花園教会 in 京都

災害支援・地域支援・バックヤード系水族館を運営するキリスト教会

主題:『神様、罪人のわたしを憐れんでください』

今日は、復活節第2主日の礼拝です。

 

そして今日は、ドイツの教会暦でいえば喜べ、喜びなさいとなっています。

 

パウロは第一テサロニケ516節でこう語っています。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。

 

パウロは、第2回の伝道旅行で、同じユダヤ人に対して迫害を受けました。

 

それはどのような迫害かと言えば、これまでパウロが宣べ伝えた福音に対して、同じユダヤ人が、パウロの事を悪く伝え、広めていたのです。

 

その誘惑の言葉、サタン的な言葉は、パウロを通して語られた福音を聴いた人々を惑わし、そして教会を惑わしたのでありました。

 

これに対して、パウロはこの状況を大変心配し、弟子テモテを教会のあるテサロニケへと派遣します。

 

それは、弟子テモテにテサロニケの教会の様子と、その言葉に惑わされないよう信徒達を激励するために派遣したのでした。

 

そして、しばらくするとテモテがテサロニケからパウロのところに帰ってきたのです。

 

パウロはそのテモテからの教会の報告にとても緊張します。

 

しかし、テモテからでる言葉は、パウロの思っていた不安とは裏腹に、テサロニケの教会の人々は堅く信仰を守って立っており、パウロ先生との再会を心から望んでいるという報告でした。

 

パウロはこの報告を聞いてとてもうれしくなったのです。

そして喜びと感謝を伝えるために書かれたのが第一テサロニケの信徒への手紙となったのでした。

 

 

パウロがなぜ、このように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と、

語ったのでしょうか。

 

それは、パウロ自身も経験した事であったのです。

 

 

イエス・キリストの福音を宣べ伝えている伝道者パウロですら、ユダヤ人の悪い噂、誘惑を恐れ、自分の心に不安が生まれ、そしてその不安がどんどん大きくなっていったのです。

 

しかし、そのパウロの思いは真実ではなかったと知らされたのでした。

 

それを教えてくれたのは、テサロニケの教会の信仰、そしてそこにいる信徒の人々の堅く立った信仰。誘惑の力に勝った信仰であったのです。

 

どんなに神の言葉を取り次ぐほどの伝道師パウロであっても、彼の信仰だけで福音は成り立ちえなかったのです。

 

つまり、教会、伝道師、牧師、信徒それぞれの信仰と祈りによって福音が本当の意味で成り立ち、聖霊の力が強められるのです。

 

教会が力とは、共同体の力であると言われるのはこのためです。

 

このテサロニケの教会の件で自分を知らされたパウロは、自分の不安を悔い改めたことでしょう。

 

その結果、この御言葉をパウロは語ったのです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」と。

 

これは、順調な時だけでなく、逆境のときにも、いや人生における苦難、挫折、絶望といったマイナスと思われる時にこそ、キリスト者はこうした生きた方をし、

 

そうすれば、必ずマイナスは克服されてプラスになる。

 

「これこそが神の意志である」と

 

パウロは、神から教えられたのであり、このパウロを通して神の言葉を聞く私達も神から教えられているのです。

 

ですから私達もいつもというのはできないかも知れないけれども、希望をもってこの御言葉を聴くのです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と。

 

私達は特にこの事を覚えつつ、今日の与えられた御言葉を聴きましょう。

 

今日はマタイ510節~12節が与えられました。

 

祈ってきた事が少しでも実現する。

 

これほど私達に喜びを与えるものはありません。

 

私達はどうしても苦難に耐え忍ぶ事ばかり思わされ、その向こうにある喜びを知る・見る・感じる事がなかなかできないでいるようです。

 

しかし、今日は、神の恵みであるという事をしっかりと受けて喜びを持ちたいと思います。

 

 

わたしはいつも思います。

 

どんな事に対しても、そして苦難を恵みと信じられるのであればどれだけよいだろうかと。

 

そうは思いたいのですけど、そうは思えないこともいっぱいある。

 

人は簡単に、他人に対して、『それは恵みになるよ』というけれども、本当にそうなのか?なんて思ってしまうこともあるのです。

 

けれども、是非とも、苦難が恵みだと勇気を持っていってみたい。

 

これは言うべき事なのかもしれません。

 

そう私達はこれが恵みだと言ってこそ苦難に耐え忍ぶ・背負うことができるのでしょう。

 

しかし、勇気をもって言う以上は、生半可な思いで・いい加減な思いで言う事は許されないはずです。

 

