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ペンテコステの日に

先週はこの教会学校のお友達で誕生日を迎えた人が2人いました。

これはとても花園教会の私たちにとってとても嬉しい事です。

この世の中にあって誕生日ない人なんて1人もいません。

必ずどんな人にも誕生日はあります。

誕生日はみんなにとってどんな日なんでしょうか。

好きなものがもらえる日?

それともケーキが食べれる日?

家族とお祝いする日?

好きなものを好きなだけ食べれる日?

お金をもらえる日?

友達と一緒に過ごす日?

誕生日といっても人それぞれ色々と過ごし方は違う事でしょう。

実は教会にも生まれた日があるんです。

「ええ~教会に生まれた日なんてあるの~?」と思う人もいるんじゃないかな?

教会ではこの教会が生まれた日をペンテコステと言っています。

ペンテコステとはギリシャ語から来ているんだけど、日本語ではこのペンテコステを聖霊降臨日と言います。

つまり、神様が私たちに恵みを祝福を力を与えてくれる聖霊といわれるものがイエス・キリストを信じていた弟子たちに降りてきた日というなんです。
イエス様が私たちのどうしようもない・どうしようもできない罪を、本当は私たちが罰を受けなくてはならなかった罪をイエス様が身代わりに死んでくださった。

ここでひとつ質問!!

みんなの中で「私はなんて事をしてしまったんだ!どうしよう!どうしよう」と罪を感じている人を見た時に、

「じゃあ、私があなたのその罪のために苦しんで死んであげましょう!」と言える人がいますか?

いないはず。私たち人間にはそれはできない。

ましてや十字架に掛けられて死ぬなんて事はとてもむごい死にかた・・・。

今では十字架は若者のデザインになったりしているけど、イエス様が生きられた時代はそんなかっこいいものなんかじゃない。

十字架につけられた人は即死すること・すぐに死ぬことができません。

刑を受ける者は両手首と足首を釘でうちつけられるんです。

手のひらに釘を打ち付けると手のひらがちぎれてしまうため、手首の骨と骨との間に釘を打ちつける。

そしてその釘を打ち解けられた手首と足首だけで自分の体を支えないといけない。

だからとても激痛が走ります。

そして自分の体を支えられなくなることで呼吸困難に陥って死んでいく。

だから、長引く場合には48時間くらい苦しみ続けないと死ねないというとても残酷なものだったんです。

もし自分が人のために助けて・人のために色々と活動してきたのに、その人に裏切られて逮捕されて、そのむごい十字架刑を受けたらどうする?

多分、先生なら「俺はお前をゆるさない!憎んでやる!恨んでやる!」っていうと思う。

だって助けた人が自分を裏切るんだよ。そう思うでしょう普通。

でもイエス様は違った。ルカ23章34節

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかしらないのです。」

と自分を裏切った人たちに対して神様に赦してあげて欲しいと祈られたんです。

裏切った人たちのためにですよ。

自分は何も悪い事をしていないのに裏切られ逮捕され今まさにむごい殺され方をされている人が、そして自分は激痛なのに周りに人が集まってきて、

「お前は自分も救えないのか?馬鹿だな~」

「お前は他人を救えて自分は救えないのか?」と馬鹿にしている人たちですよ。

そしてイエス様の服を馬鹿にしながらくじで分け合っている人たちですよ。

そんな人たちのために

「神様、この人たちに罰を・苦しみを与えないで下さい?赦してあげて下さい」

とみんなは祈れますか?

先生なら祈れない。

祈れるはずがないでしょ!みんなそう思わない?


でもイエス様はそう祈られたんです。

そして実は、「お前は自分も救えないのか?馬鹿だな~」

「お前は他人を救えて自分は救えないのか?」

と馬鹿にしている人たち、そしてイエス様の服を馬鹿にしながらくじで分け合っている人たちって

実は先生であり、みんなであり、あなたであり、きみなんです。

そう、私たちは罪を持っている。

私たちはすぐ馬鹿にするんです。

でも神様・イエス様はそんなすぐ馬鹿にする先生や・みんな・あなた・・そして、きみのために

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかしらないのです。」

と祈り、そして私たちの罪のために死なれていったんです。

でももしイエス様が死んでそのままだったら、今の現代までこうしてイエス様の事を伝えていってはいなかったでしょう。

そう、イエス様は死んで終わりではなかった。

そう3日目に復活されたのです。

死ぬ事は、私たちにとって絶望・希望も夢もない。嬉しいことなんてない。
ただ苦しい・悲しい・つらいこと。

でもイエス様が復活された事によって、その絶望は希望にかわり、苦しかった事は楽しいことにかわり、悲しかったことは嬉しいことにかわり、つらいことは喜びにかわったんです。

そう、イエス様はいつもどんなときでも私たちの事を一番に考えてくれて、そして愛してくれて、支えてくれてるって事をイエス様は復活を通して教えてくださった。

どんなに先生が・みんなが・あなたが・・・そしてきみがイエス様を馬鹿にしても裏切っても・イエス様はいつでもきみの事を一番に考えてくれて、そして愛してくれて、支えてくれてるんです。

これってすごい事じゃない?

「自分はなんて駄目な人間なんだ。」

「どうして誰も自分の事をわかってくれないんだ!」

「なんでわたしだけにこんな嫌な事があるんだ」

と思っていた自分をイエス様は復活を通して

「きみは駄目な人間じゃない!」

「わたしはいつもきみの事をわかっているし支えているよ」、

「そのきみの苦しみは希望へと変わっていくステップなんだよ」

とイエス様は自分が死んで蘇った事を通して私たちに教えてくれたんだから!


そしてその事をまず知ったのがイエス様と一緒にいた弟子たちなんです。

弟子達はイエス様が十字架に掛けられて殺された際、どこにいたと思う?

