう、イエス・キリストだけが完全な方。

私達はこの事と、自分の罪をしっかりとらえているなら、愛や憐れむ行為に対して不安や恐れを持つ必要はないのです。


私達は罪を持っている人間ですから、間違う事もあるでしょう。

しかし、間違う事から私達は、神に対して正面から向き合って、赦しを確信し、間違いを正し、そこから脱却し、希望を持って、人生を歩んでいけるのではないでしょうか。

あなたが自分の罪を深く知り、希望を持って、歩み、憐れみを持てば必ず世界は変わっていきます。

憐れみを持てば、必ず憐れみで返って来る。

そうキリストが、私達を憐れんでくださったように。

私達は十字架と復活と言うキリストの憐れみが、私達にとってのかけがえのない贈り物、喜びであると信じることができるからこそ、周囲に広める事ができるのです。

間違える事は必ずある。

しかし、それ以上に神の赦しがあるのです。

今日の御言葉、「憐れみ深い者は幸いです。

その人たちは憐れみを受けるからです」

この言葉は決して理想を表しているのではありません。

しっかりと罪を見つめながら、十字架と復活の喜びを知っている私達だからこそ求められている御言葉なのです。

勘違い、思い違いをしてはいけない。

神の言葉にしっかり立ち、間違ったときはそれがなんであるかを深く見つめ、

神に赦しをこい、そして恐れずに、キリストの復活の喜びゆえに前に進みなさい。 

神があなたと共におられるから。

あなたがたに主の祝福が大いにあるように。

祈ります。

主題:『神様、罪人のわたしを憐れんでください』

今日は、復活節第2主日の礼拝です。

 

そして今日は、ドイツの教会暦でいえば喜べ、喜びなさいとなっています。

 

パウロは第一テサロニケ516節でこう語っています。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。

 

パウロは、第2回の伝道旅行で、同じユダヤ人に対して迫害を受けました。

 

それはどのような迫害かと言えば、これまでパウロが宣べ伝えた福音に対して、同じユダヤ人が、パウロの事を悪く伝え、広めていたのです。

 

その誘惑の言葉、サタン的な言葉は、パウロを通して語られた福音を聴いた人々を惑わし、そして教会を惑わしたのでありました。

 

これに対して、パウロはこの状況を大変心配し、弟子テモテを教会のあるテサロニケへと派遣します。

 

それは、弟子テモテにテサロニケの教会の様子と、その言葉に惑わされないよう信徒達を激励するために派遣したのでした。

 

そして、しばらくするとテモテがテサロニケからパウロのところに帰ってきたのです。

 

パウロはそのテモテからの教会の報告にとても緊張します。

 

しかし、テモテからでる言葉は、パウロの思っていた不安とは裏腹に、テサロニケの教会の人々は堅く信仰を守って立っており、パウロ先生との再会を心から望んでいるという報告でした。

 

パウロはこの報告を聞いてとてもうれしくなったのです。

そして喜びと感謝を伝えるために書かれたのが第一テサロニケの信徒への手紙となったのでした。

 

 

パウロがなぜ、このように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と、

語ったのでしょうか。

 

それは、パウロ自身も経験した事であったのです。

 

 

イエス・キリストの福音を宣べ伝えている伝道者パウロですら、ユダヤ人の悪い噂、誘惑を恐れ、自分の心に不安が生まれ、そしてその不安がどんどん大きくなっていったのです。

 

しかし、そのパウロの思いは真実ではなかったと知らされたのでした。

 

それを教えてくれたのは、テサロニケの教会の信仰、そしてそこにいる信徒の人々の堅く立った信仰。誘惑の力に勝った信仰であったのです。

 

どんなに神の言葉を取り次ぐほどの伝道師パウロであっても、彼の信仰だけで福音は成り立ちえなかったのです。

 

つまり、教会、伝道師、牧師、信徒それぞれの信仰と祈りによって福音が本当の意味で成り立ち、聖霊の力が強められるのです。

 

教会が力とは、共同体の力であると言われるのはこのためです。

 

このテサロニケの教会の件で自分を知らされたパウロは、自分の不安を悔い改めたことでしょう。

 

その結果、この御言葉をパウロは語ったのです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。

 

これは、順調な時だけでなく、逆境のときにも、いや人生における苦難、挫折、絶望といったマイナスと思われる時にこそ、キリスト者はこうした生きた方をし、

 

そうすれば、必ずマイナスは克服されてプラスになる。

 

