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「あなたへのメッセージ集」記事一覧

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メッセージ:だから信じてほしい!

ヨハネ17章3節「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」


このほど、●●兄から花園教会発行の「ブドウ」の原稿依頼がありました。


そこで私は『教会の姿』とはどんなものであるのかというものを少し書かせていただきました。


この『ブドウ』の原稿が依頼されたときは昨年の11月でありましたが、私は何をテーマに書こうか迷いました。


そんな私が迷っている時に、私が働いている会社の同僚と昼食時間ふと、次のような言葉を言ったのです。


「俺の友人のほとんどがうつの手前まで言ってやばい状況だよ。」
と。


皆さんもよくご存知であろう昨年9月のリーマン証券の破綻、所謂「リーマンショック」。


このショック後に日本の経済が大きく悪化してる事は皆さんもよくご存知の事だと思います。


製造業のほとんどは大打撃を受けて、私と同じようなアルバイトや派遣労働者が何の前触れもなく切られていってしまう。


私の仕事場はリーマンショックの影響が少ないのでかろうじてアルバイトができていますが、


この世において生きていく以上、いつなにがあるかわかりません。



そんな不景気の波が世界にそして日本に来ているわけですが、その私の同僚の友人も製造業で正社員として働いているそうです。


しかし、正社員とはいえオーバーワークが絶えない日々らしく、憂鬱であるという事でした。


そしていつも通勤電車を見るとこう思うというのです。


「この電車に誰か飛び込んでくれたら・・・少しでも会社にいる時間が短くなるのに」

と。


なんと大変な世の中なのでしょうか。


これは今働いている若い20代の男性がこう思っているのです。


わたしはこの事を聞き、この世にあって教会は何なんだろうとより真剣に考えるようになりました。


そして教会の役割とは教会の意義とは?


私はこれにより、花園教会広報誌『ブドウ』に書くテーマは決まりました。


「教会の姿とはどんなものであるのか」と。


是非また『ブドウ』が発行されましたら私のところも読んでいただければと思います。



私自身この1年間、神様に守られたと本当に感謝しています。


私は牧師の傍ら、5日間のフルタイム・何週間連続で夜11時に帰るという残業の日々が多々ありました。


そのような中で日曜日は、教会学校から始まり、

ママさん達へのキリスト教入門の活動、

そして青年会のメッセージ、各委員会、

また血気多感な子ども達との体力勝負的なコミュニケーション(笑)などが盛り沢山にありました


肉体的にはとてもツライ時も多くありましたが、

しかしそれ以上に喜びの多い年であったと思います。


それは昨年6月には娘が生まれ、そして母体の妻も無事だったという事。


また教会学校では、子ども達が少しずつ心を開いてくれるようになってくれた事。


そして不思議な事に私達夫婦に年齢の近いママさん達が教会に来てくれるようになってくれた事。


青年会の活動も少しずつですができるようになり、青年が集まって青年だけのクリスマス祝会が催せた事。

数えればこんなに沢山色々ありました。

そして皆さんにもとても支えられた一年だったと思います。


新聖歌の中に「数えてみよ主の恵み」という賛美がありますが、ホント色々数えてみると数え切れない主の恵みがあったように思います。


私は今数え切れない主の恵みがあったと言いましたが、決して私はこの言葉を社交辞令のように使っているわけではありません。


心からホントにそう思っているわけです。

なぜ私がこう思えたのか、少し思い巡らしてみると、ある祈りを通してそう思わされた事に気付きました。

それはマザーテレサの祈りでした。

マザーテレサの祈りはこのようなものです

「主よ、あなたご自身が私の存在を完全に支配してください。

私の接する人々が皆 私の中にあなたの現存を感じとれますように。

私を見る人が私ではなく あなたをこそ私の中に認めますように。

主よ、私の中にとどまってください。そうすれば私も常にあなたの栄光をこの身に反映させ兄弟姉妹の光となることができるでしょう」

そう、花園教会にそして花園教会の信徒の皆さんひとりひとりに神の現存を感じ取ったからなのだと思います。

神が花園教会にそして私達の心の中にあたかも神殿の中にいるように住まわれたからこそこう思えたのだと私は思います。

神がます私達に恵みを惜しみなく提供してくれている事を私は信じているからこそ辛くても喜びを恵みを数えたのだと思います。

また皆さんが神をイエス・キリストを信じているからこそ花園教会はこうして祝されているのだと思います。

その事を思うとパウロが使徒の働き16章31節で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と言ったあの御言葉の意味が少しはわかるような気がしました。

そう主イエスを信じるという事は、私達の私のそしてあなたの信仰だけで個人的な信仰では終わりではない。

いいえ、終わりにはできないという事。

主イエス・キリストを信じる事によってマザーテレサの祈りにあるように自分の家族だけではなくその取り巻きそして教会の光になっていくのです。


今私はここで皆さんに「主イエスを信じなさい」という御言葉を伝えましたが、この「信じる」という単語は大きなポイントなんじゃないかなと思うのです。

それは、私も通勤時間、聖書を読む機会が与えられていますがそこで気付いたのは「信じる」という事の意味でした。

私達は日頃「信じます」と言う言葉をつかっていますがこの「信じる」という事の意味は聖書ではどう扱われているのか。
実はこの「信じる」という言葉、調べてみますと一番使われている箇所はヨハネによる福音書です。

単純に数えただけでもヨハネでは36回使われています。

他の福音書を数えてみると、マタイが3回、マルコが5回です。

この事からもヨハネがどれだけこの「信じる」という言葉をたくさん使っていることがよくわかります。

皆さん、是非もう一度ヨハネによる福音書をじっくり読んでみて下さい。

そこにはイエス・キリストのひたむきな、けなげというとそれを超えて、イエスがかわいそうに思えてくるそんなイエス・キリストの姿を垣間見ることができます。

それは、イエスが「私の遣わした方を信じなさい」「私の御言葉を信じなさい」と言われ続けるのですが、あまり人々の反応が良くないわけです。

そして、頼みの弟子たちですら「信じます!」と告白するものの、次の瞬間イエスの言葉を無視するかのような行動にでていく。

ヨハネ福音書を読んでいたとき

「今お前ら(弟子達)、イエス様に信じますって言ったばかりじゃん。

なんでそれをさかなでするような行動をするんだよ」

と何度も私は思いました。


ヨハネ福音書にはそんな箇所がいっぱいでてくるので、私はなんだかイエス様に同情というか、イエス様が哀れに思えてしょうがなくなっていきました。

そして最後には、その「信じます」と言っていた群集に十字架に掛けられそして「信じます!」と自信を持っていっていた弟子たちにすら裏切られる。


これを読んで私は通勤途中ではありましたが、イエス様があまりに難儀に思えて泣きそうになりました。


でも、よくよく後で考えてみるとこの群集や弟子達の姿って私の姿なんじゃないかと思うようになったのです。。


「信じます!」と言っておいて、次の瞬間それとは全く違う的外れな行動にでていく。


「信じます」と言って平気で裏切る。


これは私の姿なんだと言う事を知らされたのです。


そう考えると、私も「はああ」とため息をつく位、何もできてないなと思わされ暗い気持ちになりました。


でもどんどん読み勧めていくと、ヨハネによる福音書はそんな暗い思いを吹き飛ばすクライマックスを最後には用意していたのです。


それは復活されたイエス様が、自分を裏切り、「信じます」と言っておきながら全く的外れの事をしていた弟子たちのもとに現れ、祝福しそして再度また「信じなさい」と言われた事。


これは私にとって大きな衝撃でした。


あれだけ狼少年の如くにまた信用できないほどに「信じます」と連発していた弟子たちに向かって再度「信じなさい」と言われたのです。


これは私にも言われているようでした。

私達がイエス・キリストから何度も何度も背いたとしても、イエス・キリストは私達のもとに現れ「信じなさい」と言われる。

イエス・キリストは、私達にどんなときであっても私達に「信じなさい」と言われているのです。

このヨハネによる福音書にはイエス・キリストが絶対に諦めないそんな姿が記されています。

そしてここからそれほどに私達を愛しているんだと言う事もよくわかるのです。


それからの弟子たちについては皆さんもよくご存知のように全世界へと死を恐れず宣教へと出かけていくのでした。


私達も同じなのではないでしょうか。


この世の出来事、不況、戦争、飢餓、死、病気、衰え数切れない「信じれない」事が私達に襲ってきます。

そして私たち自身も「主イエスを信じる」と告白していながら全く的を得ていない、逆にイエスを裏切ってしまうような事をしてしまうかも知れません。


それでもイエス・キリストは絶対私達を、わたしをそしてあなた諦めない方でいらっしゃる。


ですから私達もイエス・キリストが絶対に諦めない以上、私達も信じる事を諦めてはいけません。

信じる事をやめてはいけないのです。

信じていけば、弟子たちが復活したイエスを見て、心からそして本当の『信じます』と告白したように必ず本当の信じるという事がわかるのですから。


「信じる」を持続させたとき、それは私達にとってとても大きな喜びとなり、そして一番強い力となるのです。


ですから、私はこれから「主イエス・キリストを信じ続けていきたい」と思います。


この正月、私を慕って大学時代の同期と後輩がわざわざ私の元に来てくれました。


しかし彼らは、仕事に疲れ・人間関係にストレスを負っており、

「仕事が始めることがとても憂鬱なんです」とポツリと本音をこぼしたのでした。


私はそのとき、彼らに少しでも解決の糸口を見つけ上げられればよかったのですが、残念な事に全くそれを提供できませんでした。


でも私が復活の主イエス・キリストを信じ続ければ必ず、マザーテレサの

「常にあなたの栄光をこの身に反映させ兄弟姉妹の光となることができるでしょう」

という祈りにもあったように、神がいつか私を通して用いて彼らに光をくださる時が来ると私は信じています。


「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

是非あなたも主イエス・キリストを信じていって下さい。

それが救いにそして周りの光となっていくのですから。

主の祝福が皆さんと共にありますように

祈ります。
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「主イエス・キリストの誕生」 

皆さん!メリークリスマス!