なぜなら、苦難は恵みだと思う以上、他の人の苦難のために祈り、助け支えなければならないからです。

 

苦難で悩んで悩んで、路頭に迷って、希望を失っている人々が、私達の回りに存在しているんです。

 

苦難によってやる気を失い、目標を失った人がいるんです。

 

苦難によって大きく苦しんでいる人がいるんです。

 

苦難によって絶望している人がいるんです。

 

苦難によって死を選ぼうとしている人もいるんです。

 

人生を捨てようとしてしまう人がいるんです。

 

その人たちの気持ちを知らないで、考えないで『ただ自分だけが苦難は恵みだ』なんていい加減な事は言えるはずがありません。

 

苦難が恵みである。この言葉はそれほどに勇気のいる言葉なんです。

 

もし自分が相手に苦難を与えているとしたならばどうでしょう。

 

あなたは、恥を捨て、自分の行為を相手に対して心から謝罪し、そして心から悔い改めて全てを改めようとするでしょうか。

 

自分の苦難は恵みだけれども、相手に与えた苦難は知らない。

 

これは、「苦難が恵みだ」と言えるでしょうか。

 

私達は、今この主の御前に立って礼拝しています。

 

ですから私達は、この礼拝で中で聖餐式の中で「苦難は恵みであると」知ろうではありませんか?

 

そして主に勇気を持って宣言しようではありませんか。「苦難は恵みである」と。

これがイエスが私達に示してくださっている希望であり、十字架という苦難の後に続く、復活と言う大きな希望なのですから。

 

私達は、主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。

 

なぜならそれはイエス自身がそうだったからです。

 

でも私達は、苦難に合うことは嫌だと思います。

 


私は今、すらっと「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」と言いました。

 

でもこの言葉を聴いたら、ドキッとしますよね。

 

えっ!そんな苦難になんか合いたくないって。

 

そうりゃあ、いつも楽しく、嬉しく、喜んで生きていくことをしていきたいというのは当たり前に思います。

 

わたしだって、そう思います。

 

苦難になんか合いたくない、楽しくやっていきたいって。

 


私は神学生時代、色んな大学の学生達が集まり、寮の寮監をやっていた事がありました。

 

そこの学生達は、ノンクリスチャンの人ばかりでした。

 

寮では聖書研究会があったのですが、そんな中、キリスト教の話題になって、キリスト教に対する印象を聞いたことがあるんです。

 

そうすると大部分の学生達が、「最初は、キリスト教は暗い感じがした。」という意見が大勢でした。

ああキリスト教ってこう思われているんだと思った瞬間でした。

 

神学校が渋谷にあるものですから、土曜日など駅前にいくと大きな看板とプラカードとマイクをもっている外国人の方々がいるんです。

 

「悔い改めよ。悔い改めなければ永遠の地獄にいく」と。

 

「悔い改めよ!」・「悔い改めよ!」・「永遠の地獄にいくぞ」と言われると、なんか怖い感じがしますし、人々に暗いというイメージを与えている感じがします。

 

家庭教師をしていたときの高校生の男の子と新宿に遊びに行ったときも、同じような人たちがいて、高校生の子は「とても気持ちが悪い」と言っていました。

 

どんなに聖書に書いてあると言っても、このような仕方の証しでは、誰もキリスト教を知りたいと思わないし、暗いイメージを与えてしまうものです。

 

私達は、救われていると同時に、世に対しての証し人でもあるんです。

 

ですから、こわばった顔をしていたら、誰も近づいてこないように、暗いような事を証しすれば、キリスト教、クリスチャンのイメージも暗いものになってしまいます。

 

ですから、先ほどの言葉、「主を信じている以上、神の義を実現させようとする以上、必ず苦難にあい、迫害に合うことでしょう。」という言葉で終わるならば、

キリスト教なんて暗いもので、怖いもので終わってしまうでしょう。

 

でも、私達の中心はこの迫害や苦難にあるわけではありません。

 

中心は、なんでしょう。

 

それは十字架と復活です。

 

十字架とは苦難や迫害です。

 

じゃあ復活とは?

 

それは希望です。喜びです。恵みです。

 

野球でいうならば9回裏2アウトからの逆転ホームランみたいなもんなんです。

 

サッカーなら、ロスタイムからの逆転ゴールと言えるんじゃないでしょうか。

 

私達の中心が、十字架で終わるとき、その先にあるのは滅びです。失望です。

 

死です。無です。

 

でもそうではない。

 

私達の中心は、復活である。それも十字架を通しての復活なのです。

 

十字架を通っているときは私達はわからないのです。

 

クリスチャンだってわからない。逆にクリスチャンだから分からなくなるのかもしれない。

 

苦難がなぜ私達にあるのか?