弟子達はいつもイエス様に「イエス様のためなら死ねます!戦います」と言ってた弟子たちですよ。

弟子達はイエス様が逮捕されて十字架に掛けられて死んでいくとき、イエス様を裏切って逃げたんです。
「逮捕されたくない!死にたくない!」

と、思って逃げたんです。

そう、イエス様と一緒にいた弟子でさえ罪があった。

でも弟子達は復活されたイエス様に出会って、イエス様はいつもどんなときでも私たちの事を一番に考えてくれて、そして愛してくれて、支えてくれてるだという事を知ったんです。

そして・・・これが今日一番大事なところ!!!

今日ペンテコステの日に、弟子達は神様から聖霊を受けてイエス様がいつもどんなときでも私たちの事を一番に考えてくれて、そして愛してくれて、支えてくれていると言う事を全世界に広めていった日なんです。

弟子たちが約2000年近く前に全世界に広めていったからこそ、2000年後の私たちそしてみんな・あなた・きみに今こうして先生はそのときの出来事を伝えているんです。

これが教会の始まり。

だから、先生はみんなに言いたい。

君たちもこれからその復活したイエス様が教えてくれた、イエス様がどんなときでも私たちの事を一番に考えてくれて、そして愛してくれて、支えてくれてるって事をまずきみが信じて、そしてその事を家族や友達に伝えていって欲しいんです。

先週は初めてバンド演奏をした記念すべき日曜日でした。

きみ達は音楽を通してイエス様の希望を・夢を多くの人たちに与えたんですよ。

きみ達には大きな力がそして希望が夢が神様・イエス様から与えられています。

だからこれからもバンド演奏を通しそして聖書の御言葉を信じ、そして賛美しお祈りしてイエス様を信じていってほしいと思います。

それでお祈りします。

2009年5月30日(教会学校礼拝にて)
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特別伝道集会「新しいいのちに生きる」


講師:酒井勲師(金沢松任教会牧師)
先生は妹の難病と死を通して献身へと導かれる。

松任教会のHPはこちら
http://www.nazarene.or.jp/m...

あなたの心の扉が開かれますように

今日は創世記12章1節~4節。

今日、紙芝居に登場したアブラムと言う人物。のちにアブラハムと名前が変わるのですが、神様から召命・つまり神様を信じ、その神の御言葉に従うこと
これをしたのが75歳だったとあります。

もし皆さんが75歳のときに今の生活を捨て、私の示す地に行きなさいと言われたらどうでしょう。

「いや・・・私はもう年ですから・・」

「そろそろ死に場所を考えないと・・・・」

「この年でなにができるんだ」

と思うかもしれません。

いえ「神様がもっと早く言ってくれたらそれに従えたかもしれないのに」

と思うかもしれません。

ではなぜこのアブラハムは神様に従ったのでしょうか。

彼は神の言葉・つまり聖書の言葉に忠実であった。

私達は、教会に来て礼拝でメッセージを聴いたり、今もメッセージを聞いているわけですが聖書の御言葉であっても、

「いや、それは無理でしょう」「そんなこと言われても・・」

と思ってしまう事があるのではないでしょうか。

でもアブラハムは従った。

それはなぜでしょう。

それは【神様が必ず助けてくださる】。

【神様を本心から信じていた】からではないでしょうか。

人を信じれば裏切られる。

アブラハムも75歳まで生きてきたのだから様々な経験をすでにいっぱいしてきたはずですし、そんな事はもちろんわかっていたはずです。

ましてやアブラハムの時代は本当の意味での弱肉強食。

しかしそんな経験豊富なアブラハムであっても、【神様は絶対に裏切らない】ということを知っていたんだと思う。

【神を信じること】に【神に従うことに意味がある】と知っていたんだと思います。

私達から見たらなんでそんな年になってまでチャレンジャー・挑戦者にならなくてはならないんだよと思うかもしれない。

けれども、神様にとって年齢・性別関係ないのです。

神様の思いは私達の思いとは全く違う。

神様は皆さんひとりひとりに、そしてあなたの時に適った時にあなたに会いに出かけてこられます。

あなたの心のドアをノックされる。信仰のドアをノックされる。

あなたはそのときドアに鍵を閉めてしまうのか、それともドアを開け神様・イエス・キリストを受け入れて共に食事をするのか。


アブラハムは4節に神様に従ったとあります。

アブラハムはドアを開け、神様を受け入れ共に食事をしたのです。

私達にも必ずあなたのときに適った日や時間・状況に神様の御言葉が聞こえるときがあります。

それを拒絶することも否定することもあなたにはできる。

でも、イエス・キリストがヨハネによる福音書14章で

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じないさい」

「わたしは道であり、真理であり。命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」

と言われるように、

あなたもドアに鍵を閉めるのではなく、神様を自分の家に招いて一緒に食事をしてほしい。

それが私達にとっての一番の素晴らしい喜びなのですから。

                                                                                        【5月17日 ママさんの会にて】

感謝って?

皆さんおはようございます!

 

今日は何の日かみんな知っている?

 

そう母の日です。

 

それじゃあ母の日に何をするか知ってますか?

 

そうカーネーションを送りますよね。

 

デパートやスーパーでも赤いカーネーションが売っていますよね。

 

でもみんなはこの母の日がいつどこで、始まったか知っていますか?

 

母の日を始めたのは誰なのか?

 

知っている人いますか?

 

もし知っていたら今日はもう話すことがなくなるんだけど(笑

 

母の日を始めたというよりもそのきっかけを作った人・・・それはアメリカのウェストバージニア州に住むアンナ・ジャービスと言う女性です。

anna.gif





 

この女性は自分のお母さんと一緒に住んでいたのですが、お母さんがなくなってしまい、ひとり寂しい日を過ごしていました。

 

しかし、お母さんが亡くなってから2年後彼女は、自分の行っていた教会で自分のお母さんに

「I love you mom. お母さんありがとう。愛しているよ」と感謝を表し礼拝をしたのです。

 

そしてその時に母の大好きな白いカーネーションを教会で配った。

 

これが母の日の始まりです。

 

白いカーネーションの花言葉は甘さ、純粋、忍耐。

そう母の日はこのキリストの教会から始まった出来事なんです。

 

そしてこのアンナ・ジャービスは5月の第二日曜日が母の日となるよう活動していったのです。

 

知ってました?