クリスマスおめでとうございます。

私達にとって今日ほど、子どものようにワクワクし、そして待ち遠しい日はありません。

主なる神様が私達に大きなプレゼントを今日下さったのです。

それは、子なる神イエス・キリストをこの地上にお送りくださった事。

真っ暗な暗闇の中にまばゆい光が差し込んだ、そんなイメージでしょうか。

主なる神はこの世界に子なる神イエス・キリストをお送りくださった。

それもこの世界の身分が高い強い王子としてこられ、そして王宮で生まれたのではなく、一番弱い立場の赤ちゃんとしてそして動物達が寝泊りする家畜小屋でお生まれになったのです。

聖書に書かれているこれらの出来事が、今私達の現実の中で行われ、そして私達がその現実を見たとしたら、、なんと悲劇に感じる事でしょうか。

なぜなら、神の子が家畜小屋でお生まれになったのですよ。

今のような設備の揃った産婦人科で生まれるのではなく家畜小屋で生まれ、そして赤ちゃん専用のベッドに寝かされたのではなく、飼い葉おけ-牛や馬に餌を上げる時に使われる桶に寝かせたというのです。

もし私達がこの現状をまの当たりにしたとき、どう感じるでしょうか。


「うわ~。なんて汚いところに、」

「なんてひどい事だ」

と思わないでしょうか。

しかし、私達の信じる神とはそのようなお方なのです。

そう、私達をおつくりになった神が私達と同じように、いや私達よりもっと、低く、私達ですらマイナスだと感じ、落ち込んで、生きることができないように思えてしまうどん底にまで低くなられた。

それが、このイエス・キリストなのです。

私達は現在、こうしてイエス・キリストの誕生を盛大にそして明るく、喜びを持ってお祝いしていますけれども、

一番最初のクリスマスというのは、私達が想像することすらできないほどに過酷なそして私達がその場にいたとしたら、なんとヒドイ・なんとむごいと感じるものだと思います。

しかし、そんな私達がなんとヒドイ・なんとむごいと感じるところにまず神様は来られた。

私達人間では考えられない、そして自分の子どもをそんなところに送らないと思うところに神は、子なる神イエス・キリストを贈られたのです。

それはどうしてでしょうか。


それは、私達、私そしてあなたを神が愛しておられるから。その一点のみです。

そう、それが理由なのです。

この世において「愛している」という理由で私達がここまでできるでしょうか。

ましてや、今の自分が嫌だと感じ、ひどい・むごいと思うような立場になってしまうと、知っていたら、、、

「愛しているから」と言う理由だけで、できるでしょうか。

いや、私達にできるはずがありません。


ここでイエス・キリストをこの世に遣わされた神の一転の曇りのない愛が、皆さん!ここで私達は知ることができるのではないでしょうか。

ですから今宵のイエス・キリストの誕生と言うこの出来事には大きな救いと喜びがあるのです。


今日のお昼の報道番組の中で、景気が急激に悪くなり、派遣社員だった方がクビになりホームレスになってしまったという特集がやっていました。

そしてその特集を見終えたキャスターがひと言こう言いました。

「今日は、世間ではクリスマスイヴだとお祝いしていてもこれではなんか祝える気分にならないですよね」

と。


しかし、これは全く間違っている。


クリスマスとはそうじゃない。


クリスマスとはそんなものじゃない。

先ほども言ったように神は私達を愛しているが故に、イエス・キリストをまず一番弱い・そして一番立場の弱いところに送られた。

聖書にはこうあります。この救いの喜びの知らせはまず羊飼いに告げられたと。

彼ら羊飼いは定住した家ではなく、野宿をして羊の世話をずっと夜中し、働いていたのでした。


そこに天使がやってきて、こう告げたのです。

「恐れるな。私はあなたのためにすばらしい知らせもってきました。その知らせはすべての人が幸せに幸福になるものです」と。

大きな喜びを、大きな知らせを神は、天使を遣わしまず、野宿をして羊の群れの世話をして働き続けいた羊飼いの元に知らせたのです。

普通なら、そんな大きな知らせ・ニュースなら何か影響力のある人に知らせるはず。

企業なら、テレビやインターネット、この時代ならば王様や身分の高い祭司などに。


でも神様は違った。

羊飼いの元に天使を遣わし、「あなたのために素晴らしい知らせをもってきた」と言われたのです。

神は、誰のためでもなく「あなたのために」と救いの知らせを、大切な知らせを世の中にとっては影響力のない野宿をしていた羊飼いに言われたのでした。

クリスマスとは、この世的には暗く・誰も近づきたくない・知らせても意味がないところにまず光が与えられた出来事だったのです。

ですからキャスターが言ったあの

「この暗いにときに、クリスマスイヴなんか祝えない」

という言葉は全く的を得てない、完全に間違っている言葉なのです。

クリスマスとは、この世が暗い時にこそ最も輝き、そして神が「あなたのために」と喜びの知らせを、救いの知らせを、弱っている・苦しんでいる人のところにまず届けるところのものなのです。

そうあなたのところに。

一番弱いと感じる、一番弱い立場のところに神はまず働かれる。

羊飼い達はどうだったでしょうか。

先ほどの新聖歌75番「神の御子は」の1番の
「いざや 友よ もろともに 急ぎ行きて拝まずや 急ぎ行きて拝まずや」
という歌詞にあるように

「友よ、一緒に急いでいって拝みにいこう」
と走って、そして急いで、イエス・キリストの下に会いにでかけたのです。

羊飼い達は、知ったのです。

「主が私達に話してくださったイエス・キリストに出会えれば、素晴らしいことが起こる。」と言う事を。

そしてイエス・キリストに会い、そしてその素晴らしい出来事を様々な人に教えたのでした。


私達も同じなのではないでしょうか。

この暗く・厳しい世界にいるからこそ、今日こうしてこの世界に光を与えるイエス・キリストの誕生の光を祝う為に教会に集っている。

暗ければ暗いところにこそ光はその光をもっともっと輝かせます。

イエス・キリストの光は真の光。

その真の光を拝みに羊飼い達が急いで走って出かけたように今日私達もこの御堂に集い、

この世の暗闇・社会的な暗闇、家庭の暗闇、そしてあなた自身の心の暗闇を

突き刺すほどに照り輝くイエス・キリストの真の光を

私達は今晩、拝みにきたのです。

イエス・キリストの光はあなた達の心に永遠に光り続ける事でしょう。

その光を誰も消す事はできません。

この地上では私達を陥れる出来事が起るでしょう。

今日本で行われているリストラの嵐、世界においては戦争・貧困・疫病など。

しかし、イエス・キリストは言われます。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。 わたしを食べる者もわたしによって生きる。

これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」と。(ヨハネ6章)

このパンとはイエス・キリストが私達に与えてくださる御言葉です。

私達がこのイエス・キリストの御言葉を心に留め信じる限りこの世が私達を攻撃したとしても私達は倒れず、そして死ぬ事はありません。

このイエス・キリストの御言葉は霊であり命なのですから。

イエス・キリストはあなたを強め、そしてあなたに希望を与えそして死なない命を復活の命を与えてくださる方。

その方が今晩、私達の為にお生まれになったのです。

これを私達が手をあげず祝わずにおれるわけがないじゃないですか!


この弱っている私のためにそしてあなたを愛しているがために神が大きな希望と救いを持ってきてくださったのですから。

これが本当のそしてまことのクリスマス。

もしあなたがここでこの事を信じ受け止められるなら、今日のクリスマスが、

この世において簡単に弱ってしまう私達そして、

この世の出来事によって簡単に希望を失ってしまう私達に与えられた神様からの最高の贈り物であると知ることができるでしょう。

神はあなたにこう告げられています。

「恐れるな。私はあなたのためにすばらしい知らせもってきました。

その知らせはすべての人が幸せに幸福になるものです。

今日、あなたのために神はイエス・キリストをこの地上にお遣わしになりました。」

クリスマスイブの今日、皆さんに主の祝福が大いにありますように。

祈ります。

本当のクリスマス

今年もあと3週間で終わりを迎えます。

 

今年も教会学校が無事に守られた事を本当に先生は神様に感謝したいと思います。

 

こうして、みんながこの4月からこうして変わりなく来てくれたという事は本当に素晴らしい事。

 

こうして日頃、教会にこうして来ているみんなを見ていたとき、先生は勇気付けられます。

 

それはみんなは、まだ洗礼を受けてはいないけれども、他の教会に来ていない子どもたちとは違い、

 

教会学校の礼拝を通してまた、このクリスマスを通して、

 

そして子どもたちなりの祈りを通して、神様と本気で向き合おうとしている姿を見ることができるからです。

 

教会なんて学校のように強制じゃない。

 

でもみんなはこうしてここに集まってくれている。

 

先生は本当にそんな君達の姿を見て、私自身とても勇気づけられるし、そしてとてもうれしい。

 

先生がみんなに教えているようで、実は先生が君達から教えられているのかもしれません。

 

今年もみんな本当にありがとう。

 

ただこのひと言です。

 

来年はこの世界もそして日本もそして京都もそして花園教会もどうなっていくか誰も予想できない。

 

誰かにとっては、嬉しい年かもしれないし、苦しい年かもしれない。

 

悲しい年かもしれないし、喜びの年かもしれない。

 

でもそれは誰にもわからない。

 

しかし、私達はこの4月からこの聖書を通して多くを学びました。

 

みんな覚えているかな?