「これこそが神の意志である」と

 

パウロは、神から教えられたのであり、このパウロを通して神の言葉を聞く私達も神から教えられているのです。

 

ですから私達もいつもというのはできないかも知れないけれども、希望をもってこの御言葉を聴くのです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と。

 

私達は特にこの事を覚えつつ、今日の与えられた御言葉を聴きましょう。

 

今日はマタイ510節~12節が与えられました。

 

祈ってきた事が少しでも実現する。

 

これほど私達に喜びを与えるものはありません。

 

私達はどうしても苦難に耐え忍ぶ事ばかり思わされ、その向こうにある喜びを知る・見る・感じる事がなかなかできないでいるようです。

 

しかし、今日は、神の恵みであるという事をしっかりと受けて喜びを持ちたいと思います。

 

 

わたしはいつも思います。

 

どんな事に対しても、そして苦難を恵みと信じられるのであればどれだけよいだろうかと。

 

そうは思いたいのですけど、そうは思えないこともいっぱいある。

 

人は簡単に、他人に対して、『それは恵みになるよ』というけれども、本当にそうなのか?なんて思ってしまうこともあるのです。

 

けれども、是非とも、苦難が恵みだと勇気を持っていってみたい。

 

これは言うべき事なのかもしれません。

 

そう私達はこれが恵みだと言ってこそ苦難に耐え忍ぶ・背負うことができるのでしょう。

 

しかし、勇気をもって言う以上は、生半可な思いで・いい加減な思いで言う事は許されないはずです。

 

なぜなら、苦難は恵みだと思う以上、他の人の苦難のために祈り、助け支えなければならないからです。

 

苦難で悩んで悩んで、路頭に迷って、希望を失っている人々が、私達の回りに存在しているんです。

 

苦難によってやる気を失い、目標を失った人がいるんです。

 

苦難によって大きく苦しんでいる人がいるんです。

 

苦難によって絶望している人がいるんです。

 

苦難によって死を選ぼうとしている人もいるんです。

 

人生を捨てようとしてしまう人がいるんです。

 

その人たちの気持ちを知らないで、考えないで『ただ自分だけが苦難は恵みだ』なんていい加減な事は言えるはずがありません。

 

苦難が恵みである。この言葉はそれほどに勇気のいる言葉なんです。

 

もし自分が相手に苦難を与えているとしたならばどうでしょう。

 

あなたは、恥を捨て、自分の行為を相手に対して心から謝罪し、そして心から悔い改めて全てを改めようとするでしょうか。

 

自分の苦難は恵みだけれども、相手に与えた苦難は知らない。

 

これは、「苦難が恵みだ」と言えるでしょうか。

 

私達は、今この主の御前に立って礼拝しています。

 

ですから私達は、この礼拝で中で聖餐式の中で「苦難は恵みであると」知ろうではありませんか?

 

そして主に勇気を持って宣言しようではありませんか。「苦難は恵みである」と。

これがイエスが私達に示してくださっている希望であり、十字架という苦難の後に続く、復活と言う大きな希望なのですから。

 

私達は、主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。

 

なぜならそれはイエス自身がそうだったからです。

 

でも私達は、苦難に合うことは嫌だと思います。

 


私は今、すらっと「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」と言いました。

 

でもこの言葉を聴いたら、ドキッとしますよね。

 

えっ!そんな苦難になんか合いたくないって。

 

そうりゃあ、いつも楽しく、嬉しく、喜んで生きていくことをしていきたいというのは当たり前に思います。

 

わたしだって、そう思います。

 

苦難になんか合いたくない、楽しくやっていきたいって。

 


私は神学生時代、色んな大学の学生達が集まり、寮の寮監をやっていた事がありました。

 

そこの学生達は、ノンクリスチャンの人ばかりでした。

 

寮では聖書研究会があったのですが、そんな中、キリスト教の話題になって、キリスト教に対する印象を聞いたことがあるんです。

 

そうすると大部分の学生達が、「最初は、キリスト教は暗い感じがした。」という意見が大勢でした。

ああキリスト教ってこう思われているんだと思った瞬間でした。

 

神学校が渋谷にあるものですから、土曜日など駅前にいくと大きな看板とプラカードとマイクをもっている外国人の方々がいるんです。

 

「悔い改めよ。悔い改めなければ永遠の地獄にいく」と。

 

「悔い改めよ!」・「悔い改めよ!」・「永遠の地獄にいくぞ」と言われると、なんか怖い感じがしますし、人々に暗いというイメージを与えている感じがします。

 

