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本当の命に生きる私たち (父の日礼拝メッセージより)

父の日の礼拝メッセージより

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皆さん、おはようございます。

今日は、世間でもテレビでも盛んに大きく宣伝されていますが、今日は父の日です。

この父の日は、教会においても重要な日となります。

現代の日本においてはこの父の日は、なにやらネクタイや壮年グッズを売るための商業的なものとなっていますが、元々は教会から始まった事柄です。

それは1910年のアメリカ・ワシントン州にある教会で行われたとても小さい出来事でした。

その教会の教会員だったジョン・ブルース.ドット夫人という方が、彼女を男手1つで自分をそだててくれた父の事を、父の誕生月の6月に父親に感謝し覚える礼拝を持ってほしいとその教会の牧師先生に依頼したことから始まった。

このように母の日を始めとして父の日もイエス・キリストから習う感謝の気持ちから来ているという事は、同じキリスト者でもある私たちにとっても大変嬉しい事ですし、私たちにとっても大変励まされます。

キリスト者というのはイエスがマタイ5章13節でいわれているように私たちは地の塩であり世の光なのです。

つまり私たちはこの世界においての塩、つまりどんな料理にも必要な味気を出すための塩のように、言葉・行動においても他者や社会において必要な存在であり、そして、この世界の人々の前においても、この世界を輝かす光であると主はこう言われます。

けれども私たちは主イエスからこう言われると、いつもなにか大きな事・人に大きく役に立つこと、そしてたくさんの人を集めて何かこの社会に対してしなければならないと感じてしまう。

そして、自分でそうで「なければならない」膨らませたイメージによって、押し潰されそうになり、「そんな事は自分はできない」と勝手に諦めてしまう。

けれども、それは違う。

私たちはときに、自分勝手に想像した、またイメージした事柄をそれがあたかも真実であるかのように、自分が作り出した幻想によって悩み苦しむのです。

自分で勝手に想像したのに、その想像によって勝手に苦しむ。

けれどもそんなときにこそ、あなたの周りにいる、もしくはこれまでの信仰の先輩、そして弟子やパウロから始まり、先達の信仰者たちの姿を見たり、伝記などを読んでみてください。

なぜなら、そのように想像して苦しんでいるのは実はあなた一人ではないから。

実はみんなそうなのです。

けれども、そんなときに主イエスに出会ったときには人は変わって行くのです。

そう態度や行動に自然と変化が伴ってくる。

それはなぜか。

それはその信仰者が神の真実に触れたから。

そう、それはつまり、それまでは自分の考えた・幻想の中で生きてきたけれども、
主イエスに出会ったことによって、信仰によってのみ生き、神によって自分は動かされていると知る事ができたから。

まさにその意味で今日の父の日というのも同じではないでしょうか。

ジョン・ブルース.ドット夫人は今のように世界で父の日が祝われるなんて事は考えもしなかったでしょう。

彼女にあったのはただ一つ。父に感謝したいという気持ちだけ。

そしてそのような気持ちになった背景には「主への感謝がある」
ここに神の真実を知る要素があるのではないでしょうか。

そしてその神への感謝は、父へ感謝を与え、そして父への感謝の礼拝を教会で始めた事が、100年後の今では世界各国で祝われている。

この事柄は私たちキリスト者に勇気を与えてくれます。

それは私たちが地の塩になる事も、世の光になる事もまず、「主イエスを信じる」という事から始まるんだという事を。

私たちはまず何か大きな事を始めるのではありません。

そうではなくて、まず「主イエスを信じる」事から初めて行く事によって、

そこに神の真実が現れて生き、どんどんどんどんそれは広がっていくのです。

この父への感謝の広がりは、まさにそう言えるのであり、地の塩として世の光として広がっていった一つの大きな例であると思います。


ここで私は皆さんに質問したい。

それは私たちの信仰とは一体なんであるのかというと言うこと。


私たちの信仰というのは、神の、そして聖書のみ言葉によって支えられています。

そして信仰の価値とは、神が、価値を見出すところに存在するということです。

それは逆にいえば、信仰とは、人間が求めるもの、人間が欲する価値・富やお金・権力などから言えば、全くの価値のないもの。

先ほどの父の日の例えでいえば、信仰によって感謝が生まれた。

けれどもこの感謝の価値はと言うと、これは人間の欲する価値・例えば・富やお金・権力、性的な欲求から言えば何の価値もないものです。

もしこの感謝する事が、人間的な価値において評価・そして価値が高いのであれば100年前までとは言わず、もっと前から世界各地で、そして多くの人々の間で父の日というのは実現されていたはずです。

けれども実際には、この父に対する感謝は、それはひとつの教会、ひとりの女性から始まった。

この聖書の御言葉において「感謝」と言う言葉は新改訳聖書では153 新共同訳では187箇所でてくるのですが、

その中でも1テサロニケ5章16節の

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

という御言葉は私たちキリスト者になぜ感謝するのかという答えを教えてくれるし、感謝するという行動へと駆り立ててくれます。

「父へ感謝をしたい」と思ったトッド夫人もまさにまず神の・聖書の御言葉から「感謝」する事への本当の価値を知ったのです。


聖書の御言葉というのは、人間的価値から見れば、全くの無価値のものです。

これが命の糧、自分の人生にましてや命に関ることなのかと、御言葉に出会っていない方はそういわれるかもしれない。

そして私たちの信仰を否定するかもしれない。

「信仰を持ったって実際あなたは苦労しているだけじゃないか」
と。

もし私たちの信仰が、この世にあって人間的に価値のあるもの、

例えば、この信仰をもっていれば人はどうであれ自分は安泰だ・安心だ、
権力も地位も与えられる、

自分は完全・完璧だというものが信仰だと信じるのならば、

「信仰を持ったって実際あなたは苦労しているだけじゃないか」

という言葉に、反論する事はできません。なぜなら苦労しているということは権力も地位もなく、完全・完璧ではないということを示しているから。


けれども、私たちは、私たちの信仰において、私たちが信じる神がどのような方をこの世に送られたのかを知っています。

私たちの知っているイエスはどういう人物だったか?

それは、あの十字架の出来事において、人々は、「他人を救ったのだからもし神の子メシアで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ!」と罵倒した、

けれどもイエスはその人々のために「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

と人々のために、

そして世界のために、罪深い私たちのために執り成しの祈りをし、死なれたお方。

そしてその3日後には、イエスが復活されたことによって、私たちは究極的なもの、限界に達するもの、恐怖するものと考えていた「死」、

その「死」、「死ぬこと」ですら、神の勝利の前には全く力を持たず、逆に神を讃える勝利の出来事でしかなかった。

そう私たちはそのイエスをキリストとし主・神として信仰している。

つまり、私たちは本当の価値を知る事ができている。

そう私たちは、十字架と復活の出来事を通して本当の価値を知る事ができる。

これはパウロが語った22・23節の御言葉。

「すべての人は、罪を犯したので、神から栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」


私たちは、私たちの信仰を否定してくる人に対してはこう言ってあげれば良いのです。

「私もイエス・キリストに出会うまではあなたと同じだった。

けれども主に出会い、御言葉に出会い、私の為に祈っておられる主イエス・キリストに出会った。

人間の価値では、到底わからない、神によっての価値を私は与えられ、神によって正しいものとされました。

ですからあなたにも主の恵みが降り注いでいる事に気づけるようお祈りしていきたい」
と。


あなたは自分の信仰をどうとらえておられるでしょうか?