 

カインとアベル、ノアの箱舟、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネと。

 

神様の思いと私達の思いは違う。神様はいつもあなたと共にいるってね。

 

神様を信じるってことの意味を今年は、みんなよく知ったと思います。

 

それはつらく・悲しいときもあるけれど、しかし神様は最初からあなたを勝利・喜びへの道へと歩ませているって事のね。

 

だから、来年の事は私達にはわからないけれど、神様がいつもいるから大丈夫なんだと信じてそして胸に秘めてこれからみんなまた1日一日を過ごしていって欲しいと思います。

 

そして今日は教会学校のクリスマス。

 

クリスマスとはイエス様が生まれた日です。

 

それはつまり、イエス様がみんなに!!みんなに会いに来てくれたという事。愛してくれているということ。

ひとりひとりがとても大事だって事なんです。

あなたがいないといけないんだってイエス様が会いに来てくれた日なんです。

 

だからこのクリスマス、みんなもイエス様に出会って欲しい。

 

それはどういうことか、

 

それは神様を信じます。イエス様を信じますという事です。

 

そしてみんなが名刺に作ったように・・・。

 

あるお友達は「裁いてはなりません」というように聖書の御言葉を名刺に書いていました。

 

その御言葉をこの胸に、こころに刻み込む・覚えておくということなんです。

 

それが私達教会のそして世の中の、サンタさんのクリスマスじゃない、プレゼントをもらうだけのクリスマスじゃない、本当のクリスマスなんです。

 

みんなは本当のクリスマスに会うこと・知ることが今日できたんです。

他の教会に来ていない子ども達は知らない、本当のクリスマスをみんなは知ったんです。

 

神様はイエス様は、みんなをを愛しておられます。

 

是非、その事を覚えてそしてどんな苦しい時・悲しい時あったとしてもイエス様がいつもひとりひとりにいる事を忘れないでほしい。

 

そして先ほど読んだひとりひとりに与えられた御言葉をグッと心にもって思い出して欲しい。祈って欲しい。

 

そしたら必ず、みんなは本当の意味で勇気が与えられ、強くなると思います。

 

クリスマス。

 

それはイエス様がみんなひとりひとりの為にこの世に来られた日。

 

それではお祈りします。

「すでに救われていると信じて、苦難に耐え忍びたい」



突然ですが、皆さんはこの世の中をどう生きておられるでしょうか。

 

ある本にこうありました。

 

「あなたが立てるアンテナによって、あなたに来る情報が決まります。

「大変だ!」というアンテナを立てれば、「大変だ!」がやってきます。

感謝というアンテナを立てれば、感謝が来ます。


どんな嵐のただ中でも、「大丈夫!」というアンテナを高く立てれば、「大丈夫!」という情報が、あなたをめがけてやってきます。


心のアンテナを立てましょう。」

 

と。

 

皆さんは、この本の言葉を借りるならば、日頃どんなアンテナを立てているでしょうか。

 

人生において、人が大変だと感じる事・大変だと経験する事は、幾度となく訪れると思います。

 

私も28年と言うまだ短い人生の経験ですが、私が大変だと感じた・経験した事は幾度かありました。

 

いくとか挙げるとすれば小学校のとき、大好きだった犬・元気だったペットがある日突然、死を迎えその死に直面したとき。

 

骨折した時。交通事故に合ったとき、

 

中学のときは、喧嘩で耳を切り8針縫う怪我したときでした。

 

また高校のときは、いじめられ、不登校になり、自殺を考えた時。

 

大学生のときには、原因不明の病気で死の淵をさまよった事。

 

大好きで住んでいた学生寮が、バブルのあおりを受けて廃寮が決定し、社会の冷たさを知り、人間不振に陥り、路頭に迷いそうになった事。

 

ここ数年の出来事であれば、伝道師として立てられ信仰をもってイエス・キリストの福音を宣べ伝えようと張り切って臨んだ最初の教会での信仰的な挫折でしょうか。

信徒の方々に希望を宣べ伝えようとしたら、失望を与えてしまったショックで

牧師をやめようと思ったときなど。

 

この私のようなまだ「ひよっこ」とも思われるものであっても、振り返ってみれば幾度と大変と感じる・経験する事があるのです。

 

皆さんにも、大変だと感じる・経験する事が多々あると思います。

 

私達は生きていく中で大変だと感じる・経験する事は、年齢・性別まったく関係なく、どんな人にも誰にでも訪れる事なんだと思います。

 

しかしただ、先ほど紹介した

 

「あなたが立てるアンテナによって、あなたに来る情報が決まります。

 

どんな嵐のただ中でも、「大丈夫!」というアンテナを高く立てれば、「大丈夫!」という情報が、あなたをめがけてやってきます。」

 

というのは、アンテナの話から考えるとき、

 

私達自身が大変なときに、私達自身がとても苦しく大変だと感じるときに、あなたはその大変なときをどう捉え、

 

そしてどうしていくのかと言うことがとても重要なんだと、このアンテナの話では私達に教えているのだと思います。

 

そう、信仰的に言うなれば今日の説教題にあるように、

 

「すでに救われていると信じて、苦難に耐え忍びたい」

と言うことなんです。

 

その事を知るために今日神は私達に、今日必要な御言葉を1サムエル記から与えて下さいました。

 

そのサムエル記に登場するダビデを通して今日の必要な御言葉に触れたいと思います。

 

今日出てくるダビデは、少年でありながらも、油注がれた者、つまり神の栄光を表す存在として神が召しだされた者でした。

 

今日、読んだダビデに行き着くまでのエピソードを簡単に説明しますと、ダビデはエッサイの8番目の息子かつ末っ子としてベツレヘムという小さな田舎町に生まれました。

 

ダビデは羊飼いをしていましたが、預言者サムエルに見出されて油を注がれるものとなりました。

 

そして、そんな少年ダビデは、ふとしたことからお兄さんがいる戦場へと足を運ぶことになります。

 

ダビデが生きていた時代とは、まだ戦争が絶えない戦国時代です。

 

ダビデが住んでいた地域はイスラエルに属し、そのイスラエルは海の民と呼ばれるペリシテ人と戦争をくり返していていました。

 

そんな戦いが行われていた40日目になったとき、ダビデは戦争に参加していた3人の兄の消息を確かめるよう、父に命じられ、差し入れを持って戦場へと向かったのでした。

 

少年ダビデは兄たちのいるエラの谷に着きました。

 

そこでは谷の間(あいだ)をはさんで、一方はイスラエル軍、もう一方はペリシテ軍が陣を張り、にらみ合っていたのです。

 

そして少年ダビデはイスラエル軍の方に歩き、イスラエル兵士である兄達に会いました。

 

ちょうどその時でした。

 

ペリシテ軍に信じられないような重さの鎧兜を身につけて戦うゴリアテという大男が現れ、いつものように一騎討ちを申し込んできたのです。

 

ゴリアテはただ巨漢であるだけでなく、つわものでした。

 

そんなゴリアテを見て、イスラエルの兵士達は恐れおののいていました。

 

その状況を見たダビデは何を思ったのか、そのゴリアテとの一騎討ちを買って出ようとします。

 

兄達は、皮肉っぽくダビデを叱り、ダビデのことを聞いたサウル王も戦いの経験のないダビデを当然、あてしようとしませんでした。

 

しかし、ダビデは王をなんとか説得し、戦いの許しを得ます。

 

サウロ王はダビデに自分の鎧兜を貸そうとしたのですが、重くて、まともに歩くこともできず、結局、川原にある手頃な石5つだけ選び、

 

少年ダビデは、ゴリアテに挑みました。

一方ゴリアテは、まだ幼いダビデを見て、あなどり、自分の神々によってダビデを呪い余裕を持って名乗りをあげました。

 

またダビデも神の名によって戦いを宣言し、決闘が始まります。

 

そしてこの決闘は一瞬のうちに終わりをつげました。

 

ダビデはさきほど川原で選んだ石をパチンコのように飛ばし、ゴリアテの額に命中させました。

 

そして、倒れたゴリアテを見、すかさず走ってきてゴリアテの剣を取り、最後のとどめを差したのです。

 

その光景を見たペリシテ軍の兵士たちは恐れおののきそこから逃げ去ってい

きました。

 

この物語は、クリスチャンの方なら一度は聞いた事のあるとても有名な物語であります。

 

一人の羊飼いであった少年のダビデはこの活躍後、一瞬にして時の人となり、イスラエルを統一するダビデ王となっていきます。


このようにダビデは神により、召しだされたのでありました。

 

しかし、このとき、少年であったダビデは自分が将来、王となり、イスラエルを統一するとは思ってもみなかったことでしょう。

 

神のなさることは私達が考えている計画をはるかにしのぎ、私達のわからないところで働いておられたのです。

 

