こども支援・SDGs・花園教会水族館のあるキリスト教会
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
聖書箇所:ルカ5章1節~5節
皆さんこんにちは。
今日、与えられたみ言葉は、ルカによる福音からです。
さっき読んだ箇所の出来事を通してペテロがイエスの弟子となった箇所ですね。
ここの5章5節に「私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。とあります。
ペテロさんはいわゆるオール、ずっと魚をとるために漁をしていたんです。
でも全く魚がとれなかった。
この場面は、湖での漁が舞台だけれども、これと同じようなことをみんなも学校や家庭や職場でも・それに教会でも経験するかもしれません。
いいえ、もうしているかもしれない。
それは、みんなが何か作業をやっていて、色々試したのに、頑張ったのに、なにもできなかった。
そんな経験はないですか?
そんなときに、知り合いや友達や親に「またそれをやってみたら?」と言われたらどうでしょう。
友達から、知り合いから、親からそんなことを言われたら、先生なら、「そんなことを簡単に言うな!」とむかつくし、やる気がでなくなってしまいます。
またできなかった作業を再開する、もう一度やるということは容易じゃない、簡単じゃないですよね。
それどころか、すべてが退屈でいやになってしまいます。
すべてのことが嫌になってしまいます。
みんなそうしたらどうでしょうかねー。
「もうどうでもいいわ~」なんて思っちゃって、毎日の生活・学校・職場・人との交わり、教会で言うならば、毎週の礼拝などが重荷となってしまい、嫌になってしまう。
もしそうなったら、私たちの祈りでさえ冷え切ってしまいます。
クリスチャンであったとしても、「もうどうでもいいや~」と思ってしまったら、そこには喜びも感動も希望も他人の事を思いやる愛も無くなってしまいます。
そうなると、どうでしょう?
家庭や学校、職場などにおいて、特に、自分にとって一番身近な人を、傷つけ合ってしまう。
「別にそんなつもりはないのに」と思っても一番身近な人を傷つけてしまうのです。
そうなってしまったらまた、人を傷つけてしまうかもしれないという思いがどんどん大きくなり、しまいにはすべての事に無関心になってしまいます。
そしてお互いに「こいつが悪い、あいつが悪い」とただ批判するようになってしまいます。
また批判するようになると今度は、犠牲を払うこと嫌がる。それは、「じゃあ自分が、僕が私が●●をやってあげるよ」と他人に対して思いやる気持ちがなくなってしまうんです。
そうなるとそこには何も生まれないし、進歩もありません。愛も冷えてしまいます。
それは私たちクリスチャンであったとしても失望し、すべてに無関心になり、すべてのことについて疲れてしまいます。
私たちが生きている現代は非常に生きることが難しい・大変な時代です。
私たちをがっかりさせ、働きを困難にする要素は多いし、皆さんもそう感じることが家庭、学校、職場、友達、教会など色んなところであると思います。
ここで、もう一度聖書を読んでみたい。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」
ペトロは、自分の考えに凝り固まらず、自分の状態をありのままイエスにつげました。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」
ペテロは今までなにもできなかった。それを正直にイエスに話したんです。
みんなも今の自分の状態をイエス様に告げてみましょう。そう言ってみましょう。
私たちも、ペトロが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」
と言って見ましょう。
でも聖書に書いていても実際の生活の中で、どうせ神に言ったってどうにもなるわけがないと決め付けて神に背を向ける人がいます。
でもはっきりいいます。
それは間違いです!