以前ある方が私にこう質問されました。

それは
「イエス・キリストを心に据えて信仰するとはどういうことかですか?」と

この質問に対しての答えはとても簡単な事です。

それは「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」と言うことを信じるということ。
これだけ。

このたったひと言。

ある方が、キリスト教のイエスの教えは複雑で・わかりづらいし、意味がわからないと言われた方がおられました。

でもそうでしょうか?

「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」

これは複雑ですか?

シンプルじゃないでしょうか

分かりづらいですか

完結しているように思いますが。

めちゃくちゃでシンプルで簡単なことではないでしょうか。

いやいや。。それが実はこの「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」という言葉はなかなか理解できないのが私たちなのです。


そう、実はこのイエス・キリストの教えや福音・神の恵みの理解を難しくしているのはイエスでもなく、聖書でもなく、御言葉でもない。

実は、私たち自身が難しくしているんです。

それは私たちの中に、疑い・恨み・憎しみ・嫉妬・嫌悪・否定・差別など様々な思いのすべてが、このとてもシンプルな神からの福音を難しくしてしまっている。

私たちは自分の育ちや環境、学歴、職業、生活、年収、容姿、老いというこの社会的な取り巻きの中にいるからこそ、純粋な目や耳や肌で御言葉を感じることが非常に難しくなってしまっているのです。

つまり、私たちは育ちや環境、学歴、職業、生活、年収、容姿、老いというのをシャッターに例えるならば、

私たちは自分の心に自然とシャッターを何十も作って、神の福音・恵みという光をシャットアウトしてしまっているのです。

そんな状態で、イエスの教えがわからない・複雑で意味が分からないという。

それは当たり前のことなのかもしれない。

だって自分からシャッターを閉じているのに、どうやったらわかるのでしょう。


ですから私たちはまずは、「イエス・キリストによって私たちの罪が赦された」

という事の本当の意味・価値を知るためには、自分の何十も重なったシャッターを開いていく必要があるのです。

それにはどうすればよいのか。

だからこそ、私たちには聖書の御言葉があり、そして礼拝のメッセージがあるんです。

私たちは御言葉・メッセージによって、そして徐々に徐々に自分の作ったシャッターを開けていくことができます。

この御堂におられる方で、特に洗礼を受けられた方は、自分に合った聖書の御言葉・聖句を持っているのではないでしょうか。

私ならローマ書12章11節「勤勉で怠らず霊にも主に仕えなさい」という御言葉。

私はいつもこの御言葉を胸にしまっています。

もし、この御堂に集まっておられる中で、自分にはこの御言葉だという御言葉がないのであれば、是非自分の御言葉をこの聖書の中から見つけ出してほしいと思います。

もし自分で見つからないのであれば、有名な御言葉集を読んでそこから手にしてもいいですし、人にどんな御言葉あるか聞いたっていい。

重要なのはあなたの心のシャッターを空けることなのですから、そのためにまず御言葉を受け取ってほしいのです。

決まった御言葉なんかはありません。

その受け取った御言葉があなたの心のシャッターを開ける原動力となるのです。

そうつまりそのあなたの受けとった御言葉こそが、あなたを喜びとしての悔い改めへと導き、

あなたの罪が赦されているということ、

神があなたを価値ある者としていること

また、正しいものとされていることを知る事ができるのです。


わたしが今そういったことに対して、「御言葉が原動力という事になるなら、なぜ十字架と復活が重要なのか・必要なのか。」
と思われた方もいるかもしれない。

「先生は、御言葉を受け取れとか、十字架と復活を信仰の中心に刻み込みなさいというけど、一体どれがどれなんだ?」と。


私たちは今、こうして聖書を持っています。

そして私たちはこの聖書にある旧約・新約聖書を読むことができます。

イエス・キリストがこの世界に来られるまで、ユダヤ人にとっては旧約聖書のみが御言葉でした。

ユダヤ人たちは旧約聖書にある預言者たちを通してのみの神の御言葉をよりどころにして自分達が救われる事を待ち続けたのですが私たちは違う。

イエス・キリストがこの世界に来られた事によって私たちは御言葉をよりどころとするだけではなく、そのよりどころとなる根拠を知り、神が直接私たちに御言葉を与えてくださっています。


21節~22節にはこうあります。

そう、私たちはイエスがこの世界に来られた事によって、それまでの聖書の御言葉はただの癒しや慰め、神を待ち望むだけの心のよりどころとして受け取るのではなくて、

私たちが御言葉を受け取るときには、

なぜ慰められるのか・なぜ癒されるのかという事の根拠、

そしてすでに神はあなたを神よって価値あるものであることのイエス・キリストを通して教えてくださり、そしてその証拠・約束を私たちに見せてくださったのです。

だから私たちが御言葉を受け取るときにはイエス・キリストを信仰の中心に据えることなのです。

「じゃあ十字架と復活とは何であるのか」


イエス・キリストを信じ、洗礼を受けるときのきっかけというのはそれぞれ違う、みんな違います。

そして洗礼を受けた後、私たちは御言葉を通して信仰を養っていく。

けれども、私たちと言うのはこの世にいる限り、この世界においての様々な苦しみに遭遇する。
貧困であったり、職につけなかったり、失望したり、失恋したり、嫉妬したり、憎しみをもったり、争いが起こったり、死に直面したり・・・

私たちはそうすると、私たちは一度、心のシャッターを空け、神。イエスを主と受け入れたはずなのに、そのようなこの世の苦しみを受ける事によってまたどんどんシャッターを閉じようとしてしまう。

「神なんかいない。神は私を苦しんでいるのに助けてくれない」「そんな神を信じて意味があるのか」と。

私たちはそのようにして一度開いたシャッターを今度は完全に閉めようとする。

けれども、絶対に阻止しようとするのがまさに十字架と復活にある。

25節・26節にはこうあります。ここは新共同訳の方が良いので新共同訳でお読みします。

「神はこのキリストを立て、その血のよって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義が示されたのは、ご自分が正しいかたであることを明らかにし、イエスを信じる者が義となさるためです」

私たちはキリスト者として神を信じる者となったのに、この世界の惑わしや誘惑によって神との関係を閉ざそうとする。

けれどもコレに対して神は、ここで神との関係を閉ざせば滅びしかない、

そうであってはならない、

あなたは滅んではならないと、私たちが閉じようとするシャッターを、閉じさせてなるものかとイエス・キリストの十字架と復活によって、あなたの心のシャッターが閉じないよう支えとしているのです。

それも私たちが望んでいるのではなく、神の方から一方的に。
私たちは、苦しいから、もうこんな信仰は嫌だから、もう疲れたから閉じたい・もう閉じたいと望む。

けれども神はあなたは滅んではならない。あなたは滅んではならないとイエス・キリストをあなたに送られたのです。


実は私たち・キリスト者はこの世界において苦しい時に、危機的な状況にあるときにこそ、それまで見えなかったものが見えてくるんです。

つまり、希望の光が。。

実は病んだ時、苦しみにあるときにこそ十字架と復活の出来事というのは私たちにとっての大きな癒しとなり勇気となるのです。

勿論、私たちはそんな事をしてまで、苦しみたくないし、そこまで痛い思いや病んでまでして、十字架と復活なんて知りたくないと思う。

けれども、この苦しみや病む事は、イエスを信じなくたって十字架と復活を信じなくたって私たちを襲ってくるのです。

私たちがこの罪ある社会に私たちが存在している限り。そしてそんな苦しみの社会を作った私たちの罪がある限り。

私たちは何か勘違いをしてしまっている。

それは「信仰を持ったからこそ苦しみを受けているんだ」と


でも十字架と復活の出来事というのはそうじゃない。

信仰を持ち、私の罪は赦されたという十字架と復活の出来事を知っているからこそどんな苦しみ・病がきたとしても、それに対処でき、希望が持て勇気が与えられるのです。
   
だからこそ、私は十字架と復活の出来事を、信仰に刻んでほしいと何度何度も語らせていただいています。

イエス・キリストの十字架と復活を信じることなしに、自分自身を心から信じよう、そして人を信じてみようという勇気は与えられません。

私たちは「神がまず私たちを信じた事を十字架と復活の出来事を通して知る事ができるからこそ、本当に心から自分をそして人を信じてみようとすることができるのです。

今あなたは神に対して病んでいるかもしれない。

神なんて信じられないと思っておられるかもしれない。

けれどもあなたにとっての分岐点でもあります。

神の癒し・勇気への分岐点・分かれ道。

是非とも今こそあなたの罪が赦されたことを証明されたイエス・キリストの十字架と復活を信じ歩んでいってみて下さい。

そうすれば必ず神への真理の道が見え、あなたの信仰が癒され、段々と日々自分が新たにされていく事を感じることができるでしょう。

それはまさに第二コリント5章17節の御言葉の実現です。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
ふるいものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