家庭教師をしていたときの高校生の男の子と新宿に遊びに行ったときも、同じような人たちがいて、高校生の子は「とても気持ちが悪い」と言っていました。

 

どんなに聖書に書いてあると言っても、このような仕方の証しでは、誰もキリスト教を知りたいと思わないし、暗いイメージを与えてしまうものです。

 

私達は、救われていると同時に、世に対しての証し人でもあるんです。

 

ですから、こわばった顔をしていたら、誰も近づいてこないように、暗いような事を証しすれば、キリスト教、クリスチャンのイメージも暗いものになってしまいます。

 

ですから、先ほどの言葉、「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」という言葉で終わるならば、

キリスト教なんて暗いもので、怖いもので終わってしまうでしょう。

 

でも、私達の中心はこの迫害や苦難にあるわけではありません。

 

中心は、なんでしょう。

 

それは十字架と復活です。

 

十字架とは苦難や迫害です。

 

じゃあ復活とは?

 

それは希望です。喜びです。恵みです。

 

野球でいうならば9回裏2アウトからの逆転ホームランみたいなもんなんです。

 

サッカーなら、ロスタイムからの逆転ゴールと言えるんじゃないでしょうか。

 

私達の中心が、十字架で終わるとき、その先にあるのは滅びです。失望です。

 

死です。無です。

 

でもそうではない。

 

私達の中心は、復活である。それも十字架を通しての復活なのです。

 

十字架を通っているときは私達はわからないのです。

 

クリスチャンだってわからない。逆にクリスチャンだから分からなくなるのかもしれない。

 

苦難がなぜ私達にあるのか?

 

神のなさる事は私にはわかりません。

 

皆さん一人ひとりが神の元の帰った時、なんであの時はこうだったのと神に聴いてみて下さい。

 

でもこれだけは私は大きな声で言えます。

 

必ず、絶対、最後は勝利をもって、この世の人生が全うされるという事を。

 

これは、誰かに勝つという事ではありません。

 

死に打ち勝ち、自分の罪に打ち勝つという事です。

 

私達は、選ばれた者、つまり、わかりやすく言うと選手、日本代表というよりクリスチャン代表なんですよ。

 

えっ私が選手??

 

いやいやこんな私がそんな選手だなんて思うかもしれませんが、あなたは神から選ばれた選手なんです。

 

今の話を聴いて、そんなの自分にはできないと思うことは当然のことです。自然の事だと思います。

 

選手となってクリスチャン・神から選ばれた代表選手だなんて・・・。

 

けれども、今週の御言葉にあるように、パウロは1コリント1章26節でこう語っているのです。

 

『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。

 

人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。

 

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。

 

また神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです』と。

 

神から見ると、この世的な知恵や家柄は関係ないんです。

 

私達は、この世的になりすぎて、教会でも人を見ているんですよ。

 

この人はこれが得意だから自分にはできないとか、こいつは自分より知恵がないからこいつは頼りにならないとか。

 

人を見て自分を萎縮してしまう人。

 

萎縮している人を見下げる人。

 

教会で神を見ているようで人をみている事があります。

 

しかし、それは違う、ノーだと聖書は語っているんです。

 

そして、そんな見下げている人が最後には恥をかき、能力がないと思っている人を最後には神は引き上げるんです。

これが神のなさるわざなのです。

 

イエス・キリストがたとえを言われたように、

 

自分は正しい人間とうぬぼれて他人を見下しているファリサイ派よりも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人を義とされ、用いられるのです。

 

神に選ばれた選手として

 

私たちが神の義のために、人生をプレイするとき、人生を歩んでいくとき、

 

野球やサッカーみたいに、競技をやっている最中は、この試合がどうなるかわからないと不安を感じストレスを覚えることがあるかもしれない。

 

途中で点を入れられてしまい、ああおしまいだと意気消沈したりしてしまうかもしれません。

 

けれどもどんなに点を入れられても、どんなに点差があったとしても、負けると思ってしまっていても、最後の最後には神の勝利で終わるのです。

 

それが十字架と復活なのです。

 

ですからどんなに苦難があろうが、困難があろうが必ず勝利で終わり、そして永遠の命という続きがある。

 

これが神の私たちに与えている大きな希望なのです。人間が与える希望ではなく、まさしく神が与えてくださる希望なのです。

 

勝利で終わることを確信していれば私たちは希望を捨てるはずがありません。

 