 

そして日本でもなぜ母の日が叫ばれるようなったのか?

 

それは第二次世界大戦後、キリスト教会が日本で大きく広まった際、教会では母の日をお祝いしていたので、それが日本全国に広まったんです。

 

先生は今、母の日の始まりをみんなに伝えました。

 

でも、先生ここでふと疑問が生まれました。

 

それは・・・でもなんでこのアンナ・ジャービスという女性は母の日を始めようと活動したんだろうって。

 

別にお母さんにありがとうという気持ちがあれば特別な日なんかいらない。

 

みんなはそう思わないですか?

 

でもみんなここでよく考えてみて。

 

自分のお母さんに対して、「むかつく・うざい・うるさい」と思ったりけんかする事はあるけど、あまりありがとうって言ったことがない自分がいませんか?

 

僕たち・私達って実は、こうして生きているけれども、一番身近な人に【ありがとう!】と思うことより「むかつくな~。うるさいな~。あっちいってよ」と思うことの方が多くない?

 

逆に「うるさい!」と言う言葉を使う事が多くて、あまり心から「ありがとう・感謝しているよ」って言葉を使う事って少ないんじゃない?

 

でもなんでこのアンナ・ジャービスさんは改めてお母さんにありがとう!心から感謝してますって言えたのでしょう?

 

それは、この聖書に書いているからです。

 

アンナ・ジャービスさんはイエス様を心から信じますと決心して洗礼を受けたクリスチャンです。彼女も聖書の御言葉をいっぱい知っていたはずです。

 

みんなが知っている御言葉からいえばいつも読んでいる十戒にもありますよね。

 

「父と母を敬え」

 

そしてここにもあります。聖書を開きましょう。第一テサロニケ5章16節~18節

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

そう聖書には「いつも感謝しなさい」とあります。

 

私達は教会に何しに来るのでしょう?

 

それは、自分達で気付くことができない事に気付くため。

 

知っているようで知らない事を知るため。

 

僕たち・私達は「感謝する」という言葉は知っているけど、その本当の感謝する本当の意味を知らない。

 

でも、今日僕たち・私達は、聖書の御言葉によって本当の意味を知ることができました。

 

どんな時でも感謝する。

 

つらい時だって・泣きたくなる時だって・怒った時だって感謝する。

 

イエス様が神様が僕たち・私達に「感謝」してほしいと言われているのです。

 

例えば、いつまでもいじめられたつらい事を引きずっていないで感謝する。

失恋は泣きたくなるほど悲しい事だけど、ずっと引きずらないで感謝する。

人と大喧嘩したらその人を憎らしく思うこともあるけど、ずっと引きずっていないで感謝する。

 

もし僕たち・私たちにその感謝ができれば、私達の心は青空よりもっと晴れてそして力強く生きていけるはず。

 

どうして先生にそんな事が言えるのか?

 

それはイエス様・神様と一緒にいた弟子たちがそうであり、そしてここにいる先生たちもそのような経験をしているから。

 

そうイエス様・神様を信じますと心から信じて洗礼を受けたから。

 

イエス様が私達の罪のために十字架に架かりそして復活された。それを信じたことによって神様が本当に僕たち私達の事を愛してくださっている事を知って

本当の感謝の意味を知ったんです。

 

今日ここに来ている子の中でこの世界に望まれなくて生まれた子どもは誰一人としていません。

 
・・くんもそう、・・ちゃんもそう、・・ちゃんもそう、・・ちゃんもそう、・・ちゃんもそう、・・ちゃんもそう、今日ここにこれていな・・くんだってそう。

 

みんな望まれてこの世に生まれてきたんです。望まれないで生まれてきた子なんていない。

 

そして君達はこうして教会に来ている。是非みんな今日、君達はこの世の中で必要とされ、必要な人であり、神様から愛されている事を知って欲しい。

 

辛い事があるでしょう。悲しいことがあるでしょう。もう嫌になる事もあるでしょう。でも君達は1人じゃない。

君達は神様から愛され、望まれて生まれてきたんです。

 

先生は、君達が教会に来てくれている事を心から嬉しく思うし本当に感謝しています。

 

だから「みんないつもありがとう。」って言いたいです。

 

先生がこうしてみんなに感謝の言葉を言えるのはイエス様が・神様が・聖書が感謝の本当に意味を教えてくれたから。

 

アンナ・ジャービスさんも神様の御言葉から本当の感謝の意味を知ったからこそ母の日を始めたんだと思う。

 

だからみんなも感謝の本当の意味を今日知ったのだから、帰ったら、お母さんに「いつもありがとう」って感謝の言葉を掛けてあげて下さいね。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

お祈りします。

<5月10日母の日 教会学校の礼拝にて>

私には金銀はない。けれどもわたしにあるものをあげよう。

聖書箇所:「使徒の働き(使徒信条)3章1~10節」


今日は、受難節(四旬節)、またの名をレントという第2週目の主日礼拝です。

受難節(四旬節)・レントの起源は、モーセの荒野においての40年間の生活や、イエス・キリストが断食をされ、その時に、悪魔から誘惑を受けられた40日間から来ていると言われます。 

受難節(四旬節)・レントの期間は、イエス・キリストが復活された日であるイースターまでの40日間、日曜日はカウントしないのですが、灰の水曜日と言われる水曜日から始まります。 

