花園教会 in 京都

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京都YMCA朝祷会

今日は朝7時から京都YMCAで朝祷会が行われました。

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昨夜は雪でしたが、朝方の雨で全部溶けていました!

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昼間はここの場所はめちゃくちゃ人通りがあるのですがまだ六時過ぎなので人はほとんどなし!


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京都YMCA朝祷会は、毎月1回行っているそうで、今回で120回目だそうです。

少ない人数でしたが、一致して祈る事の大切さ、そして強さを知る事の出来た朝祷会でした。


以下、京都YMCA朝祷会のメッセージ
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おはようございます!



初めてこの京都YMCAの早天祈祷会メッセージを担当させていただく、日本ナザレン教団花園キリスト教会の篠澤俊一郎と申します。

実は私はこの京都YMCAでメッセージをさせていただく機会は2回目です。

1回目は、京都YMCA創立121周年記念会員集会でした。

私が東京YMCAとの関わりを学生時代から持っていた事がきっかけで、こうして京都YMCAとの繋がりも生まれました。

そして今年の1月からは京都大学YMCAの地塩寮においても、学生たちと月一度の聖書研究会の担当の牧師となり、少しずつですが様々な広がりが生まれてきました。

私はこの事柄を大変嬉しく思っておりますしこの事を主に感謝しています。

さて、今回の早天祈祷会のメッセージという事で、私はもう一度『祈り』とは一体なんであるのか?」という事を、ふと考えさせられた。

私の教会でも水曜日の夜、祈祷会をもっているのですが、このキリスト教ではよく言われる『祈り』、、、

この『祈り』という言葉は、皆さんもよくご存じのようにキリスト教じゃなくても結構使われています。

つまり、至るところで使われているわけです。

様々な宗教の場でも使われていますし、「平和の祈り」という言葉に代表されるようにある特定の宗教でなくても『祈り』という言葉はいつも私たちの身近で使われています。


では、じゃあ、そのような中でクリスチャンにとっての『祈り』とは一体どんなものなのだろうかと考えさせられたのです。


祈りをひと言、言えば【呼吸】。 そう、クリスチャンにとって『祈り』とは呼吸なのです。

この中には、祈りが『呼吸』」と言われても「どういう意味だろう?」と首をかしげてしまう人もおられるかもしれません。

それでは少しご一緒にこの『呼吸』について考えてみたいと思います。

私たちは常に呼吸をしています。
生きている人の中で「自分は呼吸なんてしない!」なんて人は1人もいないはずです。

なぜならば私たちは呼吸をしなければ生きていく事はできないから。

私たちは呼吸をすることが出来るからこそ、こうして生きていられるし、呼吸のおかげで私たちは日々、新鮮な酸素を体に取り込む事ができており、

そして取り込んだ酸素は私たちの細胞ひとつひとつを活性化させ、絶えず私たちの体を新しくそして成長させてくれているのです。

そう、クリスチャンにとっての『祈り』とはまさにこの『呼吸』そのものなんだと思います。

呼吸は私達にとって、不可欠でとても大切な行動です。

けれども、そんな不可欠で・大切な行動である呼吸であるにも拘らず、私達は意識してそれを行ってはいません。

しかし意識していないからこそ私たちはいつも自然体でいる事ができている。

祈りも同じで私たちは祈ることが出来るからこそ、こうして信仰に生き、祈りのおかげで私たちは日々、新鮮な御言葉を体に取り込む事ができており、

そして取り込んだ御言葉は私たちの信仰の細胞ひとつひとつを活性化させ、絶えず私たちの霊的な体を日々新たにしそして成長させてくれているのです。


けれども私たちはそんな呼吸をしていますが、呼吸にも色んな呼吸がある。

それは浅い呼吸、そして深呼吸のような深い呼吸、他にも体を動かして息が切れそうになる呼吸など。

私は祈りもそれと同じなんだと思うんですね。

つまり、呼吸にも色んな呼吸の仕方があるように、怒りなら怒り、嘆きなら嘆きを、感謝なら感謝を、信頼なら信頼を、賛美なら賛美を、悔い改めなら悔い改めが祈りにはある。

私たちはいつしか、祈る時と言うのは、なにか私たちは心が落ち着いたときにするものであるように考えてしまってはいないでしょうか?
そして現代のキリスト者はどちらかと言う自己反省を好むからなのか、逆に怒りを抑えて、、、神に祈る時は自分の思いとは全く違う言葉になったりしてしまう。

だからこそ祈りがどこか息苦しいものとなってしまっている現実があるのではないか?そう私は思うのです。

今日の早天祈祷会は、呼吸でいうなれば、深呼吸のような落ち着きを与える祈りのときではないかなと私は思います。

けれども、私はこの祈りにおいて忘れてはならない事が1点あると思っています。

それは【私がそしてあなたが生きるため】にあるという事なんです。

先程も申し上げたように、呼吸というのは私たちが意識しなくても自然に行われている。

しかし呼吸をする事の真の意味・目標というのは、あなたが「生きるため」にあるんだという事なんです。

私は、先ほど祈りにはどんな心境の中で祈ってもいいじゃないかとのべました。

しかし、どんな心境にあってもその祈りの真の意味・目標は、私たちが「真に生きるため」なんです。

もしある人にとっての祈りが、絶望を生みだし、怒りを与え、不信仰を生み出し、死を与え、相手に対して憎悪を感じるものだとしたら、それは祈りではないんだと私は思います。

私たちが祈るのはそう、まさに「生きる為」なんです!