あきらめるはずがありません。失望するはずがありません。自ら死を選ぶはずがありません。

 

そして、勝利を知っていればこうもいえるでしょう。

苦難や迫害されている事実が神の義に生きていることの保証となっている。

 

苦難や迫害されているからこそ、天の国の約束を保証されるのである。という事を。

 

ですから私たちは、その神の希望を十字架と復活という希望の神の義を語るのです。

 

天の国へ行くのはそのような人々なのです。

 

これが神が私たちに与えている希望であり、神のなされている事柄なのです。

 

冒頭で語ったように「苦難は恵みである」と言うことは簡単なことばではありません。

 

けれども、「苦難は恵みである」と本当に言える人々がこの世界を、教会を支えているのだと思います。

 

今私たちがここに立っているのは、苦難が恵みである。

 

最後に勝利がある。希望があると信じている人の支えがあるからこそなんです。

 

そして私たちもいずれ、神から選ばれた代表選手として人生という競技場のピッチに立ち、苦難というスポットライトを浴びることがあるでしょう。

 

そんなとき、苦難というスポットライトを浴びながらも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人のように、本当に意味での神の義を信じ、苦難は恵みであると心のうちから言えるのであれば、あなたも教会の支え、この世界の支えとなっていくのではないでしょうか。

 

神秘的な神の義の役割をあなたが果たすときがきますように。

 

主の祝福があなたがたにありますように。

 

祈ります。

受難週メッセージ

人間それぞれには一人一人、才能や特技、好きな事があります。

それは、一人ひとり違う。

小学生や、中学生や高校生のときは、才能や特技を特定する事は難しいかもしれないが、生きていく中で自分の好きな事という事は必ず人間にはでてくるはず。

そうわたしにも特技、好きな事がありました。

それはサッカーでした。

現在のこの体じゃ説得力はないかもしれませんが、私はサッカーが大好きで三食のごはんより大好きで、部活では時間を忘れるくらいでした。

しかし、あるときそんな好きで好きでたまらなかったサッカーがとてもキライもう嫌だと思ってしまいました。

皆さんにもそんな経験はないでしょうか。

今の今まで好きであったものが次の瞬間、キライで嫌になり、見るのも嫌になってしまう経験が。。

わたしもそのような経験をしたのです。

それはどうしてでしょう?

それは高校のときでした。

私は自転車事故をしてしまい、右ひざを5針から6針縫う事故をおこしてしまったのです。

治療には三ヶ月近くかかり、やっとの事でサッカー部に戻りました。

しかし、そこには私の居場所はありませんでした。

私のポジションはなくなり、3ヶ月経つと友達とのコミュニケーションすら難しくなりました。

そして極めつけには怪我以来、私はひざに力が入らなくなり、サッカーに必要なキック力、足の力がなくなってしまったのです。

とてもショックでした。

それまで好きで好きでたまらなかったもの、時間がたつのも忘れてやっていたものが、事故と言う一瞬の出来事で、奪われてしまったのです。


人間にとって予期しない出来事によって、ショックを受けた後の反動はとても大きいものです。

好きで好きでたまらなくなったものが次の瞬間、それが嫌になり最終的には憎しみに変わっていきます。

あれだけ、心豊かであったはず事が、またずっと楽しくいられると思っていたのに、たったひとつの出来事によって、苦しみ・悲しみへと変わっていく。

皆さんもそんな経験はないでしょうか。

今なくても必ずそのようなときがきます。

この苦しみ・悲しみというのはこの世で生きている限り誰にでもあるし、誰にでも起りうるのです。

悲しみや苦しみは向こうから一方的に私達のところにやってくるのです。

拒否する事はできません。

そう、それまで楽しかったあの日々をあの一瞬の出来事が私達を悲しみへおとしいれるように。

そんな時、私達はどうすればいいのでしょうか?
私達はそんなとき、この苦しみをどっかに消しさって、悲しみをとってと神様に願います。

でも神様は、その悲しみ・苦しみを取り去られません。

むしろその悲しみと苦しみで悩ませ続けるままにされます。

それはなぜか、イエス・キリストは聖書の中でこう語っておられます。

「人は新たに生まれなければ、神の国を見る事はできない」

そう、あなた自身が変わらなければならないのです。

それはつまり、

悲しみや悲しみの中であっても自分を支えてくれる神の存在があることをあなたは心から信じているのか!