この受難節(四旬節)・レントの期間は、わたしたちに、祈りを強め、また悔い改めて心を開き、神のみむねを従順に受け入れるよい機会を与えてくれます。

受難節(四旬節)・レントの間、わたしたちがたどる霊的旅路は、キリストの死と復活という大いなるみ業を思い起こす準備をするためのものです。

その実現のためには、第一に、神のみことばにより熱心に耳を傾け、さらに、より惜しみなく節制を実践することが必要です。 

節制とは、規則正しく、度を越えた行動を抑えることです。 

こうすることで、苦しみのうちにある人々をより広く援助することができるようになります。 

今日の聖書の箇所はその広く援助するという意味で私達にその援助の本当の意味を知らしめてくれる御言葉と言えるのではないでしょうか。

今日の「使徒の働き」には3人の人物が登場します。

それはペトロとヨハネ、そして生まれながらにして足の不自由な人の三人です。

ペトロについては皆さんもよくご存知だと思います。

ペトロは漁師でしたがイエス・キリストに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、兄弟アンデレと共にすぐに網を捨てイエスにしたがったあのペトロです。

そしてヨハネ。このヨハネは洗礼者ヨハネとは別の人物です。

このヨハネはゼベダイの子ヨハネで、彼も漁師でした。

マタイ福音書の4章18節を見てみるとヨハネがイエス・キリストの弟子になる記述があります。

それによるとペトロとアンデレがイエスに従った後すぐに兄弟ヤコブと共にヨハネもイエスに従いました。

この事からもわかるようにこのペトロとヨハネはイエス・キリストの最初の弟子となるわけです。

この2人の弟子は、イエスが天に上げられた後、聖霊を受けて・ペンテコステでありますがイエス・キリストの福音を多くの人々にのべ伝えたのでした。

この事はイエス・キリストがペトロに言われたあの言葉の実現のひとつの形でもあったのです。

その箇所はマタイによる福音書16章18節から

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」

つまり、ここに登場するペトロ・ヨハネを始め、聖霊を受けた弟子たちがイエス・キリストの福音をのべ伝えていったわけです。

ペンテコステはよく教会の誕生日とも言われますが、聖霊を受けた弟子たちがイエス・キリストの伝えた神の福音を全世界に伝えていきました。

今日の箇所はその教会が建てていくぺトロとヨハネの宣教がここに記述されているのです。

そして登場する3人目は、足の不自由な男性です。

この男性は生まれながらにして足が不自由でした。
70人訳聖書には「母の胎にいるときから」と記されています。

この人の年齢は、次の章4章22節を見てみると40歳を過ぎていたと記されています。

この教会に40代の方はいらっしゃいますか?


そう、いらっしゃらない。じゃあ自分は気持ち40歳かな?と感じている方は?

私はいつも自分の年齢を言うと

「ええ!?まだ20代なんですか?」

とびっくりされてしまいます。

「20代には見えない!考え方が40代くらいに見える」

と言われます。

その事を考えるとある意味、私に近いかもしれません(笑

しかしこの40歳の男性は、身体的には40歳であっても気持ちは違ったかもしれません。

今日の聖書の箇所には【この男性が施しを受けていた】とあるからです。

現代で言えばまだバリバリ働けるであろう年齢の方が、足が不自由であるいう理由から施ししかできない。

今日の聖書箇所からもわかるようにこの男性の日課は「施し」だったわけです。

毎日、毎日「施し」のために神殿の門そばに置いてもらう。
彼にできる事はそれだけでした。

皆さんは施しを受ける方をご覧になった事はあるでしょうか?

私は、あります。

それは、高校のときです。

当時、鹿児島の県立高校はほとんどの学校が修学旅行に海外が選ばれていました。

海外に行って様々な体験をするというのが当時の鹿児島の教育方針だったようで、私の学校はマレーシア・シンガポールに行きました。

その修学旅行の中でマレーシアにあるマラッカ海峡・中東・アジアの貿易を結ぶ大変重要な航路ですが、その船の往来を望める丘が観光名所となっていた場所に行った時のことでした。

その丘はとても綺麗で言われるようにマラッカ海峡が望め、沢山の船舶の往来しているのが見えました。

しかし、私が衝撃だったのはそのマラッカ海峡でも沢山の船舶の往来を見たことでもなく、その観光名所の通り道で1人の老人が手をこう固定させていた姿でした。

最初、何をやっているんだろうと遠めから見ていたのですが、近づいてみるとその手の上にはお金が置いてあったのです。

その老人は全く微動だにせず、手を固定させていました。

私は初めてこの目で物乞いをしている人を見たのです。

私もお金をその手のひらにそっと置いたのですが、私がその老人の顔を見た際、とても衝撃だったのはその老人の目でした。

その老人の目はどこかこの世に自分がいないような・・・・そんな事を思わせる目で、遠くをずっと見ていた目でした。

死んだ目ではないけれど、でも生きた目でもなかった。

私達が「物乞い」をイメージすると、どうしてもこの前のクリスマスに女性会の方が素晴らしい演技してくださったあの「マッチ売り」のように、人の情に訴えながら
物乞いをする人をイメージすると思いますが、

