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京都・花園キリスト教会

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「神の憐み・勧め・委ねる」(礼拝メッセージ)

おはようございます。

今日も冷え込んだ朝となりました。

2011年の正月は大変大荒れの天気となりましたが、皆さんはどのようなお正月を過ごされましたでしょうか。

私は久しぶりにテレビを見て、また映画のDVDを見るというゆっくりした時間を過ごす事が出来ました。

また少しの時間でしたが名古屋の両親のところに行き、正月を共に過ごす事ができました。

けれども私の見る映画はどこか家族とは違っているようで、最初はみんなが見ているんですが、段々とひとり・ひとり抜けていき、最後は私一人で見ていました。
でもまあ、ほとんど最近は映画を見ない私にとっていい刺激になりました(笑

ともあれ、牧師になるとなかなか教会をあけられないという事もあり、実家に帰るという事はなかなかできないのが現状です。

また距離が離れていたらなおさらの事で、親戚と会う事があまりできません。

私も父が島根や鹿児島にいた時には、篠澤の親戚のほとんどが関東にいるために指で数えれるほどしか親戚一同に会うことしかできませんでした。

ですから、父が鹿児島に転勤になったときにそれまで疎遠だったいとこにさえ、鹿児島県内に一家族だけ住んでいると知った時にはとても喜んでいた姿を今でも思い出します。

私もこのような経験からできる限り、親戚・兄弟づきあいをすることが殆ど許されなかった妻、そして娘には親戚・兄弟との付き合いをもっていってほしいと思っています。

しかも神様はなんと不思議な事をされるのかと思うのですが、花園教会から異動した父の転勤場所は名古屋だった。

そして昨年の9月には特伝で名古屋教会に呼ばれ、妻の美香先生にとっては15年ぶりの生まれ故郷に凱旋帰国のような形となり、それまで疎遠になっていた兄弟とも会う事ができた。

この事を考えると神のなさることはホントに私たちの思いを越えているなと思います。

私自身は東京にいる篠澤の親戚一同に会う機会は今もなかなかないですが、両親にそして妻にとっては自分の兄弟に会う事ができる楽しみができた事は、まさに神からのギフトであると思います。

そしてそれが神からのギフト・贈り物であると信じる事ができる事も大変うれしく思う。

苦しみの中にある中で、自分の罪が生み出す憎しみや嫉妬、怒り、不満に自分の身を任せ、心が支配されていれば、この小さな灯を贈り物・恵みと知る事はできません。

けれども、どんな過酷な状況の中でも、道の端で小さく咲く一輪の花に感動できるように、私の目には見えないけれども、主イエス・キリストによって、今までは身近にあっても気づく事ができなかった心のぬくもり・温かさに気づかされていく。

これほど私たちに勇気を与える・生きる糧を与えるものはありません。

聖書には私たちは地の塩であり、世の光であると言われる。

つまりそれはどういう事を表しているのか?


それは、、私たちが主イエス・キリストの十字架と復活を信じ歩んでいくときに、必ず第三者・つまり他者との関わりを持ちなさいというのが前提となってくる。

つまり、私たちは、神が主イエス・キリストをこの地上に遣わし、私たちと等しく、私たちに関わりを持とうとしてくださった。

そしてそれだけでなく、私たちのために十字架に掛かりそして永遠の命を私たちも持つ事ができる事を主はイエス・キリストの復活によって示してくださった。

そう、まさに主イエスは、私たちに手を差し伸べてくださった。

だからこそ、私たちもその主イエス・キリストを知ったのだから他者に関わりを持って信頼関係を気づいていく事がすごく重要なのです。

近年ではインターネットの普及・情報の行き来がすごく早い。

そしてその情報を簡単に手に入れる事ができるから、私たちは誰に頼らず・誰にも拘わらず、自分自身の力でのみ生きていく事ができると、勘違いを起こしてしまうのです。

ではそれは真実か?

これは全くの間違い。それは真実ではなくいつわりであり、ウソです。

ではなぜ、引きこもりがあり、自殺があるのか?