それまでペリシテ軍のゴリアテをみて、恐れおののいていたイスラエル軍がダビデの起こしたこの出来事で、一瞬のうちに活気付き、立っておたけびをあげ、逃げるペリシテ軍を追撃したのでした。

 

ダビデは、気が弱っている兵士たちをこの一瞬の出来事により勇気付けたのです

 

ダビデが、神に栄光を帰することによって、その神を賛美する栄光の光が、弱っている兵士達を助けたのでした。

 

 

さあ私達が、今日の御言葉で知る事は一体なんでしょうか。

それは、神の思いと人の思いは違うという事。

 

サウル王やダビデの兄たちは、ダビデが幼く現実的に考えてダビデには到底、戦いなんかできっこないと思っていた人の思いを神の思いがはるかに超えておられたという事です。

 

またもうひとつ。

 

これが重要なのですが、信仰の戦いを通して私達は強められそしてそれを乗り越えたときに本当の意味での神の希望を知り、そしてその神の希望を弱っている人たちに教えることができ、またその人を勇気づける事ができるんです。

 

私達は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けてそれで終わりなんではないんです。

 

そこからがイエス・キリストと共にいたペトロが言うように、また伝道者パウロが言うように、本当に信仰が本物になるようにと精錬される試練が始まっていくんです。

 

誰だって戦いは望みません。安定がほしい。平安がほしい。そう願う事は当たり前です。

 

しかし、試練は苦難は一方的に向こうからやってくるんです。

 

私達が望もうが望まなかろうが向こうから一方的にやってくるんです。それも必ず。

 

けれども、この事は決して忘れないで欲しい。

 

救いも希望も外からやってくるという事を。

 

私達が、苦難を避けよう避けようとして、心を閉ざし・すべてに関わらないようにしていたら、外から救いも希望も受け取ることができない。

 

私達の自分の中から救いを希望を作り出す事はできないのです。

 

私達が試練や苦難にあったとき、心を閉ざし、避けようとし続けたとき、自分の中から作り出すものはただひとつ。

 

失望、絶望を伴う死だけです。

私は大学時代、勿論そのときもクリスチャンでしたが、私が大学生だったときほど、クリスチャンを憎たらしく思う事はありませんでした。

 

それは、冒頭で少し触れたように、私が住んでいた学生寮が廃寮になったときの事です。

 

私の住んでいた寮は苦学生が集う寮でしたが、志を高く持ちそして希望を持った学生達が集まっていました。

 

そこに住まう学生達はほとんどがクリスチャンではなかったものの、経営母体がキリスト教団体であったので、月に一度の聖書研究会が開かれ、よき伝道の場となっていました。

 

そんな中で、バブルのあおりを受けた団体が、寮の廃寮を決定したのでした。

 

青少年育成を旗印に活動していたキリスト教の団体がまず切ったのは私達の寮でした。

 

また、私がそのとき許せなかったのは、その切った相手が私がとても尊敬し、寮の運営の相談をしていた牧師の息子でクリスチャンの方だったということです。

 

寮の廃寮が決まる前まではとても真摯になって寮をどうよくしていくかという相談をしていたにもかかわらず、裏ではすでに廃寮を決定する指示を自ら行っていたからです。

 

あのときほど、クリスチャンって何?と考えた事はないと思います。

 

私達学生が存続に向け活動した際も、大人たちのほとんどは、バブルのおおりなんだからしょうがないじゃんと私達に協力はしてくれませんでした。

 

青少年育成を旗印にしているんだったら今こそ、収益事業の拡大ではなく原点に戻って苦しんでいる人を助ける・支える事業を継続させた方がいいと私達が主張すると、

 

「負債58億円もかかえているのだから理想をいうんじゃなくて現実を見ろよ」

 

と冷たくあしらわれました。

 

今負債58億円と聞いて、「まあそんなにあるならしょうがない」と思われた方も多いんじゃないでしょうか。

 

勿論、現実の社会から見たらしょうがないと思われるかもしれません。

 

近年、「理想ではなく現実を見よ」という言葉をよく耳にします。

「理想」の意味が、なにかあり得ない・空想の事をならべて実現できないもので現実的でないと言うことから「現実」と対比させ、

「理想ではなく現実を見よ」というような言葉が出てきたと思われるのですが、

 

しかし本来「理想」とは、哲学用語で「行為・性質・状態などに関して、考える得る最高の状態の事」を言います。

 

また「いまだ現実には存在していないが、実現可能なものとして行為の目的であり、その意味で行為の起動力である」というのが本来の意味です。

 

ですから「理想」とは何か空想話を意味しているものではないのです。

 

最近、言葉の本来の意味を知らずに使う人が多いのでとても迷惑な話ではあるのですが、

 

しかしまたこのように、同じクリスチャン同士であっても戦わなければならないときがあるんです。

 

これまさに大学生時代の私にとって信仰の戦いでした。

 

でも、今振り返ってみるとあのときの戦いがなければ私はこうして牧師になりそしてイエス・キリストを主として信仰する事を強く感じる事はなかったことでしょう。

 

神が与える試練とは、私達を殺すものではなく生かすものなのです。

 

イザヤ書の55章9節にはこうあります。

 

皆さんどうぞ開けて下さい。

 

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・

 

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

 

神の思いと人の思いは違い、私達には神の思いが分からず試練に耐えられないくらいに疲労し、そして路頭に迷いそうになりそして倒れそうになる事があります。

 

けれども、皆さんこの10節・11節をよーく見てみて下さい。

 

 

 

10節「 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

 

 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

 

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

 

ここが私達クリスチャンが最も知らなければ箇所の一つだと私は思います。

 

私達は神の思いが分からなさ過ぎて信仰が弱り枯れていくように思い、神を信じれなくなるくらいになりますが、しかし神は私達にパンを与え、成功させると言われるのです。

 

もし、この御堂に集まる方の中に信仰の戦いをされている方がいるのでしたら、この御言葉をどうぞ覚えて下さい。

 

そう、私達の今の戦いは私達に希望を与えそして成功させるものであるのです。

 

いいですか?

 

私達は信仰の戦いをしているときこそ聖書の御言葉によって立ち生きなくてはならないのです。

 

今日のダビデもこれは、信仰の戦いです。

 

自分の兄弟たちに信じてもらえず、逆に現実的な兄たちから「やめろ」と反対され信頼されなかったダビデは、それでも神の言葉に立ちそして戦いに挑んでいく。

 

ダビデはまさに聖書の御言葉によって立ち生きていくのです。

 

私達もまず、聖書の御言葉に立たなければなりません。

 

自己啓発的な本を読むのもいい。

 

人生の書をみるのもいい、

 

人格診断のような本を見て男女の違いを見るのもいい。

 

血液型の本をみて性格判断を楽しむのもいいです。

 

けれども、私達クリスチャンはまず聖書の御言葉にたってほしい。たってください。

私達クリスチャンが聖書の御言葉に立たないでどうしてこの厳しく・残酷で闇で覆われているこの世と生き抜く事ができるでしょうか。

 

私達クリスチャンが聖書の御言葉に立たないでどうして冷たいこの世と戦いそして勝利し希望を得る事ができるでしょうか。

 

どうぞ、御言葉にたって下さい。

 

神は私達に「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と御言葉を通して教えてくださっているのです。

 

聖書の御言葉をただの理想だろ?という人がいます。

 

また、「聖書の御言葉は理想です」教えた牧師もいます。

 

違います。

 

御言葉は実現可能なものではなくすでに実現した神の言葉なのです。

 

それはイエス・キリストにおいて実現されました。

 

勿論わたしたちの中には原罪、罪が存在するが故に、私達は完璧ではありません。

 

聖書の御言葉を読んだ際、今の自分には難しい思うこともあり、

 

そこから聖書の御言葉は理想であると思いたい事もあるでしょう。

 

しかし、難しいからこそ私達は本当に神に祈りつつ、神に懇願し、イエス・キリストの十字架と復活を思いつつ、考え・行動するべきではないではないでしょうか。

 

聖書の御言葉を理想・理想と言っている人たちにとって聖書の御言葉は、その人にとってすでに生きた言葉ではなく死んだ言葉になっているのではないでしょうか。

 

もし、この中で聖書の御言葉を理想と考えていた人がいるならば、是非イエス・キリストの十字架と復活において聖書の御言葉はすでに実現されたと信じて下さい。

 

そして聖書の御言葉をあなたの中において生きた言葉として受け取って下さい。


しかし、勿論私たちは第二のキリストにはなりえません。

 

私たちがどんなに神に祈り、どんなに最善であるかのような行動をしたとしても、過ちを、罪を犯してしまうことがある、ということを忘れてはなりません。

 

事実、油注がれたダビデすらこの後の、幾度とない聖戦と呼んだ戦争の中ででも罪を犯してしまうのです。

 

しかし、そんな罪深い私達を神はイエス・キリストの十字架の犠牲において罪を赦してくださっています。

 

私達クリスチャンは、そのイエス・キリストが私達の罪のために死なれ、3日後に復活されたことを知っています。

 

これは、私達にとって、どれほどに大きい強みでしょうか。

 

私たちはこのイエス・キリストの十字架と復活によって救われているということを知っており、そしてその栄光を手にしているのです。

 

この栄光を私達が本当に知るとき、他者に分け与えることができます。

 

そう!ダビデが、神の光を知り、栄光を神に帰することによって、強められたあの栄光の光。

 

そして、ダビデが手にしたこの栄光の光が、弱った兵士たちにも与えられたように。

 

伝道者パウロはこう語っています。新共同訳ですが

 

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 

被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、

 

服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

 

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属(れいぞく)から解放されて、

 

神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」ローマ8章

 

私達クリスチャンは、苦難し、その苦難に対して忍耐することがすべての始まりであり、忍耐し続けることができたならば、栄光が受けられると誤解することがあります。

 

でも違います!