祈りは私たちに御言葉のパンを食べる活力を与え、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みへ希望へと歩き出すためのエネルギーなんです。


もし皆さんの周りの中で、「今は祈れない」という人がいるのでしたら、是非とも詩編を使って祈る祈り方を教えてあげてみて下さい。

詩編は150篇もある壮大な祈りです。詩編を読んでみると色んな祈りがあります。

詩編には怒りもあれば、嘆きもあり、感謝や信頼を、賛美・悔い改めなど、私達と同じ気持ちがそこには表れています。
これは、あくまでもひとつの方法ですが、、三度・3回、、詩編の任意の1章を読み、今の自分に合う箇所を見つけ三度声を出して、御言葉にあなたの気持ちを乗せて祈るという方法です。

私は自分の言葉で祈る事ができないのであれば、聖書の言葉を借りて祈ってもいいと思っています。

私たちにとって重要な事は、私たちが祈る事は「生きる為」なんですから、私達はどんな苦しいことが合ったとしても神との語り合いとなる祈りをやめていけないという事なんです。

なぜなら、私たちが祈りをやめてしまった時点で、肝心な時に困難が直面した時に神がいないと錯覚を起し、
神の恵みが自分の中で大きく生かされないものとして、自分の方から絶望を選択していってしまうからです。

ですから、どんなときでもその人が神に繋がっているように私達はその人の信仰を愛を持ってサポートしていきたい!そう思います。

その意味で、この早天祈祷会は、深呼吸のような落ち着きの場である同時に、この京都YMCAを信仰をもって愛をもってサポートしている、、、まさに支柱ではないでしょうか?

そう、私たちがこの聖書より御言葉の命パンを頂き、祈りによってその御言葉のパンのエネルギーを吸収して歩き出すとき、今度は私たちは自分から他者に対して「とりなしの祈り」もできるようになっていくのです。


私は一年前、紛争地であり・内戦状態にあるフィリピン・ミンダナオ島というところに行ってきました、

私が紛争地に出向いた理由は日本できる効果的な支援はなんであるかを知るためです。

その調査に2人の大学生が同行したのですが、同行した際に聴いた彼らの言葉がとても印象的でした。

それは、「なぜクリスチャンは人のために祈るのですか?」という質問です。

私たちに同行した2人の大学生は勿論、クリスチャンでもなければこれまでの人生の中でキリスト教に触れた事もありません。

そのような中にあってフィリピンの地で聴いたクリスチャンの『祈り』。

彼らはこの祈りを不思議に思い、私にこう質問したようでした。

確かにクリスチャンは人のために祈ります。

これを私たちキリスト者は『とりなしの祈り』と言いますが、この祈りでは身近な人のため、傷ついた人のため、弱気を覚えている人のために祈る。

しかし、このとりなしの祈りというのは、人の事を心配している事を表すものではありません。


心配するというのは、文字通り「あの人の事が心配だな~」と思い続ける事を言いますが、
『とりなしの祈り』とは、神によってその人を勇気づけられるように、その人に神の祝福が訪れるように求め祈ることであり、『とりなしの祈り』は自発的で積極的な行動です。

以前あるテレビドラマの中で、天使が自分の欲望を満たそうとする主人公に「求めよ。さらば与えられん」と聖書の言葉を引用し、主人公の欲望を叶えるという場面がありました。

けれどもこの使い方は大きな間違いです。

それは、「求めよ。さらば与えられん」という聖書の言葉は、自分の欲望を求めることにあるのではなく、

自分ではなくて、他者に対して神からの祝福があるよう・神からの癒しと力添え・勇気が与えられるように求めるときに使われる言葉・・・なんですから。

ここにクリスチャンと一般の方々の祈りについての違いが現れているように感じられます。

私たちにとっての祈り・とりなしの祈りとは、特別な事でも、ましてや自分の欲望のために祈祷してもらい、その為にお金を払うものではないのです。


さて先ほどお話しした大学生の質問は現在の日本の社会を色濃く物語っているように私は思います。

それは、【他者を考えない社会】・【他者は蹴落とす存在であり、自分の事をだけ考えればいい社会】。

そしてすでにそんな社会の歪みが【自殺】・【引きこもり】・【虐待】などの形となって生じてきている。
フィリピンから帰国する飛行機の中で大学生が私にこう話してくれました。

それは、「自分のことが祈られるってとても嬉しいことですし、なんだか不思議と自分が支えられているように感じます。とても勇気付けられますね」と。


私は、こんな社会に生きている今だからこそ祈り・そして『とりなしの祈り』の重要性はより増していると言えると思います。


聖書には「絶えず祈りなさい」という言葉があります。これは神、イエス・キリストへと絶えず繋がる事を意味している。

私たちが、主・イエス・キリストと絶えず繋がっているとき、どんな困難が私たちを襲ってきたとしても解決の道は必ず開けてくるはずです。

ですから私たちは祈りましょう!!

なぜなら祈りとは、神が私達に与えてくれたプレゼントなのですから。

主の祝福と平安が皆さんにありますように。

祈ります。

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『YMCA』も祝福されましたね!

碧です
『京都YMCA』での祈りも,祝福されて何よりです(-^ω^-)*『YMCA』の在る,何だか羨ましいです......私の母校には未だ無いのですが,祈りの㊥で与えられて欲しいと思うばかりです

無題

>大空のMidoriさん

コメントありがとう!YMCAには都市YMCAと学生YMCAというものがあります。
通称、『学Y』は大学にYMCAがあるなしに関わらず入れますよ。良かったら学Yに質問してみてください。
ちなみに私も学Yの聖書研究に参加しないかと誘われています。
リアルに会えるといいですね♪

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