昨年一年間自殺者数が13年連続3万人をこの国は越えてしまいました。

これはとても悲しい事ですし、

まさにこれは先週のメッセージでも「人に助けを求める事は恥である」という考えが根強い、そして人と関わる事が薄くなってしまった現代社会の私たち人間たちが生み出した社会的な罪の結果がもたらした犠牲者たちが、、、この三万人であると私は思っています。

ですから私はこれから「コミュニケーション能力とは助けを求める事である」という事を学生たちにそして子ども達にそして皆さんにも伝えていきたい、そう思っています。

まさにこの事は聖書が一番最初に記してあった事なのですから。

創世記2章18節にはこうあります。

<創世記2章18節を読む>

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」

そう、まさに神はこの人間を作る、一番はじめの人間への奇跡の出来事において神はこう言われているのです。

つまり、「コミュニケーション能力とは助けを求める事である」という考え方を、私たち人間が作り出したのではなく、やっと人間たちがこの神の思いに、気づいた!という事なんです。

主は人間を作り出した最初から人との人との関わりを求め、そして作られた。

しかしそれを阻害したのは私たち自身であり、そして長い年月をかけてその意味の深さを知り・気づけたのがこの現代社会なんだと私は思います。

まさに当たり前すぎて、なにか自分の力で作り上げてきたと勘違いするけれども、実は私たちが作り上げたのではなく、主が私たちに与えてくださったことだったんだという事。

まさにこの創世記の御言葉は

「人が孤独で、一人でいるのはよくない。あなたに合う助ける者たちを与えよう」と言われるのです。


ではここで助ける者とは誰なのか?


皆さんは誰だと思いますか? 伴侶ですか、家族ですか、兄弟ですか、知人ですか、両親ですか、職場の人ですか?



私は、元旦礼拝の御言葉を次の御言葉に選びました。

それは、ヨハネ福音書17章3節

<ヨハネ17章3節を読む>

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る事です」

そして新年礼拝では、迫害者サウロから伝道者パウロへと変わっていたパウロの回心について神から御言葉をいただきました。



私たちは自分の力では助けを求める勇気も、そして自分のこれから生きていく人生への安心も持つ事はできません。

ではどのようにして求める事も、勇気も、安心も持つ事ができるのでしょうか?



それは、私たちは勇気も安心も持てないと思うときだからこそ、聖書にそして主イエス・キリストに立ち返るのです。

まさに、今ここに「自分は一人だ!自分の力において生きているんだ!」というあなたの心に、神は、

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」

と御言葉を送り、そして主イエス・キリストをあなたに贈られたのです。

つまり、主は

「人が独りでいるのは良くない。あなたに合う助ける者、イエスを送ろう」

と、、、あなたに贈られたのです。

ですからもう一度、主イエスにあなたは出会ってほしい。

そしてあなたは主に出会いそして主に出会った喜び・感動・勇気・希望の光をもってキリストの香りを今年一年、、はなって行ってほしいと思うのです。

パウロはローマ8章24節でこう語っています。

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目でみていることを、どうしてさらに望むでしょう。」

まさに私の望みは、目に見えない主イエスにある。



その意味で今日の御言葉というのは私たちがよりよくキリスト者として歩んでいくときの勧めです。

この12章から15章までは、いかにして信仰者として生きていくのかという事に対してパウロが勧めをここに書いています。

新共同訳聖書ではここの箇所はキリスト教的生活の模範となっています。

しかし、私たちはここを読むときに大変注意しなければならない。



つまり、ここで言われるのはあくまでも勧めであるという事を。

1・2節をもう一度読んでみましょう。

<1・2節を読む> 

原文を読んでみるとここは、新改訳聖書の「お願いする」というよりは新共同訳「進める」の方が訳としては正しいです。

この進めるというのを広辞苑で調べてみると、すすめること、はげますこと、さそうこととある。

つまりこれは、パウロが主の知らせを伝え、そうするように!と伝えるというよりは、励まし、進めている事柄なのです。
ここの箇所はよくキリスト教倫理でも使われる。

つまり道徳というわけです。

ですから私たちはこの事柄を福音の根幹の事柄として読むのではなく、キリスト教徒してのあり方をここでは進め・励ましている事として読んでほしいのです。

しかしだからといって、私たちはこの12章から15章までの事柄を軽視してはいけません。

ローマ6章15節~16節にはなんと書いてあったでしょうか。

<ローマ6章15節~16節を読む>


しかし、キリスト教に批判的・攻撃する人は、この箇所を使って、現在のクリスチャンにはできていない・偽善だと批判・攻撃してきます。

ドイツ神学者カールバルトはここの箇所を「大きな阻害」と語っている。

つまり、大変注意の必要な個所でもあるというわけです。

もし私たちがここに強調点をおくのならば、キリストの福音によって信仰生活を送るのではなく、律法的に解釈し、他者を裁き・そして自分をもさばいていく事もあり得てしまう。

そのような意味から、この聖書の箇所を、バルトは「大きな阻害」と語ったのでしょう。

ここの箇所は勿論、キリスト者にあって必要な事柄です。

けれども私たちはこの1節にある言葉を忘れてはならない。

<一節を読む>

それは神の憐みによって、神の憐みゆえに進める・お願いするという事である事を。


神の憐みというのは一体なんでしょう。

それは、神の愛ということ。



では、神の愛とはなんでしょう。

それは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

イザヤ書43章4節にあるように、神はあなたを愛しているが故に、イエス・キリストをこの地上へと送って下さった。

そしてあなたの身代わりに主イエスが死んでくださり、死ぬべきであった私の存在に今度は永遠の命を与えてくださるという復活をお示しになられた事です。

つまり、どういうことか?