それはイエスキリストから離れる行為です。
悪魔・サタンが喜ぶ行為です。神様を忘れようとしている証拠です。
私達はそうではなく、私達はイエス・キリストという人がどんな人であるか知っているんですからいってみましょう。言って見ましょうよ。
「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。・何もできなかったんですよイエス様」って
そのときイエス様は
「沖に漕ぎ出して網をおろしなさい」と言われるんです。
この沖に漕ぎ出すとは、神様がくれる希望に向かって前進しなさい、チャレンジしなさいということです。
教会は、沖に漕ぎ出すための停泊所に似ていると私は思います。
教会は、希望という約束の地にむかうため停泊所である。
旧約聖書にでてくるアブラハムもモーセも神様が約束してくださった土地を目指して砂漠と言う名の大きな海で旅を続けました。
アブラハムとモーセはその約束の土地にいくまでに、何度も何度も休むために同じ神様を信じる仲間たちと一緒に、停泊所を張り生活しました。
約束の地にいくために前に進みそして停泊所をつくりそこで休む。
これを幾度となく繰り返したいのです。
しかし、その約束の土地にいくまでの数々の困難がありました。
休むための停留所・天幕を張っていたときでさえ困難が起こりました。
しかし、神様はその停留所・天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与え、最後までアブラハムやモーセを見捨てることはなさいませんでした。
またアブラハムやモーセたちも神を信じ続け、約束の土地へとたどり着いたのです。
そう教会も同じです。
神様の約束の地、希望に向かうためには教会と言う停泊所が必要なのです。
この世に疲れて、困難に陥ったり、また教会自体が自分にとって時には困難になり、行くことができないときがあるかもしれない。
でも、神様はアブラハムやモーセに対して、天幕においてアブラハムやモーセを励まし、希望を与えました。
私たちの通っている教会も同じです。
私達は前に前進する時、困難なことも多い事でしょう。
そんな時は、私達はいつでもどんなときでもなんどでも教会と言う停留所に戻ってきていいんです。
モーセやアブラハムも何度も何度も天幕という停留所を立てては出発しまた天幕を張ったじゃないですか。
わたしたちはこの繰り返しがあるからこそ、神が与えてくださった希望の約束の地へと入ることができるのです。
そして天の約束の地に繋がる教会だからこそ、神はここで私たちに希望や奇跡を見せ、与えておられるんです。
それから神様は沖へ漕ぎ出した私たちに、静かにこう言葉は語りかけておられます。
「網をおろしなさい」と。
網をおろすとは、祈りなさい、ということです。
私たちは祈りという網を降ろそうではありませんか。
でも、クリスチャンの中には、「今は祈れない」という人がいます。
でも私は言いたい。
祈れないと思う時にこそ、祈るんです。
だって「祈れない」ってときってそれは相当自分が追い込まれている時ってことでしょ?
そんなときに、自分が追い詰められた時に、「祈らない」、「祈れない」って、ほんとにそれって神との関係をもっているんでしょうか?
自分の肝心な時に神がいないんじゃ、神様の恵みが自分の中で大きく生かされるはずがないじゃないですか?
そうじゃないんですか?
祈れないという人は、いつの間にか神様と語り合うができなくなってしまっている人です。
その人は是非、あなたを変えたときの御言葉を祈りを信仰を、そして祈ってくれている人の信仰をどうぞ思い出してほしい。
私達が神と語り合える事ができるようになれば、この世でどんなに、どんなに、苦しくて、死にたくなっても、それは神の恵みによって、希望へと変えられます。
人は裏切りますが、神様は絶対裏切りません。
だってその証拠を十字架と復活で神はイエス・キリストを通して見せてくださっているではありませんか!
だから私達も網を下ろしましょうよ。
やってみましょうよ!!