 

神のなさる事は私にはわかりません。

 

皆さん一人ひとりが神の元の帰った時、なんであの時はこうだったのと神に聴いてみて下さい。

 

でもこれだけは私は大きな声で言えます。

 

必ず、絶対、最後は勝利をもって、この世の人生が全うされるという事を。

 

これは、誰かに勝つという事ではありません。

 

死に打ち勝ち、自分の罪に打ち勝つという事です。

 

私達は、選ばれた者、つまり、わかりやすく言うと選手、日本代表というよりクリスチャン代表なんですよ。

 

えっ私が選手??

 

いやいやこんな私がそんな選手だなんて思うかもしれませんが、あなたは神から選ばれた選手なんです。

 

今の話を聴いて、そんなの自分にはできないと思うことは当然のことです。自然の事だと思います。

 

選手となってクリスチャン・神から選ばれた代表選手だなんて・・・。

 

けれども、今週の御言葉にあるように、パウロは1コリント1章26節でこう語っているのです。

 

『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。

 

人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。

 

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。

 

また神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです』と。

 

神から見ると、この世的な知恵や家柄は関係ないんです。

 

私達は、この世的になりすぎて、教会でも人を見ているんですよ。

 

この人はこれが得意だから自分にはできないとか、こいつは自分より知恵がないからこいつは頼りにならないとか。

 

人を見て自分を萎縮してしまう人。

 

萎縮している人を見下げる人。

 

教会で神を見ているようで人をみている事があります。

 

しかし、それは違う、ノーだと聖書は語っているんです。

 

そして、そんな見下げている人が最後には恥をかき、能力がないと思っている人を最後には神は引き上げるんです。

これが神のなさるわざなのです。

 

イエス・キリストがたとえを言われたように、

 

自分は正しい人間とうぬぼれて他人を見下しているファリサイ派よりも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人を義とされ、用いられるのです。

 

神に選ばれた選手として

 

私たちが神の義のために、人生をプレイするとき、人生を歩んでいくとき、

 

野球やサッカーみたいに、競技をやっている最中は、この試合がどうなるかわからないと不安を感じストレスを覚えることがあるかもしれない。

 

途中で点を入れられてしまい、ああおしまいだと意気消沈したりしてしまうかもしれません。

 

けれどもどんなに点を入れられても、どんなに点差があったとしても、負けると思ってしまっていても、最後の最後には神の勝利で終わるのです。

 

それが十字架と復活なのです。

 

ですからどんなに苦難があろうが、困難があろうが必ず勝利で終わり、そして永遠の命という続きがある。

 

これが神の私たちに与えている大きな希望なのです。人間が与える希望ではなく、まさしく神が与えてくださる希望なのです。

 

勝利で終わることを確信していれば私たちは希望を捨てるはずがありません。

 

あきらめるはずがありません。失望するはずがありません。自ら死を選ぶはずがありません。

 

そして、勝利を知っていればこうもいえるでしょう。

苦難や迫害されている事実が神の義に生きていることの保証となっている。

 

苦難や迫害されているからこそ、天の国の約束を保証されるのである。という事を。

 

ですから私たちは、その神の希望を十字架と復活という希望の神の義を語るのです。

 

天の国へ行くのはそのような人々なのです。

 

これが神が私たちに与えている希望であり、神のなされている事柄なのです。

 

冒頭で語ったように「苦難は恵みである」と言うことは簡単なことばではありません。

 

けれども、「苦難は恵みである」と本当に言える人々がこの世界を、教会を支えているのだと思います。

 

今私たちがここに立っているのは、苦難が恵みである。

 

最後に勝利がある。希望があると信じている人の支えがあるからこそなんです。

 

そして私たちもいずれ、神から選ばれた代表選手として人生という競技場のピッチに立ち、苦難というスポットライトを浴びることがあるでしょう。

 

そんなとき、苦難というスポットライトを浴びながらも、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』といっている徴税人のように、本当に意味での神の義を信じ、苦難は恵みであると心のうちから言えるのであれば、あなたも教会の支え、この世界の支えとなっていくのではないでしょうか。

 

神秘的な神の義の役割をあなたが果たすときがきますように。

 

主の祝福があなたがたにありますように。

 

祈ります。

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