しかし、今日の聖書箇所に出てくる足の不自由な男性のように長年、物乞いをしていると先ほどお話しした老人のように、情に訴える事を越えて

それが何かもう生活の一部となってしまい感情すらあまり持ち得ない状況となってしまっているような・・・・。

今でのあの老人の目は忘れられません。

その事を思うとき、今日の箇所でペトロがじっとこの物乞いをしていた男性をじっと見つめ、「わたしたちを見なさい」と言った事は私にとってとても印象的です。

このペトロの「わたしたちを見なさい」という言葉にはこの男性を人間としてちゃんと認めているからこの言葉が言えるのではないでしょうか。

私が初めてその「物乞い」をして老人の姿を見たとき、そして老人の目を見たとき、あまり良くない言葉ですが、正直「この人は人なの??」

「人間なの??」と心で感じてしまいました。

しかし、ペトロはこの物乞いの男性に「わたしたちを見なさい」と語り、この男性との人間関係を求めたのです。

この日本においても、最近のニュースでホームレスを襲撃する事件が多発しています。

よく捕まった犯人はこういいます。

「なんかうざかった。」、「自分の仕事がうまく行かずイライラしていた」「自分とは同じ人間だとは思わなかった」
と。

ここには、ペトロが求めた人間関係のかけらさえありません。
これは、人間の罪なんだろうと思います。

私達自身が生み出した罪の社会・罪の生活の一つの結果なんだろうと思い知らされます。

私は大学時代・ホームレスの支援活動や炊き出しのお手伝いをしていた事があるのですが、

その炊き出しをしていた時、1人の60代近くの男性が私のところにきてこう言って来ました。

「炊き出しにならんでいるあいつらは、人間のクズだ。あんなくずはいなくなればいい。俺とあいつ達は人種が違う」と。

同じ日本人同士であってもこう人種差別するような日本人がこの日本に存在するんだと改めて知らされた瞬間でした。

同じ日本人だろうが、外国人であろうが、皮膚の違いであろうが、差別意識はそして人間の根底に罪が存在している。

つまり同じ日本人だろうが、外国人であろうが、皮膚の違いであろうが、全く関係なく差別の人間の関係を求めない心を持っている。

ですからこの人間の関係を求めない心は、いつどこでだって起きるのです。

つまり、学校であっても職場であっても夫婦であっても、親子であっても兄弟であっても、そしてそれが教会であっても起る。

そうそれがいつでもどこでも起きてしまうということなんです。

それはどうしてか?

そう、なぜならそれは、私達の中に罪が存在するから。

私達は【人間は人間との関係によって生きる】と言われるにも拘らず、知っているにも拘らずその関係を求めない。

今日の御言葉に出てくるペトロはどうだったでしょうか。

「わたしたちを見なさい」

彼はまさに人間関係を求めたのです。

しかし、なぜペトロにはこれができたのでしょうか。

それは6節を見てみるとわかるはずです。

つまり6節、「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレ・・・」

新共同訳では「わたしには金や銀はないが持っている物をあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

そう、ペトロはイエス・キリストの名によって行動したのです。

ペトロは使徒の働き2章45節にあるように

財産や持ち物を皆で共有していた事から彼自身本当にここで言うように金銀がなかったのだと思います。

普通なら、物乞いをしている人を見たら「相手が求めているものを上げなくては!」と思います。

つまりここで言えばまさに金や銀などのお金です。

ペトロももし、イエス・キリストに出会っていなければ、この物乞いが求めるもののように金や銀などのお金を施そうと思ったことでしょう。

しかし、ペトロは金・銀よりももっと、お金よりももっと尊く・高価なものに最高のものを知っていたのです。

そうそれは主イエス・キリストの福音であると。

ペトロは自身の手紙でこう記しています。

「ペトロの手紙1 1章7節」

彼はそれを知っていたからこそ、必要以上の財産や持ち物は共有していたのであり、自分には必要がないと感じていたのでしょう。

そしてその最高の贈り物を・福音をまさにこの物乞いの男性に与えたわけです。

この奇跡の出来事は私達に一体どのようの意味を与えてくれるのでしょう。

それは、私達もこの物乞いの男性のように主イエス・キリストの福音に触れる前までには目が生きていなかったのに、

この8節を見て下さい。

踊り上がって立ち、歩き出し回って踊ったというではありませんか!

私達も主イエス・キリストの福音に触れれば私達も立ち上がる・生きる勇気が活気が与えられるのです。

そして遂にはこの弟子たちと同じように主イエス・キリストの福音を他者に与える事が許されるということです。


この世界は、お金で動いています。

最近の政治の世界にもお金がまとわりつき、この不景気もお金がからみ、すべてにお金が絡んでいます。

私はここでお金自体を否定するつもりはありません。

今も昔も変わらず人は、お金と付き合ってきているのですから。

これからもそうでしょう。

私自身も先立つもののために平日はアルバイトですが、会社に行き、フルタイム働きそして時には朝から深夜近くまで働くことだってあるわけです。

勿論、少しでもアルバイト代がアップする事は嬉しい事ではあります。
私が働いている会社でもお昼の休憩時間もやはりお金にまつわる話になるわけです。

その会話の中で、社会情勢や会社の話は会話に出てきますが、あまり会話の中に、自分の家庭の事をさらけ出すような内容、ましてや相手の家庭の事情や子どもの事を心配してあげるという内容の話は聞きません。

私達が四六時中、このようにお金の情報を見聞きし、話、悩んでいたら、自分の心がすべてお金になっていくのがわかるような気がします。

しかし、そう考えると教会は違いますね。

教会では勿論見聞きした話など愚痴っぽくなる話もあるわけですが、しかし相手の事を気遣いそしてその家庭の為にその子ども達のために祈るわけです。

ここに大きな違いがあると私は思います。

祈りとは相手を心配する行為ではなく、相手に積極的に関与するという能動的行為なのです。

つまり、とりなしの祈りに代表されるようにペトロが物乞いの男性に人間と人間との交わり・関係を求めたように教会にもそれがある。

交わり・関係のない教会はいつかこの世と同じになってしまうでしょう。

ですから皆さん、日曜日の朝こうしても忙しい中御堂に集まっているのですから是非人間と人間との交わり・関係を求めてもらいたい。

一方が求めて一方が求めない。これでは成り立ちません。

どちらも交わりを求めなければ成立しないのです。

主イエス・キリストはどんな時でも交わりを欠かさない方でした。

ペトロもそれをよく知っていたからこそ彼も物乞いの男性に交わりを求めたのです。

あなたの土台はいつしかお金にまつわるこの世の煩い(わずらい)になっていないでしょうか?