私たちは疲れていても、教会に停泊し、そしてこの世へと漕ぎ出し、網と言う祈りができるとき、私達は大きく変えられ、約束の地へ、永遠の命への道が与えられている事を知る事でしょう。
どうぞ、イエス・キリストを信じて自信をもってください。
あなたは神様から選ばれ祝福され、必要とされている事をです。
それではお祈りします。
皆さんおはようございます。
先週の木曜日は主の昇天、イエス・キリストが弟子達の前で天にあげられた日でありました。
このイエス・キリストの昇天については、マルコ16章19節の「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあるように、キリストが死んで3日目に復活し40日目であったという事が記されています。
キリストの昇天は、キリストの復活後40日目の出来事でしたので、これに基づいて教会暦では伝統的に復活の主日から40日目の木曜日に祝ってきました。
しかし、日本のようにこの日を祝うために週日、集まることが難しい状況を考慮して、キリストの昇天の祭日をこの主日に移す教会もあるようです。
このキリストの昇天は、キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから、人間として神の栄光の状態に上げられ、また主なる神のもとで最高の権威に加わられたことを意味します。
ですから教会ではこう祈られるのです。
「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。
キリストの昇天に、私たちの未来が示されています。
キリストに結ばれる私たちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」
そう、この祈りのように、キリストの昇天は、私たちに訪れるこの世での旅の日に新たに私達の魂が天の国に引き上げられるという素晴らしい出来事の原型であり、
キリストの昇天は、私達も主なる神によって天の国に昇ることが許される保証でもあるのです。
ですから私たちは、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス・キリストに倣って、いつかキリストとともにいることができるという主の希望のうちにこのキリストの昇天の出来事を祝うのです。
そして、私達はそのイエス・キリストの昇天の出来事を知り、祝うことが今許されています。
これは私達にとって大いなる恵みです。
なぜならば、イエス・キリストが苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださったこの教会に集うことができているのですから。
天は父なる神の国、そして教会は母なる教会。
教会は天の国とこの地上を結ぶ場所です。
そして私達は母の胎内とも言うべきこの教会に集い、絶えず天の国におられる
主なる神から聖霊を受けています。
そうおおなる希望の恵みを私達は受けているのです。
そして私達に主なる恵みを与えてくださる聖霊はよくオリーブの葉をくわえている白いハトが使われています。
花園教会の下の礼拝堂にあるステンドグラスにも白い鳩が描かれています。皆さんご存知でしょうか。
知らない人は是非、下の礼拝堂をのぞいてみて下さい。
そしてこの教会のHPでも一番上の部分に写真がのっています。
教会はすべて知っているようで知らない事、思わされることがまだまだホントに多い場所なんです。皆さんも是非この教会を探検してみて下さい。
ところで、この白い鳩として描かれる聖霊は、世界において平和の象徴としての描かれる事が多い。
なぜハトが平和の象徴?と思われる方も多いと思いますが、ハトは、群れを成す性質をもっています。
群れをなして飛んでいく、それが共同体というイメージという事から平和の象徴となったのにこのような説がありますし、
また有名なのは、旧約聖書のノアの方舟との関係でしょう。
このノアの物語は創世記の6章にありますが、この物語は次のようなものです。
主なる神は、地上に増え始めた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じます。
ノアとその家族8人はこの神のお告げを聞いて一生懸命働きました。
その間に、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたけれども、誰一人耳を傾ける者はいませんでした。
箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていました。
ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のオスと雌のペアを箱舟に乗せます。
雨が振り出しました。
そして、その雨は洪水をうみ40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくしたのです。
水は150日の間、引くことがありませんでした。
その後、箱舟はアララト山の上にとまります。
そしてノアはハトと飛ばしました。
けれども一回目は羽を休めるところがなく帰ってきてしまいました。
7日後、もう一度鳩を放すと、なんと鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきたのです。
この事によりノアは水がひいたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出ました。
そこでノアは神に感謝をささげたのです。
神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全生物を全滅させる大洪水は決して起こさないことを契約したのでした。
その契約のしるしとして、空に虹をかけたというのがノアの物語です。
この旧約聖書のノアの物語でてくるオリーブの葉をくわたえたハトは、洪水で地上を見ることができなかったノアたちにとっての希望であり、争いから脱出、滅びを逃れたものにとっての平和だったのだと思います。
この事から、ハトが平和、平安の象徴となりました。
そして今日与えられている御言葉もまさに平和について語っています。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」
私達はよく平和、平和と言う言葉をよく使います。
それは戦争しない事、紛争しない事によく私達の周りでは使われているようです。
イスラエルでの挨拶ではシャローム!と言われます。
これは、「こんにちは」という意味で使われていますが、このシャロームはヘブル語で、平和・平安・やすらぎという意味があります。
ですから、シャロームとは「あなたに今日も平和・平安がありますように」ということなるのです。
いいですね。
どんな人にも「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言える事というのは。
皆さんは挨拶で、「あなたに今日も平和・平安がありますように」と挨拶する事はあるでしょうか?