あなたが日々新たにされるか、ここがまさにあなたの正念場・そしてチャンスでもあるのです。

どうぞ、十字架と復活の出来事をしっかりと掴んでください。

信仰に刻んでください。

あなたが十字架と復活を信じていくとき、そのときには必ずイエス・キリストがあなたの信仰に迫ってくる。

そしてあなたは新しくされるのです。

主の祝福が大いにありますように祈ります。
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義とは一体私たちにとってなんであるのか(礼拝メッセージより)

皆さんおはようございます。

先週は待ちに待ちそして祈りに祈ってまいりました50周年の特集でした。

講師に広島・呉教会から日本ナザレン教団理事長 松田基子先生をお迎えしての特集でした。

当日はあいにくの雨、しかもどしゃぶりの雨にも拘らず多くの方々がこの教会へと足を運んでくださいました。

しかも新しい方や久しい方も来てくださった。

私にとってこの出来事は嬉しいだけでなく、神の業だなあと本当に思わされた出来事でした。

よく選挙などでも雨が降ったら投票率が落ちるといいます。

週間予報を見て、当日は大雨が降ると聞いていたので心のどこかで難しいかなあと思っていました。

けれども、私の思いと主の思いは違っていた。

ふたを開けたらとても素晴らしい特集となっていました。

やはり、人の業ではないなあと感じます。

松田先生にとっても大変、こんな言い方は少々変ですが、のびのびできた特集だったとおっしゃっておられました。

先生は理事長という事で各地を回っておられるわけですが、その中で花園教会はのびのびできたという事ですから先生からの最高の褒め言葉ではないでしょうか。

また、花園教会は呉教会と似ており、親近感を持たれたようです。

夫婦で同じ教会に属しそして共に毎週礼拝へと足を運ぶ。

これは当たり前のようで中々当たり前ではないのです。

その意味でも大変この教会は祝されていると私は思います。


松田基子先生は京都に来られる事は多いようですが、すべて仕事なので観光をした事はほとんどなかったそうです。

けれども今回は宿泊場所も嵐山であった事もとても喜ばれておりましたし、特集が終わった後、先生をお連れして広隆寺と蚕の社をご案内したのですが、興味津々に見ておられました。

なんでキリスト教の牧師が日曜日、ましてや特集の後に、お寺・神社に行くんだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

けれども前任の牧師篠澤忠俊が変わっている様に、私も、、変わり者のようです。

血は争えませんね。

松田先生は、兼ねてより父から景教の話・京都のキリスト教について話を聞いておられたようで、その関連した今回の広隆寺と蚕の社をお連れしたときにはその父の話を思い起こされながら私の説明を聞いておられました。

私も父から色々と指南を受け、父が名古屋にいくときには、私に研究を託すといって名古屋に行きました。

私もまあ色々と落ち着いてきたら勉強してみようかなと思っています。

ともあれ、今度の50周年記念礼拝・特別集会は大変素晴らしかった。

そして、この為にご奉仕してくださった教会員の方々に本当に感謝したい。

そして祈ってこられた方々、その祈りが答えられました。

どうぞ皆さんでこの喜びを共に共有したいと思います。

どうぞ皆さんのご奉仕に感謝の拍手をしましょう。


そしてお祈りによって支えられたことに喜びの拍手をしましょう。


そしてこの特集によって神の御業が現れ、主の御名が高らかに崇められた事を感謝と喜びをもって拍手いたしましょう。


ありがとうございました。


この花園教会創立五十周年、特集は終わりました。けれども50周年のイベントは続いていきます。

そのひとつひとつのプログラムが本当に祝されていくようにまた祈っていきたいと思います。


さて、先週は50周年の記念礼拝と言うことで、松田先生は放蕩息子のたとえから、神の愛についてそして私たちの存在についてメッセージしてくださいました。

松田先生のメッセージは本当に心の中がポッと温かくなるそんなメッセージでした。

そしてその前の週、つまり先々週はどこを学んでいたかと言いますと、ローマ人の手紙から罪の問題についてメッセージいたしました。


先週のメッセージからガラっと変わりますが、この罪の問題は私たちが生きる中において常に付きまとうそして、知らなくてはならない事柄です。

勿論、私も先々週のメッセージでその罪について解決が起こった、よくわかった・解決したなどとは思っていません。

なぜなら私自身においても、これはこの牧会において私にとっても、突きつけられる大変な事柄なのですから。

ですから私も先々週のメッセージを神から与えられたときは、戸惑いましたし、もどかしかった。

そして何か、もやもやしたものがあったのも事実です。

ですから自分自身でも本当に罪を知り、悔い改める事ができたのかというのは疑問として残りました。

けれども、今回メッセージ準備をする中で、神はこの疑問に対して光を与えてくれました。

それは神学者カールバルトの言葉を通してでした。

ドイツの神学者カールバルトはこう語っています。

「自分の罪を知り、その事において自分を悔い改める事は、神から与えられる御業である」と。

そう私たちは自分の罪を知り悔い改めるという事柄は何か自分がやっていることのように思ってしまっている。

けれどもそれは全くの間違いであり、悔い改めとは神が人間に与える最初の基礎的な行為としての神の義なのです。

ですから、ゴッドファーザーの映画のように誰かを傷つけそして、悔い改めの祈りを行い、そしてまたその足で誰かを傷つけるとった類のものは悔い改めではないし、

人からお前は悔い改めなくてはいかんと言われ、人からそういわれつつ罰を与えられるようなものでもないのです。

これは私たちにとって実は目からウロコなのではないでしょうか。

私たちは自分で悔い改めることができると考えてはいないでしょうか。

とあるキリスト教新興団体では、牧師が悔い改め悔い改めと言っているようですが、悔い改めとは、強要する事ではなく、主の恵みにおいて気づくことなんです。

勿論、「悔い改めなさい」と言葉で伝えることもあるかもしれません。

けれども、その言葉が主から与えられた恵みから来た、神から来た義でなければ、それは本当の意味での悔い改めではないのです。

「悔い改めなさい!」

これは言葉として伝わるかもしれない。そして頭では伝わるかもしれない。

けれども、次の瞬間、その悔い改めは全くなかった状態へと戻ってしまう。そう、それはまさにゴッドファーザーのように。。。

悔い改めとは、悔いて嘆いて嘆いて嘆くものではなく、天に喜びを起こす業であり、心からの喜びであるのです。

そう悔い改めとはそれまでの自分の罪を気づき、神によって新たにされるという大きな喜びなのです。

イエス・キリストは例えを通してこういわれています。

ルカ福音書18章9節~15節

この徴税人は誰かに「悔い改めなさい!」と言われて、こうして悔い改めているのではないのです。

この徴税人の罪をあらわにし、そして胸を打って悔い改めと導いたのはまさに神の義。

この後、徴税人はどうしたのか?については聖書は記していませんが、

まさに神が私を憐れんで下さったと知ったときには、同じ徴税人のザアカイと同じように財産の半分を貧しい人々に施したり、

騙し取ったお金は4倍にして返したような行動をしたのではないでしょうか。

そう、悔い改めとは喜びへの第一歩、そして主を信じる者としての永遠の命へと向かう第一の行為なのです。

それをパウロはこのローマ2章4節で語っているのです。

さて、この5月はロマ書から御言葉語っていますが、この1章18節~3章20節まで、罪の事柄についてパウロは語っています。

それは何についての罪であるのか、

先々週与えられた箇所は、異邦人による罪でありました。

「時間的な中で私たちは神の御業を考えそして、適わない時には神から離れ、もうひとつの主人である富へと移っていき、そしていつの間にか自分が神のようになっていく偶像の神となる。」と。