私達の土台はなんでしょう。

それはペトロがここで「ナザレの人イエス・キリストの名によって」と語っているようにクリスチャンの土台はすべてにイエス・キリストなのです。

これはしっかり持って欲しい。そして求めて欲しい。

あなたがそう、求めなければ、土台をイエス・キリストにあると信じなければ何も成り立たないのです。

あなたの土台はお金でも、社会情勢でもあなたの思い煩いでも・あなたの心でも・あなたの性格でも・あなたの気持ち・心境でもない。

ただただあなたの土台はイエス・キリストにあるのです。

イエス・キリストがすべてにおいて私達に答えてくださる方なのです。

私達の土台がイエス・キリストにあるからこそ私達はどんな困難が来ても大きく土台が揺れたとしても崩れる事もブレる事もないのです。

【ペトロの手紙1 1章7節】これが私達の信仰であり、苦難に打ち勝つ力であり、主イエスが私達に与えてくださった福音なのです。

是非その事をもう一度あなたの信仰に刻み付けて欲しい。

そうすれば真の主による交わり・関係も自ずと与えられるはずです。

私はこの一年、会社と教会というものを所謂、両立するような形になりました。

今振り返ってみると牧師と言う立場にありながら社会を知ることができたという点ではメリットはありましたが、聖書に浸るという点では時間が足りなかったというデメリットも知らされた一年であったように思います。

以前ある教会に行ったとき、ある信徒の方が、「牧師は社会経験してから牧師になるべきだ!」と断定している方がいらっしゃいました。

私は色んな経験を通して牧師になられる事はとても素晴らしい事であるし

その経験が必ず賜物として生かされていくと思うのですが、

だからと言って「社会経験してから牧師になるべき」と断定する事はできないと思います。

いいえ、断定してはいけない事だと感じます。

それはなぜか。

それは伝道の書の3章の御言葉にあるように。
この箇所は新共同訳の方がいいので読みますが
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」

と書いてあるからです。

そう、主に導かれ牧師の道を歩むときは私達が決めるのではない。神がお決めになるからです。

これは勿論、牧師になるときだけの話ではありません。

クリスチャンになるときだって、主の祝福に触れるときだってそう、教会にこうして来ることだってそうなのです。

今日の御言葉に出てくる物乞いの男性もそのときだったのでしょう。

でも私達は、ここで大切な事を知らなければなりません。

それは、神は主の福音を知らせるとき必ず神はそこには人を立てて、人を遣わして知らせるという事を。

この物乞いの男性に神が主の福音が知らされたのはまさに人であるペトロの存在がありました。

そう、神は人を遣わして主の福音を知らせそして福音を与えられるのです。

ある人にとっては親であり、ある人にとっては兄弟であったり、ある人にとっては伴侶であったり、ある人にとっては友人・知人であったり。

神は人を遣わし、福音を知らせる。

ここにおられる1人1人もそうであったはずです。

そしてここにおられる1人1人も必ず福音を知らされる者から福音を知らす者へと変化していくのです。

今のあなたは、福音を受けるものだけだと思っているかもしれない。

しかし、それは違う。

あなたは福音を受けるものから、福音を受け続けながらその福音を知らす者へと変わっていくのです、

その時がいつなのか私にも誰にもわかりません。しかし必ず主が与えてくださいます。

信仰と言うのは大きな運動体です。

つまり、あなたのその信仰が次の世代の信仰へと受け継がれていくのです。

そう、あなたはすでにその受け継ぐための要(かなめ)・担い手なのです。

あなたはそれに気付いていないかもしれません。信じられないかもしれません、

しかし神はすでにあなたのその信仰によって他者に福音を与えられているのかもしれません。

ペトロが物乞いの足の不自由な男性をイエス・キリストの名によって立ち上がり・歩くよう命令した際、とても印象的なのはペトロがこの男性の右手を取って彼を立ち上がらせたというところです。

私達もそうなのです。

神が、生きていないような目をした者・弱り果てた者を立ち上がらせる際、ペトロが物乞いの男性の右手をとって立ち上がる手助けをしたように、私達はそのお手伝いを担うのです。

これはこの世にどっぷり浸っている人間には到底与えられない、素晴らしい役目です。

あなたも神の業の一部を担うという重要な役割が与えられるのです。

神の業に関られる事ほど、この世界で素晴らしい事はありません。

私達はお金よりももっと高価でこの世の中で一番尊くそして強い主イエス・キリストの福音をもっているのですから

主イエス・キリストを土台に据え、あなた自身が人間の関係を求めそしてあなた自身が立ち上がり、

そして立ち上がることができたならば今度は自分が主イエス・キリストの名によって他者を立たせるお手伝いをするのだという事を信じていただきたい・歩んでいただきたいと思います。
そうすればあなたの心を支配していたお金やこの世の煩いは消えて平安が与えられるでしょう。

そして真の希望が与えられ苦難に打ち勝つ勇気が与えられるのです。

そしてあなたの目は来るべき神の国を見据えてこの世を堂々と歩んでいける。

主の祝福が皆さんに大いにありますように祈ります。

(3月8日主日礼拝説教にて)

信じることって!?

今日はイエス様がガリラヤ湖という湖に弟子たちとボートに乗り向こう岸に渡ろうとしたときの話です。

イエス様はお疲れになったのかボートですやすや寝ておられました。


そして弟子たちがボートを漕いでいると、突然ゴオオオオーっと嵐になってしまいました。


ボートは揺れて揺れて今にも沈みそうになってしまったのです。


弟子達は恐れて恐れてもうどうしようもできませんでした。


しかし、ふとイエス様を見て見ると、

なんと!!!・・・・みんなどうしたと思う?


なんと・・・すやすや寝ていたんです。


弟子達はそれを見てびっくり!!