わたしも言ってみたいですが、なかなか日常生活で言う事はない。
それは、自分の身の回りの事ばかり気になって考えて、他人を他者を考えていないからもしれません。
いや、自分の生きることで精一杯なのかもしれません。
でもいつかわたしもこの挨拶のように他人に対して言えることができるのであればなんと素晴らしい事でしょう。
まず身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見る。
私達は、そんなシャロームといえる「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるような、そんな人間関係を作って生きたいと思っています。
私の場合、まず妻に対して「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言えるようにならないと。
皆さんもまず一番身近な人に「あなたに今日も平和・平安がありますように」と言って見て下さい。
平和・平安とは本来、ただ戦争しない事、紛争しない事だけではなく、私達の身近で使われていくものなんだと思うのです。
そして是非、シャローム・平和・平安を目指して人生と言う名の旅を皆さんも続けていっていただきたい。
これは、イエス・キリストが私達に望んでおられる事なのです。
イエス・キリストは復活して弟子たちの元に来て下ったとき、「平安があなたがたにあるように」といわれました。
私達はこのイエス・キリストの言われるシャローム・平和・平安こそが、私達にとって切なものであり、天の国へと目指していく私達にとって必要なものなのです。
平和は人間の力によって作られる事はありません。
というより、こういった方がいいかもしれない。
それは、人間の力で平和を作り出すことはできるけれども、それはすぐに崩れてしまう平和であると。
この世界にも昔も今も、平和という名のものとにそれを大義名分として戦争、紛争が絶えず行なわれてきました。
軍事力、同盟の力を背景にして平和を保とうと人間はしています。
しかし、これらも、人間の思惑によって、一変し、平和から争いへと換わっていってしまう。
昔のローマもそう、今の大国と言われる国々もそうなのです。
しかし、これは、本当の平和なのでしょうか。
神が語っておられる平和なのでしょうか。
イエスは、私達に「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と言われます。
ここで言われる【平和を作る者】とは、人間たちの考えで、人間たちの思いで実現するのではなく、
まず神を第一として神の示されている事をあらわすことができる人が平和をつくっていくというのです。
それじゃあ平和はどこから来るのか?
神から来るとイエスはいわれます。
神が平和の神である。
神が遣わすイエス・キリストのみが平和の人なのであると。
私達には平和を作り出せない。
それでは私達はどうして平和を求めていくのでしょうか。
パウロはこう語っています。
コロサイ1章19節、新共同訳ですけれども、
「神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すことなく御子の内に宿らせ、その十字架の地によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
しかし、今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」と。
つまり天の国とこの地上を和解させてくださったイエス・キリストをまず信じなさいという事です。
死んで滅びるはずだった私達を、イエス・キリストが私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった事により、この世と天の国の和解となってくださったのです。
その和解をしてくださったイエス・キリストをまず信じなさい。これが平和を実現させるための第一歩であると聖書は語っているのです。
そう、この十字架と復活という和解を信じる事ができるからこそ、私達はこの世において、どんなことでも和解というのです。
でも私達はイエス・キリストの和解がなんだかわからないでいます。
私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのかと。
イエスは、十字架上で、こう言われました。
「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。
そう私達は傷つけた事すら気付かない。
イエスがこのように「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言っている中でも、十字架にかけてなお、人々はイエスの服をくじを引いて分け合っているんです。
これが私達なんです。
傷つけていることに気付かないんですよ私達は。自分では気付かない。
じゃあどうして気付くのでしょう。
それは、イエス・キリストをまず信じることでなんです。
私達は、イエスがなぜ私達の為に死なれそして復活されたのかを信じなければ、私達はこの世においても人と和解することできません。
そして、イエス・キリストの十字架と復活の和解を信じない・知らない人は平気で人を傷つけるし、自分をも傷つけるのです。
信じる事とは、何かを学んだり、決心したり、捜し求めるものではありません。
でも私達は、いつ間にかこの世の知識、常識からすべてを考えてしまっている。
じゃあここで一つの質問をしてみたい思います。
あなたが、今ここで熱を出して倒れてしまったとしましょう。
そしたらここにいる周りの人はあなたに声を掛けてくれるでしょうか?