 

そうではなく、その全くその逆であって、

 

私たちはイエス・キリストによって救われているということを知っているからこそ、苦難に耐え忍ぶことができるのです。

 

もし、ただ、苦しみを積み重ねるだけであるならば、今苦しみが多いから後から得することが多いと思うようになり、どこかの新興宗教のようにご利益的な損や得で判断してしまいます。

 

パウロは続けてこうも語っています。

 

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

 

見えるものに対する希望は希望ではありません。

 

現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

 

わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」と。(ローマ8章24-25節)

 

ダビデは、少年でありながらも、誰も望まない戦いに進み出たのは、神がすでに栄光を表してくださっていると信じたからです。

 

そしてそのダビデの証しこそが、他の人々を勇気付け、

 

そして今日・この花園教会においても何千年前のその証しが、私達のところにそしてあなたのところまで受け継がれているのです。

 

しかし、わたしはここで皆さんに注意を促がしたい。

 

それはこの物語の中で、ダビデは「この戦いは主のものだ。」といい、聖なる戦い・聖戦と呼び、戦いました。

 

けれども、私達はこの聖書の箇所を使い、すぐに神の名を借りて、聖なる戦いだ、聖戦だといって自分の争いの根拠としてはなりません。

 

この人類の歴史上、「聖なる戦いだ」と語ったり、

 

または「これは正義の鉄槌である」いい、幾度となく争い・戦争が行われてきました。

 

しかし、それによってどれだけ多くの人々が犠牲になり、世界が混乱したでしょうか。

 


私達、キリスト教徒も歴史上、神の名を語り、多くの負の遺産を残したことは確かです。

 

私達は、その負の遺産を知りうる者としての証し人、でもあります。

 

ですから、そんな負の遺産も知りえる私達だからこそ、キリスト教社会が犯してきた過ちを認め

 

また自分自身の行いを反省し悔い改め、まず聖書の御言葉を生きた言葉として受け入れ、神の栄光を知り生活すれば必ず、そこには和解が生まれ、そして他者にその栄光を分け与えることができるのです。

 

そして、どんな苦難にあっても、自暴自棄にならず、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共になくことができるはず。

 

神は、私達を『神の民』という運動体の中に引き入れ、年齢、人種、性別関係なく神の栄光を表すために、証しするようこの世界に召しだしておられるのです。

 

あなたの信仰の証しは、個人的な信仰で終わり、あなたで終わりなのではなく、ダビデの証しと同じように、未来へとそして希望へと動いていく。

 

そう、私達の信仰の証しが未来へと神の希望へと繋がる原動力になるのです。

 

そう、あなたが聖書の御言葉を生きた言葉としたときすでにあなたは救われているのです。父と子と聖霊によって祝福されているのです。

 

それをあなたは信じますか?という事。

 

私の学生寮の物語には続きがあります。

 

廃寮が決まってから4年後、同じクリスチャンの方々の尽力によって寮は存続し、現在は改修工事も行われ綺麗な寮として生まれ変わりそして苦学生を助ける寮としての働きを担っています。

そしてキリスト教精神が培われた学生達が社会へと巣立っていっています。

今年もすべての学生が国家公務員・大企業に就職し、また法科大学に合格し羽ばたいていきました。

 

これからも私達にはそしてあなたには苦難が訪れることでしょう。

 

しかし、そんなときこそ「すでにイエス・キリストの十字架と復活によって救われていると信じて、苦難に耐え忍びたい。

 

そのような信仰が与えられるよう神に祈りそして御言葉を心の支えにしていきたい。

 

あなたの心の支えになる御言葉なんでしょうか。それを是非今・思い返して、そしてそれを生きた言葉として心に受け入れて下さい。

 

私たちはこの事を、心に刻みつつ今週も歩んでいきましょう。

 

お祈りします。

私達の心の中には光がある。


聖書箇所: マルコ10章46節~52節

光は私達にとってかけがえのない存在です。

 

そして光は私達の身近に存在しています。

 

私達は光を通してものを見てものをとったり、つかんだり、光の強さによって暑いと感じたり涼しい・寒いと感じる事ができる。

 

もっと大きな視野で考えているならば私達は光によって生かされている。

 

そう例えば太陽の光。

 

私達の住むこの星に太陽の光が届くからこそ、草木は大地に根をはり、そして大地を潤していく。

 

その草木で潤った大地に動物がすみそしてそれを食べて成長していく。

 

私達人間もその潤った草木の果実や野菜、そして成長した動物を食べる事ができるからこそ、今こうして生かされているわけです。

 

光についてこうして振り返って考えてみると、私達はどれほどにこの光を必要としている存在なんだろうかと思います。

 

もしこの世界に光がなかったとしたらそれはとても恐ろしい事です。

 

光がなければ、植物が育つ事はないし、私達が住むこの星も冷え切って私達は住む事ができない。

 

そう光がなければ生物も生き絶え、そして私達人間も生きてはいけない。

 

光は私達にとってそれほどに身近でそして絶対に必要なものです。

 


私は、最近聖書を読んでいて、改めて神の業の凄さに驚かされました。

 

それはもう有名な箇所にして神が私達に示してくださった業の箇所。

 

創世記の1章のこの節。

 

「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」

 

ここは聖書の一番初めに記されているところなので、教会にいけば必ず目にする場所です。

 

わたしにとってもこの箇所はよく知っていたし、暗記だってできるくらいに読んでいる箇所でした。

 

けれども私は、この神の「光あれ」という言葉を当たり前のように読んでいて、

 

「ふーんそうなんだ。神様はそんな事をしたんだ。へえ~それで・・・」という感じでまるで他人事かのように、なんの関心も持たずにごく最近まで読んでいました。

 

でも、この「光あれ」という神の言葉をしみじみ通勤電車の中で味わった時に、ふと思ったのです。

 

ああなんてこの言葉は素敵でそして力強い言葉なんだろうと。

 

私はそれまで聖書を、そこらへんのマンガや小説などの本と同じように「読書」として聖書を読んでいました。

 

ですから、どんなに聖書の中で神が語られた言葉を読んでいてもすべてが他人事だったのです。

 

そんなあるとき私は聖書が、読み物ではないという事に気付かされました。

 

そして、聖書は読破するものでなく、征服するものでもなく、神の言葉をすべて理解するものでもないという事を知らされたのです。

 

そして、ひとつひとつの聖書の言葉をゆっくりそしてじっくりと深く味わった時にそこにある神の深い愛を知ることができたのでした。

 

「光あれ」

 

この言葉はとても短い言葉です。

 

ですが、この短い言葉の中に神の私達への愛が力強く語られています。

 

神の「光あれ」という言葉があったからこそ私達は今見ることができるのであり、温かさや寒さを感じることができるのであり、そして食べる事ができるのであり、今こうして生きることができているのです。

 

そしてこの「光あれ」という神の言葉が、私達人間が造られる前に言われた事がこれまたすごい。

 

それはなぜか?

 


私達人間は何か作ろうとするとき、

 

「まあとりあえず、まずはじめてみよう」

 

という見切り発車からはじめ、そしてとりあえず作っていくと、駄目な点がでてくるので、そこに反省点を取りあげてそして修正を加えていき作り上げていきます。

 

でも神様は違う。

 

人間をとりあえず作ってみたけれども、この環境では人間は生きていけないみたいだから、これを反省して光を作ろうと言われたのではないのです。

 

神は私達を造る前にすでに私達の事を思いすべてを供えてくださったのです。

 

皆さん、これはとても凄い事だと思いませんか?

 

神は私達人間を創造する前から私達の事を思いそしてそのためにすべてを準備してくださっていたのです。

 

私の為に、そしてそうあなたのために。

 


でも私達は、それが身近にありすぎるとそして当たり前すぎるとそれは凄い事とは感じなくなるし、神に感謝もしなくなるようです。

 

そしてしまいには自分の身に苦難が訪れると「神は私になにもしてくれない!」と私達は神を罵り、

 

そして最終的には神の存在をも否定し、そして

 

「すべて自分がやってきた」

 

「自分だけの力で今までやってきたから今があるんだと!」

 

とおごっていきそして自分、自分、すべてが自分となり、いつしか他者を傷つけていく。

 

私はこの事を考えるとこれが原罪なんだな~と思います。

 

これは私の心の内にもあるし、そして皆さんにもそしてあなたの心の内にあるのです。

 

そう、あなたの中に罪は存在するのです。

そして私達の内にある罪はサタン・悪魔の誘惑によって益々増長されていきます。

 

その増長された罪は、憎しみを生みそして他者を傷つけ、自分をも破滅へと導いていき、私達の体をむしばんでいきます。

 


でも私達はだからと言って落胆してはいけません。

 

どうぞ、思い起こしてください。

 

私は、そして皆さんはそしてあなたはこの世の人とは全く違うものをすでにもっているし知っているではありませんか?