ある方が、このメッセージの後、私にこういいました。

「先生、先生はメッセージの中で、ああ言うけれども、時間的な考えをしない人間なんて誰一人いないんですよ」と。


わたしもそう思います。私だって、そうなんですから。


今回特集に松田基子理事長が来て下さいましたが、今から二年前にも実は理事長はこの花園教会に来られました。

それは私が牧師として挫折し病気療養で、京都に来た後、

牧師として立って神学校から巣立ったのに4ヵ月後には大きな挫折を味わい、神がいないのではと思い、もう牧師をやめようと思っていたときでした。

私はそのときわざわざ花園教会に来られた松田基子理事長に対して、「牧師を辞める」とまで言いました。

けれども今回、主任牧師として立ち、今回松田先生をお迎えした。。。

私にとって振り返ってみるととても不思議な事ですし、先生が理事長になられたすぐ後の教団にとって大変大きな問題となりましたので、今回私は先生に、謝ったのです。

「あのときはご迷惑をお掛けしました」と。

けれどもそんな私に対して松田先生は
こう言われました。

「私はずっと祈ってきました。すべては神がなされていることなんです。だから謝る事はせず、そんな事は忘れてしまいなさい」と。


私にとってあのときは

「神が喜ぶであろう職についたのに、すぐに挫折し、家庭・家族でさえボロボロにさせた神が許せない。信じられない」

という考えでいっぱいでした。

そして私にとっては、それが全てでありました。

それが私の心を、信仰を支配していました。

だから、誰かがそんなときに、「牧師を続けて」と言われたところで、反感を・反発を持つだけでした。。。

ましてやここで、「悔い改めろ」と言われたら大きな反発をもっただけでしょう。
けれどもじゃあ今どうか。

私は牧師としてこうして続けられていることに感謝している自分がいます。

こうしてここの講壇に上がらしてくださっている神に感謝している自分がいる。

あの二年前の思いが嘘のようです。

今回、私が先生に謝った後には、そこにはなにか心に大きな温かい感謝の心がありました。

これは私にとっての悔い改めだったのかもしれない。私はそう感じるのです。

私はこの事を思うとき、ある方がメッセージの後に私に言った、

「先生、先生はメッセージの中で、ああ言うけれども、時間的な考えをしない人間なんて誰ひとりいないんですよ」

と言ったあの言葉に対する答え・光が与えられたことに気づきました。

それは何か?



それは祈り。


そう祈りである。


祈ることであるという事。


そして、ある方が私と同じように時間的な考えの束縛の中で、神を見失っているのであるなら、

もしあなたがそのような方を知っておられるなら、その人のために祈る。

そうあなたが祈ってあげる。

そうあなたが祈る。

そう、その人が祈れない中にあるのなら、あなたが変わって祈ってあげてほしいのです。


これはなんと私たち共同体の大きな強みでしょうか。


これは何物にも変えられない私たちにとっての一番大きな武器。

これが私たちの信仰の源泉。

あなたのその神への執り成しの祈りは、その人がまた自分で祈るときが与えられるときにはとても大きな力となるはずです。

そして自分で祈れるようになるとき、キリストがいつも実は、「私たちが神から見放された、神はいない」
と思っているときでさえも私の隣にいて支えてくださった事を知るのです。

そしてそのときにはどうしようもない自分の罪が明らかにされるけれども、私たちはそこで復活の主に出会い、どうしようもない罪ある私にでさえ

絶え間ない恵みがそして赦しが与えられている事を心から信じる事ができ、

そして主に信頼していくことができるのです。


プロテスタントもカトリックもない、宗派・教派を問わずただ「祈り」を通して主を讃美する「テゼ」という共同体があります。

私もその共同体に参加したことがあるのですが、

この「テゼ」を創設したブラザーロジェ、この方は残念な事に夕べの祈りの会で刺され殺されてしまったのですが

生前彼は祈りの中で知った神の愛についてこう語っています。

「始まりも終わりもない愛のなんと不思議な事か・・・。そしてあなたは思わずこう言っている自分に気づくのです。」

「復活された主イエスは、わたしの内におられたのに、わたしはそれに気づきませんでした。
いつも、どこか別のところにキリストを探していたのです。

わたしの存在の深みにキリストが置いてくださったいのちの泉から逃げている限り、どんなに遠く遠く地の果てまで走り探し回っても、ただ道に迷うばかりだったのです。
どこを探しても、神の内にある喜びを見つけることはできませんでした。

しかし、あるときわたしは気づいたのです。キリストはいつも私と共におられ、決して離れることがなかったと。

わたしは相変わらずそのキリストに声をかけることができませんでした。

しかし、キリストはそういうわたしをすでに理解し、キリストの方からわたしに呼びかけられていたのです。洗礼というのは見えない現存のしるしだったのです。

不安と心配のベールが取り除かれた時、信仰への信頼が訪れ、わたし自身の夜さえも照らすのです」。



ですから是非、祈ってほしい。

パウロは言います。今日の御言葉のローマ2章13節。

新共同訳ではこうあります。
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が義とされるからです」

つまりここでいう律法とは、神のメッセージつまり礼拝における神の御言葉を実行する人が神の前で正しいものとされるということです。


そうそれは今日においては祈りである。そして執り成しの祈りであるという事なのです。


今日のメッセージタイトルは「義とは、私たちにとって一体なんであるのか」となっています。

私たちはまさにこの世にあって、時間的な流れに生きているが故に、すべてを時間的な流れで見、そして神の義つまり、神の正しささえもその自分で勝手に設けた・セッティングした、制限の中でのみ行われると勝手に思い込んでしまっている。

しかも先々週のメッセージではその思い込みは罪へと繋がっていく事を知ったが故に、

また私たちは自分でこの義、つまり自分自身の力で、義と呼ばれる神の正しさを知る事はできないという事を知った。

私たちはその中にあって

「じゃあ一体私たちはどうすればいいんだ」

と私たちは思うはず。


けれどもだからこそ、今日あなたはこの御言葉が与えられたのです。

2章の13~14節

つまり、「祈りなさい」、そして祈れない人のためにあなたがその人のために祈りなさいと。

私たちに与えられている神の義は、祈りと礼拝における神の御言葉においてあなたは知る事ができるのです。

あなたが祈りと御言葉において神の義を知る事ができたとき、

あの徴税人と同じように神から与えられる悔い改め業が現れ、

そして私たちに与えられた十字架の赦しと復活の喜びをあなたは知る事ができるでしょう。

キリストはあなたの傍らにいつもおられます。

なぜなら主イエス・キリストは、あなたがキリストを信じるときでも、信じないときでも、あなたにとってのキリストであり、

またキリストを信じるもの、キリストを信じないものにとっても、主イエスはキリストであるのですから。


どうぞ、あなたにとってはキリストを信じるものとなってほしい。

なぜなら

主イエスを信じない。そうすればあなたもあなたの家族も救われると聖書に書いてあるからです。

主の祝福は皆さんにありますように

祈ります。

花園教会50周年記念特集

花園教会は今年で創立五十周年を迎えました。


今年は日本ナザレン教団理事長をお迎えしての記念礼拝でした。

現ナザレン教団に理事長は、女性の理事長で、日本ナザレン史上初めての女性の理事長です。
現理事長は、広島・呉教会の牧師先生で、女性と言うことできめ細やかでとても優しい方です。