皆さんどうでしょう。
たぶんすべての人が「声をかけてくれるだろう」と思ったはず。
でもなんで皆さん、そう思ったのでしょうか。
それは、必ず声を掛けてくれる人がいると信じたから、疑う事ができないものだと信じたからそう思ったんじゃないのですか。
信仰も同じなのです。
もはや疑う余地もないほどに神が確かな恵みを、イエス・キリストの和解の恵みを与えてくださっている事に気付き、信じて全てを神に委ねる事、これが信仰なのです。
自分が倒れた時に、人が声をかけてくれるのですから、神ならなおさら私達をずっと生まれてからこれまで、そして未来においても気にかけてくださり、愛しておられます。
私達が、それに気付きこれまでの事を主において振り返る事ができるのであれば、
「イエス・キリストの十字架と復活の和解がなんだかわからない。信じない」
「私達の身代わりと言ってもこの世と天の国で何を和解したのか」
などという質問自体があり得ないのです。
神があなたを愛してくださったから、神はこの世にイエス・キリストを送り、そして私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださった。
そして復活によって私達を、この世での死で終わるはずの私達を、永遠の命を与えて、天の国へと招いてくださっているのです。
これほど、大きな希望はありません。
私達はこれほどの希望を知っているからこそ、イエスの十字架・復活によって希望、罪からの解放、死よりも大きい永遠の命の恵みを神から与えられているからこそ平和・平安を求める事ができるのです。
この神からの大きな恵みに気付けば私達は喜ばずにはいられない。
そうあのノアがオリーブの葉を加えた鳩を見て、平和が訪れたと信じ、神に賛美をささげたように。
私達も同じで、その希望に気付けば神に賛美をささげるだろうし、祈るはずです。
そしてこの恵みに気付いてもらいたいと、他の人の為にも祈るはずです。
伝道者パウロだって、自分が復活したイエスを知った喜びを神の福音を知らせるために世界を歩き回ったのです。
私達にもそれができる。
私達は、いえあなたはその神からの力をすでにいただいているのです。
ですから恐れず、十字架と復活による和解をしてくださった神に、イエス・キリストにすべて頼って参りましょう。
そして皆さん。「今日もあなたに主による平和・平安がありますように」とまず身近な人の前で言うことにチャレンジしてはどうでしょうか。
これが自分の思惑によってのまた力によっての平和ではなく、神がもたらす平和へと繋がっていくのですから。
先ほどのコロサイ1章23節と、今日の御言葉とをもう一度読みます。
「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたがきいた福音の希望から離れてはなりません。」
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」
皆さんに主の祝福が大いにありますように。
祈ります。
そして今日は、ドイツの教会暦でいえば喜べ、喜びなさいとなっています。
パウロは第一テサロニケ5章16節でこう語っています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。
パウロは、第2回の伝道旅行で、同じユダヤ人に対して迫害を受けました。
それはどのような迫害かと言えば、これまでパウロが宣べ伝えた福音に対して、同じユダヤ人が、パウロの事を悪く伝え、広めていたのです。
その誘惑の言葉、サタン的な言葉は、パウロを通して語られた福音を聴いた人々を惑わし、そして教会を惑わしたのでありました。
これに対して、パウロはこの状況を大変心配し、弟子テモテを教会のあるテサロニケへと派遣します。
それは、弟子テモテにテサロニケの教会の様子と、その言葉に惑わされないよう信徒達を激励するために派遣したのでした。
そして、しばらくするとテモテがテサロニケからパウロのところに帰ってきたのです。
パウロはそのテモテからの教会の報告にとても緊張します。
しかし、テモテからでる言葉は、パウロの思っていた不安とは裏腹に、テサロニケの教会の人々は堅く信仰を守って立っており、パウロ先生との再会を心から望んでいるという報告でした。
パウロはこの報告を聞いてとてもうれしくなったのです。