罪を繰り返して繰り返して起こしてしまう私たちでさえ、主は愛して下さり、主イエスをあなたの代わりにこの地上へと遣わしたという事なんです。

つまり、パウロがなぜこの倫理・道徳となる事柄を述べる前にまず、「神の憐みによって」という言葉を用いたのか?

それは、道徳・倫理を訓戒としても、繰り返して繰り返して破ってしまう・それどころか嫉妬や憎しみ・怒りによって心が支配されてしまう私たちがいるけれども、それでも主は、あなたを愛して主イエスを送られたという事をもう一度思い返してほしいと思ったからであり、


つまり、あなたがこの事を心に信じ、受け取っていったときに、これから述べる勧め・お願いを聞いてほしいとパウロがそう思ったからなのです。

ですから、極端な事を言えば、主イエスも信じない・信仰なんてあるもんか!なんて思っている人にとっては、これはただの道徳でしかないし、これらの事柄を一字一句守ろうとするのであれば、そこにはさばきが生まれてくるでしょう。

「お前はクリスチャンなのに、この聖書の御言葉通りにできていないじゃないか!」と。

例えて言うならば、これは、あんこのないまんじゅうを食べるようなものです。

まんじゅうに大事なあんこがはいっていなければそれはただの皮であり、美味しさを味わえない。

つまり、そういう人は本当の味を、根幹をしらないという事になる。

ですからそんな人たちに「お前はクリスチャンなのに、この聖書の御言葉通りにできていないじゃないか!」
と言われても皆さんひるんじゃだめですよ。

なぜならその人は、美味しい味を知らないのに、喜びを知らないのに、ただ人を蹴落とす事だけ考えて発言しているだけなんですから。

決してあなたを愛して話しているのではないのです。

私たちは惑わされてなりません。


しかし、私たちは自分の存在・主イエスとの関係・神との関係を御言葉を通して知っている。

つまり、私たちは神の愛による主イエスの十字架と復活によって神と私との間に和解が与えられ、そして希望が与えられた・目に見えない希望が与えられたという事を。

私たちはそのまんじゅうの中心となる、このあんこを知っているからこそ、この12章から始まる倫理・道徳も真になって目を向ける事ができるし美味しく味わう事ができるのです。

私たちの信仰というのは、ことわざの「人事を尽くして天命を待つ」ではありません。
私自身はこのことわざは大好きなんで、よく使う言葉なんですが、キリストの福音はそうではない。

「人事を尽くして天命を待つ」というのは、まず人がやって、やりつくして努力して、それから神に委ねるという事。つまり、人から神へと移る。



でもキリストの福音とは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を知り、信じ主に自分の存在を委ねつつ、自分のなすべき事を尽くしていくという事です。

そうつまり、キリストの福音・そして信仰とは、神がまず先にありそして人へと移っていく。

それがまさに今日の御言葉へと続くのです。

私たちが聖なる生きた供え物・此の世と調子を合わせてはならないのは、まさに私たちは、主イエスを知ったからであり、

そして私たちは聖なる生きた供え物となる事やこの世の調子と合わせてはならない事はすべて、主にすべてを委ねていくという事。

ですから今日の説教題は、「神の憐み・勧め・委ねる」となっています。

そう、つまり、全ては神から始まっていくという事なんです。

ですから、これから先見ていく12章~15章においてはすべてあなたと神との関係において進められていくものであります。

ですからこの12章~15章の御言葉を手にして、「お前はできていないじゃないか!」と相手に突き付けるのはあり得ない行為。

なぜならこの御言葉の実行は神の憐み・愛を抜きにして実現していく事は不可能だから。

ですから私たちはなにが私たちにとって根幹であるかをもう一度ここで、あなたの信仰に植え付けた上で、12章から見てまいりましょう。

私たちにとっての根幹は、第一コリント15章1節~5節まで。

<みんなで3節から一緒に読む>

今年は、元旦礼拝・新年礼拝で語ったように、主イエス・キリストをより深く知っていけるような一年にしたいと思っています。

なぜならそれが、私たちに遅れた神の愛・永遠の命を知る事に繋がっていくのですから。


主イエスの十字架と復活の出来事を信じ、是非、、ゆだねて、あなたの体を生きた聖なる供え物としていっていただきたいと思います。

最後に1節・2節を読んで終わります。

<1節・2節を読む>

主の祝福がおおいにあり、平安がありますように、祈ります。
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