今回はその記念礼拝においてのメッセージ動画をご紹介します。















若者よ、夢と祈りをもて!(青年の讃美集会にて)

皆さんこんにちは。

そして始めましてという子達もいると思います。

ので、ちょっと私の自己紹介から、私は篠澤俊一郎言いまして、この花園教会の主任牧師をしています。

私の生まれは長崎県です。ですがすぐに島根の諫早というところにいき、そして小学校4年生のときに鹿児島へとうつりました。

そして上智大学の神学部に合格し、カトリック教会の勉強をしに東京へとでました。

私は東京には7年ほど住んでいました。

そしてその間に、ナザレン教団の神学校にはいり、結婚して、その後花園教会へときたというわけです。

先生はこの三月まで働いていました。ゲーム会社の任天堂でWiiの開発をしてました。

なので私は牧師ですがゲーマーでもあります。

今度、ゼノブレイドというゲームがでますが、そのゲームにも携わっていました。

詳しいでしょ??

まあともあれ、今日は皆さんよくこの讃美集会に来て下さいました。

この花園教会の牧師として大歓迎します。

どうぞ、このときを楽しいときとしてくださいね。

今日は、堅苦しいメッセージはなしにするつもりなんですが、先生は今年の三月にフィリピンというところにいってきました。
そこに観光しにいったわけではなくて、内戦が続いているミンダナオ島というところの貧困の実態と紛争の実態を調査しにいってきたんです。

先生はミンダナオ島にいって一年前に戦場となった場所にもいったり、ゲリラの勢力下にある村にいったりしました。

普通はいけないところなんですけどね。

その詳しい話は今度の5月30日の日曜日にこの教会で報告会をするつもりなんですが、

まあ今日はその話をするためにここにいるわけではなく、私は貧困、明日の食べ物のままならない中で暮らしたり、両親が殺されたり、離婚したり、両親から捨てられたりした子が集まる施設に泊まったんですが、私はそこでひとつ質問したんです。

それは「あなたの夢はなんですか?」って。

じつはこの質問すごく先生勇気が要りました。だってそんな貧困、明日の食べ物のままならない中で暮らしたり、両親が殺されたり、離婚したり、両親から捨てられたりした子に「夢は何か?」って聞くとなんてKYな質問でしょ?

でもあえて私はしていました。

それでは皆さんにも質問です。「あなたの夢はなんですか?」

何人かに当てる?

最近の10代の子たちの世代をなんていうか皆さん知ってる?

悟り世代というらしい。なんで悟っているのか。

それは今の10代の子達は不況のなかで生まれたから、何をやってもうまくいかないと悟っていることからそう呼ぶらしい。

わたしもある高校生に聞いてみました。何か夢がある?
そしたら「ない」と答えた。

そしてじゃあ何がほしいの?

「お金。


お金がすべてだから。」


まあ当たり前と言えば当たり前かな?

さて、さっきの話に戻るけど、ミンダナオの子ども達に「ゆめはあるかきいてみた」

すると、真剣なまなざしでみんな答えてました。

「夢はあるって」 ある子は大学にいきたい。

ある子は医者になりたい。ある子は看護師になりたい。ある子は家族を助けたい

彼らの目はとても真剣でした。

私は先ほど日本の今の10代の世代を悟り世代といいました。

10代の子達は不況のなかで生まれたから、何をやってもうまくいかないと悟っていると。

でも本当にそうだろうか。

ミンダナオの同じような子、いやそれよりももうちょっと上の歳であっても夢がある。

日本の悟り世代より彼らこそ現実には難しい夢を彼らは語っていました。

彼らは現実に自分の夢が難しいという事はわかっている。だけどあえてそれでも挑戦している。

わたしはこの姿を目の当たりにしたときに、悟り世代という呼び名は嘘だと思いました。

悟り世代ではなく、食わず嫌いの世代だろうって。

不況だから、なにやってもうまくいかない?バカいうんじゃねーよ。

と私はいいたい。

何もやりもしないで判ったようにいう奴はただの食わず嫌いでしかない。

しかも10代の子達は大人が嫌いとよく言っているよね。

でも、その割りにその嫌いな大人を見て何をやってもうまくいかないと考えることってすごく矛盾しているんじゃないだろうか。

実際は嫌いといいつつも結局は自分達もその嫌いな大人の真似を、同じレールを歩もうとしているんじゃないかと私は思う。

聖書にこうあります。

ヨエル書3章1節「老人は夢を見、若者は幻を見る。」

夢を持つということに年齢なんて関係ないんですよ。

そして状況だって関係ない。

どれだけ自分にその燃える力があるかなんです。

君達に夢を持つ力があればその夢がかなわなくてもその力さえあれば新たな夢が与えられるんです。そして回りも君の夢によって勇気付けられるんですよ。

まさに讃美集会だってそうです。

今の教会の青年たちは少ないよね。じゃあ少ないままでいいんだろうか?

それじゃあなにも始まらない。というより何も始まらない前にすべて終わってしまっている。

けれどもそうじゃない!という思いをもって今日からこの讃美集会ははじまった。
宗教改革者ルターはこういいました。

明日終末がこようが今日りんごの木を植える。

明日世界が滅びるとわかっていても自分は自分のすべき働きを行うということ。

みんなはどうですか?

する前にあきらめていませんか?

する前にあきらめる理由を考えていませんか?