そして喜びと感謝を伝えるために書かれたのが第一テサロニケの信徒への手紙となったのでした。
パウロがなぜ、このように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と、
語ったのでしょうか。
それは、パウロ自身も経験した事であったのです。
イエス・キリストの福音を宣べ伝えている伝道者パウロですら、ユダヤ人の悪い噂、誘惑を恐れ、自分の心に不安が生まれ、そしてその不安がどんどん大きくなっていったのです。
しかし、そのパウロの思いは真実ではなかったと知らされたのでした。
それを教えてくれたのは、テサロニケの教会の信仰、そしてそこにいる信徒の人々の堅く立った信仰。誘惑の力に勝った信仰であったのです。
どんなに神の言葉を取り次ぐほどの伝道師パウロであっても、彼の信仰だけで福音は成り立ちえなかったのです。
つまり、教会、伝道師、牧師、信徒それぞれの信仰と祈りによって福音が本当の意味で成り立ち、聖霊の力が強められるのです。
教会が力とは、共同体の力であると言われるのはこのためです。
このテサロニケの教会の件で自分を知らされたパウロは、自分の不安を悔い改めたことでしょう。
その結果、この御言葉をパウロは語ったのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。
これは、順調な時だけでなく、逆境のときにも、いや人生における苦難、挫折、絶望といったマイナスと思われる時にこそ、キリスト者はこうした生きた方をし、
そうすれば、必ずマイナスは克服されてプラスになる。
「これこそが神の意志である」と
パウロは、神から教えられたのであり、このパウロを通して神の言葉を聞く私達も神から教えられているのです。
ですから私達もいつもというのはできないかも知れないけれども、希望をもってこの御言葉を聴くのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と。
私達は特にこの事を覚えつつ、今日の与えられた御言葉を聴きましょう。
今日はマタイ5章10節~12節が与えられました。
祈ってきた事が少しでも実現する。
これほど私達に喜びを与えるものはありません。
私達はどうしても苦難に耐え忍ぶ事ばかり思わされ、その向こうにある喜びを知る・見る・感じる事がなかなかできないでいるようです。
しかし、今日は、神の恵みであるという事をしっかりと受けて喜びを持ちたいと思います。
わたしはいつも思います。
どんな事に対しても、そして苦難を恵みと信じられるのであればどれだけよいだろうかと。
そうは思いたいのですけど、そうは思えないこともいっぱいある。
人は簡単に、他人に対して、『それは恵みになるよ』というけれども、本当にそうなのか?なんて思ってしまうこともあるのです。
けれども、是非とも、苦難が恵みだと勇気を持っていってみたい。
これは言うべき事なのかもしれません。
そう私達はこれが恵みだと言ってこそ苦難に耐え忍ぶ・背負うことができるのでしょう。
しかし、勇気をもって言う以上は、生半可な思いで・いい加減な思いで言う事は許されないはずです。
なぜなら、苦難は恵みだと思う以上、他の人の苦難のために祈り、助け支えなければならないからです。
苦難で悩んで悩んで、路頭に迷って、希望を失っている人々が、私達の回りに存在しているんです。
苦難によってやる気を失い、目標を失った人がいるんです。
苦難によって大きく苦しんでいる人がいるんです。
苦難によって絶望している人がいるんです。
苦難によって死を選ぼうとしている人もいるんです。
人生を捨てようとしてしまう人がいるんです。
その人たちの気持ちを知らないで、考えないで『ただ自分だけが苦難は恵みだ』なんていい加減な事は言えるはずがありません。
苦難が恵みである。この言葉はそれほどに勇気のいる言葉なんです。
もし自分が相手に苦難を与えているとしたならばどうでしょう。
あなたは、恥を捨て、自分の行為を相手に対して心から謝罪し、そして心から悔い改めて全てを改めようとするでしょうか。
自分の苦難は恵みだけれども、相手に与えた苦難は知らない。
これは、「苦難が恵みだ」と言えるでしょうか。
私達は、今この主の御前に立って礼拝しています。
ですから私達は、この礼拝で中で聖餐式の中で「苦難は恵みであると」知ろうではありませんか?