 

そうそれは、神様の短くしてそして奥深く、私達への絶大なる愛である

 

「光あれ!」

 

という神の福音の言葉を。

 

そしてイエス・キリストの十字架と復活と言う現実たる事実を。

 

そしてそのイエス・キリストを信じますという告白を。

 

これらの神の福音は、私達にとって唯一にして且つ最大の武器なのです。

 

これがイエス・キリストを信じる私達の大きな強みであり、この世においてのそして最大の敵である死に対しての最大の武器であり、勝利なのです。

 

その意味で、今日朗読したマルコの福音書にでてきる目の見えないパルティマイとイエスとのやり取りは、私達クリスチャンにとっては福音をそして信仰の意味を再確認させてくれる箇所であり、

 

また、まだ洗礼を受けてない方々にとっては、

 

「イエス・キリストを信じたい」と思わせるようなそんな信仰の力強さを知る事のできる箇所と言っていいでしょう。

 

このパルティマイという人物は目の見えない人であったと聖書には記されています。

 

私達、目の見えている者にとって目の見えない人の苦労は想像がつかないくらいに大変なものだと思います。

 

勿論その全貌はわからないけれども、当たり前の事が当たり前でなくなったときの事を経験している人であるならば、その目の見えない方々の苦労が少しは垣間見れるかもしれません。

 


目の見えるものにとって、想像もつかないような苦労をされている目の見えない方々の目が、見えるようになる。

 

これはどれほどに凄いことなのか。

 

私達は実体験ではそのような現場に居合わせる機会がないために想像する事ができませんが、その様子この聖書から私達は知ることができます。

 


この目の見えないパルティマイという人物、道端で物乞いをしているときに、

 

イエスがここを通られる事を知ると、声いっぱいにイエスに対して叫んだとあります。

 

「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください」と。

 

何度も何度もイエスに対して叫んだというのです。

 

多くの人々が叱って黙らせようとしてもそれでもパルティマイは叫び続けたのでした。

 

この多くの人々が彼を叱りつけて黙らせようとするくらいですから、それはもうこのパルティマイはイエスに会うのに必死で大きな声で叫びまくったのでしょう。

 

そんな様子がここから浮かび上がってきます。

 

これまで目の見えないことで苦労をしてきたパルティマイにとって、イエスという人物はまさに自分がしがみ付いて離さないくらいに求めていた人だったのでしょう。

 

そうパルティマイにとってイエスこそが光であったのです。

 

当時の社会で、障害者になる、また障害者として生まれるというのは今の社会よりももっともっと難しいものでした。

 

なぜなら障害者になったということ事態がすぐに死に直結するからです。

 

障害者になるという事は災いがその子に降りかかったと当時信じられていたし、親も家族、親戚もそう思っていたのです。

 

そして誰も障害者に手を差し向けない・助けない社会でした。

 

また障害者になる事自体が罪だ言われ、社会から除外されたのです。

 

そんな障害者にとって行くべき道はただ一つ。

 

それは物乞いになるという事。それが唯一の選択肢だったのです。

 

これはまさに生き地獄でしょう。

 

勿論、目が見えないという身体的なショックも計り知れないものだと思います。

 

でもそれ以上に、それを取り巻く人間社会自体が腐っていた。

 

障害者を人間社会から除外し、この世に存在してはいけないようなものして扱う。

 

そんなむごい現実を人間社会がパルティマイに与えていたのです。

 


私達は、よく

 

「なぜ神はこんな事をするのか。なんでこんな状況になってしまうのか」と言ったりまた状況に遭遇します。

 

でもよくよく考え、聖書から私達人間の内なる所をヒモどいてみると、私人間自体がそのような状況を作っているのに気がつくでしょう。

 

それは、私達の内には日常生活において不安を抱える事がひとつにあります。

 

最初は小さい不安だけれど、私達はその不安を持ち続けていくと私達の心でその不安はどんどん成長していき、そしてその不安は自分自身では制御しきれないくらいに大きくしていってしまうのです。

 

神が不安という暗闇を作り出すのではなく、私達自身が不安というものを作り出し、大きくしていく。

 

そしてそれを持ち続けると恐ろしい暗黒として変わっていってしまうのです。

 

それは友人関係や夫婦関係、そして家族の中にでも起こりえます。

 

友人に対して、「あの人は僕の事を私の事を、よく思っていないのでは」という不安が生まれれば、その不安はどんどん成長していき、最後には友人が恐怖の対象へと変わっていくのです。

 

そしてそこから得る結論は、「もうこいつは信じられない」というものになってしまい友人を傷つけたり事件を起こしたりしてしまう。

 

また夫婦において考えてみるならば、

 

「あいつは、俺にそして私に隠れて何かやっているのでは?」

 

という不安が生まれれば、その不安は、相手を疑いへと導く。

 

そしてそこから得る結論は、相手を支配しようという家庭内暴力につながっていったり、そして夫婦関係を崩壊させていくのです。

 

また子どもを持った親が

 

「これから社会はどうなっていくんだろう」という不安を持つならば、

 

その不安は、将来への希望を見えないようにしてしまいそして絶望を生ませるのです。

 

そして、

「社会が不安定でこの家族が路頭に迷うならばその前に、みんな殺して自分も死のう」

 

と無理心中を考え、そして実行してしまう。

 

また、ある国が

 

「あの国はわたしの国をよく思っていない」という不安を持つならば、

 

「攻められる前に攻めなければ」、戦争をはじめるのです。

 

これらの話は大げさな話でも空想物語でもありません。

 

これは現実世界ですでに起こってしまっている出来事なのです。

 

私達は、不安と言う暗闇を作り出しそしてその不安によって人と人の間に境界線を作り、そして国は国とで国境をつくる。

 

そしてひとたびその境界線を越えたら争いがそして戦争が行なわれる。

 

これが私達の今の姿です。他人事ではありません。私達の不安こそが今の社会をそして世界を作ってしまっているのです。

 

なのに私達はそれが自分の身に降りかかり自分の心が暗黒へと変わると

 

「なぜ、神は何もしてくれないんだろう」

というのです。

 

でも、思い出してほしい。

 

神は一番初めに何を造られたのでしょうか。

 

そう神は光を造られたではありませんか!


私達はその事実を、不安と言う暗闇で多い尽くしてしまう故に、その光の存在を忘れてしまっているのです。

 

この2008年も半分以上が過ぎましたがこの2008年だけ見ても残酷な事件、争い、戦争がありました。

 

私達はそのニュースを見ると「なぜ?」と思いますが、これは私達から生まれた不安という暗闇の結果なのです。

 

人はよく事件を起こした犯人、戦争を起こした人々を悪魔と呼びます。

 

でも、カール・バルトという神学者は、こういいました。

 

「悪魔になる人間はいない。人間は悪魔的な存在にはなるが、悪魔ではない」

と。

 

そう私達人間は、悪魔として生まれてくるわけではありません。

 

神は私達を悪魔として作られはしないのです。

 

それはなぜか?

 

それは、神は私達を造られた時にすべてが良いと言われたからです。

 

私達は生まれながらにして悪魔なのではなく、私の中にあるそして皆さんの中にあるそしてあなたの中に不安という暗闇が恐怖の暗黒へと変わっていき、

 

人間を悪魔的な存在にしてしまいそして自分を傷つけ、他者をも傷つけていくのです。


この今日の箇所にでてくるパルティマイもそんな私達が持つ不安以上の不安を持っていたことでしょう。

 

なにせ彼の時代の社会は、障害者は物乞いにしかさせないという時代だったのですから。

 

しかしパルティマイはそんな中にあってもほかの人と違ってました。

 

そう彼は目が見えないにも関わらず何が光であるかを忘れていなかったのです。

 

弟子たちですら忘れてしまっていた光を。

 

今日の聖書箇所の前を少し見てみると、そこには弟子たちがイエスに対して自分を高い地位を置いてくれるように頼む場面がでてきています。

 

この聖書の構成にはいつも私は驚嘆させられるのですが、この対比、皆さんならどう思われるでしょうか。

 

弟子達は高い地位をイエスに願い、一方の物乞いで目の見えないパルティマイは、イエスに「自分を憐れんでください」と願うこの対比を。

 

また弟子達はイエスに高い地位をイエスに願うとき「先生」と英語で言うteacherと呼んだのですが、一方のパルティマイはここでは日本語では「先生」となっていますが原語では「わたしの主」と呼んでいるのです。

 

ここにパルティマイの信仰の深さがうかがえます。

 

弟子達はイエスを先生と呼び、一方の物乞いで目の見えないパルティマイが

イエスをわたしの主と呼んだ。

 

そうパルティマイにとってイエス様に出会うということは彼の人生の中で一番のチャンスだったのです。

 

それはただ目が見えるようにしてもらいたいという事だけではありません。

 

パルティマイが目を見えるようにしてもらってから後に、イエスに従って歩んだという事からもその事がよくわかります。

 

「この私の心のうちにある不安の闇に光をさして取り除いてくださるのはイエス・キリストただ1人しかおられない。」

 

と思ったからこそ、人に邪魔されようが、黙るようねじ付されようが、必死にイエスを求めそして必死に叫んだのです。

 

「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください」と。

 

イエスの近くにいた弟子達は、光を身近で見て感じていたのに当たり前すぎて実は光に気付いていなかった。

 

けれども一方のパルティマイは、目の見えないそして社会で無価値と思われていたけれども、闇を切り裂き、勝利をもたらし愛で包んでくれる優しくそして真実の光を知っていた。

 

この聖書の出来事、あなたは今どう感じられるでしょうか。


あなたの心にはすでに神が光を与えてくださっています。

 

それにあなたは気付けますか?