そんなあきらめる理由を考えるくらいならやってみればいいんです。

やることに意味がある。
失敗してもいいじゃない。失敗したらそれが次のステップになっていくって。


皆さんに夢の力が増す方法を教えてあげましょう。

それは、

その夢が自分中心の夢ではなく、他者・つまり家族・友人・そして両親・兄妹・困っている人・苦しみのある人のための夢を持つこと

そしてそれが神のために行うなら、なおそれが増します。

だって私たち教会に繋がるクリスチャンはそれがこの聖書の御言葉によって、示されているから。

つまり、私たちの信じるイエス・キリストがそんな方だったからです。

自分中心の夢ならば挫折したときに絶望してしまう。

けれどもそれが神さまのためであり、それを通した他者のためならそれは一度挫折しても必ず私たちは立ち上がれるんです。

なぜなら、聖書の中に、私はいつもあなたと共にいると聖書に書いてあるから。

私たちクリスチャンは苦しいとき、悲しいとき、喜びのとき、いつでもどんなときでも、この聖書に帰ってこれる。そして神様に祈ることでき、勇気が与えられるんです。

クリスチャンは祈ることができる、そしてその祈る姿は弱いように見えて実は一番強い。

ですから皆さん、夢を持ってほしい。それも自分中心の夢ではなく、神のためそして他者のための。


この讃美集会は、近畿地区NYIの夢への実現の一歩だと思います。

近畿地区NYIに理念があります。それは近畿にもっと笑いを。共感。みんなの家。

これは私たち青年会にとっての夢です。

もっと一緒に笑える仲間がほしい。もっと共感しあえる仲間に合いたい。みんなの家のようなそんな空間を作りたい。

まさに神を中心にした自己中心的な夢ではなく他者のための夢ですよね。

これからこの近畿地区NYIが夢を1人1人が共有していければ必ずその輪は広がっていくでしょう。

だからそれを信じてまたこの会に集ってほしいと思います。そして君自身も夢を持つ事によってもっと力のみなぎった会になっていくと思うんです。

是非、夢を持ってほしいそう思います。

皆さんに主の祝福が大いにありますように

いのります。

あなたに届きますように

昨日は、召天者記念礼拝を行いました。

そのときのメッセージです。






主イエス・キリストにおける交わりは生ける希望を生む

<礼拝メッセージより>

おはようございます。

先週は主イエス・キリストの復活を共に喜び、聖餐式の恵みに共に与れた事を私はとても嬉しく思います。

やはり、共に与るということほど、素晴らしいものはありません。

これが共同体の本当な姿だと思います。

同じ神を信じ、その御堂で交わり、神の恵みを受ける。

信じる者たちが共に集まって聖餐のときを持つ事は非常に重要なのです。

つまり、聖餐に与る時、与るものすべてが主イエス・キリストを見上げて、食べ、飲むのです。

その聖餐のときに、ひとりでもそうでない人がいるとすれば、共同体としての意識も薄れていき、教会としての力も小さくなってしまいます。

ですから、聖餐式のときに「ふさわしくないままあで主のパンを食べ、その杯を飲むことがないよう、自分をよく確かめて、聖餐にあずかりましょう」と司式者は皆さんに問うわけです。


ナザレン教団の元であるメソジスト・清め派というべき基礎を作り上げたイギリスの神学者でもあり伝道師でもあるジョン・ウェスレーは、共同体の中心、教会の中心として聖餐式を据えています。

ジョン・ウェスレー自身の日記の中で、「私たち人間は神から私たちに先行して、先行とは先立ってという意味の先行ですが、そのような、神が先行して私たちに恵みが与えられている」と語っているのですが、

その先行する恵みは、主の晩餐、つまり聖餐式において伝えられると彼は語っています。

そしてウェスレーは、その先行する恵みはすべての人に与えられている恵みであるとしているのですが、ジョン・ウェスレーはその先行する恵みは人によっては、人は、その先行する恵みを失うことも可能であるというのです。

つまり、意識的に恵みを消してしまう、つまりそれは、神の愛なんてありはしないと否定したり自分から神を遠ざけた人ですけれども、

そう言う人もその先行する恵みを失うとウェスレーは語っているのです。

そしてウェスレはーは先行する恵みを失った人間は、もう一度先行する恵みを受け取る必要があると語りました。

それが聖餐を受けることなのです。

つまり、失ってしまった先行する恵みを受け取り直す(初めの愛に戻る)ことが起こる。ということなのです。


これは逆を言えば、先行する恵み・つまり聖餐は、神から降り注がれている恵みから落ちるのを防ぐという意味もあることになります。

そう、ウェスレーによれば、聖餐というのは「人が恵みから落ちるのを妨げる大きな恵みの手段である」というのです。

私たちナザレン・つまりメソジスト派の創設者であるジョン・ウェスレーは聖餐式は、神の恵みを受け取る事の目に見える形であり、罪の堕落を防ぐ大きな防御であると語っているほどに、聖餐式を重要視していたのです。

ですから私たちも新年度を向かえ初めて先週、しかも主イエス・キリストの復活されたという一番重要な日に聖餐の恵みを受けたのですが、ここでもう一度この聖餐に与るという意味をより深く理解していきたいと思います。

そして今度、行われる聖餐式の時には、皆一致して、主イエス・キリストの体と血に与り、交わりのときを持とうではありませんか!


さて先週私たちは、復活しした主イエス・キリストに出会い、少しずつ変わっていった弟子たちの姿を共に見る事ができました。
今日はその後のお話です。

この21章をひと言でいうなれば「イエスの使徒との交わり」と言えるでしょう。

今日の1節にテベリアの湖畔と記されていますが、これはつまりガリラヤ湖のことです。

今日の聖書の箇所、皆さん読んでみて感じる事はなかったでしょうか?

とくに今日の9節以降を読んでみて

9節「こうして彼らが陸地にあがったとき、そこに炭火とその上に乗せたうおとパンがあるのを見た」

イエスは彼らに言われた「あなたがたの今とったうおを幾匹か持ってきなさい」


そう、これは、ヨハネの福音書の6章の「5千人に食べ物を与える」箇所に非常に似ているのです。

新約聖書の福音書を読んでみると、実にイエス・キリストは交わりのときが多いです。

いつも誰かと食べています。

イエスを敵対ししていたファリサイ派の人々からは「食いしんぼうの大酒のみ」、新共同訳聖書では大食漢で大酒のみ」だといわれるほどでした。ルカ7章34節

このイエスの食べての飲むことが大好きだったイエスの事をいうと、結構若者は知らないようで、ビックリするようです。

先日、私もフィリピンのミンダナオ島に行ったのですが、痩せて細って帰ってくるつもりだったのですが、実際帰ってきても誰からも、

「焼けましたね~」とは言われたとしても

決して「痩せましたね~」とは誰からも言われませんでした。

まあそれはそのはずです。私はフィリピンに言っても食べていましたから。

私はフィリピン料理を食べておなかをくだすかな~と思ったのですが実際言って見るとそんな事はなく、フィリピン料理はとても美味しかったです。

すごく味付けが日本人好みで、全く食事違和感を感じませんでした。

またミンダナオ島は果物がおいしく、ヤシの木に生えているヤシのみを子ども達がとってくれてそれをその場で飲んだときにはそのうまさに感動しました。

日本ではあまり、そこらへんに生えている・自生している実を食べるという事はほとんどないため、そのヤシの実のジュースを飲んだときには、ヤシの木の生命をもらっているという何か不思議な感じもしつつ、けれども何か力がこみ上げてくるのを感じました。

これが自然の中で生きるということなんだなあと実感しました。

ともあれ、私はミンダナオ島に行ったときに、現地スタッフも笑うほどに食べまくったのですが、すごくよかったと思う点はこの食べる行為が自分一人だけではなく、みんなで食べるという点にあったことです。

このフィリピン・ミンダナオ島の旅で、一人で食べるという事はほとんどなかったと思います。

必ず誰かと一緒に食べていましたし、そしてそこには必ず笑顔があり、そして料理が「美味しい!と共感することができる人がいたのです。

その事を思いつつ、ふと日本人の食事の事を考えると日本人の食事の乏しさが浮かんできます。

それは食事内容が乏しいということではなく、むしろフィリピンの方が食事内容は乏しかったけれども、すごく今の自分の印象に残っている事を考えると、
食事をする事を楽しむ・そして共感し合うという事がフィリピンの方が質がいいのではないかと思うのです。

私はミンダナオ島にいたときに、お昼にお世話になっていた施設:ミンダナオ子ども図書館という施設ですけれども、そこで働くスタッフがお昼になるといなくなってしまうことに気づき、質問してみました。