弟子達はイエス様に


「イエス様起きて下さい!イエス様起きて下さい!舟が沈みそうです。


私達もしずんでしまうかもしれません」


と、イエス様を起こして訴えました。



イエス様は起きて舟の先端に立ち

「嵐よ静まれ!」

と嵐をおしかりになりました。

すると、それまでボートが沈みそうになるくらいの嵐がスウウーーっと収まったのです。


そしてイエス様は弟子たちに言われました

「どうしてそんなに慌てるんですか?私を信じないのか?」

と言われたのです。



教会ではよく信じるという言葉を使います。

この信じるという事は・・・・


この信じるとは一体どういう事だと思う??


じゃあひとつ実験をやってみましょう!



<ここで、目をつぶってもらい、歩いてもらう>



「どう?見えないってすごく不安になるでしょ?」



「でも、こうして私が、あなたの手をとってあげるとどう??


とても安心するでしょ!?」



そう信じるってそう言うこと!!


見えない中で不安な時に手をとってあげたら、

なにかホッと安心するように、


信じるとは、心がホッと安心するという事なんです。



私達は不安になるときがあります。


でもそんな時だからこそ信じて欲しい。


お祈りしてほしいんです。


先生も、高校のときちょっとやんちゃなときがあったんだけど、

僕のやんちゃの仲間がちょっと弱そうな子をいじめ始めた時、とても不安を覚えました。


中学や高校のときってそれが悪いことであっても周りに

「おまえかっこわるいな~」

「だっせー」、

「万引きもした事ねーの?」、


「お前、あいつをかばうわけ??」

と言われちゃうと、その言葉に負けて自分も悪いと分かっているのについついやっちゃうんです。


そして悪い事を自慢するようになっていく・・・・。


でも先生は声を大きくしていいたい。

それは違う!間違っている!と。


どんなに周りが「おまえかっこわるいな~」「だっせー」、「万引きもした事ねーの?」、「お前、あいつをかばうわけ??」と言ったとしても、


それは悪いこと、やってはいけない事なんです。



今日の聖書のお話の中にイエス様の弟子たちが嵐をみて不安になった場面がでてきます。


弟子たちもその嵐の事ばかりを考えてイエス様を全く見ていなかった。


イエス様がいるにも拘らず「先生、舟がしずんじゃうのに寝ていていいんですか!」

というくらいに不安にイエス様に言ったんデス。


私達も弟子たちと一緒。


「おまえかっこわるいな~」「だっせー」、「お前そんな事もした事ねーの?」、「お前、あいつをかばうわけ??」

と言われたとき、自分がやっていない事に不安覚えるわけ。


そしてその不安を取り除こうと周りがやっているから、自分も悪い事をやってしまう。


でもちょっと待って欲しい。


「おまえかっこわるいな~」「だっせー」、「お前そんな事もした事ねーの?」、「お前、あいつをかばうわけ??」

と言われたとき、不安に思ったとき、イエス様の事を思い出しているんですか?といいたい。



いいえ、是非、そんな不安になるときにこそ、

イエス様僕に私にそれを断る勇気を与えてください!

祈り、そして実行することなんです。


私達にとってかっこいい事は、万引きする事でも・人に迷惑をかけることでもいじめをする事でもありません。


私達クリスチャンにとってかっこいい事とは、神様・イエス様を信じてこれはだめなんだときっぱり断る・やめる勇気なんです。


それが真実のかっこいいこと。


先生もやんちゃ仲間がいじめをした時、とても不安に陥りました。


「お前もやれよ」と言われた。


先生、どうしようっと思った。


そんなとき先生は神様に祈りました。そして「きっぱり断る」をしたのです。


しかし、そのせいで先生は高校で逆にいじめに合いました。


でも今思うと、あのときの僕の決断「僕はいじめをしない!」という決断は間違ってはいなかったと自信を持っていえます。


そしてだからこそ悪い事は悪いことであると間違っていると今みんなに強く言えるんです。


でもこの決断ができたのはイエス様がそばで支えてくれている・

そして教会で悪い事は悪い!間違っている事は周りがどんなにださい!かっこわるい!と言っても間違っている!と教えてくれたから・・・・。


ですからみんなも周りに連れられて間違っている・悪い方向に引き寄せられるときが来ると思う。でもその時にこそ、今日の事を思い出して欲しい。


そしてどんなときにでもイエス様が支え・導いてくれてる事を信じて欲しいと思います。


そうすればさっき目を閉じて不安になったけど、

手をとられて安心したように断れる勇気が与えられ


そして心が安心できる平安できる心が与えられるのですから。

お祈りします。(2009/3/1 教会学校礼拝より)

メッセージ:私は苦労しています。

来週の日曜日は教会暦からいうと使徒パウロの日です。

皆さんもよくご存知のようにパウロはユダヤ人に述べ伝えられた福音を異邦人、つまり私達に福音をのべ伝えた使徒です。

このパウロがいたからこそ、今私達にイエス・キリストの福音がのべ伝えられています。

そんなパウロの異邦人伝道から始まり、多くの月日が流れそして多くの方々の信仰の継承があるため、こんにちこの京都の花園においてもこうして花園教会が建っているわけです。