 

そしてその光が私達の不安や恐れや恐怖を打ち壊し、私達の心にある不安が生み出した境界線を取り除き、神の愛で満たしてくださる事を信じますか?

 

そしてその光がイエス・キリストである事を信じますか?

 


心の扉をコンコンと叩いておられるイエス・キリストの光を迎え入れるのはあなた自身です。

 

クリスチャンである方もそうでない方もどうぞもう一度、イエス・キリストの光を心に迎えそして灯してください。

 

神の光をすでにもっているあなたならば、イエス・キリストの灯を迎え入れたときもっとあなたの心は光り輝きそしてその光に心が暖かくなるはずです。

 

そしてその温かい心はあなたを最高の笑顔に変えそして、友人、家族、夫婦、そして他者を変え、国にひいてはこの星を変えていくはずです。

 

なぜなら私がそしてあなたがこの世に生まれたきた意味は、パルティマイと同じようにイエス・キリストの火に出会い、

 

そして心に灯しイエスに従い、この世の人々にあなたの最高の笑顔を届け、不安に陥っている人々に

「あなたは光をすで持っているんだよ」と気付かせ、

 

そしてイエス・キリストの光を灯してあげるお手伝いをすることにあるのですから。

 

これはこの世にあって何事にも変えがたい大きな喜びです。

私達がその事を思い、この世へとでかけていく時、イエス・キリストは私にそしてあなたにこう語られることでしょう。

 

「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と。

 

皆さんに主の祝福がありますように。

 

祈ります。

子ども達に伝えたい

あなたは何を中心に置きますか? (創世記19章1~29節、詩編19篇10節)

 

今聖書箇所を読みました。

 

ここにでてくるソドムという町はどんな町だったんでしょうか?

 

ソドムの町は、自分と違う人。

 

例えばお客さんを招かない町だった。

 

自分とは違う人を嫌いそしていじめ、暴力をふるったんですね。

 

人はみんなそれぞれ違うはずなのに自分に合う人しか好きにならなかったんです。

 

このような行為をするソドムの町の人たちを見て神様は深く悲しまれました。

 

しかも、神様の言葉を信じる人が10人もいなかった。

 

そして、アブラハムの親戚のロトさんが

 

「ソドムの町がなくなっちゃんだよ、逃げてくれ!逃げたほうがいいよ」

 

と、自分の親戚に訴えても・・・・ロトさんの親戚からはこういう答えが返ってきます。

 

「ソドムの町が滅ぼされる?そんなことがあるわけないじゃないか?ばっかじゃないの?」

って。

 

そう誰もロトさんの事を信じてはくれなかったんです。

 

誰にも信じてもらえない。

 

 

これほどつらい経験はありません。

 

私も小学校のある出来事を今でも覚えています。

 

それは、算数の授業で、割り算の宿題をみんなで答え合わせするというものでした。

 

例えば

 

「6÷3は2です。どうですか?」

 

とみんなに尋ねるんです。

 

それが合っていたらみんなで

 

「あってまーす」

 

と叫び、間違っていたら

 

「まちがってまーす」

 

というものでした。

 

僕の席の前の人たちが

 

「どうですか?」

 

とその宿題の答えを言っていくとみんなが

 

「あってまーす」

 

と声をかけていました。

 

そして僕の番がきた。

 

そして私も答えをいいました。

 

「●は●●です。この答えはどうですか?」

 

って。

 

 

すると、みんながいっせいに「ちがいまーす」

 

と叫んだんです。

 

 

私は自分の答えに自信があったので、

 

「まちがっていないよ~」とみんなにいうと、

 

「そんなわけないじゃん」

 

「お前がまちがっているよ」

 

といろんな人が私を攻撃してきたんです。

 

 

でも結局、僕の答えがあっていた。

 

 

この意味、わかりますか?

 

 

人は勝手なんです。

 

 

私も勝手、そしてあなたも勝手、み~んな勝手なんです。

 

 

私達人間は自分たちの答えが間違っているのに、

 

人数が多いから「俺たちは正しい」んだと決め付ける。

 

 

今日の聖書にでてくるロトさんも同じような状況におかれました。

 

 

神様の正しい言葉をみんなに話したのに、みんながロトさんがウソを言ってるよと思って決め付けたんです。

 

「そんなのあるわけないじゃん!ばっかじゃないの?」

 

と言って・・・。

 

人は、間違っているのに自分と同じような人たちがたくさんいると自分もそうなんだと信じちゃいそうになります。

 

でも断言しましょう。

 

 

この世界にあって一人を除いて正しい人は誰ひとりいません。

 

じゃあ正しい人は誰でしょう?

 

それはイエスさまです。

 

そしてイエス様の事が書かれているこの聖書が正しいんです。

 

みんなは誰の事を信じていますか?

 

友達ですか? 親友ですか? 学校の先生ですか? 家族ですか? いやお金ですか? ゲームですか?

 

あなたは何を信じてる?

 

友達?親友?

 

 

何を信じているか?

 

これは本当にとても大切な事なんです。

 

最近よく人を殺す事件のニュースが多いですが、あれはなんで起こるんでしょう?

 

それは友達から裏切られたからなんです。

 

親友から裏切られたからなんです。

 

学校の先生から裏切られたからなんです。

 

お金から裏切られたからなんです。

 

だからみんなこの世の世界がめちゃくちゃになればいいと思って、人を刺すんです。

 

じゃああなた自身は信じているものが裏切られたからと言って人を刺しますか?

 

友達から裏切られたら人を刺しますか?

 

親友から裏切られたら人を刺しますか?

 

 

学校から裏切られたら人を刺しますか?

 

 

家族から裏切られたら人を刺しますか?

 

 

お金から裏切られたら人を刺しますか?

 

でもそれは違う。

 

 

神様は「殺してはならない」と言われる。

 

あなたが何を中心に置くかで人生は、変るんです。

 

 

だからあなたには何が正しくて何を中心に信じるのかをここで知って欲しい。

 

 

それは友達でも親友でも家族でも学校の先生でもお金でもありません。

 

 

それは神の御言葉なんです。

 

 

あなたには神の御言葉を是非信じて欲しい。

 

それは神もあなたに求めておられる事だから。

 

神は、あなたを愛しているから、あなたに罪人として罪を重ねて欲しくはないんです。

 

 

どうぞ、いつもあなたが読んでいる聖書の御言葉をもう一度しっかり覚えて信じて欲しい。

 

 

今日、十戒もみんなで覚えました。

 

1.あなたには、わたしのほかにほかの神々があってはならない

2.あなたは自分のために偶像を作ってはならない

3.あなたは、あなたの神 主の御名をみだりに唱えてはならない

4.安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ

5.あなたの父と母を敬え

6.殺してはならない

7.姦淫してはならない

8.盗んではならない

9.あなたは隣人に対し偽りの証言をしてはならない

10.    あなたの隣人の家を欲しがってはならない

 

中学校や高校に行くと万引きブーム的なものが必ずあると思う。

 

「お前万引きしたことないの~」

 

と、友達から馬鹿にされ、自分も万引きをしないといけないような雰囲気になる。

 

でも、そんな自分の心に迷いを感じたら神が「盗んではならない」と言われた事を思い出してほしいんです。

 

そうしたら必ずあなたは誘惑の言葉に打ち勝つ事ができると思う。

 

それは神が共にあなたとおられるから。

 

この世の世界にはいっぱい間違った事が多い。

 

そして友達も先生もお金も私をそしてあなたを裏切るときがあると思う。

 

 

でもそんなときは神様の言葉・この聖書の御言葉を信じてください。

 

みんなが

 

「その聖書の御言葉は違うよ!」と言ってもそうじゃない。

 

正しいのは御言葉なんです。

 

御言葉を信じて生きていけば必ず神様がいつもみんなそばにいてそんな間違いから守ってくれます。

 

そして自分が間違ってしまったとしても、神様は赦してくれるはずです。

 

間違った意見に惑わされそうになったり、友達からの間違った誘いがあったときは必ず神様の言葉を思い出してください。

 

そしてまず神様を第一に信じて生活していきましょう。 

 

お祈りします。

苦難と言うスポットライトを浴びて

祈ってきた事が少しでも実現する。

 

これほど私達に喜びを与えるものはありません。

 

でも私達は今の現実の自分を思うとき、祈りとはなに?と考え込んでしまいます。

 

今の現実を見ると、

 

「祈ったって何も変わらないじゃないか!

 

祈りなんていいから今のこの現実の苦しみを取り除いてよ」と。

 

私達・人間はどうしても苦難に耐え忍ぶ事ばかり思わされていると、その向こうにある喜びを知る・見る・感じる事がなかなかできないでいるようです。

 

しかし、神の恵みは確かにある、祈りによって支えられている自分がいるという事を是非皆さんにしっかりと受けとめてもらい、喜びを持っていってもらいたい。

 

今日の聖書箇所でイエスは、あなたがわたしのために迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい

と言われました。

 

皆さんどうですか?ここを読んだ時・・。

 

イエス様も結構、酷な事を言う人だな~と思いません?