そして主に勇気を持って宣言しようではありませんか。「苦難は恵みである」と。
これがイエスが私達に示してくださっている希望であり、十字架という苦難の後に続く、復活と言う大きな希望なのですから。
私達は、主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。
なぜならそれはイエス自身がそうだったからです。
でも私達は、苦難に合うことは嫌だと思います。
私は今、すらっと「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」と言いました。
でもこの言葉を聴いたら、ドキッとしますよね。
えっ!そんな苦難になんか合いたくないって。
そうりゃあ、いつも楽しく、嬉しく、喜んで生きていくことをしていきたいというのは当たり前に思います。
わたしだって、そう思います。
苦難になんか合いたくない、楽しくやっていきたいって。
私は神学生時代、色んな大学の学生達が集まり、寮の寮監をやっていた事がありました。
そこの学生達は、ノンクリスチャンの人ばかりでした。
寮では聖書研究会があったのですが、そんな中、キリスト教の話題になって、キリスト教に対する印象を聞いたことがあるんです。
そうすると大部分の学生達が、「最初は、キリスト教は暗い感じがした。」という意見が大勢でした。
ああキリスト教ってこう思われているんだと思った瞬間でした。
神学校が渋谷にあるものですから、土曜日など駅前にいくと大きな看板とプラカードとマイクをもっている外国人の方々がいるんです。
「悔い改めよ。悔い改めなければ永遠の地獄にいく」と。
「悔い改めよ!」・「悔い改めよ!」・「永遠の地獄にいくぞ」と言われると、なんか怖い感じがしますし、人々に暗いというイメージを与えている感じがします。
家庭教師をしていたときの高校生の男の子と新宿に遊びに行ったときも、同じような人たちがいて、高校生の子は「とても気持ちが悪い」と言っていました。
どんなに聖書に書いてあると言っても、このような仕方の証しでは、誰もキリスト教を知りたいと思わないし、暗いイメージを与えてしまうものです。
私達は、救われていると同時に、世に対しての証し人でもあるんです。
ですから、こわばった顔をしていたら、誰も近づいてこないように、暗いような事を証しすれば、キリスト教、クリスチャンのイメージも暗いものになってしまいます。
ですから、先ほどの言葉、「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」という言葉で終わるならば、
キリスト教なんて暗いもので、怖いもので終わってしまうでしょう。
でも、私達の中心はこの迫害や苦難にあるわけではありません。
中心は、なんでしょう。
それは十字架と復活です。
十字架とは苦難や迫害です。
じゃあ復活とは?
それは希望です。喜びです。恵みです。
野球でいうならば9回裏2アウトからの逆転ホームランみたいなもんなんです。
サッカーなら、ロスタイムからの逆転ゴールと言えるんじゃないでしょうか。
私達の中心が、十字架で終わるとき、その先にあるのは滅びです。失望です。
死です。無です。
でもそうではない。
私達の中心は、復活である。それも十字架を通しての復活なのです。
十字架を通っているときは私達はわからないのです。
クリスチャンだってわからない。逆にクリスチャンだから分からなくなるのかもしれない。
苦難がなぜ私達にあるのか?