「お昼、姿が見えなくなるけれどもどうしたんですか?」

するとこういう答えが返ってきました。

「えっ、家に帰ってご飯を食べるんですよ」
と。


これは今の日本では考えられないことだと思います。

今の日本は家に帰る事はないどころか自分ひとりでご飯を食べる時間さえないのが実情ではないでしょうか。

私はこの日本の実情を現地の子に話しました。

「お父さんは会社にいき、お母さんはパートで働き、おじいちゃん・おばあちゃんはデイケアセンターにいき、子ども達は学校にいくから、昼間は家に誰もいないんですよ」と。

そう私が話したことに対して、現地の子達はなんて答えたと思いますか?皆さん。


それは「日本の人たちは年齢毎に一箇所に集められているんですね」
と言ったんです。

私はそれを聞いて、ああそうだと思いました。


私たちは、自分達の行動で、会社に行ったり、パートに行ったり、学校に行ったり、デイケアセンターにいくように思っているけれども、実際には行かされている・集められているんだなと。

日本の生活は便利だけれども、今の日本の現状はどうなんでしょうか。

私も家族で外食にいく事があるのですが、横のテーブルを見ると家族連れながらも全く会話のない家族を目にする事が最近多くなりました。

子どもは食べながらゲームをし、親は親で携帯をする。

私もゲーム会社に働きゲームを作る側に人間だったのですが、ゲームをこうやって使ってほしくはないとすごく感じます。

私はそれを見ると何が楽しくて外食に来ているんだろうといつも思うのです。
その意味で今の日本人は特にコミュニケーションがへたくそだなと思います。

しかも親がそんな行動をしているのですから、子ども達はその親を見て育つわけです。
すごくこれからの日本の社会が不安に感じられるのは私だけでしょうか。

美味しいと共感し得る家族がいるのに、相手がいるのにそれを拒否し自分の世界に入っていく。

思いを共有する、しかも同じ思いを共有する事ほど信頼関係を生む行為はありません。

この事を考えるとまさに主イエス・キリストの行動がまさにそうでした。

差別を受けている人、身分が低い人の元にいき主は食事を同じ思いを共有する。

まさにコミュニケーションという観点からも主イエス・キリストの行為は素晴らしく理論に適った行動だと思います。

しかも今日の御言葉読んでもまず主が最初に弟子たちに声をかけておられる。

復活の後、イエスは、イエスご自身が声をかけられるのです。

それもただ声を変えるだけではなく、12節「さあ来て、朝の食事をしなさい」
と言われる。

つまり、復活された主イエス・キリストの方が、私たちに交わりをしないかとおっしゃっているのです。

言い換えれば、主イエス・キリストが交わりをしたいと望み、弟子達はその交わりにあずかっていったのです。

これは私たちにも同じことが言えます。

それはまず復活した主イエスが貴方に交わりを望まれるということです。

しかもそれは今日の御言葉にあるように弟子たちがそれがイエスだとわからないように。

つまり、貴方にそのような主からの招き・声かけ・出来事があるときには、「主からの招き・声かけ・出来事がきた!!!」とショックを受けるような招き・声かけ・出来事ではなく逆に、それが主からの招き・声かけ・出来事かわからないような。

けれども次に私たちは6節の「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言う風に主からの御言葉が私たちに与えられるのです。

つまり、私たちに聖書の御言葉が与えられるのです。何か、変な音が聞こえたというのではなく、まさに私たちにはこの聖書の御言葉があなたに与えられるのです。

さあ、ここで私たちが本当に信仰的に試されるのであります。

御言葉に言われたように、網を下ろすのか、下ろさないのか。という選択が。

つまりそれは復活した主イエスキリストを信じるのかと言うこと。これはクリスチャンであっても試されます。

いえ、クリスチャンだからこそ試されるのです。弟子たちがそうであったように。

私たちが信仰をもって復活したイエスの御言葉を信じたとき、どうなるでしょう。

それはまさに6節後半や11節にあるような網が引き上げらないほどの魚が与えられる。

ここで私たちが間違えてはならない点は、この魚が取れるという事は自分の欲求が満たされ実現するということではありません。

つまり、あなたの信仰の中心にイエス・キリストの光の火が灯されそれは個人的な体験にとどまらず、全世界へと広がっていくことを示しているのです。

そして今日の聖書箇所はまさに、今日の冒頭で語った聖餐式に繋がっていきます。

主イエスを信じ洗礼を受け、主が聖餐を通しての交わりに私たちを招き、そこで主の体と血に与る。

そしてその主の交わりには多くの方々と共に行う。しかも、同じ主の言葉を信じ祈りを持っているもの同士の交わりです。

主が招いておられ、そしてその主の言葉を信じ、その交わりにあずかる聖餐なのですから、これが私たちの個人的な体験に終わるはずがないのです。

いえ、それどころか私たちが聖餐にあずかることによってそれは深い神の愛を知る伝道へと繋がっていくのです。

ですから私は皆さんに冒頭でお話したように聖餐式と言うものをもう一度、もしこの中で少しでも軽んじている方がおられるのであればそれを改めていただき回心のときとしていただきたいのです。

聖餐のときとは、13節の「イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また魚も同じようにされた」とあるように復活の主イエスに出会うときなのです。

このときに私たちの信仰に私たちの罪の為に死なれた主は復活したイエス・キリストであるという信仰告白がなければ、いくらうわべだけで聖餐を受けても復活した主に出会えるはずがありません。

それどころかそれは主の体と血を犯すことになってしまうのです。

私たちはそうではなく、今日の弟子たちがそうであったように主イエスが言われるつまり、御言葉を信じて、復活の主を信じて網を下ろしてほしいと思います。

そうすれば必ず、これからもずっと行われる主の交わりである聖餐が、貴方にとっての生きる希望となっていくであろうし、恵みである事を知るだろうし、そして同じ主の交わりをまだ知らない人たちに知ってほしいと心から望みそしてその人のために祈っていこうと行動してはずです。

これが私たちの伝道です。伝道というは、伝道・伝道と叫ぶから伝道なのではありません。

伝道と言うのはまずあなたと神との関係、つまり聖餐によって復活の主に出会う事から始まるのです。

ですからどうぞ、皆さん聖餐式において復活の主に出会い、恵みを与えられている事を体験してほしいと思います。

主イエス・キリストにおける交わりほど素晴らしく私たちを力づけそして思いを一つにする事はありません。

だからこその交わりに生ける希望が生まれるのです。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」

あなたが主の御言葉によって力づけられ、生ける希望が与えられますように。

あなたの心にメリークリスマス(クリスマスメッセージ)

メリークリスマス!

今宵は、イエス・キリストが誕生された聖なる夜です。

この1年に1度しか来ない聖なる夜を教会で過ごす事ができる事は本当に素晴らしい事だと思います。

この前、私はこの教会に来ている高校生からこういう質問を受けました。

「なぜ25日がクリスマスなのに24日にお祝いの礼拝をするの?」
と。

私は生まれたときからクリスチャンホームであるので全く疑問にも思った事はないのですが、キリスト教にあまり触れていない・知らない人たちにとってはごく普通の素朴な疑問なんだなあと私はそのとき思いました。

私たちが一般的に考えるのは今日の深夜の0時からクリスマスと考えると思うのですが、教会では今日の日没から明日25日の日没までがイエス・キリストがお生まれになった事を祝う降誕祭、つまりイエスの誕生をお祝いするときとなるのです。