そして、人生の希望と成る聖書の御言葉をあなたはもっているか!という事なのです。

悲しみの状況を変えるのではなくあなた自身が変わらなかったら何の意味もない。

なぜなら、また違った苦しみ・悲しみが自分に来たとするならば、また同じように苦しみ・悲しみ・そして最後には絶望してしまうから。

あなたが変わらなければ、苦しみ・悲しみに打ち勝つ事はできません。

私達は、苦しみ・悲しみを忘れる事はできません。また消す事もできません。

けれどもその苦しみ・悲しみをこれからの人生の大きな希望への一歩とする事ができます。

私は、高校のときのこの一瞬の出来事によって絶望したときもありました。

しかし、聖書の御言葉によって希望を与えられました。

わたしの場合、ロマ12:11~12です。

ですから今はその時の絶望を、苦しみ・悲しみを、こうして証しとして皆さんに語ることが許されています。


苦しみ・悲しみを自分自身で解決しようとするのであればその悲しみはずっと自分にとってトラウマになり、傷となる事でしょう。

私達は苦しみ・悲しみをいつまでも痛々しい傷として残すのか、それとも証しや、これからの人生の大きな希望への一歩としていくのかが、今私達に求められているのです。

パウロは、こう語っています。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

と。


今日はイエス・キリストが十字架につけられ、殺されるという受難の週の初めです。

パウロが語っているように、私達の苦しみ・悲しみという思い煩いをイエス・キリストの十字架に突き刺し、その変わりにイエス・キリストからは底から流れる希望という血を来週の復活祭、イースターには聖餐という形でいただこうではありませんか!


ですので今日は、私達の思い煩いを神に打ち明けるべくこれから配る紙に書いて下さい。

そしてそれを書き終えたら、イエス・キリストの十字架に突き刺す思いでこの祭壇において下さい。

自分をさらけだすところ

ラブゴスのメッセージ

聖書箇所<フィリピ1章15節~30節>

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教会を批判する人、または教会から離れていく方の言葉を聴くとある共通する言葉があります。


それは、「教会は理想だと思っていたのに現実は違う。汚い部分がなぜ教会にあるのか?」と。

私達は、教会をあるひとつの理想郷と考えてしまうことがあります。

教会には、様々な人々、年齢も違う、性別も違う、性格も違う、体格も違う、境遇も違う、仕事も違う、老若男女の方々が集まります。

私達は、全然自分とは違う人と集まっていれば、それだけ意見も違うし、対立してしまう事も多々あるだろうと頭では分かっていても、それが自分に現実に起こったとき、私達はショックを受けるのです。

そしてこういうでしょう。

「なぜ教会なのに?なぜ教会でこんなことがおこるんだろう。それなら信仰なんて持たなければよかった。神がわからない。教会がわからない」と。

しかし、私は教会とは、一番素晴らしいもの、奇跡が行なわれるところ希望が持てるところであると同時に、人の一番汚い部分、嫌な部分がでてくるところでもあると思います。


なぜなら、私達は神の前にたって賛美し祈り、メッセージをきくのだから。


神の前に立つということは、自分のすべてが明るみにだされるということです。それは隠す事はできません。


私達は、そのとき目をそらして離れることも出来ます。でもそうすべきではありません。


私達は、自分達を中心にして、物事を利益であるか利益でないかを考えてしまいます。


今日与えられたパウロもそう考えました。


パウロは自分の心をさらけ出しました。


自分はキリストの為に死ぬべきなのか、それとも行き続けて実り多い働きをすべきなのか?


あの伝道者パウロですら「わたしには分からない。 板ばさみになっている」と語ったのです。


私達の信仰生活は、利益になるか不利益になるかで成り立つものではありません。


私にとってあなたにとって不利益な事と感じても神はそれを用いられる事があるのです。


パウロもとても悩んだ事でしょう。


しかし、今日の箇所の最後にパウロはこう語ったのです。


「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と。

キリストの福音にふさわしい生活とは聖書の理解を増す事でも、立派な人になることでもありません。


御言葉があなたの自分の生活の中でいきて働くようにすることなのです。

信仰によって生きるとはこのような事です。


人をみて教会生活をするのではありません。教会が良いか悪いで判断するのではありません。


今、御言葉があなたの自分の生活の中で生きて働いているか?なのです。


教会自体が希望なのではない。


そこに教会で語られる御言葉に希望があるのです。



花園教会ってどんなとこ?

主日礼拝:毎週日曜日
10:30~12:00




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絶望のあるところには希望を

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