そしてそこに通う私達がいます。

皆さんはこうして今日も教会に来られているわけですが、私たちにとって教会とは一体どのような存在なのでしょうか。

皆さん考えたことがあるでしょうか。

パウロはこう語っています。

26節「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。」と。

神は私たちを聖なる者たちとなさいました。

その聖なる私たちには、これまで隠されてきた、秘められてきた計画が明らかにされているとパウロはここで語っています。

それでは、その計画とは一体なんでしょう。

パウロは聖書の中でこう続けています。

27節の後半
「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」

つまり、救われた私たちにすでに心の内にそして私たちの人生のうちに,希望のともしびが、かかげていると言うことなのです。

そしてそんな私たちの内にそして人生に存在する希望のともしびはそこにだけ留まるのでなくすべての人の心をも、ともしていくものであるパウロはここで語っています。

それは28節にあるように

「このキリストをわたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」と書いてあるとおりです。

しかし、私たちがこの御言葉を聞いたとき、ハッとしないでしょうか。

私などはこの御言葉を聞くとハッと思わされることがあります。

「それは、ああ俺はできていないな」と。

そう、つまり、御言葉には「あなたはキリストを宣べ伝える者」と書いてある・・・・・。

けれども、自分にはそれができていないと感じるのです。

もしくは、自分の事だけで精一杯であるのに他の人のことを考えることはできないと感じるからかもしれません。

そして私たちはその事を考えると重荷となったりします。

自分なりに頑張ろうと思っても、またキリストを宣べ伝えたいのだけどもそれができない状況におかれている。

このことを学校や家庭や職場でも・それに教会においても経験するかもしれません。

いいえ、もうしているかもしれない。

自分なりに色々試したのに、頑張ったのに、または、なにもしていないと感じる小さな自分がそこにはいる。

皆さんの中にはそんな経験されている方はいらっしゃらないでしょうか。

そんなときに、知り合いや友人や牧師に

「私たちは救われた者であり、この世に派遣されているのです。ですからキリストに生きる私たちを証ししなければならないのです」と言われたらどうでしょう。

友人から、知り合いから、牧師からそんなことを言われたら、

「そんなことはわかってるよ。でも一人じゃ何も出来ないし何も変わらない。」や、「今は自分の事でで精一杯だ。」

と不愉快になったり、反発したり、やる気がなってしまうものです。

今までやってきたのに結果がでなければ、再開することも、容易ではありませんし、自分の事で精一杯であるならば挑戦することも、簡単ではありません。

それどころか、すべてがどうでもよくなり、いやになってしまいます。

そしてしまいには、私たちはクリスチャンであったとしても、聖なる者だとしても失望し、すべてに無関心になり、すべてのことについて疲れてしまうのです。

パウロはどうだったでしょうか、29節を読んでみましょう。

「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」

あの伝道者パウロでさえも、人に宣べ伝えるために労苦しているとここでは語っているのです。

しかし、ここで重要なのは使徒パウロが人に宣べ伝えるために労苦しているという点ではありません。

ここで重要なのはもう一度御言葉を読むと
「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」
とあります。

皆さんにここで質問です。

なぜ私達はパウロが伝道に苦労しているという事を知ることができるのでしょうか。


まあ当たり前の事ですがそれはここに書いてあるからです。

そうパウロが自分で「伝道で苦労している」と書いてあるからです。

そう言い返れば、パウロは苦労している事をちゃんと手紙に正直に告白しているからです。

つまりこれはパウロはこれまでやってきたけど、苦労したと、正直にコロサイの人々に話したからです。

私たちは、結果が伴わない事、恥ずかしいことがあるとすぐ隠そうとします。

「臭いものには蓋をしろ」という言葉のように。

そして、いい結果をもたらすことだけをみんなに自慢しようとします。

皆さん、良く考えてみて下さい。

パウロは使徒として召された存在です。

使徒とは、イエス・キリストから直接伝道しなさいと命令された人々です。

いわゆるイエス・キリストの派遣命令を使命にした人です。

そんな使徒にとって、人々にイエス・キリストを宣べ伝えることは絶対です。

そんな伝道が絶対である使徒が、近況を報告する際普通ならその結果をどう伝えるでしょうか。

この世的に考えるなら、

「今日はこれだけの人が救われました。これだけの人が結果として多くキリストの言葉を聴いて信じたのです。」

と言うはずです。

また、もし結果がよくなかったとしても自分を弁護し、結果を人々に公表せず、良い結果を言おうとするはずです。

どこかの企業のように粉飾決算してでも良い結果を公表しなければと思うはずです。

しかし、パウロは違いました。

自分の事をさらけ出し、こう語ったのです。

「わたしは労苦しています」と。

これはとても勇気のいる事です。

なにせ、イエスから直接派遣命令を受けているにも拘らず「伝道に苦労しているなんて」事を多くの人々に伝えるのですから。

なぜパウロは使徒であるにも拘らずなぜこのような事が言えたのでしょうか!
それは29節の後半にあります。

29節:「このために、わたしは労苦しており、わたしのうちに力強く働く、キリストの力によって闘っています」

つまりパウロは自分の力で行い立つのではなく、キリストの力によって立っていると語っているのです。

パウロは自分がキリストの力によって立っていると確信していたからこそ、正直に自分が苦労している事を語ることができたのでした。

私達はどうでしょうか?

私たちは、クリスチャン・聖なる民であるにも関わらず、自分の力だけを頼ろうとすることがあるのではないでしょうか。

私達は自分の力によって結果が出せなければ、落胆し落ち込みます。

しかし、今日の御言葉にあるように私たちはそうではなく、自分の力で立つのではなく、キリストの力によって立っていることを心に刻みつけようではありませんか。

そして、皆さん今の自分の状態を神に告げてみてください。

私たちも、パウロが「私たちは労苦しています。」言ったように正直に言ってみて下さい。

私達が自分の力で立つのではなくキリストの力に立っていると確信したとき、その後に待っているのは失望ではありません。

神は私達に必要な御言葉を与えて、祝福し、勇気付けてくださるのです

パウロが「わたしのうちに力強く働く、キリストの力によって闘っているのです」といったように。

パウロの前であらわされた神の栄光の希望は、今日、私たちにおいても表されています。

私たちは、栄光の希望を与えられている聖なる者です。

私たちは自分たちの力で立つのではなく、キリストの力によって立つのです。

そうすれば、どんなに労苦していても、イザヤ書40章31節に「主を待ち望む者は新しく力を得、 鷲のように翼をかって上ることができる。 走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

と、あるように私達はキリストの力によって勇気付けられそしてこの世へと派遣され、人々に宣べ伝えることができるのです。



花園教会ってどんなとこ?

主日礼拝:毎週日曜日
10:30~12:00




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