ですから教会によっては夜半、早朝、25日の日中にクリスマスの礼拝を行うとこともあるのです。

クリスマスという日は私たちはよく知っているようでこうして見ると知らない事も多いようです。

しかしクリスマスというこの素晴らしい日は全世界の全ての人に開かれたものです。

ですから是非この素晴らしいクリスマスを1人でも多くの方々に知っていただきたい。

私はそう思います。

このクリスマスの働きをひと言でいうなれば神の愛の働きです。

そしてこの神の愛の働きが今も世界中に広がっています。

そしてその神の愛の働きを心から喜び、そして他の人たちに伝えていこうとしていった一人に皆さんもよく知っているサンタクロースがいます。

サンタクロースも神の愛の働きに触れ、そして救われ、心から喜びが湧きその神の愛を他の人に伝えていこうと信仰者でした。

サンタクロースの本当の名前はセント・ニクラウス、聖ニコラスと言います。

彼は今から1700年前、小アジア、今のトルコに生まれました。

ニコラスの両親は信仰深かったけれどもニコラスがまだ少年であったときになくなってしまい、彼自身孤児になりました。

彼はその後一生懸命祈り、聖書を学び、大司教になり彼は親譲りの財産を、惜しみなく使いいつもお金や食物を入れた大きな袋を用意して、貧しい人々や病人のためにささげ、また子どもたちには本やおもちゃを贈りました。

ニコラスのこの愛の働きにはこんな話があります。

ミラという町に3人の娘をもった貴族がいました。

けれども貴族とってすっかり落ちぶれ、貧しい中のどん底にありました。

特に長女が結婚の年頃になってもお嫁にいく費用もなく、父娘共々悲しんでいました。
その当時は支度金・持参金がなければお嫁にいけなかったのです。

そんなある晩、父親は長女のことを思って窓辺で一人で思い悩んでいました。

そのときドシン!と音がして、窓辺の目の前にたくさんのお金が入った袋が落ちてきたのです。

驚いた父親は外に飛び出してみたのですがそこには誰もいませんでした。

この父親は天の恵みと感謝して、そのお金をつかってめでたく長女をお嫁にやることができたのでした。

そして次女がお嫁にいくときとなったときもどこからともなくお金の入った袋が落ちてきたのです。

けれどもそのときも父親は外に飛び出すものの誰もいません。

そして三番目で末っ子の娘がお嫁にいく年頃となったときに、父親はもしまたお金の袋が落ちてきたら、是非贈り主にお礼が言いたいと決心したのでした。

そしてやはり突然、お金の袋がどさっと落ちてきたのです。

父親は素早く外に飛び出し、逃げていく人に追いついてみると、その人はニコラス司教だったというのです。

この神の愛にいき、貧しい人々に他者のために働いたセント・ニコラス、彼がサンタクロースの始まりとなるのでした。

クリスマスというのは生まれた日と勘違いする人もいますが、そうではなく、まさに神の愛を知り、その愛を自分だけではなく他者・家族・友人・知人に知らせようと、

愛の働きを実践したいと思わせる深い愛、

そしてこんな私でさえも愛され救われていると思えるような心に染み込んでくる愛、

そして救いをくださるイエス・キリストがお生まれになった日なのです。

そう、サンタクロースもイエス・キリストの愛に触れて愛の働きを実践した1人の信仰者だったのです。

そして神の愛に触れた人たちの愛の実践によって広まったサンタクロース。

今日の夜、子ども達の基にそんなサンタクロースが来ますように。


私はこのサンタクロースの物語を聞いたときに、この神の愛の姿であるイエス・キリストの存在の大きさをひしひしと感じるのです。

そして神の愛の広さ深さを私たちはこの物語から感じ取れるのではないでしょうか。

イエスという幼子が1人生まれたこと事によって、その愛が世界中に広まっている。

これはまさに奇跡。

そして私たちもそんな神の愛、イエスキリストの愛に今触れることができている。

これほど素晴らしい日はないと私は思います。

私は先日、カトリック教会のある司教の方と交わる機会がありました。

そこで私はある驚きを知らされました。

それはあるキリスト教系児童擁護施設でのお話です。

その施設には、親の事情によって捨てられてしまった子ども、親の虐待によって傷ついた子ども、親が離婚して経済的に苦しい子ども様々な子ども達が集っているということでした。


そしてそこの子ども達は毎年この寒い冬になると、四方800メートルくらいの広さしかないところに日雇い労働者やホームレスが5万人いると言われる大阪・釜が崎に夜、その施設の子ども達が【子ども夜回り】としてパトロールにでかけるという事でした。

私も大学時代、ホームレスの支援活動、冬の寒さでホームレスが凍死しないか、ちゃんと生きているかと毎週夜回りにでかけていたので、その夜回りの事もよくわかるのですが、

寒い冬に夜パトロールする事は子どもにとって結構大変なことです。


私は子どもが夜回り・パトロールしている事に驚かされるのに、

なんとその夜回りをしている子どもたちが自分自身も深い傷を負っているはずの子ども達であるという事でさらに驚かされました。

普通、私たち大人だって心に深い傷を受けたとしたら自分の事で精一杯、そして挫折し、失望するのに、ましてや子どもならもっともっと大きいはずです。

でも、そんな子ども達が他者の事を思い、考え、行動している。

私はとても衝撃を受けました。

私たち人間は、挫折や苦しみ・悲しみを受けたとき、そこから解放されたいと願います。

これは当たり前の事ですが、けれども多くの人々のその後はというと、

多くの人々は、自分からこみ上げてきた様々な誘惑によって、その挫折や苦しみ・悲しみから逃げたいという思いを、自分からこみ上げてきた欲望によって満たそうとするのです。

しかし、その自分からこみ上げてきた欲望によって満たそうというところのいきつく先は、ある人にとっては、すべてに絶望し命を投げ出すことであり、あるいは、憎しみであり人を傷つけたりする事であるのです。

最近の事件の背景もそうです。

「今のうっぷんを晴らしたかった」・「悩んでいた」・「不安でたまらなかったから」という事件の加害者の供述を耳にします。

私たちは誘惑に陥って逃げたいと欲望を満たそうとするとき、いつもここには
「しょうがないんだ。」

「しかたがないじゃないか?」

「どうしようもないんだよ。このわたしには」

と言い訳をします。

けれども、そこにいる子ども達を見て下さい。

彼らは自分の欲望によって自分の傷を解決しようとしたのではなく、神の愛に触れて、そして人を傷つかせることではなく、人を助ける事を行っている。

まさにこれは最初にセント・ニクラウス、彼自身孤児であったけれども、神の愛に触れ、サンタクロースとなっていく、この事に通じるものがあるように思うのです。

勿論、この子ども達をこのような方向に導いたスタッフ、責任者の方々のキリスト者としての信仰がそこにはあります。

そしてその信仰の原点が、

そう今日のクリスマス。イエス・キリストの誕生なのです。

なぜイエス・キリストがこの世界にお生まれになったのか。

それは、聖書のヨハネ3章16節~17節にはこうあります。

神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子を世に遣わさせたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

そうそれはあなたのためなのです。

あなたを愛するが故に神はイエス・キリストをこの世界にお送りなられたのです。

あなたが生きる勇気を持つように、希望を持つように、

そして最後の敵となる死に対しても立ちむかうために

そして永遠の命へと続く道へと歩くようにイエス・キリストはあなたのために来られたのです。

あなたのために神がイエス・キリストを与えてくださった。

これほどに素晴らしいことがほかにあるでしょうか。

大阪のその施設の子ども達も信仰者たちから神の愛を知ったからこそ、

他者の事を気遣い、そして弱い立場の方々に視線を向けられているのだと思います。

皆さんも、そしてあなたも今日、神様の深い愛に触れてほしい。

今日、もしあなたの心が温かくなったとしたらば、その温かくなった心をどうぞそっと暖めてほしいと思います。

そして、こうお祈りして下さい。

「どうぞ、主よ、この私を祝福してください。」

必ず神はあなたに希望を光を与えて下さいます。

主の祝福が大いにありますように。



花園教会ってどんなとこ?

主日礼拝:毎週日曜日
10:30~12:00




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