神のなさる事は私にはわかりません。
皆さん一人ひとりが神の元の帰った時、なんであの時はこうだったのと神に聴いてみて下さい。
でもこれだけは私は大きな声で言えます。
必ず、絶対、最後は勝利をもって、この世の人生が全うされるという事を。
これは、誰かに勝つという事ではありません。
死に打ち勝ち、自分の罪に打ち勝つという事です。
私達は、選ばれた者、つまり、わかりやすく言うと選手、日本代表というよりクリスチャン代表なんですよ。
えっ私が選手??
いやいやこんな私がそんな選手だなんて思うかもしれませんが、あなたは神から選ばれた選手なんです。
今の話を聴いて、そんなの自分にはできないと思うことは当然のことです。自然の事だと思います。
選手となってクリスチャン・神から選ばれた代表選手だなんて・・・。
けれども、今週の御言葉にあるように、パウロは1コリント1章26節でこう語っているのです。
『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。
人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。
また神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです』と。
神から見ると、この世的な知恵や家柄は関係ないんです。
私達は、この世的になりすぎて、教会でも人を見ているんですよ。
この人はこれが得意だから自分にはできないとか、こいつは自分より知恵がないからこいつは頼りにならないとか。
人を見て自分を萎縮してしまう人。
萎縮している人を見下げる人。
教会で神を見ているようで人をみている事があります。
しかし、それは違う、ノーだと聖書は語っているんです。
そして、そんな見下げている人が最後には恥をかき、能力がないと思っている人を最後には神は引き上げるんです。
これが神のなさるわざなのです。
イエス・キリストがたとえを言われたように、
自分は正しい人間とうぬぼれて他人を見下しているファリサイ派よりも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人を義とされ、用いられるのです。
神に選ばれた選手として
私たちが神の義のために、人生をプレイするとき、人生を歩んでいくとき、
野球やサッカーみたいに、競技をやっている最中は、この試合がどうなるかわからないと不安を感じストレスを覚えることがあるかもしれない。
途中で点を入れられてしまい、ああおしまいだと意気消沈したりしてしまうかもしれません。
けれどもどんなに点を入れられても、どんなに点差があったとしても、負けると思ってしまっていても、最後の最後には神の勝利で終わるのです。
それが十字架と復活なのです。
ですからどんなに苦難があろうが、困難があろうが必ず勝利で終わり、そして永遠の命という続きがある。
これが神の私たちに与えている大きな希望なのです。人間が与える希望ではなく、まさしく神が与えてくださる希望なのです。
勝利で終わることを確信していれば私たちは希望を捨てるはずがありません。
あきらめるはずがありません。失望するはずがありません。自ら死を選ぶはずがありません。
そして、勝利を知っていればこうもいえるでしょう。
苦難や迫害されている事実が神の義に生きていることの保証となっている。
苦難や迫害されているからこそ、天の国の約束を保証されるのである。という事を。
ですから私たちは、その神の希望を十字架と復活という希望の神の義を語るのです。
天の国へ行くのはそのような人々なのです。
これが神が私たちに与えている希望であり、神のなされている事柄なのです。
冒頭で語ったように「苦難は恵みである」と言うことは簡単なことばではありません。
けれども、「苦難は恵みである」と本当に言える人々がこの世界を、教会を支えているのだと思います。
今私たちがここに立っているのは、苦難が恵みである。
最後に勝利がある。希望があると信じている人の支えがあるからこそなんです。
そして私たちもいずれ、神から選ばれた代表選手として人生という競技場のピッチに立ち、苦難というスポットライトを浴びることがあるでしょう。
そんなとき、苦難というスポットライトを浴びながらも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人のように、本当に意味での神の義を信じ、苦難は恵みであると心のうちから言えるのであれば、あなたも教会の支え、この世界の支えとなっていくのではないでしょうか。
神秘的な神の義の役割をあなたが果たすときがきますように。
主の祝福があなたがたにありますように。
祈ります。