 

だって、迫害されている人たち、苦難にあっている人たちに、私のために迫害されている事はいい事だ!悪口を言われている事はいいことだというのですよ。

 

これが世の中なら、あなたが苦難にあっているのは先祖の霊がおこっているからですよ。とか、

お金を寄付しないからですよとか言って、お金で買おうとするくらいになんとかその苦難から必死に逃れようとするのに。

 

でもイエス様は違う。

 

天には大きな報いがあるから大いに喜びなさいといわれる。

 

こんな事をいうのはこの世の中でただイエス様だけなんだと私は思います。

 

そしてそのイエス様を神の子と信じている私達クリスチャンは、イエス様が言われてることだからと思い、とりあえず御言葉として受け取ってみる。

 

でも私なんかとくに不信仰者ですね~。

 

いざ自分に苦しみがきたり、悲しいことがあると受け取ったはずの御言葉がぽーんと抜けてしまい、

 

「なんでこんな事にあうんだよ!」

 

と叫んでいる自分がいるんですよ。

 

もし、わたしがこの御言葉をしっかりと受けとっているならば、苦難がきても苦しみが自分を襲ってもこれは恵みだと言って、苦難に耐え忍ぶ・背負うことができるのでしょう。

 

でも、人間ってそんな強くない。

 

頭で私達が御言葉を聞いて理解しても、

 

実際に自分の目の前に苦難や苦しみが来たら一瞬で、

 

頭は真っ白になって頭で理解した御言葉なんて吹っ飛んでしまうんじゃないでしょうか?

 

イエスの弟子たちがその象徴的な存在なのだと思います。

 

あれほど、イエス様と共にいて肌でイエス様を感じ、イエス様の言葉に耳を傾けていたのに、

 

そして一番弟子のペトロはイエスに

 

「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」

 

と言っていたのに、

 

結局はイエス様が捕らえられ、十字架にかかったときは、つまずき逃げてしまった。

 

ペトロやその弟子達は苦難が目の前にきたときにそれまでのイエス様が言われたあの、

 

「あなたがわたしのために迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい」

 

という御言葉をすっかり忘れてしまって、目の前にある苦しみから、なんとしてでも逃れようと逃げて逃げて逃げまくった。

 

これが私達の姿なんでしょうね。

 

でもイエス様はその事があったにも関わらず、イエス様から弟子たちに方に会いにこられた。

これこそ神の愛なのでしょう。

 

もうどうしようもない、もうあなたの顔を見ることができない。どうしようもないというときにこそ、神が働いてくださる。

 

わたしにもそしてあなたにも働いてくださる。

 

もうあなたに背いてばかりであなたに祈れない。あなたの言葉を受け取れない

というときにこそ、神はあなたに働いてくださるのです。

ときに、このときの弟子たちはどういう態度を取ったんでしょうか。

 

もしこの弟子たちの中に私がいたらたぶん、目を丸くして顔を赤らめてイエス様の顔をまともに見る事はできないと思います。

 

でも、そんな戸惑う弟子たちに向かってイエス様は、「あなたがたに平和があるように」とそっと神の愛で包み込んでくださいました。

 

そのときの弟子たちの心はきっと雲ひとつない青空のようにどんどん心がはれわたったんじゃないでしょうか。

 

そして弟子達はこの復活したイエス様を見て、そしてイエス様の絶え間ない愛によって、弟子達はそこで初めてイエス様が語ってこられた御言葉を頭ではなく信仰によって受けとったんだと思います。

 

なぜなら、復活したイエスを見てからの弟子達は、どんどんどん変わって、それまで自分の目の前にある苦難や苦しみが悲しみがきたら逃げていたのに、そうではなくなり、イエスの御言葉を胸に果敢に全世界に伝道していったのですから。

 

弟子達に苦難が訪れなくなったわけではありません。

 

逆に、宣教にするにあたって多くの迫害が彼らを襲ったのです。

 

でも彼らは世界に福音を宣べ伝える時、どんな苦難が合おうがいつもイエスの言われたあの御言葉を常に思い出したんです。

 

「あなたがわたしのために迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と。

 

ですから今日私達もこの御言葉を聞くことができるのです。

 

この聖書の箇所は何かの歴史の教科書の言葉ではなく、私達の人生に、私にそしてあなたに神が今、示してくださっている言葉なのです。

 

「苦難を喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と。

 

私も神が示してくださっているこの言葉を胸に「苦難は恵みである」という事を自信を持って言って見たい。

 

けれども、この言葉は生半可な思いで・いい加減な思いで言う事は許されないと私は思います。

 

それは苦難で悩んで悩んで、路頭に迷って、希望を失っている人々が、私達の回りには多く存在しているからです。

 

苦難によってやる気を失い、目標を失った人がいる。

 

苦難によって大きく苦しんでいる人がいる。

 

苦難によって絶望している人がいる。

 

苦難によって死を選ぼうとしている人がいる。

 

人生を捨てようとしている人達が私達の周りにはいるのです。

 

苦難はどんな人にもやってきます。

 

私だけではない。あなただけでもない、この世にあるすべての人間にやってきます。

 

苦難が恵みとだと知るとき、それはただ自分だけが知っていいものではない。

 

『苦難は恵みである』と言えるときにこそ周りで絶望している人、路頭に迷っている人たちに積極的に神の福音を告げ知らせる使命を負うのです。

 

そう、弟子たちが復活したイエスを見て、そして神の愛に触れてその愛に包まれ神によって私は愛され守られているという事を知ったとき、弟子たちがこの世へとでていき、

 

そして自分に与えてくださっている神の愛を、まだ知らない人々に教えはじめたように。

 

苦難が恵みである。この言葉はそれほどに信仰によって御言葉を受け取ったときの言葉でありそしてその言葉は自分では終わらず必ず他者に知らせるときに初めて使える言葉なのです。

 

イエスは、天に上げられる前に、弟子たちにこう語られました。

 

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と。

 

これは私達にも言われていることです。

 

でも私達にはこの御言葉はときに自分とは遠いように感じてしまう。

 

でも今日是非、神の愛があなたに絶え間なくふり注がれている事を知ってほしい。

 

それを知れば、もうどんな苦難であろうとも恐れることはなく、苦難が恵みであると言える日が近づくことでしょう。

 

そしてこの言葉を自分だけでは終わらせたくなくなり他者にこの事を知らせたくなるはず。

 

それほどにこの教会における恵み、そしてあなたに降り注がれている神の恵みはこの世のお金・すべてのものにはるかに勝り、そしてどんな宝石よりも輝いているのです。

 

私達が今こうしているときもすでにあなたには大いなる恵みが神から与えられています。

 

それはなぜか?

 

それはこの礼拝が天の国の先取りだからです。

 

イエスは、「天には大きな報いがある」と言われました。

その天の国の一部をこの礼拝で垣間見ることができる。

 

それはあなたが永遠の命、天の国に招かれているということです。

 

教会は、天の国とこの世とを結ぶ場所です。

 

あなたはその場所に今日来ることができた。

 

つまりあなたは永遠の命へ、天の国への切符を手にしていると言う事なのです。

 

今日皆さんがここにいるのは、あなたのわざじゃない。あなたが決断したからじゃない。

 

神がここにあなたを招いてくださったのです。

 

聖霊があなた方を用いてくださったからここにおられるのです。

 

ですからもう安心して下さい。

 

礼拝にはそれほどの力があります。

 

これまで苦しくて苦しくてたまらなかったけれども、そしてその苦しみがすべてであると思っていたけれども、この教会へとあなたはこうして招かれた。

 

この大変なこの世でよく頑張ってこられました。

 

あとはもう神にまかせていれば大丈夫。

 

神様に任せれば素晴らしいことが必ずおこります。

 

神は今日、あなたに御言葉を与えてくださった。

 

「あなたがわたしのために迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 

これまでのあなたの苦しみはあなたが救われるために必要なものだったのです。

 

そう、あの弟子たちのように。

 

そして、その事に気づいた時、あなたをキリストの弟子として派遣されるのです。

 

恐れる事はありません。神はいつもあなたと共におり、言葉や行動を前もって用意しなくても神がそこで働いてくださいます。

 

伝道者パウロも1コリント1章26節でこう語っています。

 

『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。

 

人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。

 

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。

 

また神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです』と。

 


キリストの弟子として私たちが神の義のために、人生を歩んでいくとき、

 

野球やサッカーみたいに、競技をやっている最中は、この試合がどうなるかわからないと不安を感じストレスを覚えることがあるかもしれない。

 

途中で点を入れられてしまい、ああおしまいだと意気消沈したりしてしまうかもしれません。

 

けれどもどんなに点を入れられても、どんなに点差があったとしても、負けると思ってしまっていても、最後の最後には神の勝利で終わるのです。

 

これが神が私達に示してくださっていることです。

 

ですからどんなに苦難があろうが、困難があろうが必ず勝利で終わり、そして永遠の命という続きがある。

 

そしてそのあなたの苦難がキリストの福音を語り伝える大きな器として用いられるのです。

 

これは神が私達に示してくださっている真実です。

 

私達が勝利で終わることを確信し、今日の御言葉を信仰によって受け止めることができるならば私たちは希望を捨てるはずがありません。

 

あきらめるはずがありません。失望するはずがありません。自ら死を選ぶはずがありません。

 

「苦難は恵みである」と言うことは簡単なことばではありません。

 

けれども、是非苦難の向こうにある神が与える喜び見て、知って・感じてほしい。

 

苦難と言うスポットライトを浴びているあなただからこそ神ははあなたをキリストの弟子として大きく用いられるのです。

 

あなたが信じてここから出て行きさえすればあとからついてきたイエスが必ずなんとかしてくださる。

 

そう信じて出かけましょう。

 

主の祝福があなたがたにありますように。

 

祈ります。




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